歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<天下分け目の関ヶ原4>いざ、決戦の地 関ケ原探訪(1/2)

こんにちは~、rekikakkunです。

 

関ヶ原シリーズ第4回目となりました。

いよいよ、関ケ原へと向かいます。

 

合戦前日1600年9月14日の情勢を

簡単に下の地図で表してみます。

 (③と④の城はほぼ残ってないので近くのもので代用)

 

 ①大垣城(西軍)

 ②岐阜城(落城し東軍)

 ③竹ヶ鼻城(落城し東軍)

 ④福束城、及び周辺の駒野城等(落城し東軍)

 ⑤徳川家康本軍の美濃赤坂着陣

 ⑥菩提山城(東軍に寝返り)

 ⑦松尾山城(小早川秀秋軍が、

   西軍守備隊を追い出して占拠)

 ⑧佐和山城(西軍三成本拠)

 

濃尾平野の大半を東軍に落とされ、

9月14日、⑤に家康本軍、

⑦に小早川秀秋の大軍勢が着陣した事により、

西軍主力の拠点大垣城は、一挙に四方を有力な

敵に囲われた形勢になってしまいました。

⇒ちょっと色分け等出来ずすいません。

 西軍は地図の①大垣城と⑧佐和山城のみ。

 (牽制も出来ない毛利軍等は無いに等しい)

 

こうなると、⑦松尾山城の小早川軍、

1から1.5万人がとてつもなく

重要になってしまった事が見えますよね~。

(少なくとも⑦が東軍なら、西軍は完全に詰みに見えます)

 

東軍につきたい小早川は絶妙のタイミングで、

両軍境目の位置取りが出来ました。

19歳の秀秋は認識してたのかな~🙄

私はこの地図作ってみて分かりました(笑)

 

前回で終えるつもりだった決戦前日の話が

しら~と長くなってしまった(~ ̄▽ ̄)~

 

話を決戦当日に移します。

 

~両軍関ヶ原へ進軍~

 

 西軍は14日未明に大垣城を出発し南宮山南麓を通過。

 東軍も15日に入り夜の内に赤坂岡山陣地を出発し、

 南宮山北麓を進みました。

 

 この下写真は自然風景や進路はほぼ合ってると

 思いますが、実際は夜、暗いうちに進軍です。

東軍本陣(赤坂岡山)から東西両軍の進路を見る

 いよいよ両軍が南宮山の脇を越え、

 関ケ原盆地へと集結してきました。

 

関ケ原布陣(石田三成、笹尾山)~

 まずは、やっぱり笹尾山ですよね~。

笹尾山、石田三成

笹尾山から関ケ原盆地(東軍側)を見る
関ケ原盆地 東側~中央)

笹尾山から西軍陣地を見る(中央~西側)

笹尾山にある史跡位置、布陣図

 

西軍陣地拡大(案内地図)

西軍陣地拡大

 笹尾山から関ケ原盆地、松尾山は一望出来ますね。

 

 大谷軍も右側の山の裏の方で見えなかったかと。

 

 宇喜多軍が角度の関係で薄く見えてしまうが、

 最大戦力なので、多分小西軍と共に真ん中の

 見えてる平地全体に充満していたと思います。

 

東軍陣地案内図

笹尾山へ迫ってくる東軍
(黒田、細川等の北国街道方面軍)

 見ての通り、笹尾山はそんなに大きくないですよね~。

 でも、なんか東軍の半分位が石田隊1つに

 襲い掛かっている感じで、だいぶ怖い。>"< 

 

 多分上写真の黄色矢印部は開戦時石田隊が配置

 していたと思いました。

 と言うのも行ってみると、黄色矢印部は東軍布陣の

 赤丸部よりも高い位置だったので。

 そして小山だけで守り切れる規模では無いですし。

 

笹尾山の展望台を後ろから見る

 

折角なので裏から降りる
(三成が撤退した道かも、なんて想いながら)

笹尾山裏側の山道
何か遺構が無いかな~?、何にも分からない😂

 

 ぐるっと国道365号線(北国街道)に出て、

 戻ってきました。

笹尾山正面に戻ってきました

 北国街道は、関ケ原の場合、北国脇往還道かな?

