こんにちは、rekikakkunです。
前回は今川家を戦国大名へと前進
させた9代氏親を中心に話を進めました。
彼が1526年死去し、嫡男の氏輝が
跡を継ぎましたが、1536年26歳
で病死。その弟の彦五郎も何故か急死。
ここから話を進めたいと思います。
またしても今川家当主が跡継ぎを
定められず急死してしまい、
跡継ぎ争いが再発します。
氏輝に男子がおらず、
僧籍に入っていた氏輝の弟の中で、
福島氏が推す「玄広恵探(げんこうえたん)」と、
(福島正成の娘が母なので)
推す「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」、
還俗して今川義元。
(寿桂尼が母なので)
1536年、この2人による跡継ぎ争いが勃発。
花倉の乱と呼ばれています。
(玄広恵探が拠点とした場所が花倉城)
まあ~、とにかく簡単に変換出来ない
お2人の僧籍名の入力に四苦八苦( ;∀;)。
今回書くまで栴(せん)を、ずっと梅(ばい)
だと思ってました。( ;∀;)
見たこと無い字だしw
最終的に玄広恵探は劣勢となり、自ら住持だった
遍照光寺のすぐ北、花倉城に立て籠もりました。
ここら辺は葉梨(はなし)という地名で、
から賜り、駿府に入る前の最初の拠点
とも言われています。
ここの説明を見ますと、2代範氏公の時、
1354年頃に葉梨に進出し、花倉に館、
花倉城、遍照光寺を構築したとされてます。
そして花倉城は葉梨城とも言われており、
花倉の乱での最終決戦の場です。
花倉城攻城写真を少しですが載せますね。
外からは全く見えないけれど、
中入ると城の遺構が残ってるんだねー(⌒∇⌒)
花倉城は落城し、逃亡した玄広恵探は、
西方向(駿府と反対方向)にある瀬戸谷の
普門寺で自害し、乱は終結しました。
①遍照寺、②花倉城、③玄広恵探の供養塔
玄広恵探の夢を見たとか・・・
怨念を感じる事件ですね~
(ちょっと怖い)
さて、ここからさ~と進めます。
(ただ怠慢なだけですが。。。_| ̄|○)
翌年1537年、武田と同盟を結んだ
事が発端となり、河東一乱と呼ばれる
駿東地区を奪われてしまいますが、
その後取り戻します。
(ここら辺、川越夜戦も絡んできますね~、
もう少しお勉強します)
以降、義元の治世は太原雪斎や
母寿桂尼等の補佐もあり、25年余り。
拡大し、武田、北条と同盟を結んでおり、
駿府の街にとっては安定した時代
だったのかな?
と思います。
竜雲寺です。
お墓は駿府の街を見ています。
~~時代は進み~~
義元さんは1536年の
家督争いには攻め勝ちましたが、
1560年桶狭間の戦いでは
信長の攻撃を防ぎきれず、
戦死しました。
一度行きましたが、どこかで
まとめれたらな~と思います。
今回は現地の方が連れて行ってくれた、
今川義元本陣前の前衛隊が駐屯していた
有松神社(高根山)からの写真を
載せます。
上の地図の高根山から西の方向(織田方の方向)、
①、②、③の3方向を撮影した写真です。
(高根山は現在住宅地になってますが、
かろうじて有松神社の狭い部分が
残ってます。
グーグルマップで見つかりますよ-)
義元の本陣はこの後方ですが、
今川方が見ていた(注視していた)
景色なのかな~と思います。
これで今回のお話を終わります。
次は義元の死後、駿府の支配が
今川家から武田家、徳川家へと
移り変わる激動の時代を・・・。
西の押さえ持舟城と東の押さえ蒲原城
をターゲットに進めたいと思います。
ご高覧ありがとうございましたm(__)m