こんにちは-、rekikakkunです。
奈良探訪2日目になりました。
昨日は日本一の比高差高取城に行って
足が疲れたので、
(ん?登りにタクシーを使ったのは、お忘れを・・・)
今日は宿泊地の大和八木駅で自転車(電動)を
レンタルして、古代のロマンを満喫しようと
画策しました。(極力楽しようとしてます)
本日の探訪地図です。
グーグルマップの〇番号を押すと
グーグルの説明が見れます。
自転車で①から⑬の番号順に探訪しました。
②今井まちなみ交流センタ- ⑨香具山(山頂)
③今井町環濠集落跡地 ⑩藤原宮跡資料室
④畝火山口神社 ⑪藤原宮跡
⑦本薬師寺跡
①かしはらナビプラザ
大和八木駅の南口前にかしはらナビプラザがあります。
観光案内所の機能と共に自転車のレンタルもしてました。
電動もあり結構豊富にありましたし、会話の中で
橿原市は観光者に親切だな~と思う場面が多く、
ここでも親切に教えてくれました(⌒∇⌒)。
さて10:00出発です。
②今井町(今井まちなみ交流センター他)
今回宿泊所の資料で知ったのですが、
江戸時代の街並、町家が多く残り、
重要伝統的建築物群保存地区と選定
されてるとのことです。
堺で有名な今井宗久も若い頃ここに居たとか。
丁度黄金の日々の再放送を見ているので
畝傍山に行く途中に行ってみました。
まずは今井町の概要を把握したいので、
「今井まちなみ交流センター」に行ってきました。
交流センターには色々と展示がありました。
まず下写真の今井町の模型は迫力あると共に
街並みのイメージが分かり易かったです。(⌒∇⌒)
結構これに近い状態で残ってる感じじゃないかな~。
③今井町環濠集落跡地
建立したことのようです。
そして堀(環濠)等の防御機能を構築し、
寺内町として発展していきました。
筒井順慶等の信長方とも戦ったが、
と共に今井町も休戦交渉を進める中、
信長自身が直接今井町に本陣を置き、
裁定を下した様です。
その裁定の書類が見れました。
今日は奈良時代の周遊のつもりでしたが、
思わぬところで歴史を知りました。
時間に余裕があると、こういった出会いが
ありますよね(⌒∇⌒)
太刀も下賜したとのことで、今井町の
価値、心意気に感じいるところがあったと
思われます。
(信長の美への謙虚さを感じました)
諸々残すのが大変なこの時代、町として上手に
状況判断して後世に残しましたよねー。
そして現在の街並みを撮りました。
どこ行っても風情ある街並み感じで
感動しました。
お勧めの町ですよー。
④畝火山口神社
さて大和三山では、古代のロマンに想いを馳せます。
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき
神代より 斯くにあるらし 今昔も 然にあれこそ
うつせみも 妻を 争ふらしき」
私は学術的なことは分かりませんが、
支配体制を構築する起点を作った英雄。
と、美女である額田王を巡っての三角関係の
お話(一つの説ですが)も有名、心誘われます。
これに香具山(中大兄皇子)と
遥か昔の神々でこの三山で起こった
伝説になぞられた、との解釈説です。
(私はこの三山をただ車で通って見るだけ
ではなく、しっかり感じながらゆっくり
行きたかったのです)
これにより弟の勝ちとなり、日本の発展に繋がって
いったのも事実と思います。
が反面、古代の歴史の中でも有数の哀愁を感じます。
約100年後に天智系皇系(桓武天皇が有名)
が皇統を継続するという、なかなかの
大逆転話があったり複雑ですねー。
ま、それ以上私分かりませんが(笑)
さて私の拙い話はここまでとして・・・(;^_^)
自転車は電動にしたので楽ちん。
疲れること無く進み、畝傍山西側のふもと、
「畝火山口神社」に着きました。
⑤畝傍山
11:20神社の脇に畝傍山の登り口ありました。
せっかく来たのと宿のおかみさんが、景色みれるわよ
と言ってたので、我慢ならず登りました。
畝傍山を下り、神社に停めた自転車に乗って、
神宮に来る前に、天皇陵が通り道に2か所。
天皇陵の隣に普通に家が建っててお子さんが
遊んでて、なんか良いな~と思いました。
⑥橿原神宮
橿原神宮入口に着きました。
日本の起源とも言える凄い所。
大分混んでいたので、次の機会にゆっくり行きます。
今回は通っただけです。
⑦本薬師寺跡
薬師寺を建てられました。
とのことです。(諸説あるようです)
藤原宮の南側に伸びるメイン通り朱雀大路の
道が発掘された様です。
北側に耳成山が見えます。この間に
藤原宮があったんですねー。
う~ん自転車だとゆっくり見れて感激ですー。
畝傍山と香具山の位置をきょろきょろ確認。
⑨香具山
大和三山で最も神聖な山、天の香具山と言えば、
歴史好きでなくても聞いたことはあるのでは?
