歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

中世駿府の歴史、城を訪ねて4 ~戦国駿府を守る激戦と駿府城の築城~

こんにちは、rekikakkunです。

 

前回桶狭間の戦い今川義元討死まで、

お話しました。

1560年(永禄3年)のことです。

 

ほんとは今川氏の勢力が最大となり、

「東国の京」とも呼ばれて駿府の街が

栄えた時代が今川義元の時代でした。

なので義元の時代を、どこかで勉強

しなければと思います。

 

義元の死後、家督を継いだ嫡男氏真ですが、

求心力の低下、弱体化が進み、

1568年12月甲斐武田信玄による

駿河侵攻が始まります。

今川方は薩埵峠に布陣。

富士川を越え、駿府の東方向から侵攻

してきた武田軍と激突。

 

~ ①薩埵峠 ~

薩埵峠の展望台から、富士山、駿河湾の絶景
下の道は国道一号線、上は東名高速

  台風の時、最初に一番海寄りの東名高速下りが

  通行止めになります。

  ここ全部やられると物流辛くなるので新東名が

  出来たんですね~。

西側登り口から東へ進む道

 西側にはトイレがある駐車場があり、そこから10分程で

 上の写真の所まで上がれます。(東側も駐車場あります)

 ここまで上がれば、この先の展望台までは徒歩15分程

 、上下動も無いのでのんびり散歩できますよー。

 

 また、鉄道では、JR興津駅で降りて、

 この写真の場所まで徒歩30分位。

 展望台からそのまま東へ進み由比駅へ、

 全行程で90分位かな。

 

 さて薩埵峠の戦いは、武田の調略により今川方が

 早々に退却してしまい、12月13日には

 駿府に武田軍が侵攻。

 今川館及び城下町等が焼き払われてしまいました。

  

 翌1569年5月掛川城徳川家康に降参し、

 戦国大名としての駿河今川家は無くなりました。

 

 駿河の国は今川家を支援した北条氏と武田との

 争いで一進一退となりましたが、1571年頃

 武田家が駿河をほぼ領有します。

 

~ ②蒲原城

 その過程で、1569年12月北条氏が

 守備をしていた、富士川の西岸に立地する

 蒲原城が武田氏により落城。

 北条早雲の孫氏信や今川家臣700人から

 1000人ともいわれる城兵達が壊滅する

 壮絶な戦いでした。

 (最初の駿河侵攻では武田は蒲原城

  押さえていなかったので)

 

 攻め手は武田勝頼真田幸隆等だった様です。

 その後信玄自らも入城し、北条への備えとしました。

 まさに富士川東から駿府への敵軍侵攻を止めるのに、

 重要な場所といえます。

原城 鳥観図(搦め手口側に駐車場)

登り道

原城 本曲輪

原城から西南側の山道から撮った、駿府方面の眺望

 上写真の右側の突き出しが薩埵峠だと思います。

 ここ蒲原城薩埵峠が駿府の東側防御のポイント

 であったことが見れます。

 (海の反対側は山ばかりなので・・・。)

 

 蒲原城はその後1582年(天正10年)の

 武田氏滅亡時落城し、廃城となったとの事です。 
 

 ~ ③持舟城 ~

  さて駿府を守る東側の拠点、薩埵峠と蒲原城

  ご紹介をしました。

  これに対し、西側の進入路は山側(東海道)と

  海側(日本坂)の2方面があり、防衛拠点は

  山側は以前挙げました丸子城。

  そして海側が持舟城となります。

 

  さてこの持舟城、一般的にはさほど有名には

  感じないのですが、戦国時代に今川vs武田vs徳川

  による4度もの争奪戦が行われた事からも、

  重要拠点であった様です。

  知らなかった~(゚д゚)!

  (1)1568年武田氏の駿河侵攻により落城

    (〇武田勝ち、×今川負け)

  (2)1579年徳川家康の攻城により守将及び

     守備兵400人討死

    (〇徳川勝ち、×武田負け)

  (3)1580年武田勝頼が取り戻す

    (〇武田勝ち、×徳川負け)

  (4)1582年武田滅亡時開城⇒廃城

    (〇徳川勝ち、×武田負け)

 

  そこで持舟城に行ってきました。

山道(中腹に駐車場があり、そこからすぐです)

本曲輪

看板

本曲輪と二の曲輪間の堀切(はっきり残ってますね~)

 

 さて、このお城の重要性は本曲輪から駿府平野全体が

 見渡せる、立地眺望にあると思います。

本曲輪から東側眺望

本曲輪から東側眺望(駿府の街、平野、城がほぼ全て見える)

 

海側拡大(現在の用宗港)

富士山を中央に拡大(手前は東名高速

本曲輪東正面(正面少し右手は砦の跡、左の線路は新幹線)

  これまで静岡の山城を訪問してきましたが、

  1か所で平野全体を見渡せる眺望は、

  ここが一番と思いました。

  (平野最西側の海の際から前面全体が見渡せる)

  つまりここを手に入れないと、駿府周りの

  動きが丸見えになってしまいますねー。

  また、港もあったので水軍も設置されてたとか。

 

~④駿府城

  さて・・・

  1582年、武田氏滅亡と共に、

  要の城である蒲原城、持船城等が落ち、

  駿府駿河の国)は徳川家の手中になりました。

  1585年頃の安土桃山時代

  天守が建てられた様です。

  

  その後、豊臣政権下の1590年からは

  中村一氏が領有。

  

  1600年の関ケ原合戦を経て、

  再び徳川家が領有。

 

  1610年大御所として駿府に入城していた

  徳川家康による天下普請により国内最大級の

  天守が再建されました。

 

  そして、平成28年(2016年)から

  今年にかけて、この1585年と1610年の

  2つの時代の駿府城天守台が発掘されたとのこと。

  (長いので、もっと前から調査していた感じ・・・)

駿府城天守台発掘調査

駿府城天守台発掘現場(2022年4月)

駿府城本丸天守配置図
(赤字が天正期、緑字が慶長期。一部重なってますね)

天守台石垣 案内板

 

天正期(古い方)の天守台石垣

慶長期(新しい方)の石垣 奥に古い方の石垣

  ・天正期の野面積み(のづらつみ、自然石を積む)

  ・慶長期の打込接(うちこみはぎ、加工した石を積む)

 

  私もやけに発掘調査が長いな~と少し思ってましたが、

  まさか2つの時代の石垣が発見され、天守遺構が確定

  するとは驚きました。

  そして今川時代の遺構も発見された様です。

今川時代の発掘遺構

今川時代の遺構発見場所

  これにより、ここに今川館があったと断定は出来ないと

  思われますが、可能性を感じますよねー😊

 

  ・戦国の幕開けとその後の今川時代の駿府

  (当時は府中)で花開いた、文化と今川政権の全盛期。

  ・ここから義元の死、政権の弱体化と共に、

   駿府の街が焼き払われ、今川・武田・徳川による

   争奪戦乱の舞台になっていった時代。

  ・そして天下人家康の権威を象徴する

   駿府城の天下普請と大御所時代。

 

   これらの時代を、

   「中世駿府の歴史、城を訪ねて」で、

   計4回にまとめてみました。

   

   ちょっと極端にはしょってたり、

   認識不足だったりはご容赦下さいね。

 

   最後に場所が確認出来る様、以前掲載しました

   駿府と周辺地図を再添付します。

   ご高覧ありがとうございました。

    ①駿府、②賎機山城、③持船城、④丸子城

    ⑤薩埵峠、⑥蒲原城、⑦安倍城

  

 

中世駿府の歴史、城を訪ねて3 ~駿府戦国大名今川義元の攻防~

こんにちは、rekikakkunです。

 

