歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<天下分け目の関ヶ原3>合戦前日、小早川秀秋 松尾山城に着陣(2/2)

こんにちは~、rekikakkunです。

 

関ヶ原シリーズ第3回目は、

前回に引続き松尾山城探訪、

その後半戦をご紹介致します。

 

前回は駐車場から主郭まで登り、関ケ原

見事な眺望を見た後、主郭の南側へ行き、

馬出状の曲輪や土橋、竪堀等の遺構を見て、

遺構の下側から主郭方向へ戻ってきました。

松尾山城縄張図と前回ブログで
探訪した場所①~⑬

【縄張図⑬】主郭の切岸(西側)

 

 ここから後半戦に移ります。

 縄張図に写真番号を載せました。

 後半戦は、下図中央少し左にある⑭からスタートです。

 (番号順に進みます)

縄張図と写真番号

 

【縄張図⑭】⑬からそのまま進むと谷底に来ました
(右側が主郭)

谷底は空堀の様です

空堀の南側を見る

空堀の西側を見ると、主郭と向い合せに、
高い切岸を介して曲輪があります
空堀の案内板にありました、西側の曲輪ですね~

空堀の北側

 空堀の中を北方向に進むと、食い違い土塁が。

【縄張図⑮】喰違い土塁

喰違い土塁説明板

少し上から、喰違い土塁を見る

空堀と西側曲輪の間。腰曲輪の感じ。
腰曲輪でこんなに広いのは大軍駐屯用かも

西側曲輪へ上がろうとしてますが、
この時道が分からず少し迷子気味

【縄張図⑯】なんとか西側曲輪に上がってきました

西側曲輪の北東に残っていた土塁跡

西側曲輪から空堀の南方向を見る
先程空堀から見上げましたが、上から見ても高いよー

【縄張図⑰】西側曲輪から南側の土塁と堀切を見る。
ここは急斜面の切岸と堀切、土塁等の
防御施設のコラボが圧巻でした😊

西側曲輪から空堀方向へ向かう虎口みたい

【縄張図⑱】ここから西側曲輪を降ります

先程の空堀が見えてきました
地形がはっきり残ってます

空堀を南下し、西側曲輪とその南側
にある曲輪の間に来ました。
この辺り畝傍土塁みたいな感じ

【縄張図⑲】西側曲輪と南側曲輪間の堀切

堀切の説明板

【縄張図⑳】堀切から西側曲輪を見る
先程上から圧巻と言った場所を見上げてます

堀切から西側曲輪の反対側、南側曲輪を見上げる

【縄張図㉑】道なのか分からない所を南側曲輪へ向かう

おっと、落ちたら危ないじゃないか
・・・と思って見てた空堀南側の谷

【縄張図㉒】南側曲輪に到着しました

 ここは土塁とか無く、平削地のみなので、

 松尾山城の最初の主郭なのでは?

 とも推定されている様です。

南側曲輪の南側に竪堀があるみたいなので進んでます。

【縄張図㉓】お、縄張図の通りに竪堀が2つ並んでますね~
(写真左手、手前と奥)

【縄張図㉔】反対側に大きい竪堀が一つあります

【縄張図㉕】南側曲輪の南方向の尾根。
縄張図を越えた様なので、ここで引き返します

【縄張図㉖】空堀を越え、主郭西側の腰曲輪に来ました

【縄張図㉗】主郭北の犬走(右側が主郭の切岸)

主郭の旗が見えてきました

主郭に戻ってきました

相変わらず綺麗な関ケ原

 

【縄張図②】登城時、尾根上に分岐点がありました。
主郭から降りて、東側の曲輪に進みます

【縄張図㉘】曲輪に土塁が残っています

【縄張図㉙】段階上に曲輪があり、左手に切岸も見えます

【縄張図㉚】東側曲輪の堀切に来ました

 堀切の先の道が不明だったので引き返します。

 

登山道に戻り、降ります

 以上で松尾山城探訪は終了です。

 11:17駐車場を出発。

 12:04主郭(山頂)に到着。(山頂まで47分)

 13:47駐車場に戻りました。(往復2時間30分)

 

 まあ~今回は、土の城に興味が無いと、

 木と草しか映ってません

 ってなっちゃいましたφ(* ̄0 ̄)

 すいませんm(__)m

 

 松尾山城って、元々の小さな山城に、駐屯出来る様に

 簡易陣地が作られたと思ってました。

 こんなに大きくて、防御施設があるお城だったとは、

 訪れて初めて知りました。

 

 松尾山に行ってみて、1万とも1万5千とも

 言われる大軍が間違いなくここに居たんだと、

 実感でき、思いを馳せることが出来ました。😊

 (結果的に小早川軍にとって絶妙の位置でしたね)

 

 彼らは朝起きたら(起こされたら)、眼下の関ケ原

 10万人以上が集結していたのを見たんですよねー。

 げ、これは大合戦になるなと!

