歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<大阪府と周辺 歴史探訪5> 宇陀松山城 探訪

こんにちは-、rekikakkunです。

 

 前回の大阪探訪3日目は

 真田丸空堀四天王寺等を散策しました。

 

 1日中の街歩きは足が棒になるよね~( ;∀;)

 

 なので今回4日目は電車で天王寺から

 奈良県の宇陀松山城に行くことにしました。

 (遠いからこそ電車とバスを駆使して、

  足を使わなくてよい作戦👍)

 

 確か大坂夏の陣で大和路から来た徳川軍と

 大阪方の後藤又兵衛軍が激突した道明寺合戦は

 生駒山系と二上山の間付近でしたよね~。

 

 ここを電車で通って、河内と大和との国境の

 雰囲気をさくっとでも感じたかったです。

 下のマップでは③のところです。 

 

 では、天王寺から宇陀松山城への

 経路をマップで示します。

 電車は環状線近鉄大阪線で、

 天王寺駅から城最寄りの奈良県榛原駅まで行きます。

 1年前に奈良探訪をしたので少しイメージがありました。

 (奈良高取城から、大阪あべのハルカスが見えました。

  ほぼ見えてたところを横切る感じ。)

(参考)高取城から撮影。手前奈良盆地の南側、
及び奥に二上山生駒山

上の写真中央を拡大すると見えてくる

 

~地図の番号~

 ①大阪城(参考)、②天王寺駅(出発駅)、

 ③小松山古戦場跡(近くを電車が通った、国境)

 ④大和八木駅(通過駅、1年前4泊したところ)

 ⑤榛原駅(到着駅⇒ここからバス)、⑥宇陀松山城

 ⑦高取城(参考)

  ⇒⑦→③→②が一直線になってるのが

   地図上で分かりますよね~(⌒∇⌒)   

 

 また、今回訪問する宇陀松山城は、調べてみると

 関ケ原合戦の功績で福島正則の弟高晴に与えられ、

 大坂夏の陣で豊臣家消滅直後、彼が大阪方に通じた嫌疑で

 没収改易されて、破却された城でもありました。

 しかもその後に入府したのが信長の子、織田信雄

 ・・・となかなかシブい流れです。

 

 そして奈良県有数の山城遺構の名所とのこと。

 

 気が付くと・・・。

 最初の「足が棒」のところから、上記の「名所」まで、

 奈良県に行くことに至った背景を

 うだうだ書いてました(-_-;)。

 堺や芥川山城、千早城で悩んでました(*_*;

 

スーパーホテル朝食
(あまり意味ありません。この日最初の写真だったので)

 

~②天王寺から⑤榛原駅へ~

 さて、出発します。

 下2枚の写真は近鉄大阪線で、

 地図の②から③に向かっている車窓写真です。

生駒山系の南端を見てる感じ
(写真左側が信貴山の方向ですねー)

大和川二上山
(写真右手が小松山等の道明寺合戦地)

 

地図④付近の藤原京(手前)と耳成山(奥正面)
(この間を電車で通過しました。また行きたい(*ノωノ))

 

 奈良県の榛原駅に近づいてきました。

 山間部になってきます。

榛原駅到着前の北側風景
(頭が都会モードからのんびりモードに!)

 8:44JR天王寺発、鶴橋駅で乗り換えて

 9:46榛原駅着です。

 (鶴橋駅の乗り換えでは切符のやり方が分からず、

  人の流れを止め、駅員さんに怒られる(*_*;)

地図⑤ 榛原駅南口到着。ここからバスに乗ります。
(のんびりキップ売り場に行ったら、おばちゃんが今バスが
来たからキップ買わずに乗っちゃって~、と追い出される(*_*;)
親切心です、おばちゃんありがとう(⌒∇⌒)

宇陀市観光案内板
(榛原駅は有名な長谷寺の1つ東の駅です。)

~⑤榛原駅から⑥宇陀松山城入口へ~

 榛原駅からはバスで城最寄りの停留所である、

 道の駅大宇陀まで向かいます。

バスの車窓

バスの車窓2
(別世界の風景に、のんびりモードがMAXに(;^_^A
宇陀川沿いに南へ進んでます)

