歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

近江八幡探訪2 ~観音寺城、頼朝旗揚げ以来の名門佐々木六角氏と信長上洛戦~

こんにちは、rekikakkunです。

 

  前回は観音寺城の本丸跡まで行きました。

  ここから、下の探訪経路図で

  ③本丸から④に向かいましょう。_(._.)_

 

  ちなみに、観音正寺裏駐車場から

  ①を経由して、お寺の入口②までは

  徒歩13分。

  

  観音正寺本殿からは山道に入り、

  ③の本丸までは8分程でした。

観音寺城縄張図  探訪経路

 ~③本丸から④平井丸~

  本丸を出て、石階段を降ります。

本丸の石階段

  石階段を降りてすぐに、3方向の分岐点に戻ります。

3方向の分岐点に戻る(縄張図③の位置)

  上の写真の左側、屋敷跡の方向に足を

  向けると、この道(下の写真)です。

  ここが一番不安な感じですよね、、、  

  25年前は本丸のみでここは

  行かなかったです。てか知らなかった(-_-;)

分岐点③から屋敷跡方向へ山道を下る
(夏だと草で道が見え難いかも)

 

  分岐から下ってほぼ1分で「大石垣まで7分」の

  標識がありました。

  

  観音寺城の遺構としては大石垣が一番迫力があって、

  景色も最高なので、目標の場所になりますよね。

  

  ただしこの時点では本当?~って雰囲気です(笑)

  (なので大石垣まで7分ぽっきりだよ、って案内は

   なかなかタイムリ-で良いです😊)

屋敷跡方向に行くとすぐに標識がありました

 

  分岐点から3分程で視界が開けて広い道になり、

  石垣も見え、安心しました。

平井丸の石垣が見えてきました

平井丸の入口

  ここ、観音寺城の紹介でよく出る処ですよね。

  確かに迫力ありました。

  こんなのが隠れているんですねー。

  確実に戦国時代当時の遺構👍

  これぞ山城巡りの醍醐味っすね😊

平井丸の入口(拡大)

 

平井丸内の標識

 

平井丸の石垣、角は算木積になってますよね~

 

本丸から平井丸に来た道

 

 ~④平井丸から⑤池田丸~ 

  上の写真の右手、平井丸の大きな門跡の正面が
  次の曲輪への道です。

  

平井丸から池田丸へ進む道
(またタイムリーに看板があります。大石垣まで5分)

池田丸にもうすぐで着きます

池田丸の入口
(看板は大石垣まで3分)

池田丸の中に道が通ってます
(探訪経路図のちょうど
⑤の位置ですね)

池田丸の出入口石垣

池田丸の石垣
ちょっと意外、しっかり残ってますね~

 

 ~⑤池田丸から⑥大石垣~

  池田丸を出ると周りが明るくなり、

  前方が開けてきました。 

池田丸を出て大石垣に向かう道

大石垣へ向かう途中

少しぐるっと回って展望地に来ました
観音寺城の旗が立ってます

 

展望地からの眺望
(南方向でお寺での写真とほぼ同じ方向ですが、絶景👍)

  この展望地は実は大石垣の上に立ってます。

  ちょっと右脇から降りて見ると・・・

大石垣1

  こ、これは凄い(@_@;)

  大石垣が見れました(^^♪

  今回探訪で最目的の場所なので、沢山撮影~😊

 

  下写真の石垣の右手の山は

  箕作城跡だと思います。

  観音寺城と箕作城の間に中山道

  通っていたとのこと。

大石垣2 (かっこいいな~)

大石垣3 (かっこいいな~2)

 

大石垣4 旗が上に見えます

 

大石垣5 大石垣の脇を歩けました
(通り抜けられます)

大石垣から南東方向を見る

 

 ⑥大石垣~⑦木村丸

  大石垣の先を少し行ってみました。

木村丸

 