 

 まあ夜中松明の火や音で動きは見えますよね。

 東西両軍からひっきりなしに連絡が来てたでしょうし。

 首脳陣の腹は既に決まってたのかも。

 

~ちょっと感じた事ですが~

(1)ここはとても一国人、小領主で守り切れる

   規模ではないですね~。

   数千人居ないとカバーできない広さを感じます。

 

   あと、主郭が最後の守備エリアって感じがしなくて、

   主郭周辺に駐屯する曲輪を配置してるって感じが

   します。ただとても数日で出来る規模では無い。

 

(2)そして縄張図の②か⑧が攻城側に落とされると、

   守備側が後方の曲輪に兵が沢山居たとしても、

   奪え返す為の人数を一度に掛けられず、

   主郭へ攻め込まれてしまう気がしたりして・・・。

 

  (1)と(2)により大きな陣城って感じもしますが。

   まあ小早川軍が大軍で駐屯して、関ケ原へ出撃する

   のを知ってるので、その先入観があるのかも。

 

(3)さて、その小早川軍ですが・・・、

   私的には、大谷軍へどのルートで山下りして

   攻撃したのか知りたかったのですが、

   全然分かりませんでした。

   (大谷軍が居る山中に通じる道が分からない)

 

   縄張図⑧の南側から下山すれば、

   ぐるっと松尾山西側を回って中山道を通り、

   最初の攻撃対象が大谷軍となります。

   脇坂、朽木等はそれを見て寝返り出来ますね。

 

   もし南北(縄張図⑧と①)一斉に下山したとなると、

   多分北側の方が速そうなので、小早川軍は

   大谷軍を攻撃する前に、寝返る前の

   4将への攻撃が最初になっちゃいますよね~。

   (布陣図では藤古川に対して松尾山側に居ますし)

  

   それか北西方向(山中方面)等、

   多数道があったのかな? 

 

 あと最後に、小早川軍の意思決定の中心を

 担ったであろう家老稲葉正成と平岡頼勝

 について少し調べてみます。

 (ドラマの関ケ原のシーンで小早川秀秋に寄り添い、

  殿、東軍合力の御決心を、と必ず出てきますよね~)

 

 稲葉正成

  正成は織田信長重臣林氏一族の出身で、

  稲葉家に養子となりました。

  関ケ原合戦後、秀秋と対立して蟄居、

  小早川家断絶後浪人となりましたが、

  彼の奥さんが春日局なのは有名ですね。

  父が斎藤利三、母が稲葉一鉄の娘という名門

  であり、また正成とは縁戚関係になります。

  徳川家光の乳母になる時に離縁(沢山諸説があり)

  しましたが、彼とお福の子正勝は大名となりました。

  江戸中期に淀藩となり、幕末まで続きますが、

  鳥羽伏見の戦い留守居城代が徳川家を裏切った

  ことでも有名になりました。

  でも結果乱世で生き残った力強さを感じます。

  

~平岡頼勝~

 秀秋が小早川家の養子になった時、

 稲葉正成と共に家老となりました。

 正室黒田官兵衛の姪であることから、

 関ケ原合戦時、黒田家を通じて

 東軍寝返りを推進した様です。

 秀秋に忠節を尽くすも、小早川家断絶後、

 家康により大名に取り立てられました。

 子孫は旗本として存続したとのことです。

 

 この2人のほんとの心情、

 知りたいですよね~。

 生き残る為に、信じる道を真っすぐ

 進んだのかもしれません。 

 

 ともあれ、決戦前日、家康と秀秋の着陣により

 戦況は風雲急を告げることとなり、両軍が

 決戦体制に移っていきます。

 

 次回はその決戦当日、舞台は関ケ原中心部

 での散策報告の予定です。

 

 以上で松尾山城編を終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

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