前回は今川家を戦国大名へと前進

させた9代氏親を中心に話を進めました。

 

彼が1526年死去し、嫡男の氏輝が

跡を継ぎましたが、1536年26歳

で病死。その弟の彦五郎も何故か急死。

ここから話を進めたいと思います。

 

またしても今川家当主が跡継ぎを

定められず急死してしまい、

跡継ぎ争いが再発します。

 

氏輝に男子がおらず、

僧籍に入っていた氏輝の弟の中で、

 

福島氏が推す「玄広恵探(げんこうえたん)」と、

福島正成の娘が母なので)

 

寿桂尼太原雪斎達が

推す「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」、

還俗して今川義元

寿桂尼が母なので)

 

1536年、この2人による跡継ぎ争いが勃発。

花倉の乱と呼ばれています。

玄広恵探が拠点とした場所が花倉城)

 

まあ~、とにかく簡単に変換出来ない

お2人の僧籍名の入力に四苦八苦( ;∀;)。

今回書くまで栴(せん)を、ずっと梅(ばい)

だと思ってました。( ;∀;)

見たこと無い字だしw

 

最終的に玄広恵探は劣勢となり、自ら住持だった

遍照光寺のすぐ北、花倉城に立て籠もりました。

 

ここら辺は葉梨(はなし)という地名で、

今川氏が建武4年に葉梨荘を足利尊氏

から賜り、駿府に入る前の最初の拠点

とも言われています。

花倉の地(藤枝市) 入口付近の案内板

 

現在の遍照寺

遍照寺内にある2代今川範氏公の墳墓

 ここの説明を見ますと、2代範氏公の時、

 1354年頃に葉梨に進出し、花倉に館、

 花倉城、遍照光寺を構築したとされてます。

 

 そして花倉城は葉梨城とも言われており、

 花倉の乱での最終決戦の場です。

 花倉城攻城写真を少しですが載せますね。

花倉城の入口 (右手の暗い所から、ちょっと怖いけど入る)
農道を車で登って、この脇に1,2台停めるスペースがかろうじてあります。

花倉城入口に設置されてる説明版

花倉城 縄張図 (右下が入口です)

 

花倉城 入口に入ると、いきなり土橋でした
(上の写真の土橋1)

二の曲輪の堀

二の曲輪

二の曲輪付近から南東方向の眺望
(2つの尾根端に囲われた部分が葉梨地区、先の海が焼津港付近)

 

二の曲輪と本曲輪を遮断する堀切

本曲輪

 

入口の土橋に戻りました

 

入口から少し離れて山を撮影
(左が暗い入口、上が花倉城本曲輪かな?違うかも)

 外からは全く見えないけれど、

 中入ると城の遺構が残ってるんだねー(⌒∇⌒)

 

 花倉城は落城し、逃亡した玄広恵探は、

 西方向(駿府と反対方向)にある瀬戸谷の

 普門寺で自害し、乱は終結しました。

 

普門寺と花倉城の間の山と瀬戸川(写真左の山奥側に花倉城)

玄光恵探の供養塔
(当時の普門寺の場所、現在は少し南にありました)

説明版拡大

玄広恵探の供養塔(右側)

  ①遍照寺、②花倉城、③玄広恵探の供養塔

 

 

 桶狭間の合戦前に今川義元

 玄広恵探の夢を見たとか・・・

 怨念を感じる事件ですね~

 (ちょっと怖い)

 

 さて、ここからさ~と進めます。

 (ただ怠慢なだけですが。。。_| ̄|○

 

 翌年1537年、武田と同盟を結んだ

 事が発端となり、河東一乱と呼ばれる

 後北条氏との争いで、富士川以東の

 駿東地区を奪われてしまいますが、

 その後取り戻します。

 (ここら辺、川越夜戦も絡んできますね~、

  もう少しお勉強します)

 

 以降、義元の治世は太原雪斎

 母寿桂尼等の補佐もあり、25年余り。

 今川家は三河尾張の一部まで支配を

 拡大し、武田、北条と同盟を結んでおり、

 駿府の街にとっては安定した時代

 だったのかな?

 と思います。

 

 静岡市内にある寿桂尼菩提寺

 竜雲寺です。

 お墓は駿府の街を見ています。

寿桂尼菩提寺 竜雲寺

寿桂尼の供養塔

供養塔からの眺望
駿府は少し左手。正面は賎機山城の北側尾根)


 

~~時代は進み~~

 

 義元さんは1536年の

 家督争いには攻め勝ちましたが、

 1560年桶狭間の戦いでは

 信長の攻撃を防ぎきれず、

 戦死しました。

 

 桶狭間豊明市緑区の古戦場に

 一度行きましたが、どこかで

 まとめれたらな~と思います。

 

 今回は現地の方が連れて行ってくれた、

 今川義元本陣前の前衛隊が駐屯していた

 有松神社(高根山)からの写真を

 載せます。 

桶狭間の戦い地図

 上の地図の高根山から西の方向(織田方の方向)、

 ①、②、③の3方向を撮影した写真です。

 (高根山は現在住宅地になってますが、

  かろうじて有松神社の狭い部分が

  残ってます。

  グーグルマップで見つかりますよ-)

 

①大高城方面
(この先に家康が入城した大高城がありますが、
大高緑地により、直接は見えません。
ですが丸根鷲頭砦が落ちた時の煙の方向と思います)

 

②西方向の道(佐々と千秋の先遣隊が攻めてきた方向かな?)

 

③名古屋方向
(信長隊が見えそうですが・・・?、
山とか削られてるかも、ちょっと分からないです。
ただここが周辺で高い位置である事が分かります)

  義元の本陣はこの後方ですが、

  今川方が見ていた(注視していた)

  景色なのかな~と思います。

 

  これで今回のお話を終わります。

  

  次は義元の死後、駿府の支配が

  今川家から武田家、徳川家へと

  移り変わる激動の時代を・・・。

  西の押さえ持舟城と東の押さえ蒲原城

  をターゲットに進めたいと思います。

 

  ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

 

 

 

 

中世駿府の歴史、城を訪ねて2 ~駿府戦国の始まり今川氏親の攻防 と 迫力の遺構が残る丸子城~

こんにちは、rekikakkunです。

 

中世駿府の歴史を訪ねて、

初回は南北朝の時代、

安倍城、賎機山城を中心に

ご紹介致しました。

 

今回第2弾は、

戦国時代に突入する時代、

北条早雲の甥であり、今川義元の父

である今川氏親と、

彼が一時身を寄せていたとされ、

国内でも有数であろう山城遺構が残る、

丸子城をメインに進めてみます。

 

1.今川義忠の死

 事の発端は少しさかのぼった

 応仁の乱の時代、

 1476年、彼の父8代今川義忠が、

 遠江(静岡県西部)の主導権争いの中、

 同国の有力な国人、勝間田氏と横地氏を

 攻撃し勝利した後の帰国時に、残党の

 待ち伏せにより、不慮の死に至った所

 から始まります。

    

 ①勝間田城

f:id:rekikakkun:20220411205508j:plain

勝間田城(1/2)本曲輪周辺中心部

f:id:rekikakkun:20220411205559j:plain

勝間田城(2/2) 堀切跡が連続式に残ってます

 

 ②横地城

f:id:rekikakkun:20220411205920j:plain

横地城(1/3) 赤線の堀切が全て見れました(⌒∇⌒)

f:id:rekikakkun:20220411210113j:plain

横地城(2/3)東の曲輪(横地城の本丸)とそれに向かう土橋

f:id:rekikakkun:20220411210353j:plain

横地城(3/3) 何箇所もある堀切の一つ

  勝間田城と横地城をマップで示します。

  (有名な高天神城諏訪原城が訪問圏内ですよ~。

   戦国初期の国人領主クラスの城と、土の城の技術が

   向上した武田、徳川の城との比較が出来そうですね)