バスの停留所 道の駅 宇陀路大宇陀に到着

道の駅のお店

 山城、最後お店無かったあるあるなので、

 お店見つけたら食べとく。

 ついでというには美味しかった肉うどん👍。

肉うどん900円

 道の駅から歩いて出発。

道の駅の真正面の道を登ります(この写真は振り返ってます)

 

最初舗装された道を登っていきます

~⑥宇陀松山城散策~

 舗装道路を進むと、すぐに看板が見えてきました。

看板が見えてきました
(後で見ると、ここは駐車場みたい)

看板拡大

もう少し進むと、分かり易い縄張図が掲示されてました

 

山道に入りました

 

山道の右下に竪堀跡かな?
(縄張図の現在地赤丸の脇。登りでは知らずに通過してました。
下山時に出会った先生に教えてもらい、見つけた感が👍)

 そして山道になってすぐ、虎口(入口)前に

 大きな横堀がありました。

横堀1

横堀2 なかなか迫力あり

 

南西部の虎口

虎口案内板

 

虎口内で左に90°曲がった道。

石垣、突き当たって右に曲がる
ここも虎口。桝形虎口が連続しています。

 

右に90°曲がった後の階段

先程の虎口道を見る

上から見たくねくね登城道


 周辺が見えてきました。

 標高473mですが麓との比高は130m位だそうです。

本丸に入る前の眺望
背景の山並みから、だいぶ高い所だったと気づく。

本丸手前の曲輪と西側眺望

 そして、本丸に到着しましたが、ここまで鬱蒼な山道は

 全く無くて、綺麗に整備されていました。

本丸に到着

本丸奥にある天守曲輪入口

天守曲輪の案内板

天守曲輪

 虎口から本丸まで凄く整備されていました。

 というか山城で虎口から本丸まで、木で隠れずに

 整備されてるのは、なかなか少ないかも。

 

 そして、ここからです。

 本丸と天守曲輪からの眺望が半端なく凄くて、

 全360°見渡せました。

 (東西南北の表記は多少ズレあるかもですが、

  おおよそ合ってると思います)

南側眺望1

南側眺望2 拡大

 

南東側眺望1

南東側眺望2 拡大

本丸の南切岸と帯曲輪
(後で本丸南側に降りようと撮影してたが、
その後の眺望に見惚れて忘れてしまった_| ̄|○

東側眺望1
手前が大御殿曲輪

東側眺望2

北東側眺望1

北東側眺望2 拡大

北側眺望1

北側眺望2

北側眺望3

 大満足で下山しました。

 下山途中、宇陀松山城の講演をする先生とお会いました。

 ご自身で調査し、縄張図を作ってるとのことでした。

 縄張図を拝見させて頂きましたが、

 とても分かり易かったです。

 

 さて降ります。

下りは途中で違う道から降ります
この道は山道になります
・・・が、この道が当時の登城道と思います

 

山道を下る(写真は振り返り)

春日神社に到着

春日神社案内板
(当時の登城路だったとのことです)

春日神社を出て降りる

~宇陀松山の城下町~

城下町、松山地区案内図

 

春日門跡
春日神社の入口で、かつて門櫓があった当時の石垣)

松山西口関門
松山城で唯一現存する当時の遺構、福島時代と比定)

西口関門案内板(字が薄いですが)

西口関門脇の宇陀川

城下町の風情残る道(保存地区)

 奈良県の宇陀松山城探訪は以上となります。

 道の駅から近く、眺望は360°、本丸以外も

 整備されていて、とてもお奨めです。

 

 その後天王寺に戻り、天王寺七坂を

 少し見て回りましたが次回にします。

 

 鶴橋駅では朝失敗した乗り換改札での切符を、

 帰りは一発で決めて得意げな顔で通過して

 行ったのは言うまでもありません(@_@;)

 