入口を見たら我慢できず登りました。
(すぐ山頂に行けますよー)
⑩藤原宮跡資料室
香具山の近くに藤原宮跡資料室がありました。
資料室では30分も現地ならではのお話をして
くれて、面白かったですし、愛着も感じました。
その後の平城京、多聞山城等、
今回奈良県探訪全てのお話の機会において、
歴史、史跡等に対する愛着や大切に残していこう
とする気持ちを肌で感じることができました。
ちなみに、何で藤原京と言われてるのですか?
と資料室の方に聞いたら・・・
この質問待ってました!
と目がキラリ✨✨
ひとしきり教えてもらったので
ブログに載せるつもりで書こうとしたら、
あれ?
忘れてしまってました・・・////。
ごめんなさ~い( ;∀;)。
(たしか何かの資料に載っていたからかな?)
会話が尽きず、中国殷王朝の妲己まで
さかのぼったので(笑)
⑪藤原宮跡
その規模は、発掘調査によりその三山を
含める程まで大きかった様です。
その都の宮殿が藤原宮です。
写真35の手前右側の森の様な小山に藤原京を中央で
右京左京に分けるメイン道路、朱雀大路が通ってました。
藤原宮跡資料室のお話では都の南側中央に山があることも
意味があると言ってました。
写真35の真ん中の山に四角い物体、
NHK中継局が見えます。
高取城本丸から同じ物が見えたので、その左側に
高取城があると思い、藤原宮跡からずっと探してました。
・・・が城自体はどうしても分からず残念_| ̄|○。
藤原宮跡をご紹介します。
大和三山のほぼ中心に藤原宮が設置されてる
のがよく分かります。
そして三山に囲われた全体が藤原京です。
そして上の写真は藤原宮の中心、大極殿跡です。
藤原京は694年から710年の16年間
天武天皇の時から計画され、その妃である
日本初の本格的な都でした。
藤原宮資料室で教えていただきましたが、
その次の平城京遷都後、ほぼ全体が水田となり
その所在地は長らく論争になっていたそうです。
写真37の小さな丘陵、大宮土壇脇での瓦、礎石等
が出土したのがきっかけで本格的な発掘調査が
始まり、大極殿、藤原宮の構造、位置が明確に
なってきたとのことです。
インプットされました。
徒歩でも良いですが、自転車も色々行けて
小回りも聞くので良いですよー。
授業でも習った大宝律令が701年に完成
してることからも、藤原京時代の国の発展、
古代のロマンを感じますよねー。
実は深くは分かってないのですが・・・(*ノωノ)
⑫飛鳥寺
藤原宮跡を(自分なりに)満喫後の15:20頃、
せっかくなので、帰る反対方向の飛鳥へ向かいました。
15:45頃飛鳥寺に到着。
蘇我氏が建立した日本最初の仏教寺院。
ほぼ聖徳太子の時代ですよね。
15年位前に行ってますが、ほとんど変わってなく
(都市化されてなく)ほとんど見覚えありました。
変化が無い嬉しさ、ありますよね(⌒∇⌒)
⑬飛鳥宮跡
飛鳥寺の後、もう一つ再訪したかったのが、
場所、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)です。
よく写真で出ますよねー。
無意識に蘇我氏の隆盛と没落の場所に
行ったんだと、後で思いました。
ところが、今回伺ってみるとその説明版には
「旧称 史跡 伝 飛鳥板蓋宮 平成二十八年名称変更」と
平成28年に名称が変わったとのことです。
少しネット含め確認してみると・・・この場所は、
現在復元して見えている石敷広場等の史跡は、
上層の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)
と書いてありました。
総合的に飛鳥宮跡としたんですね。
時代、発見と共に新しくなっていきますね。
つまりここは、乙巳の変の舞台であり、
かつ天武持統天皇の宮殿跡でもあり、
この場所から藤原京に移動したんだね~。
(非常にシンプル認識ですいませんm(__)m)
<少し番外編>
さて16:30頃になり、飛鳥はまた今度
ゆっくり見るとして、大和八木駅へ戻ります。
飛鳥川沿いに北上すれば到着するだろうと、
モバイルデータをケチってスマホで
確認せず、方向感覚だけで進みました。
この写真までは良かったのですが、途中で飛鳥川が
離れてしまい、畝傍山が正面左に見えました。
これはおかしいと、スマホで確認し、少し
遠回りして大和八木駅に戻りました。
地理感覚をちょっと過信してましたね。
ただ飛鳥川沿いは整備された道になってますので、
お勧めではあります。
あと翌日の夜ですが、耳成山のふもとで花火
がありました。
そこに映った耳成山が幻想的で感動。
たまたま宿の好意でグレードアップ
されて移った部屋が最高の場所でした。👍
いつもの如くバラバラ構成すいません。
あと、古代は深いですねー。
何箇所か認識不足あるかもしれません、
読み返すと日本語も今一の感じ、
そこもご容赦お願いします。
・・・宜しくです(⌒∇⌒)