 

 駿河の西隣、遠江の国は当初今川氏が守護

 となってましたが、当時斯波氏に奪われてました。

 その奪還は義忠の子、氏親によって、これから

 約40年後の事となります。

 

2.最初の家督争い
 今川家当主の戦死ですから、当然の如く家中に

 混乱を引き起こしました。

 義忠の嫡男龍王丸(後の氏親)は幼少であった為、

 龍王丸派と小鹿範満を擁立する小鹿派と家督争い

 が勃発。

 これに太田道灌が介入、北条早雲が仲介し

 龍王丸が元服するまで、小鹿範満が後見人として

 政務を代行することで決着しました。

 範満が政務代行として駿府今川館に入り、

 氏親は北条早雲の妹で氏親の母である北川殿と

 共に一時丸子城に身を寄せたとのことです。

 

3.丸子城

 さて氏親が身を寄せた丸子城にご案内します。

 丸子は後の東海道の宿場で、府中(静岡)から

 安倍川の西岸にある守りの拠点です。 

 本に載ってる縄張り図が規模含め分かり易い

 と思いましたので掲載します。

 堀切、切岸もありますが特に壮観なのが、

 丸馬出、横堀、三日月堀、土橋、虎口、

 堅堀等が複雑に構成され、土の城の全ての

 要素が丸見えみたいな感じです。

 ただし、今川時代はここまでは無くて、

 後の武田、徳川氏による増改築が主です。

 (その辺りは別のネット等で見てね)

 

f:id:rekikakkun:20220411220359j:plain

丸子城縄張図

 右下のスタートの位置から上、左と本曲輪へ進みます。

 このスタートまではそれほど長い山道では無いので、

 比較的容易にアクセス出来ると思います。

 ただし遺構を巡るには滑らないしっかりした靴が

    必要です。

 駐車場は駿府匠宿で無料駐車できます。

 

 さて丸子城に向かいましょう。

f:id:rekikakkun:20220411222045j:plain

駿府匠宿前の道路から丸子城の入口

f:id:rekikakkun:20220411222500j:plain

丸子城へ登る途中

f:id:rekikakkun:20220411222543j:plain

休憩がてら泉ケ谷の里が見れます (駿府匠宿の北)

f:id:rekikakkun:20220411223106j:plain

丸子稲荷神社(ここから城域になっていきます)

f:id:rekikakkun:20220411223237j:plain

外曲輪(駐屯地)

f:id:rekikakkun:20220412213235j:plain

丸子城最初の遺構の土橋、本当に土の橋

f:id:rekikakkun:20220412213650j:plain

土橋と、その右側に三日月状の堀があります、
ここ迫力あるのですが、今年は植物で隠れがちでした

f:id:rekikakkun:20220412214450j:plain

大手曲輪、先程の三日月堀と土橋で守られた馬出しです

f:id:rekikakkun:20220412214651j:plain

大手曲輪を超えると北曲輪に到達
(今川時代はここが本曲輪と説明版に載ってます。
氏親と北川殿がここに居たのだろうと想います。)

 

f:id:rekikakkun:20220412214943j:plain

北曲輪から見た横堀
横堀は長大で高天神城で武田氏が追加した横堀とそっくりです

f:id:rekikakkun:20220412215338j:plain

横堀の中央付近に設置されている堡塁

f:id:rekikakkun:20220412215524j:plain

二の曲輪

f:id:rekikakkun:20220412215627j:plain

二の曲輪から南東方向の眺望
(丸子の街並み、駿河湾を隔て伊豆半島が見えます)

f:id:rekikakkun:20220412215836j:plain

二の曲輪から本曲輪に向かう(堀切と竪堀)

f:id:rekikakkun:20220412220027j:plain

二の曲輪の北西角から横堀を見ると・・・
横堀と竪堀と堡塁が組み合わさった壮観な遺構(⌒∇⌒)
しかし写真では伝わりにくいな~( ;∀;)

f:id:rekikakkun:20220412220359j:plain

堀切から本曲輪に登る

f:id:rekikakkun:20220412220450j:plain

本曲輪入口の桝形虎口

f:id:rekikakkun:20220412220606j:plain

本曲輪(結構広い平地)

f:id:rekikakkun:20220412220930j:plain

本曲輪から西に降りて、物見曲輪の堀

f:id:rekikakkun:20220412221033j:plain

物見曲輪に上がって、下を見る。右手に長大な竪堀

 

f:id:rekikakkun:20220412221811j:plain

物見曲輪から降りて、丸馬出へ

f:id:rekikakkun:20220412221916j:plain

丸馬出の三日月堀と右手に長大竪堀
~この辺りが壮観です~

f:id:rekikakkun:20220412222042j:plain

上と同じ、竪堀を中心に撮影

f:id:rekikakkun:20220412222202j:plain

長大竪堀

f:id:rekikakkun:20220412222306j:plain

振り返ると丸馬出と三日月堀

  ここら辺、見渡す限り壮観な遺構、

  良く残ってくれたと思います。

  地元の保存会、関係者の方々にも感謝です。

  丸子城を訪れたら、是非本曲輪から北西に

  道がありますので、少し降りて下さいませ。   

f:id:rekikakkun:20220412222538j:plain

方向を90°変えて北方向に横堀が伸びてます
ここを進むと最初の土橋まで行けます

f:id:rekikakkun:20220412222752j:plain

横堀の堡塁

f:id:rekikakkun:20220412222839j:plain

横堀と土塁

f:id:rekikakkun:20220412223224j:plain

横堀と切岸(左上は北曲輪)

 う~ん、山城の撮影は難しいですねー、
 なかなか迫力が伝わる写真が撮れないな~(-_-;)


4.家督争い2回目
 丸子城等で成長し、成人となった氏親に対し、

 小鹿範満は家督を譲ろうとしなかったので、

 父義忠の死から11年後の1487年、

 北条早雲の力を得て、氏親は今川館に奇襲

 をして、範満を討ち取りました。

 これにより、北条早雲後北条氏

 今川家の蜜月時代が始まり、

 両者の活躍が始まります。

 

 その後氏親は1517年、

 遠江を平定し、

 分国法「今川仮名目録」を制定、

 今川家の戦国大名化に成功しています。

 

 桶狭間の戦いが1560年。

 その40年と少し前のお話でした。



 さて、安倍川西岸には、

 丸子城の他に~~~、

 安倍城の麓、増善寺に今川氏親のお墓。

 また南に下って徳願寺には北川殿のお墓

 があり,、安らかに眠っています。 

f:id:rekikakkun:20220412225348j:plain

今川氏親公のお墓(増善寺内)

f:id:rekikakkun:20220412225746j:plain

氏親の母で早雲の妹、北川殿のお墓(徳願寺内)

  幼少の氏親と北川殿が丸子城で、

  雌伏の時を伺っていたんだね~。

  そして彼女(北川殿)が居なかったら・・・、

    (早雲の妹が今川義忠と結婚してなかったら)

       戦国時代を彩った今川家と後北条家の活躍

  は無かったかも////・・・。

  

  また武田氏の時代は、かの山県昌景

  も在城してたとか。

 

  いつもそんな想いを馳せながら

  丸子城に行ってます(;^_^A
 

  
  ①駿府、②丸子城、③増善寺、④徳願寺

 