 小谷城の前も北国脇往還道でした。

 木之本で北国街道と合流するイメージです。

 本投稿では現地の表記されてる北国街道とします。

 

笹尾山の手前から南宮山方面(東軍、南東方向)を見る
(車に積んである折り畳み自転車)

笹尾山手前から島津陣地方面(南方向)を見る

 上の写真2枚共、中央の家並が手前より低いのが

 分かりますよね~。

 下がってる。

 

 さて、笹尾山の駐車場に車を駐車して、

 自転車で西軍陣地をぐるっと探訪してみます。

 

関ケ原布陣(島津義弘、陣所跡、薩摩池等)~

 次は石田隊の隣、島津義弘の陣跡になります。

グーグルマップに載ってる島津義弘陣跡

 拡大すると、

「小池島津義弘陣所跡」と書いてあります

 案内板を見てみますと、

島津義弘陣跡案内板

 上の案内板は撤退の話以外は、

 北国街道をおさえるため、

 小池村に陣をかまえたとだけ書いてます。

 

島津義弘陣跡 説明板

 この新しい上の説明板では、

 島津義弘隊1,500名は、この地から250m北西の

 薩摩池付近に陣をかまえた と書いてます。

 目的は石田隊の側面と北国街道の守備。

 ただし、自ら攻撃はせず、東西両軍にかかわらず

 打ち払う姿勢をとった。

 後は、三成の使者への塩対応と撤退の話。

 

 とここまで写真を貼り付けましたが、

 謎が多いんですよね~(⊙_⊙)?

 個人的に分からないだけなんですが。

 

 謎①

 まずここの小池島津義弘陣所跡の場所は、

 もしここに島津軍が布陣してたとすれば、

 先手の陣跡(島津豊久隊等)と思います。

 意図的に開戦時の布陣図を掲示してない感じ?

 この碑だと混乱してしまう。

 

 謎②

 島津軍はたった1,500人しか居なかったのに、

 何故本隊と250mも離れたこの場所に

 別動隊(先手)を配置したのか?

 

 謎③

 この場所は、はっきり言って西軍の最前線、

 少なくとも北国街道を進む東軍とは一番近い。

 しかも梨木川を背後にして、東軍側に配置。

 隣の小西行長本陣は梨木川の西側に布陣となっている。

 なのに本戦中、東軍が島津軍を攻撃した話があまりない。

 

 と言うことで、もう一つの島津本陣と言われる

 薩摩池を確認してみます。

島津義弘陣跡の西側を撮影。
中央左は北天満山(写真左側に小西軍)

 上の写真の道を西へ進むと、分岐点に

 方向案内板がありました。

史跡方向案内板
写真右手の山が北天満山でこの道を
進むと小西行長の陣になります

 しかし、案内板には薩摩池の表示がありません( ;∀;)

 通りがかりの現地の方にも知らないと言われ、

 薩摩池に行きそびれてしまいました。

 マップをしっかり見れば行けたので、失敗です🤣

 

 ただし方向案内板から撮影した写真に載っていました。

 ざっくり上の写真の反対方向となります。

 帰ってから確認出来たので、位置関係を追記します。

史跡方向案内板から薩摩池を見る
(見えてる民家の間に北国街道の路地があるので、
歴史好きの方には面白いかも)

 

黄色〇印の位置が薩摩池
(写真左側が東方向で、東軍側)

 

 書物を見ると、島津軍は二番備え(後方)だった様です。

 (つまり開戦時、敵と接触する位置では無い)

 

 そして、現地及び上写真を見ると、薩摩池が

 島津義弘本隊なら、後方に陣取ったと言えそうです。

 

 また仮に上写真の、青丸島津義弘の位置に

 先方の島津豊久、薩摩池が島津義弘本軍ですと、

 少人数なのに離れすぎ。分断されちゃう。

 

 なので現時点での私見では、島津軍は薩摩池付近のみに

 布陣していたと考えます。

 (新しい説明板で、1,500名が薩摩池付近に布陣した

  という意味はそういうことかも)

 もっと言うと薩摩池付近が先方島津豊久隊で、

 義弘本隊はその後方って気もします。

 

 下の開戦時の史跡位置図でも写真左下の開戦地に対して、

 東軍寄りに島津義弘と書いてますが、開戦時に

 ここに陣取ってたら、東軍に飲み込まれてると思う。

 

 ただ軍勢は点では無いですから、各軍の配置のエリアと

 実際の両軍が遭遇した位置が知りたいところですよね~。

関ケ原古戦場 史跡位置図

 

 今回は色々と疑問点を書きましたが、

 見識不足はご容赦下さいね。

 新しい説明板を改めて見ると、この辺りの疑問点は

 承知済みだよっていう内容の感じがします(笑)。

 

 次はそのまたお隣の小西行長隊の陣跡等になりますが、

 次回にしたいと思います。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m