こんにちは~、rekikakkunです。
関ヶ原シリーズ第3回目は、
前回に引続き松尾山城探訪、
その後半戦をご紹介致します。
前回は駐車場から主郭まで登り、関ケ原の
見事な眺望を見た後、主郭の南側へ行き、
馬出状の曲輪や土橋、竪堀等の遺構を見て、
遺構の下側から主郭方向へ戻ってきました。
ここから後半戦に移ります。
縄張図に写真番号を載せました。
後半戦は、下図中央少し左にある⑭からスタートです。
(番号順に進みます)
空堀の中を北方向に進むと、食い違い土塁が。
ここは土塁とか無く、平削地のみなので、
松尾山城の最初の主郭なのでは?
とも推定されている様です。
堀切の先の道が不明だったので引き返します。
以上で松尾山城探訪は終了です。
11:17駐車場を出発。
12:04主郭(山頂)に到着。(山頂まで47分)
13:47駐車場に戻りました。(往復2時間30分)
まあ~今回は、土の城に興味が無いと、
木と草しか映ってません
ってなっちゃいましたφ(* ̄0 ̄)
すいませんm(__)m
松尾山城って、元々の小さな山城に、駐屯出来る様に
簡易陣地が作られたと思ってました。
こんなに大きくて、防御施設があるお城だったとは、
訪れて初めて知りました。
松尾山に行ってみて、1万とも1万5千とも
言われる大軍が間違いなくここに居たんだと、
実感でき、思いを馳せることが出来ました。😊
(結果的に小早川軍にとって絶妙の位置でしたね)
彼らは朝起きたら(起こされたら)、眼下の関ケ原に
10万人以上が集結していたのを見たんですよねー。
げ、これは大合戦になるなと!
まあ夜中松明の火や音で動きは見えますよね。
東西両軍からひっきりなしに連絡が来てたでしょうし。
首脳陣の腹は既に決まってたのかも。
~ちょっと感じた事ですが~
(1)ここはとても一国人、小領主で守り切れる
規模ではないですね~。
数千人居ないとカバーできない広さを感じます。
あと、主郭が最後の守備エリアって感じがしなくて、
主郭周辺に駐屯する曲輪を配置してるって感じが
します。ただとても数日で出来る規模では無い。
(2)そして縄張図の②か⑧が攻城側に落とされると、
守備側が後方の曲輪に兵が沢山居たとしても、
奪え返す為の人数を一度に掛けられず、
主郭へ攻め込まれてしまう気がしたりして・・・。
(1)と(2)により大きな陣城って感じもしますが。
まあ小早川軍が大軍で駐屯して、関ケ原へ出撃する
のを知ってるので、その先入観があるのかも。
(3)さて、その小早川軍ですが・・・、
私的には、大谷軍へどのルートで山下りして
攻撃したのか知りたかったのですが、
全然分かりませんでした。
(大谷軍が居る山中に通じる道が分からない)
縄張図⑧の南側から下山すれば、
ぐるっと松尾山西側を回って中山道を通り、
最初の攻撃対象が大谷軍となります。
脇坂、朽木等はそれを見て寝返り出来ますね。
もし南北(縄張図⑧と①)一斉に下山したとなると、
多分北側の方が速そうなので、小早川軍は
大谷軍を攻撃する前に、寝返る前の
4将への攻撃が最初になっちゃいますよね~。
(布陣図では藤古川に対して松尾山側に居ますし)
それか北西方向(山中方面)等、
多数道があったのかな?
あと最後に、小早川軍の意思決定の中心を
担ったであろう家老稲葉正成と平岡頼勝
について少し調べてみます。
殿、東軍合力の御決心を、と必ず出てきますよね~)
~稲葉正成~
稲葉家に養子となりました。
関ケ原合戦後、秀秋と対立して蟄居、
小早川家断絶後浪人となりましたが、
彼の奥さんが春日局なのは有名ですね。
であり、また正成とは縁戚関係になります。
徳川家光の乳母になる時に離縁(沢山諸説があり)
しましたが、彼とお福の子正勝は大名となりました。
江戸中期に淀藩となり、幕末まで続きますが、
ことでも有名になりました。
でも結果乱世で生き残った力強さを感じます。
~平岡頼勝~
秀秋が小早川家の養子になった時、
稲葉正成と共に家老となりました。
関ケ原合戦時、黒田家を通じて
東軍寝返りを推進した様です。
秀秋に忠節を尽くすも、小早川家断絶後、
家康により大名に取り立てられました。
子孫は旗本として存続したとのことです。
この2人のほんとの心情、
知りたいですよね~。
生き残る為に、信じる道を真っすぐ
進んだのかもしれません。
ともあれ、決戦前日、家康と秀秋の着陣により
戦況は風雲急を告げることとなり、両軍が
決戦体制に移っていきます。
次回はその決戦当日、舞台は関ケ原中心部
での散策報告の予定です。
以上で松尾山城編を終わります。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m
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