 上の地図にあります②丸子城の近く、

 とろろ汁の丁子屋は、約400年前、

 まさに戦国時代にお茶屋として開業し、

 現在まで続いており、建物も含め

 とろろ汁のお食事処で有名ですよー。

 

 以上でお話を終わります。

     

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

 

中世駿府の歴史、城を訪ねて1 ~南北朝時代 安倍城と賎機山城~

 こんにちは、rekikakkunです。 

   

 静岡市の街の歴史について、

 お城、史跡を訪ねながら

 まとめていけたらと思います。

    

 少し調べてみますと、

 室町の南北朝時代の頃、静岡の街は

 「府中」と呼ばれてました。

 そして戦国中期頃から「駿府」と

 呼ばれる様になった様です。

 

 今回は、お城の話が出始める南北朝時代

 南朝方の拠点だった安倍城と、

 その安倍城に対峙する

 北朝方の賎機山城について、

 簡単にご紹介致しますー。

 

 下のグーグルマップでは

 ①が安倍城、②が賎機山城です。

 ③浅間神社、④臨済寺、⑤駿府城(今川館もここと想定されている)

 

 足利尊氏室町幕府を開き、建武3年1336年、

 駿河の国は今川範国が初代守護となりました。

 (各地の今川氏の中で最終的に嫡流となる)

 その後南北朝騒乱の時代の中、駿河の国で南朝方の

 旗頭だった狩野貞長の拠点城とされているのが

 ①の「安倍城」です。

 

 安倍城は14世紀前半に築かれたと想定され、

 標高435mの山頂に本曲輪を構え、

 隣の山のピーク地に久住砦を築き、

 二つの城域が連格式に構成される「二城一連式山城」

 という県内南北朝時代の山城に多く見られる構成

 になってます。・・・とのことです(笑)

 周囲はグーグルマップに何も無いことからも

 分かる様に、深い山、谷に囲われており、

 当時はまだ堀切や竪堀等戦国時代の高度な築城術

 では無く、高くて攻められにくい場所を選択

 した劣勢傾向の南朝方の典型的な城と感じます。

 

 ここで狩野貞長さんって、県内の伊豆に有名な

 狩野川があって、狩野氏の狩野城もありますが、

 その狩野かな? 静岡にも何か関係あるのかな?

 別途狩野城に行った時、分かりました。 

f:id:rekikakkun:20220407220449j:plain

狩野城入口に掲示されている、狩野氏系図
(画家の狩野派系図も別途ありました)

 狩野城に系図掲示されてましたが、ちゃんと安倍城の

 狩野貞長さんが載ってます。(真ん中の下くらい)

 しかも「鎌倉殿の13人」にも出ている工藤祐経

 蘇我兄弟、信長の時代有名な狩野永徳狩野派の画家達と

 有名どころが沢山系図に載ってたので、なかなか凄いなー

 と感心して観てました。

 

 まあ、その多士済々の狩野氏の一族が、南朝方として

 安倍城を拠点にしていたことが分かりましたです。

 

 安倍城は城跡ですが、その安倍城に至る道は登山コース

 として地元の方や登山者も来られています。

 さて、そろそろ攻城に行きますか。

 ・・・って、やけに前置きが長くなったなー(・・?

 

①安倍城

 安倍城に至るルートは主に2つあって、

 北東から登る西ヶ谷口と、南西から登る洞慶院口

 があります。

f:id:rekikakkun:20220407222717j:plain

安倍城ハイキングコース

 

 今回一般的に使われる洞慶院から上の写真にある様に

 ①洞慶院→②久住砦→③安倍城の順路で登りました。

 400mを越え、急な上り下りもありますので

 ハイキング装備をします。

 ここから登山の写真を掲載します。

f:id:rekikakkun:20220407223011j:plain

洞慶院駐車場から出発

 

f:id:rekikakkun:20220407223118j:plain

洞慶院からの登り口(ちょうど10:00)

 

f:id:rekikakkun:20220407225131j:plain

石碑が1から33番まである最後の33番(10:21)

  

f:id:rekikakkun:20220407225308j:plain

急な登り(10:24)

f:id:rekikakkun:20220407225446j:plain

山道(10:41)

f:id:rekikakkun:20220407225623j:plain

久住砦の曲輪(平坦地)(10:48)

f:id:rekikakkun:20220407225827j:plain

3方向分岐点(洞慶院、増善寺、安倍城) (10:50)

 

f:id:rekikakkun:20220407230034j:plain

久住砦付近から安倍城山頂を観る

f:id:rekikakkun:20220407230312j:plain

久住砦の山頂から降りて安倍城へ向かう急坂
(ロープを使って降りる)

f:id:rekikakkun:20220407230552j:plain

安倍城に至る前の堀切跡に見えます、石も多い (10:59)

f:id:rekikakkun:20220407230812j:plain

安倍城に向かって登ります (11:01)

f:id:rekikakkun:20220407231253j:plain

山頂に近づいてきました (11:07)

f:id:rekikakkun:20220407231445j:plain

山頂に到着しました(11:12)
右手が眺望方向、凄いですー

 

f:id:rekikakkun:20220409172636j:plain

安倍城本丸跡からの眺望

 

f:id:rekikakkun:20220407231823j:plain

賎機山城拡大 (手前の山中央の高い部分が本曲輪)

f:id:rekikakkun:20220407232000j:plain

北方向、富士山が見えます

f:id:rekikakkun:20220407232052j:plain

南方向、駿河湾伊豆半島 (中央静岡の中心街)
空気が澄んでいて良く見えますねー(⌒∇⌒)

f:id:rekikakkun:20220407232819j:plain

静岡平野全体
南朝方、これ見てたんだねー)

  安倍城本曲輪、山頂に来たら、木が全く遮らない眺望。

  珍しいかな?とても良いですよー。

 

f:id:rekikakkun:20220407233717j:plain

本曲輪奥から眺望方向を見る、これも雰囲気出ててなかなか良い

 

 ②賎機山城

  さて南朝方安倍城に対し、北朝方の今川氏は

  安倍川を挟んで標高約170mの賎機山に城を築き、

  その後は今川館の詰めの城としての役割を

  果たしていたとされています。

  

  静岡では有名な竜爪山から伸びる稜線が

  静岡市中心部まで突き出ており、

  その先端に近い山頂付近に賎機山城あり、

  稜線の先端には静岡市民なら誰もが来た

  ことがある浅間神社があります。

 

  賎機山城に至る経路のメインは、

  その稜線の先端、浅間神社から登ります。

  以後写真を載せます。

   

f:id:rekikakkun:20220409181305j:plain

静岡浅間神社の本殿

  その近くに登る長い階段があります。 

f:id:rekikakkun:20220409194258j:plain

浅間神社の階段を登る
(ちょっと疲れるが、ここを登れば大分上がってます)

 