 そして大阪最後の夜、

 あべのハルカスのレストランへ再チェレンジ。

 奥の方に行ってエレベーターありました。

 夜、レストラン街への人の流れがが少ないんだよね~。

あべのハルカスのレストラン街でしゃぶしゃぶ
(ここでクーポン使い切らないと、というあせりも。
以前お話ししましたがクーポンに振り回されるの巻です。)

 

 次回は最終日、いよいよ大阪城です。

 快晴で良い写真が撮れましたよ~(⌒∇⌒) 

大阪城 現在の南外堀と六番櫓

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_










  




















 

 

 

 

 

 

 

<大阪府と周辺 歴史探訪5> 戦国終焉(2/2)大坂夏の陣と天王寺 散策 

こんにちは-、rekikakkunです。

 

 前回は大坂冬の陣を主眼として、真田丸、外堀、上町台地等、

 豊臣方の防御構造、奮戦の痕跡を散策してみました。

 

 今回はその翌年に起こった、戦国最後の戦いとなる

 大坂夏の陣の痕跡を、天王寺周辺で探訪します。 

 

 ちなみに、すいません、

 前投稿が夏になってたので、しら~と冬に修正しました(-_-;)

 自信もって間違えてましたよ~(;´д`)トホホ

 

 さて、豊臣方の士気が上がった真田丸での大勝利・・・、

 しかし流石、家康の作戦は深かった様です。

 

 淀川等の河川が密集し、最も防備が堅いはずの

 大阪城北側、淀川備前島等に大砲を設置し、

 直接大阪城本丸、天守を砲撃しました。

(参考)備前島跡地付近(城北側)から見た大阪城天守閣

 その他心理戦等を駆使し、堀を埋める条件付きの和睦が成立。

 

 大阪城は丸裸の状態で

   1615年、大坂夏の陣へと至ります。

 

 5月6日道明寺、八尾若江の戦いで大阪方が敗退後、

 翌5月7日、大阪方は戦線を天王寺周辺に定め、

 天王寺口の戦いとなりました。

 事実上決着がつく最後の決戦となります。

 

 ・・・と前置きをさらっと流して、

 天王寺へと駒を進めます。

 

四天王寺

 前回のブログで真田丸空堀堀商店街に行った後、

 そのまま四天王寺に向かいました。

 

 夏の陣で大阪方の毛利勝永隊が布陣したところでした。

 

 そして、なにより推古天皇時代建立、

 聖徳太子ゆかりのお寺、由緒凄い所ですよね。

西側から四天王寺に入りました

  そして久々に見た外国人家族と一緒に

  入場手続きをして入ると・・・

  お、これは素晴らしい👍

四天王寺 金堂と五重塔

四天王寺 回廊内

四天王寺 五重塔と金堂

回廊内散策が終わる頃、一緒に入った
外国人家族も戻ってきました

 真っ青な空と五重塔

 ちょっと綺麗過ぎでした(⌒∇⌒)

 

②大阪の陣史跡散歩案内所

 次は四天王寺から茶臼山に向かいます。

 

 茶臼山の北入口から入園しようとした際、

 すぐ近くに「大坂の陣史跡散歩案内」という看板の

 案内所がありましたので、入ってみました。

大坂の陣史跡散歩案内所

大坂の陣 真田丸コースの案内図

大坂の陣 茶臼山本陣コースの案内図

 上記の地図やパンフレット、大阪の陣スクリーン上映、

 トイレ、自販機もあります。

 

 上の地図の中央部分に有名どころとして、

 茶臼山真田幸村四天王寺毛利勝永

 の布陣が見えます。

 

 う、案内所行ってから四天王寺行けば

 もっと布陣のイメージが出来たかも。。。

 

安居神社

 案内所を出て、茶臼山に入る前に、

 反転北進して安居神社に行きました。

 真田幸村最後の地です。

安居神社入口
(国道25号線沿い)

脇道を入る

 

安居神社

真田幸村の像及び戦死の碑

安居神社正面、
この階段に座っていたイメージですよね~
じーーと見てました(;^_^A

 順番的には茶臼山から安居神社だったのでしょうが、

 兎にも角にも戦国最後の名将最後の地、

 みんな好きな武将ですよね~、冥福を祈りました。

 

