歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

中世駿府の歴史、城を訪ねて4 ~戦国駿府を守る激戦と駿府城の築城~

こんにちは、rekikakkunです。

 

前回桶狭間の戦い今川義元討死まで、

お話しました。

1560年(永禄3年)のことです。

 

ほんとは今川氏の勢力が最大となり、

「東国の京」とも呼ばれて駿府の街が

栄えた時代が今川義元の時代でした。

なので義元の時代を、どこかで勉強

しなければと思います。

 

義元の死後、家督を継いだ嫡男氏真ですが、

求心力の低下、弱体化が進み、

1568年12月甲斐武田信玄による

駿河侵攻が始まります。

今川方は薩埵峠に布陣。

富士川を越え、駿府の東方向から侵攻

してきた武田軍と激突。

 

~ ①薩埵峠 ~

薩埵峠の展望台から、富士山、駿河湾の絶景
下の道は国道一号線、上は東名高速

  台風の時、最初に一番海寄りの東名高速下りが

  通行止めになります。

  ここ全部やられると物流辛くなるので新東名が

  出来たんですね~。

西側登り口から東へ進む道

 西側にはトイレがある駐車場があり、そこから10分程で

 上の写真の所まで上がれます。(東側も駐車場あります)

 ここまで上がれば、この先の展望台までは徒歩15分程

 、上下動も無いのでのんびり散歩できますよー。

 

 また、鉄道では、JR興津駅で降りて、

 この写真の場所まで徒歩30分位。

 展望台からそのまま東へ進み由比駅へ、

 全行程で90分位かな。

 

 さて薩埵峠の戦いは、武田の調略により今川方が

 早々に退却してしまい、12月13日には

 駿府に武田軍が侵攻。

 今川館及び城下町等が焼き払われてしまいました。

  

 翌1569年5月掛川城徳川家康に降参し、

 戦国大名としての駿河今川家は無くなりました。

 

 駿河の国は今川家を支援した北条氏と武田との

 争いで一進一退となりましたが、1571年頃

 武田家が駿河をほぼ領有します。

 

~ ②蒲原城

 その過程で、1569年12月北条氏が

 守備をしていた、富士川の西岸に立地する

 蒲原城が武田氏により落城。

 北条早雲の孫氏信や今川家臣700人から

 1000人ともいわれる城兵達が壊滅する

 壮絶な戦いでした。

 (最初の駿河侵攻では武田は蒲原城

  押さえていなかったので)

 

 攻め手は武田勝頼真田幸隆等だった様です。

 その後信玄自らも入城し、北条への備えとしました。

 まさに富士川東から駿府への敵軍侵攻を止めるのに、

 重要な場所といえます。

原城 鳥観図(搦め手口側に駐車場)

登り道

原城 本曲輪

原城から西南側の山道から撮った、駿府方面の眺望

 上写真の右側の突き出しが薩埵峠だと思います。

 ここ蒲原城薩埵峠が駿府の東側防御のポイント

 であったことが見れます。

 (海の反対側は山ばかりなので・・・。)

 

 蒲原城はその後1582年(天正10年)の

 武田氏滅亡時落城し、廃城となったとの事です。 
 

 ~ ③持舟城 ~

  さて駿府を守る東側の拠点、薩埵峠と蒲原城

  ご紹介をしました。

  これに対し、西側の進入路は山側(東海道)と

  海側(日本坂)の2方面があり、防衛拠点は

  山側は以前挙げました丸子城。

  そして海側が持舟城となります。

 

  さてこの持舟城、一般的にはさほど有名には

  感じないのですが、戦国時代に今川vs武田vs徳川

  による4度もの争奪戦が行われた事からも、

  重要拠点であった様です。

  知らなかった~(゚д゚)!

  (1)1568年武田氏の駿河侵攻により落城

    (〇武田勝ち、×今川負け)

  (2)1579年徳川家康の攻城により守将及び

     守備兵400人討死

    (〇徳川勝ち、×武田負け)

  (3)1580年武田勝頼が取り戻す

    (〇武田勝ち、×徳川負け)

  (4)1582年武田滅亡時開城⇒廃城

    (〇徳川勝ち、×武田負け)

 

  そこで持舟城に行ってきました。

山道(中腹に駐車場があり、そこからすぐです)

本曲輪

看板

本曲輪と二の曲輪間の堀切(はっきり残ってますね~)

 

 さて、このお城の重要性は本曲輪から駿府平野全体が

 見渡せる、立地眺望にあると思います。

本曲輪から東側眺望

本曲輪から東側眺望(駿府の街、平野、城がほぼ全て見える)

 

海側拡大(現在の用宗港)

富士山を中央に拡大(手前は東名高速

本曲輪東正面(正面少し右手は砦の跡、左の線路は新幹線)

  これまで静岡の山城を訪問してきましたが、

  1か所で平野全体を見渡せる眺望は、

  ここが一番と思いました。

  (平野最西側の海の際から前面全体が見渡せる)

  つまりここを手に入れないと、駿府周りの

  動きが丸見えになってしまいますねー。

  また、港もあったので水軍も設置されてたとか。

 

~④駿府城

  さて・・・

  1582年、武田氏滅亡と共に、

  要の城である蒲原城、持船城等が落ち、

  駿府駿河の国)は徳川家の手中になりました。

  1585年頃の安土桃山時代

  天守が建てられた様です。

  

  その後、豊臣政権下の1590年からは

  中村一氏が領有。

  

  1600年の関ケ原合戦を経て、

  再び徳川家が領有。

 

  1610年大御所として駿府に入城していた

  徳川家康による天下普請により国内最大級の

  天守が再建されました。

 

  そして、平成28年(2016年)から

  今年にかけて、この1585年と1610年の

  2つの時代の駿府城天守台が発掘されたとのこと。

  (長いので、もっと前から調査していた感じ・・・)

駿府城天守台発掘調査

駿府城天守台発掘現場(2022年4月)

駿府城本丸天守配置図
(赤字が天正期、緑字が慶長期。一部重なってますね)

天守台石垣 案内板

 

天正期(古い方)の天守台石垣

慶長期(新しい方)の石垣 奥に古い方の石垣

  ・天正期の野面積み(のづらつみ、自然石を積む)

  ・慶長期の打込接(うちこみはぎ、加工した石を積む)

 

  私もやけに発掘調査が長いな~と少し思ってましたが、

  まさか2つの時代の石垣が発見され、天守遺構が確定

  するとは驚きました。

  そして今川時代の遺構も発見された様です。

今川時代の発掘遺構

今川時代の遺構発見場所

  これにより、ここに今川館があったと断定は出来ないと

  思われますが、可能性を感じますよねー😊

 

  ・戦国の幕開けとその後の今川時代の駿府

  (当時は府中)で花開いた、文化と今川政権の全盛期。

  ・ここから義元の死、政権の弱体化と共に、

   駿府の街が焼き払われ、今川・武田・徳川による

   争奪戦乱の舞台になっていった時代。

  ・そして天下人家康の権威を象徴する

   駿府城の天下普請と大御所時代。

 

   これらの時代を、

   「中世駿府の歴史、城を訪ねて」で、

   計4回にまとめてみました。

   

   ちょっと極端にはしょってたり、

   認識不足だったりはご容赦下さいね。

 

   最後に場所が確認出来る様、以前掲載しました

   駿府と周辺地図を再添付します。

   ご高覧ありがとうございました。

    ①駿府、②賎機山城、③持船城、④丸子城

    ⑤薩埵峠、⑥蒲原城、⑦安倍城