  登ると、古墳時代この地方の領主と想定される

  賎機山古墳があります。  

f:id:rekikakkun:20220409181457j:plain

賎機山古墳 (この裏手から行けます)

f:id:rekikakkun:20220409181714j:plain

浅間神社の上から北の稜線へ進みます

  

f:id:rekikakkun:20220409182021j:plain

途中案内板があります
駿府公園、浅間神社、賎機山城、臨済寺の位置。
また安倍城は安倍川の左(西側)、慈悲尾の先です。

f:id:rekikakkun:20220409182258j:plain

最初の山頂に平和記念碑等があります。
ここまでは整備された散歩道になってます。

f:id:rekikakkun:20220409182406j:plain

上の写真の右奥に、その先への入口があります
この写真の木の左から進みます

f:id:rekikakkun:20220409182747j:plain

ここから一挙に山道になります
がそんなに大変ではありません。

f:id:rekikakkun:20220409183321j:plain

北へ進んでいます

f:id:rekikakkun:20220409183455j:plain

この先に城の南を遮断する堀切があります
ここから本格的な城域になります

f:id:rekikakkun:20220409183845j:plain

南側上から堀切を見下ろす
(いまいち分かり難いですねー)

f:id:rekikakkun:20220409184104j:plain

堀切に降りて横から撮る(何となく分かるかな)

f:id:rekikakkun:20220409184221j:plain

堀切から北に上がる(ちょっと急なのが分かるかと)

f:id:rekikakkun:20220409184505j:plain

本丸と対になる二の曲輪 (右手に土塁)

f:id:rekikakkun:20220409184706j:plain

二の曲輪に至る導線には、切岸があり上から攻撃できる

f:id:rekikakkun:20220409185001j:plain

二の曲輪から本曲輪に向かう

f:id:rekikakkun:20220409185118j:plain

本曲輪、石碑と説明板があります

f:id:rekikakkun:20220409185352j:plain

本曲輪の北側の道、急斜面と切岸

f:id:rekikakkun:20220409185511j:plain

本曲輪北側の堀切

f:id:rekikakkun:20220409185607j:plain

堀切を横から撮る

 

 北側の堀切を越えて少し進むと、西側の展望が開け、

 安倍城がはっきりと見えます。

f:id:rekikakkun:20220409190227j:plain

賎機山城から安倍城俯瞰
この位置、距離関係

f:id:rekikakkun:20220409190448j:plain

安倍城俯瞰 少し拡大

f:id:rekikakkun:20220409190958j:plain

安倍城の本曲輪部拡大

  ここから賎機山城や静岡平野を眺めてたんだねー  

 

  そして、賎機山城へ進む途中に戻りますが、

  本曲輪の麓には今川家の菩提寺であり、徳川家康

  駿府人質時代に住んでいた臨済寺が見えます。

f:id:rekikakkun:20220409191620j:plain

賎機山から臨済寺を臨む

f:id:rekikakkun:20220409194451j:plain

臨済寺正面 (この右手上が本曲輪)

f:id:rekikakkun:20220409194549j:plain

臨済寺正面を入った趣のある階段

f:id:rekikakkun:20220409194738j:plain

臨済寺墓地上部にある、今川義元の父氏輝(左)と
豊臣時代の駿河領主中村一氏(右)のお墓

  臨済寺は境内の参観は自由ですが、現在も修行寺の為、
  建屋等中は非公開になってます。
  でも観光地化されてない分、雰囲気ありますよー。

 

  以上で安倍城、賎機山城のご紹介を終わります。

  ご高覧ありがとうございました。

 

  

駿府の町 周辺の中世史跡スポット

こんにちは、rekikakkunです。

前回の奈良県探訪のブログから

なかなか配信できず、

1ヶ月を過ぎてしまいました。

 

ネタが////・・・。

切れたのか、怠慢なのか?

はたまた両方か?←正しい( ;∀;)

 

実は私は静岡出身でして、

歴史探訪を趣味としておりますが、

昨今の情勢から、地元静岡=駿府

防衛拠点を巡ってまいりました。

ここらで勝手にピックアップして、

思い付きでブログにしてしまおうという作戦です。

・・・作戦でも何でもないが・・・

 

ざ~くり・・・下のグーグルマップにて、

駿河の国、①駿府の町を中心に辺りを見ますと、

 

 ・詰めの城として②賎機山城

 ・西側方面は③持舟城、④丸子城

 ・富士川、東部方面は⑤薩埵峠、⑥蒲原城

 ・南北朝時代南朝方の拠点となった⑦安倍城

 

が主要な駿府防衛拠点、史跡となります。

(勿論他にも沢山ありますよ) 

 

 ※マップの番号をクリックすると説明が出ます。

 

 

 両端にあります③持舟城、⑥蒲原城

 戦国時代には今川、武田、徳川の激戦地。

 (つまり東西の重要拠点だったと思います)

 

 丸子城は武田氏の築城術が壮大に残っていて、

 山城好きには相当凄いです。

  

 そして現在駿府城には豊臣と徳川の異なる時代

 の天守閣土台石垣が、なんと同じ場所で発見

 され、国内でも貴重な発掘現場だと思われます。

 

 これら多彩な史跡により、中世戦国の

 息吹を感じることができるのでは? 

 って自分は適当な知識なので

 内容薄はゆるしてね・・・//// 

 

 今回は始めとして、各拠点の写真を

 1,2枚づつ載せたいと思います。

 

 ①駿府城

f:id:rekikakkun:20220402105803j:plain

①-1 駿府城 巽櫓と中堀

f:id:rekikakkun:20220402110218j:plain

①-2 駿府城内 天守閣発掘跡
(豊臣時代と家康時代の天守閣土台石垣が両方見れます)

 

 ②賎機山城 

f:id:rekikakkun:20220401201721j:plain

②賎機山城 本丸跡

 

 ③持舟城 

f:id:rekikakkun:20220401202057j:plain

③持舟城 本丸からの東側眺望 (右側駿河湾、奥が伊豆半島)

 

 ④丸子城 (静岡市では一番の城跡と感じます)  

f:id:rekikakkun:20220402110857j:plain

④丸子城 北面の横堀と土塁
(個人的には最もお薦めですー)

 ⑤薩埵峠  

f:id:rekikakkun:20220401202951j:plain

⑤薩埵峠 (左が峠、右の海との間が少ししかない。景色NO.1)

 

 ⑥蒲原城 

f:id:rekikakkun:20220402111206j:plain

⑥蒲原城 登り口眺望(左奥が駿河湾

 

 ⑦安倍城(主に南北朝時代)

 (安倍城は南朝方の拠点。この時代の南朝方の山城は高いですね。

  安倍城に対し、北朝は今川氏が賎機山城を築城し対峙)

f:id:rekikakkun:20220402111420j:plain

⑦安倍城本丸から東南方向の絶景
(西南方向、川の先の中央の山が賎機山城、奥が伊豆半島

  南朝方がこの景色を見ていたのは間違いないよねー(⌒∇⌒)
 

  以後、写真を添えて①から⑦を簡単にご紹介

  していけたらと思います。

  

  ご高覧ありがとうございました。

 

 

<奈良県 歴史探訪4,5> 多聞山城 松永弾正 時代を先駆けて

こんにちは-、rekikakkunです。

奈良探訪4日目は一日中強雨でした。

大和郡山城を訪問しましたが、

少し廻っただけなので、写真1枚のみで割愛します。

f:id:rekikakkun:20220221200514j:plain

(写真1)大和郡山城 本丸跡

 

翌日の最終5日目、天気はまあまあ、

最後に奈良市方面に向かい、

多聞山城と平城宮跡に行きました。

 

グーグルマップでは多聞山城のみ示します。

赤丸①が近鉄奈良駅、②若草公民館、③多聞山城跡です。

②、③をクリック 又は 地図を拡大してみて下さいね。 

 

 多聞山城に行くには、鉄道ですとマップ①の

 近鉄奈良駅で降ります。

 奈良観光定番の東大寺春日大社と同じ最寄り駅です。

 

 多聞山城の跡地には、戦後まもなく若草中学校が建設

 された為、ほぼ遺構が失われています。

 しかし現在、お城のすぐ近くでマップ②の位置にある

 若草公民館で、地元の歴史遺産として多聞山城の

 調査整理等を行っており、展示もされているとのことで、

 まずそちらに向かいました。

  

