こんにちは、rekikakkunです。
ちょっと関西の方にぶらり旅、
行って来ましたので、間が空きました。
さて、元亀3年(1572年)、
武田信玄の西上作戦もメインイベント、
二俣城攻防戦と三方ヶ原合戦
へと続きます。
10月14日、一言坂の戦い 勝利後、
武田軍は、天竜川の東岸に伸びている、
磐田原台地(いわたはらだいち)の
北端、合代島(ごうだいじま)に
本陣を設置しました。
磐田原台地は天竜川を挟み、西側の
三方ヶ原台地と同時期に隆起運動で
形成された、洪積台地だそうです。
(下地図の④と③の間の緑色の部分です)
また並行して遠江北部の要
二俣城を包囲します。
下の地図の④が合代島、
⑧が二俣城、⑨が浜松城です。
(地図の番号をクリックすると出てきます)
ここから今回ブログで探訪した箇所のみ
地図を拡大し、番号を振り直します。
①合代島、亀井戸城
②神増坂
③社山城
④二俣城(地図で番号④が見えないかも、縮小願います)
※①と③の間には新東名の新磐田スマートICがあります。
①合代島
前回ブログの後、合代島に行ってきました。
なんか信玄が遠江に侵攻して大半をここで
指揮していた様なので、行かなくてはと、
心、迫られました(笑)
ただし信玄の本陣跡という史跡は無くて、
元々あった亀井戸城を含む周辺に陣を
展開していたという説の様です。
亀井戸城は磐田原台地の北端を
グーグルマップで拡大すると出てきます。
新東名高速道路の新磐田スマートICの
北西すぐです。
車道左手も城跡みたいですが、写真中央の
ブル-シートの通り、民家周辺の山が
崩れていて工事をしていたので
行きませんでした。
②神増坂
これだと、ただ行っただけなので、少し調べてみたら
磐田原台地、合代島の南に神増坂(かんぞざか)
があって、そこから天竜川、浜松方面が見える
様なので行ってきました。
神増坂入口に着いたので、台地西側から登ります。
展望台からは天竜川の西側、
浜松市全域が見えました。
合代島とそう遠くはなく、ほぼ信玄本陣から
見えた景色なのかな?と思います。
思ったより台地が高くて広く、
周辺に川、街道もありますので、
陣地としては良さげな気がしました。
③社山城
さて、ここまで来ると。。。
合代島と神増坂の間にある社山城を
素通りは出来ないですよね~。
って最近初めて知りましたが・・・。
築城、城主とかは不明点多い様ですが、
戦国期は戦略上重要拠点だった様です。
また信玄が西上作戦時、確実に
押さえていたはずです。
(合代島のすぐ南、台地内でもあり、
もしかしたら本人が居たかもです)
土橋を越えると、直ぐに現代の木橋が見えました。
真っすぐ本曲輪に行く前に、上写真右側の
横堀に向かいます。
ここで磐田原台地の散策を終わり、
昼飯に行きました。
④二俣城
さて、やっと二俣城に進みます。
10月14日一言坂にて徳川軍を
磐田原台地の拠点を支配下に収めた
武田軍は、台地北端の合代島に
本陣を設置し、
10月16日頃より二俣城を包囲しました。
(諸説ありますが、とりあえず)
ここで二俣城の地図を見ますと、
当時の二俣川の流路がポイントの様です。
<現在>中央少し下の「城山」が二俣城
(右上辺りから下側に流れてるのが二俣川)
<戦国期>薄赤丸が二俣城
⇒二俣城を囲んでくれている)
現在の二俣川の流路は江戸時代に
改変されたとの事です。
戦国期の二俣川は二俣城を北、東、南の
3方向囲んでて、西側の天竜川に繋がって
いました。(古地図もそうなってる)
二俣城と川の間には城下町があったと
思われますが、そこまで攻撃軍を駐屯
出来なかったのかもしれません。
(背水の陣になってしまうので、
夜襲されると危険かな?)
結局、鳥羽山城等、川の外側に攻撃側は
布陣することになり、
また攻城口も狭く、急坂だったと思うので
攻め難かったんでしょう。
信玄や家康といった戦国きっての名将も、
ほんとは早く落としたいのに、
二俣城攻城は包囲戦になってますねー。
ではお城に向かいます。
山の上に駐車場があります。
案内図右側のPが駐車場です。
南の丸から西側に降り、西の丸を経て
二俣城を降りると、
天竜川の堤防道を南方向に歩いて、
すぐ隣の鳥羽山城まで行きました。
・・・が、
鳥羽山城含めた後半の写真が全部
無くなってしまってました( ;∀;)
すいません、掲載できず_| ̄|○
鳥羽山城も城跡や、浜松方面が見える
展望台があるのでお勧めですよ~。
また、二俣城の北、すぐ近くには清瀧寺があります。
武田が二俣城攻撃時、
天竜川から水を汲む井戸櫓の柱に、
筏を流してぶつけて破壊した事で、
開城に追い込んだとの話があり、
ここにはその復元櫓があります。
もうひとつ二俣城は、家康が奪い返した後、
長男信康が武田への内通を信長に疑われ、
1979年に監禁、切腹した場所
でもあります。
信康のお墓がお寺にあるそうです。
・・・が入れなくて手を合わせられず、残念。
そして、水の手を絶たれた徳川二俣城守備隊は
12月19日降伏開城しました。
城主中根正照は浜松へ逃走出来ましたが、
期するところがあったでしょう。
3日後の三方ヶ原合戦で戦死します。
千数百の守備隊に対し、2万もの武田軍は、
10月18日攻城から、このお城1つ
落とすのに丸2か月かかりました。
入口に位置し、浜松への水路も確保できる
二俣城は、必ず落とさなければならなかった
・・・と共に、
以後の戦いに向け、鉄砲玉、矢、人員等の消耗を
抑えなければならなかった事が感じとれます。
ということで・・・。
今回はこれでお終いにします。
次回こそ西上作戦の締め、
三方ヶ原と野田城になるはず(@_@;)。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_