こんにちは、rekikakkunです。
信玄の西上作戦も今回で最後になります。
本当ですよー🙄
元亀3年(1572年)10月19日に
二俣城を落とした武田軍は10月22日、
進軍を開始しました。
下の、犀が崖(さいががけ)資料館の
進路地図を見ると、
二俣城から南方向に向かい、
浜松城に届く前に西に進路を向け、
三方ヶ原に入り、北西に進んでいます。
三方ヶ原台地を少し確認してみますと、
国土地理院の地図でざっくり図示してみますと、
・赤丸が二俣城
・青丸が浜松城
・緑色の囲んだ部分が三方ヶ原台地 です。
(ざっくりの範囲と思ってください)
浜松城は三方ヶ原台地の南東角付近に
築城されており、台地の高低差を
利用しているのが分かります。
地図の赤矢印が武田軍進路で、
矢印部分が台地を北に降りる道の一つで、
祝田(ほうだ)という場所になります。
家康は、武田軍が祝田の坂を降りる所を、
背後(南)から急襲する作戦でした。
①祝田の旧坂
祝田の坂の旧道が部分的に残ってます。
なんとなく合戦を感じるのに、
この祝田の旧坂に行きたかったです。
ただし特に駐車場があるわけではありません。
犀が崖資料館の方に、旧坂に行くために
駐車するなら、蜂前神社(はちさきじんじゃ)
が良いと教えてもらいました。
ここには先の大河ドラマで主役だった
井伊直虎の朱印状が残されてるそうです。
蜂前神社の前の道を東に歩いていくと、
すぐに国道257号線にぶつかりました。
南へ上がります。
ここのバス停の少し南に、入る道があります。
曲がってすぐに、祝田の旧坂入口が見えてきます。
来ました。
雰囲気ばっちりです(⌒∇⌒)
片道5分程の旧道でしたが、
雰囲気を感じることが出来ました(⌒∇⌒)。
武田軍は祝田の坂を降りる前に反転し、
三方ヶ原の台地上に陣を敷き、
待ち構えた状態で、徳川軍と
合戦となりました。
家康が狙っていた奇襲には
ならなかった様です。
三方ヶ原台地の国道257号線に
古戦場の碑があります。
この武田軍の侵攻図は
・山県昌景軍(黄色)は定説通り。
・信玄本隊(赤色)は駿河進路。
・別動隊(赤点滅)で高根城から犬居城
及びその南方の城攻略。
・秋山隊は別途有。
という4方面作戦って感じですねー。
そして下の拡大写真が三方ヶ原台地と
布陣図です。
③浜松城
合戦の経過は省略しますが、結果は皆さん
ご存じの通り、武田軍の圧勝となり、
徳川軍、家康は浜松城に撤退。
撤退場所は下写真の赤丸の上にある
玄黙口(城の北口)だったそうです。
家康はなんとか浜松城に入城しました。
夕方前の合戦開始だったこともあり、
武田軍は深追いを辞め、城北側方約1km
付近にある断崖、「犀が崖」(さいががけ)の
北側等に野営の陣を張りました。
そこを家康は夜襲するのです。
敗戦した日の夜に。
武田軍は暗闇の中、慌てふためき、
崖に転落する者が続出し、
家康は一矢報いたとの事です。
この崖には浜松市の資料館があり、
今回説明員の方が、色々と親切に
教えてくれました。
ありがとうございます_(._.)_。
④野田城
12月22日三方ヶ原合戦で勝利した武田軍は
浜名湖北東の刑部(おさかべ)に滞陣しました。
年が明け、元亀4年1月10日、
野田城を包囲します。
信玄が野田城内の笛の音を聞きに来た所を、
鉄砲で狙撃したという伝説があり、狙撃した
場所の看板がありました。
映画影武者の舞台を見れて感動😿
真偽のほどは別にいいよ~~(⌒∇⌒)
(狙撃された場所もある様です)
野田城は武田軍の包囲に耐えましたが、
水の手を絶たれ、2月15日に開城しました。
城主菅沼定盈は武田軍捕虜となります。
⇒ところが約1ケ月後の捕虜交換により
徳川方に帰還、長篠合戦での活躍等により
戦国時代を生き抜き、大名となりました。
Good jobです👌
さて信玄は、狙撃云々ありますが、
そもそもの病状が悪化し、
4月に入って信濃に撤退。
歴史が大きく変わった瞬間と思います。
<お城へぶらり1>から武田信玄の
西上作戦を取り上げて、とうとう7までに。
戦国時代に生き残る厳しさ、信玄の高い戦略
と家康の危機忍耐を感じることが出来ました。
7の途中まで、家康涙目の
連続だったのに、
最後あっけなく大ピンチ終了。
来年度の大河ドラマは家康か~、
昔やったじゃん?
と思ったのだけれど・・・、
この西上作戦だけでも、ほんと、
手の打ちようがなく厳しい家康!
ですよね~。
実際はそれ以外でも、危機の連続
ですし、キャストも凄い。
「どうする」を主眼に置いた家康、
面白そうです😊😊
以上で西上作戦編を終わります。
次回は大阪方面にぶらり行って
来ましたのでその辺りを。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_