 ②若草公民館

  マップで見ると奈良女子大の東側の通りを北上

  すれば、佐保川に辿り着き、そこを東方向に行くと

  辿り着きそうです。

f:id:rekikakkun:20220219224858j:plain

(写真2)奈良女子大東側通りを北上中

f:id:rekikakkun:20220219225026j:plain

(写真3)佐保川にぶつかり、東進すると若草公民館の案内板がありました

f:id:rekikakkun:20220219225149j:plain

(写真4)若草公民館に着きました

 

f:id:rekikakkun:20220219225333j:plain

(写真5)若草公民館の掲示の一部

  若草公民館では遺構について色々話を聞きたかったのですが、

  受付が立て込んでいたので、公民館で販売している、

  多聞城ファン倶楽部が編集した冊子を100円でいただき、

  いざ多聞山城に出発。

  

f:id:rekikakkun:20220219230015j:plain

(写真6)佐保川の橋。多聞山城の大手に通じる橋

   佐保川は多聞山城南側を守る堀の役割をしていた

   とのことなので、大手口に通じるここは重要な入口

   だったのかも。

   道も曲がっているし、聞いてみたかった( ;∀;)

  

 ③多聞山城

       多聞山城は松永久秀が奈良支配を目的に築城した

  当時最先端の城。日本の城の先駆けとも言われて

  います。例えば多聞櫓とか・・・。 

  

  下にちょっと見難いですが、多聞山城地図

  を載せます。

  地図の①~④が城跡で、今回は③の主郭を

  中心に巡りました。

f:id:rekikakkun:20220221202332j:plain

(写真7)多聞山城地図

   若草公民館から北上し、若草中学校入口(主郭の手前)

   に到着しました。

f:id:rekikakkun:20220219230457j:plain

(写真8)若草中学校入口門

f:id:rekikakkun:20220219230521j:plain

(写真9)中学校入口脇の多聞山城説明板

   元若草中学校教諭が中心となって多聞城ファン倶楽部が設立

   されていることもあり、中学校なのに多聞城の案内板や、

   中学校内への立ち入りも許可されていました。

 

   下の写真10の階段下の左側にインターホンがありますので、

   そこにお城見学の承認を得てから入ります。

   ボタンを押すとすぐ話かけてくれて、建屋内に入らなければ

   OKですよ と言われました。

   確認できると安心できますよねー👍

   これから完全不審者の行動になってしまいますので(〃ノωノ)

f:id:rekikakkun:20220219231728j:plain

(写真10)若草中学校入口

  

f:id:rekikakkun:20220219232258j:plain

(写真11)階段右には多聞城跡の石碑と共に、
野生の鹿が逃げもせず、当たり前のように居ました(笑)

f:id:rekikakkun:20220220224448j:plain

(写真12)中学校大階段を上って左手に進む

f:id:rekikakkun:20220220224629j:plain

(写真13)脇を真っすぐ進むと土塁に上がる感じ

f:id:rekikakkun:20220220225001j:plain

(写真14)光明皇后陵の東側、右手が散策できる多聞山城側

f:id:rekikakkun:20220220224806j:plain

(写真15)光明皇后陵内にある何か?あのこんもりは土塁かな?

f:id:rekikakkun:20220220225227j:plain

(写真16)多聞山城本丸の一番大きな空き地(校舎裏)

f:id:rekikakkun:20220220225934j:plain

(写真17)北西の竪堀の様な溝

f:id:rekikakkun:20220220230046j:plain

(写真18)北面の土塁

f:id:rekikakkun:20220220230214j:plain

(写真19)北面の土塁に行ってみると、外側(写真右手)
は急斜面になっていて、やっぱり土塁跡ですかね?

f:id:rekikakkun:20220220230803j:plain

(写真20)北面の土塁跡

f:id:rekikakkun:20220221185937j:plain

(写真21)校舎西側の城跡から戻ります
(写真左から右側へ戻ります)

  校舎正面を進み、本丸東側に向かいました。

  東側には堀切跡があります。

f:id:rekikakkun:20220221190401j:plain

(写真22)本丸東側の堀切跡(道路になってます)

  

  せっかくなので堀切跡から本丸裏(校舎北側)に回り込みました。

f:id:rekikakkun:20220221190904j:plain

(写真23)本丸北東部

  狭い裏道を進むと土塁跡らしき形跡がありました。

  そこを西進します。

f:id:rekikakkun:20220221191011j:plain

(写真24)本丸北東部土塁跡

 

f:id:rekikakkun:20220221191209j:plain

(写真25)本丸北東部の急な斜面1
意外と急で空堀と斜面で北側は守られていた様です

f:id:rekikakkun:20220221191425j:plain

(写真26)本丸北東部の斜面2
(右側が本丸外側、下は住宅街)

f:id:rekikakkun:20220221191828j:plain

(写真27)本丸北側の土塁跡

f:id:rekikakkun:20220221191943j:plain

(写真28)校舎(本丸)北側の細道

f:id:rekikakkun:20220221192124j:plain

(写真29)本丸北側を進む、ここも正面は土塁跡かな~?

 

f:id:rekikakkun:20220221192311j:plain

(写真30)本丸をぐるっと回って光明皇后陵に戻りました

  ちょうど校舎を1周させて頂きました。

  

f:id:rekikakkun:20220221192448j:plain

(写真31)正門前の階段を降ります、お邪魔致しましたm(__)m

f:id:rekikakkun:20220221192754j:plain

(写真32)階段を降りた左手にある無念仏
(多聞山城跡で見つかった仏様を集めて保存してるとのことです)

f:id:rekikakkun:20220221192944j:plain

(写真33)東大寺の大仏殿が見えました
ちょっと松永弾正の気持ちになった気分、
確かに奈良の寺院を上から見てる感じです

f:id:rekikakkun:20220221193222j:plain

(写真34)城を降りて佐保川と城の間を撮る
・・・住宅造成地になっていってます・・・

f:id:rekikakkun:20220221193136j:plain

(写真35)東側堀切跡 (写真22を下から見てます)

f:id:rekikakkun:20220221193423j:plain

(写真36)堀切を少し登って撮った大仏殿

  多聞山城正面を歩きましたが、なかなか山城全体が撮れず。

f:id:rekikakkun:20220221193611j:plain

(写真37)聖武天皇佐保山南陵(多聞山城西側)

f:id:rekikakkun:20220221193908j:plain

(写真38)西南から多聞山城を見る
聖武天皇陵、中央道の先が多聞山城、右佐保川
この写真で観てるところが城域かな?

  近鉄奈良駅に戻る途中、喫茶店でランチを頂きました。

  美味しかったです。

f:id:rekikakkun:20220221194151j:plain

(写真39)昼ランチ

 

  平城宮跡

   さて近鉄奈良駅から大和西大寺駅に戻り、

   徒歩で平城宮跡に向かいました。

f:id:rekikakkun:20220221194324j:plain

(写真40)平城宮跡資料館

f:id:rekikakkun:20220221194652j:plain

(写真41)資料館展示の平城宮跡案内図

 

f:id:rekikakkun:20220221194936j:plain

(写真42)第一次大極殿  遠景

f:id:rekikakkun:20220221194804j:plain

(写真43)第一次大極殿

 

f:id:rekikakkun:20220221195124j:plain

(写真44)第一次大極殿院 南門 復元工事中

f:id:rekikakkun:20220221195355j:plain

(写真45)第一次大極殿と南門

f:id:rekikakkun:20220221195642j:plain

(写真46)南門復元工事中と朱雀門

  平城宮跡は時間少なく、急ぎ回ったので、今度ゆっくり

  行きたいと思います。

  写真46はなかなかのアングルかな❓

  平城宮の関係者のお話ですと、回廊を作りたいと

  おっしゃってました。(ただし何年もかかるとのこと)