木村丸の先にある縄張図に載ってた竪堀

  縄張図に載ってた竪堀が見れて一人、

  ニヤリと満足したのでこれで戻りました。

  周り誰も居ないから、ばれてないよ(笑)
  

平井丸に戻った。映えるので再撮影

 

  観音正寺を出て、戻ってくるまで約1時間半でした。

  縄張図を見ながら行くと良いと思います。

  また行きたい。

  今度は冬の見やすい時期に佐々木城の方も・・・///。

 


  ~外から観音寺城、箕作城を見る~

   

繖山(きぬがさやま)遠望

  大石垣と観音正寺が正面に見える処に来ました。

繖山(きぬがさやま)拡大

大石垣拡大 旗が見えます


  さてもう一つの目的が、信長の上洛戦、  

  地図は、①:観音寺城、②和田山城、③箕作城、④愛知川

 

  

  足利義昭を奉じた織田信長が永禄11年

  (1568)9月7日岐阜城を出発、

  京都へ上洛し、天下統一戦が始まります。

  その最初の敵対勢力が近江南半国の領主、

  六角氏でした。

 

  9月11日、信長軍は愛知川の北東岸

  (上のマップ④の右上側)

  に集結し観音寺城と対峙しました。

  繖山の西側は当時は安土山まで琵琶湖

  だったから、東側から進軍ですよね。

 

  六角氏は①観音寺城を中心に、④愛知川から見て

  左手に③箕作山、右手に②和田山城の3つに

  兵を分け、最初に一番落とし易そうな

  和田山城に信長軍が取り付くだろうから、

  観音寺城と箕作城から挟撃しようと、

  策を建てたみたいです。

  

  愛知川から戦場の位置関係を撮りたかった

  のですが、うまく撮れる所が見つかりません

  でした。。。_| ̄|○

左が箕作城、右が観音寺城、その右の
写ってないところに和田山城 (北東から撮影)

 

  さて、9月12日攻撃の火ぶたが切られ、

  信長は最初に箕作城(みつくりじょう)を

  攻撃しました。

  

  その際、元々大軍だったので、和田山城と観音寺城

  から挟撃されないよう抑えの軍勢を配備したので、

  六角側は挟撃策を取れず、箕作城は攻撃初日の

  夜襲により1日で落城しました。

  

  翌日、夜が明けたら、観音寺城和田山城の六角軍

  は、ほとんど退散してしまったとのことです。

  (そもそも六角家は内紛状態だったみたい)

 

  よって観音寺城での戦いは、

  ほぼ箕作城の戦いですね。

 

  下の写真前面に信長軍が観音寺城封鎖の軍を

  展開していたんだろうと想います。

観音寺城を南から見る
(正面観音寺城、写真のほぼ中央が大石垣)

 

左が観音寺城、右の山が箕作城
(南西から撮影、見えませんが写真の左手が安土)

  鎌倉以来の名門六角氏にたった1日で

  勝った事は、京都を押さえていた三好松永

  や京都の公家さん達に相当なインパク

  があったと予想出来ますよねー。

 

  というのも翌日、安土考古学博物館の六角氏

  の展示場に行ったのですが、

  信長と対した六角承禎及びその父六角定頼や

  祖父六角高頼は隣接する中央勢力、幕府と

  協力、敵対を繰り返しながら、簡単には

  屈服しないぞという気概、実績を持って

  いたんですね。

 

  そして当時としては最大規模の観音寺城

 

  その六角氏を信長は1日で、まあ実質

  滅亡させてしまったのですから、

  なかなか・・・恐ろしい、スゲー。

  

  締めとしてはこんな感じです。

  なんとか表題の上洛戦に繋げた(-_-;)

  

  次はお隣、安土城をご紹介致します。

  信長の栄華と、まぬがれなかった

  終焉の舞台。

  このブログを見て頂いてる方は、

  ほぼみなさん行ってますよね。

  自転車でぐるっと1周してきました。

    

  ご高覧ありがとうございました。m(__)m