こんにちは、rekikakkunです。
を探訪しました。
ここは不思議と歴史の分岐点が積み重なって
いる珍しい場所なのかな~と思います。
つらつら書き並べてみると・・・
(1)中世(鎌倉~室町時代)
⇒その後幕府の実権握った北条氏の本拠地
(2)近世(安土桃山~江戸時代)
⇒近世への扉を開く戦国時代、その幕開けを飾る
(3)近代(明治~現代)
⇒幕末の黒船来航を契機に、時代の先端をいく
しています。
そこで韮山の史跡でおすすめの場所を、、、
・・・いや、単に私の趣味でぶらぶら行った
ところを年代順にご紹介します。(汗)
このグーグルマップの〇番号とその後の番号は合致しています。
(例えば地図の① は 1.蛭ケ小島です。〇番号を押すと説明出ます)
1.蛭ケ小島(源頼朝配流の地)
韮山での大きな歴史的事象としての始まりは、
1160年源頼朝が伊豆に流されたことでしょうか。
1177年北条政子と結婚するまでの17年間
蛭ケ小島に居住したとされています。
徒歩10分程で到着し、現在蛭ケ島公園として
整備されています。
公園には10台以上の無料駐車場があり、おすすめ
の拠点です。私もここから自転車で廻りました。
上のマップ①を見ると各史跡の中間に位置してますよねー。
頼朝の配流地については、確定出来る資料や物証は無くて、
伊東(伊豆の東側海岸)という説もある様です。
蛭ケ小島については、江戸時代に地元の学者による調査
により、この場所と比定されています。
私はここで信じてます、史跡を見て繋がりを感じるし。
2.北条氏邸跡(円成寺跡)
蛭ケ小島から1.5km程西に向かった狩野川沿いの
守山一帯は北条氏の本拠地です。
していた館跡があり、また鎌倉幕府滅亡の折、北条一族
冥福を祈ったとされています。
現在は単なる原っぱに見えますが、発掘調査もされて
おり、今後も史跡として開発が楽しみな所です。
3.北条政子 産湯の井戸
北条氏の館跡から200m程東側です。
(堀越御所跡正面のすぐ近く)
また井戸の少し東には光照寺があり、ここは頼朝の別荘
(宿館)だったと吾妻鑑に記載されてるとのことです。
つまるところ伊豆に来た当初は蛭ケ小島や伊東に
住んでいて、伊東祐親との確執や八重姫との悲劇
の伝承等、何かと慌ただしい時もありましたが、
政子と結婚してからの3年程は、北条氏の本拠地
を背景に安心して守山付近に住んでいたかもですね。
現在守山の北側の道は「北条の里さんぽ路」、
東側の道は「頼朝政子語らいの路」となっていて、
旗揚げ前の頼朝政子の幸せそうな雰囲気を
感じられる所でした。
4.山木判官兼隆館跡(やまきはんがんかねたかやかたあと)
さて平家独裁への不満の気運高まりと共に、
政子との平和な生活も終わりに近づきます。
伊豆に流されて20年経った1180年(治承4年)
最初の標的として襲撃しました。
山木の館跡の所在地にはたどり着けなかったので、
同じ山木地区で、彼の供養塔がある香山寺に
行きました。
5.香山寺
今回自分の頭の中も、草燃えるの世界感です(笑)。
襲撃は北条本拠地の守山から東方向に出発し、頼朝は
その守山山頂から火が挙がるのを見ていたとのこと。
ちょうど韮山城に遮られてますが距離、位置的に
夜に火の手で明るくなったのは見えそうですね。
この挙兵を起点に頼朝は平家を追討し、中世の始まり
6.願成就院(がんじょうじゅいん)
北条氏の本拠地守山の東山麓には1189年奥州征討
祈願と共に北条氏の氏寺として北条時政が建立した
願成就院があります。
北条時政のお墓があり、また運慶作の本物の仏像が
国宝として拝観出来ます。
北条氏ゆかりの史跡としては外せないところですね。
7.北条時政のお墓
競合勢力を滅ぼして、北条氏を強力な氏族に
押し上げましたが、晩年息子の北条義時により
失脚するというちょっと不思議な方ですね。
失脚してもこのご時世の中、殺されずに地元で
10年程生活し往生しているという。
(剛腕辣腕の割に、何か憎めない感じです)
8.伝堀越御所跡(でんほりごえごしょあと)
さて中世の時代、時は流れて鎌倉幕府は滅び、
足利氏による室町幕府も中期頃の時代、
~頼朝配流からちょうど300年後~
再びに韮山の地が歴史の表舞台に出ます。
室町幕府は関東地方の混乱を押さえる為に6代将軍
の子、足利政知を派遣しましたが、既存勢力により
関東に入れず、1460年に伊豆で堀越御所を
造営しました。(堀越公方)
→頼朝が蛭ケ小島に来るのが1160年
→足利政知が堀越御所に居座るのが1460年
この堀越御所は、上述の北条氏本拠地守山の北
に設置されてます。
(先の北条政子の産湯の井戸の正面です)
これはブログ作成してる時に知ったのですが、
1491年政知は死去しましたが、彼の次男は
11代将軍足利義澄です。そして11代から
最後の15代将軍足利義昭まで実は全て政知
の子孫ということになるんですねー。
関東にも入れず私的にはピンと来なかった方でしたが、
実は義澄を京に登らせていた事で室町将軍を継承し、
歴史に大きな足跡を残したと言えそうです。
9.足利茶々丸のお墓
そして政知の死後、跡を継いだのは嫡男茶々丸です。
嫡男が跡継ぎであれば通常は問題無いのですが、
この茶々丸は素行不良で、政知の3男で彼の
異母弟である潤童子及びその実母を殺害します。
この行為は潤童子と同じ母の出である11代
その討伐を目的(名目)として1493年北条早雲
(当時伊勢盛時)が興国寺城から堀越御所を
急襲したという説があります。
ありましたが、一武将にすぎない早雲が幕府の公方
を滅ぼし、既存の権威から外れて大名化しました。
戦国時代の幕が開けたと言われる所以ですねー。
韮山の地はおもいっきりその発端、場所となります。
10.韮山城
本拠地としました。早雲はその後伊豆平定、
小田原大森氏や三浦氏等と相模で戦いますが、
早雲本人は1519年ここ韮山城で死去したと
言われています。
どこで亡くなったのかな?
地図のお座敷、韮山高校あたりとか?
韮山城は、急な山道も少なく、ほんの
15分程度で本丸まで辿り着けれます
ので、お気軽に行けます。
1590年豊臣秀吉の小田原討伐時、北条氏の重要拠点で
あった韮山城は包囲され、下の(写真18)の様に東側山の
尾根に付城が構築されてますが、3カ月の籠城の末、
開城しました。
その時の城主北条氏規の嫡子が北条宗家を継ぎ、
狭山藩1万石として幕末まで続いています。
韮山城と蛭ケ小島は位置的にほぼ同じと言ってもよく、
その東西には北条氏館、堀越御所、山木館跡、江川邸等
があり、それぞれに歴史的な背景があります。
また少し南には国指定史跡かつ世界遺産に登録されて
よくまあこんな時代の転換点となる多種多様な史跡が
集中してるなあ~と感心させられました。
・・・と話があっちゃこっちゃで、すいませ~ん。。。
ご鑑賞ありがとうございました。m(_ _m)
(番外編)
韮崎から国道136号線で北の方へ帰る途中、
国1にぶつかる前に「むらの駅」に寄りました。
人気の場所です。下はTAMAGOYAの写真ですが、
ふわふわのパンケーキ等も食べられますよー。