  それが出来ると良いですよねー(⌒∇⌒)

     

f:id:rekikakkun:20220221195855j:plain

(写真47)ホテルに戻ってエントランスから耳成山が見えました

f:id:rekikakkun:20220221200018j:plain

(写真48)耳成山拡大

f:id:rekikakkun:20220221200250j:plain

(写真49)翌朝、帰り前のホテル朝食。
葛城山金剛山とか、来たときは無かった雪が残ってます

 

  飛鳥奈良時代のロマンについては、

  飛鳥板蓋宮⇒藤原京平城京 の流れを

  行ってみました。

  大和三山は満喫出来ましたよ(⌒∇⌒)。

 

  三好松永の奈良支配については、

  飯森山城と筒井城にも行く予定でしたが、

  事情により断念、残念でした。

  ですが当地に滞在したからこその地元の

  優しさ、情熱を感じることが出来ました。


  以上で奈良探訪を終わります。
  ご高覧ありがとうございました。
















 

 

<奈良県 歴史探訪3> 信貴山城 乱世の梟雄 松永弾正 夢の跡

こんにちは-、rekikakkunです。

奈良探訪3日目です。

 

  2日目夜部屋が移動し、3日目の朝、外を覗いたら

       綺麗な耳成山を見ることができてラッキーでした👍。

f:id:rekikakkun:20220207114009j:plain

(写真1)3日目朝、部屋から見えた耳成山

  翌日以降は雨予報なので、最後の山城を狙いに、

  松永久秀最後の地、信貴山城に向かいます。

  信貴山城は信貴山 朝護孫子寺を通り、

  お寺の山頂及びその少し越えた先にあります。

  まずは鉄道、バスを駆使し、朝護孫子寺

  を目指します。

   8:52大和八木駅

   9:05近鉄下田駅

       徒歩で近鉄線からJR線に移動

   9:30JR香芝駅

   9:45王寺駅

  10:25王寺駅バス発  

f:id:rekikakkun:20220207120019j:plain

(写真2)JR王寺駅からバス停案内板

  バス停の場所は鉄道を出て案内があり、

       分かり易かったです。

  バスに乗る際は50人以上並んでいて、

  2台満席で発車しました。

  

  そして信貴山を登る途中で渋滞となり、

  なかなか進まないので、運転手さんから、

  奈良県側からお寺に一番近い「信貴大橋」

  の1つ前のバス停「信貴山」で下車を薦められて、

  10:45頃ほぼ全員バスを降りました。

  

  でもここからお寺までは宿やお店がある門前町

  でしたので、丁度良かったです。のんびり歩きました。

f:id:rekikakkun:20220207120831j:plain

(写真3)信貴山門で下車し、みんな歩いてます

 

  さて、ここで朝護孫子寺の地図を掲載し、

  概要を記しますと、

  地図右下から歩いてきて、仁王門を越え、

  赤い印の現在地、「信貴山観光iセンター」

  を目標として向かいます。

  ここに地図、情報、トイレ等ありますので

  信貴山全体の出発点になると思います。

  

  そして一番上の空鉢護法が信貴山山頂で、

  かつ信貴山城の本丸とのことです。 

  (普通は山城は下から登るので本丸が最後に

   なるのですが、ここの場合山頂の本丸から

   反対側に下りますので、ちょっと不思議な感じでした)

f:id:rekikakkun:20220210111354j:plain

信貴山 朝護孫子寺の地図

 

  門前町を10分程歩くとお寺の入口仁王門に到着しました。

f:id:rekikakkun:20220207174424j:plain

(写真4)朝護孫子寺 仁王門

  

  そしてふと脇の駐車場を見たら車一杯(´д`)

  その先の赤い橋も車が進んでいません。

  単純に月曜日の平日は空いている思っていた私は

  ちょっとびっくりでした。

f:id:rekikakkun:20220207174928j:plain

(写真5)朝護孫子寺の駐車場

  

  実は種明かしをすると、当日は1月10日成人の日。

  

  そして聖徳太子が虎の年、虎の日、寅の刻に毘沙門天

  感得し、その後物部守屋との戦いに勝利したとのことで、

  当地にお寺を創建し、後に醍醐天皇により朝護孫子寺

  勅号を賜ったとされています。 

  よってお寺には張り子の虎等が沢山ありました。   

f:id:rekikakkun:20220208215329j:plain

(写真6)張り子の大虎 ここで皆さん撮影してました

  寅年の今年は奈良県でもいつもより多く紹介

  されていて混んでるでしょうと、戻ってから

  宿の方が教えてくれました。

 

  まずは本丸、天守があったとされる信貴山の山頂、

 「空鉢護法(くうはつごほう)」を目指し、

  お寺内を進みます。  

f:id:rekikakkun:20220208215825j:plain

(写真7)空鉢護法まで600m、徒歩20分と書いてあります

  

f:id:rekikakkun:20220208221252j:plain

(写真8)多宝塔

f:id:rekikakkun:20220208221326j:plain

(写真9)多宝塔脇の鳥居を登ります

f:id:rekikakkun:20220208221610j:plain

(写真10)信貴山城案内

  信貴山城まで520m、松永屋敷まで860mの案内板。

  広いお寺ですが、至る所に案内があるので分かり易いです。

  ちょっとお城の案内が多いのが意外でした。

  このお寺も信貴山城整備に協力してくれてるからかな?

  ありがたいですねー(⌒∇⌒)。

 

  少し進むと登りが急になってきました。

f:id:rekikakkun:20220208222006j:plain

(写真11)山頂へのジグザクな登り道

 

  山頂に登る途中、ここ何かの遺構?(切岸とか堀とか)

  かもしれないな~とパシャリ。

  明らかに他の方たちと見てる方向が違います(笑)

f:id:rekikakkun:20220208222709j:plain

(写真12)山頂へ行く途中
(今思うと雌嶽の曲輪かも?)

  

  ほぼ登ったところに縄張り図がありました。

f:id:rekikakkun:20220208222224j:plain

(写真13)信貴山城 縄張り図

f:id:rekikakkun:20220208222434j:plain

(写真14)信貴山城 縄張り図拡大
(赤字の現在地の下が登り道、その左側が朝護孫子寺に至る。城は右側全体)

  

f:id:rekikakkun:20220210120120j:plain

信貴山城縄張り図と順路
(青線が経路、赤字の①から番号順に進みました)

 

  そして優しい案内で迷子にならず信貴山頂、

  空鉢護法に到着しました。

  空鉢護法は国宝の信貴山縁起絵巻でも語られている

  由緒あるお堂になっているそうです。

  ここまでは参拝客が大勢居ました。

f:id:rekikakkun:20220208223635j:plain

(写真15)図①空鉢護法(信貴山頂 兼 信貴山城本丸)

  ここに天守(多層櫓)があって松永弾正が爆死したのかな?

  確かに一番高いところですが、残念ながらその面影は

  ありませんでした。

 

f:id:rekikakkun:20220208224739j:plain

(写真16)空鉢護法の脇に図②「信貴山城址」の石碑があります

  さて、ここからお寺を離れて、いよいよお城の遺構に向かいます。

  朝護孫子寺の反対側の山腹を降りていきます。

  縄張り図を見ると、山頂から反対側の180°に

  渡って城郭が構築されてる巨大な山城みたいです。

  ただし下の写真の道を進んでから城跡で出会ったのは

  10人弱でした(笑)

f:id:rekikakkun:20220208225007j:plain

(写真17)空鉢護法を越えて、信貴山城へ進む道
(空鉢護法から左の道を降りて、右側の道に進みます)

  ちょうど写真17を撮っている反対側が一番の眺望でした。

f:id:rekikakkun:20220208224023j:plain

(写真18)図③山頂からの眺望(奈良方面)ちょっとガスってます

 

  少し降りていきますと、もうすぐに何やら腰曲輪?

  みたいな場所が・・・。

f:id:rekikakkun:20220208225342j:plain

(写真19)腰曲輪かな?

f:id:rekikakkun:20220210093502j:plain

(写真20)山頂から降りていく

 

f:id:rekikakkun:20220210093553j:plain

(写真21)図④立入屋敷(たてりやしき) 案内板

f:id:rekikakkun:20220210093816j:plain

(写真22)図④立入屋敷跡 (曲輪)

 

  立入屋敷から降りると、分岐点に来ました。

  ここに松永屋敷の案内があるので安心です。

f:id:rekikakkun:20220210094135j:plain

(写真23)立入屋敷から降りてきた分岐点
(右:松永屋敷、左:水の手、正面:曲輪、堀切跡)


  最初に正面の曲輪に行きました。

  曲輪と堀切がはっきりと残ってました。

  こんな所に来るお客さんは一人も居ません( ´∀` )

f:id:rekikakkun:20220210094843j:plain

(写真24)図⑤松永屋敷の西側の曲輪と堀切1

f:id:rekikakkun:20220210095024j:plain

(写真25)図⑤松永屋敷の西側の曲輪と堀切2

 

  分岐点正面の図⑤の曲輪と堀切を散策した後、

  分岐点に戻り、松永屋敷方面に向かいます。

f:id:rekikakkun:20220210095154j:plain

(写真26)松永屋敷へ向かう道

 

  さて、ここからが城遺構として、最も整備されている場所となります。

f:id:rekikakkun:20220210095540j:plain

(写真27)図⑥松永屋敷を含む曲輪群入口正面の切岸
(この上が、多分立入屋敷の曲輪だと思います)

f:id:rekikakkun:20220210095822j:plain

(写真28)図⑥松永屋敷を含む曲輪群がメインの様ですので、
以降「主曲輪群」と呼びます。曲輪毎に階段があります

f:id:rekikakkun:20220210100030j:plain

(写真29)主曲輪群最初の階段を降りたところ
(結局は木で覆われていますが、草を除去して
くれてるので左右前後ふらふら確認できます)

f:id:rekikakkun:20220210100256j:plain

(写真30)最初に降りた階段を振り返る (先程の切岸も見えます)

 

f:id:rekikakkun:20220210100559j:plain

(写真31)主曲輪群の西側の切岸とその下の曲輪
主曲輪群の両側(東西側)は、高い切岸になっていて
容易に攻め込まれないようになってました

 

f:id:rekikakkun:20220210101247j:plain

(写真33)主曲輪群の土塁跡
(3方向に土塁があった様です)

 

  松永屋敷、グーグルマップでも載っていますが、

  信貴山城で松永弾正の居館があり、城の中核であった

  とのことです。

  本丸、山頂には城の遺構が無いのですが、その下の

  曲輪や土塁、堀等は多数残ってます。

  そしてこの松永屋敷が信貴山城整備のメイン

  になってる様です。

  確実にここに居たんだと言えそうですよね~〇。

f:id:rekikakkun:20220210101809j:plain

(写真34)図⑦松永屋敷 案内板

f:id:rekikakkun:20220210211228j:plain

(写真35)松永屋敷の曲輪
(沢山案内してる割りに殺風景。曲輪が沢山あるので、
ここがそうだよって看板やのぼり等で分かる様にしたら良いかと)

f:id:rekikakkun:20220210211322j:plain

(写真36)松永屋敷から入口を見る
低くなっている曲輪に虎口があり、
その曲輪から高い位置に屋敷がある

f:id:rekikakkun:20220210102058j:plain

(写真37)先に図⑦松永屋敷の曲輪、手前が虎口がある1段低い曲輪
そのまた左側にも1段低い曲輪がありました
(多聞山城を築いた松永弾正、かっこいい構成だったんだろな~、知りたいなー)

f:id:rekikakkun:20220210102211j:plain

(写真38)図⑧松永屋敷出入口 案内板

 

f:id:rekikakkun:20220210102327j:plain

(写真39)図⑧松永屋敷手前の低い曲輪の虎口1
防御の面から、正式な通路としてはここからし
松永屋敷に辿り着けない構造だったのかな?

f:id:rekikakkun:20220210102456j:plain

(写真40)図⑧松永屋敷の虎口2
この虎口を登り、登った曲輪でも防備を固め、
そのまた1段高い位置に松永屋敷の曲輪があった
のだと思いました。

f:id:rekikakkun:20220210102831j:plain

(写真41)松永屋敷北側の曲輪

f:id:rekikakkun:20220210102722j:plain

(写真42)主曲輪群の最北端の切岸かな?
下に降りましたが、そこから先はちょっと急なので止めました

 

  ほぼ主曲輪群の先まで来たので、戻って松永屋敷出入口を降ります。

f:id:rekikakkun:20220210103138j:plain

(写真43)図⑧松永屋敷を降りて、出入口(虎口)を見上げる

 

f:id:rekikakkun:20220210103006j:plain

(写真44)松永屋敷東側の切岸(上が松永屋敷の曲輪)

  松永屋敷を降りて、東側に向かうと、そこからもアクセス出来ました。

f:id:rekikakkun:20220210103523j:plain

(写真45)松永屋敷の東側からのアクセス

 

f:id:rekikakkun:20220210103609j:plain

(写真46)松永屋敷 東側アクセス案内板

 

f:id:rekikakkun:20220210104025j:plain

(写真47)主曲輪群東側の大きな曲輪

  

  ここで、3組程の人達がこの道を進んでいったので、

  何かあるのかな?と進みました。

  ・・・がお城探索にとっては、これが失敗でした。

f:id:rekikakkun:20220210104214j:plain

(写真48)大沢池に向かう道だった( ;∀;)

  どんどん降りて行く道で、進むと池があり、

  グーグルマップを見たら大沢池でした。

f:id:rekikakkun:20220210104252j:plain

(写真49)大谷池

  もう少し曲輪、堀等散策したかったのですが、

  どうもお城の遺構から離れてしまっていた様です。

  池で釣りをしているの方達が居ました。
  

f:id:rekikakkun:20220210105214j:plain

(写真50)ぐるっと城の東側を回って、多宝塔に戻ってきました

 

f:id:rekikakkun:20220210105949j:plain

(写真51)朝護孫子寺本堂の階段

 

f:id:rekikakkun:20220210105813j:plain

(写真52)本堂の外回廊
(ここがビューポイントです)

 

f:id:rekikakkun:20220210105640j:plain

(写真53)本堂からの眺望(奈良方面)

  さて、これで信貴山の探訪は終わり帰ります。

  帰る際、見上げたお寺が映えますねー。

f:id:rekikakkun:20220210110335j:plain

(写真54)朝護孫子寺本堂を見上げる

  

  本日は天気が良く、行って良かったです。

  帰りもバスが混んでいて、14:30頃

  バスで進む途中、外を見ると登る車がまだ

  大渋滞してました( ;∀;)

  

  今回信貴山城を探訪して思ったのは、

  落城して廃城になった割には、思った以上に

  遺構がはっきり残っていたと感じました。

  また一時代を築いた武将の生き様を感じながら

  いつもの様にうろうろ( ´∀` )

  そう感じられたのは、整備して下さっている

  関係者の方々のおかげと思います。

     

  さて次回は奈良県探訪の最終日、

  多聞山城を中心に作ります。

  (時系列が逆で申し訳ないです)

  

  ご高覧ありがとうございました。