④一心寺

 安居神社から茶臼山に向かう途中に

 一心寺という大きな寺院がありました。

 (ちょっと行ったり来たりしてます)

一心寺本堂

 ところが、何も下調べして無かったので、

 境内を廻って人が多いな~とすぐ出てしまいました。

 

 ・・・実は天王寺合戦で毛利勝永隊と戦って戦死した

 本多忠朝のお墓があったり、先程の案内所の開設や

 茶臼山記念碑を寄贈、合戦の資料を作成したりと、

 大坂の陣の保存展開に力を注いで下さってました。

 

 私も案内図大変参考になりましたm(__)m 

茶臼山

 さて、いよいよ冬の陣では家康、夏の陣では真田幸村

 布陣した茶臼山の公園に入ります。

茶臼山天王寺公園)北入口

 

茶臼山記念碑(一心寺さんが寄贈したとのことです)

奥へ入っていくと布陣図が、ちょっと色あせてるが・・・

茶臼山に登ってきました、が外は見えない

茶臼山山頂

茶臼山山頂 やっぱり見えない

 ただちょっと疑問が、

 幸村が茶臼山本陣から、突撃を重ね、数万の敵を相手に

 衆寡敵せず、一人さまよって命を落とす安居神社までは、

 ここから約200m程。

 平(たいら)ではないが、ゆっくり走っても3分位の所。

 ちょっと近過ぎない?

 と実際行ってみて感じました。

北側から入ったので南側に降ります

おっとアベノハルカスと池と橋

橋の南側から茶臼山を撮る

茶臼山通天閣

天王寺合戦の両軍の境の名残、右手に堀越神社

 上の写真は、谷町筋から天王寺駅(南)方向を見てます。

 写真真ん中付近で直行している東西の道のへこみが、

 合戦当時人工水路で両軍の境だったと説明がありました。 

 

 とにかく大阪はへこみ道が多いですよね~。

夜、そのへこみを南進してからのアベノハルカス
(道が上がってます、この先が天王寺駅

天王寺の夜

天王寺の夜(ハワイみたい)

 

 折角なのでアベノハルカスで夕食をしようと

 目の前に行きましたが、、、ん(・・?

 何と、入口が分からず( ;∀;)

 エレベーターどこだ⁈

 

 とも聞けず、

 天王寺駅地下街でとんかつを食べました。(-_-;)

夕食(とんかつ屋、一人男性客が入り易いですよね~)

 

 以上で天王寺編を終わります。

 

 流石に天王寺は繁華街、目と頭の中で史跡や

 幸村のイメージ作りがなかなか難しかったです。

 茶臼山から下を見下ろせなかったりして・・・、

 上手に廻れてない感じですねー。( ;∀;) 

 

 とは言え、名将たちが集い、

 戦国最後の大野戦の史跡、

 なんとかこのまま残してほしいです~。

 

 本投稿の場所です。

 ①四天王寺、②大坂の陣史跡散歩案内、

 ③安居神社、④一心寺、⑤茶臼山   

  (地図を縮小して頂くと天王寺駅との位置関係が見えます)         

 

 

 夜、とんかつを食べながら・・・、

 翌日はどこ行こうかつらつら考えた結果、

 奈良県の宇陀松山城となりました。

 (大坂の陣にも少し関係がありました)

   なかなかシブくて味がある処でしたよー。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_











 

 

<大阪府と周辺 歴史探訪4> 戦国終焉(1/2)大坂冬の陣 真田丸と大阪城外堀 探訪

こんにちは-、rekikakkunです。

昨年はお付き合いありがとうございました。_(._.)_

今年も宜しくお願い致します。

 

 さて、大坂歴史探訪は3日目になりました。

 朝、ホテルをチェックアウトして、

 電車で本町駅から天王寺駅まで来ました。  

天王寺駅地下通路を北に進み上がる

 そのまま谷町筋を北へ進むと、

 天王寺スーパーホテルに到着。 

天王寺スーパーホテル

 3,4日目はスーパーホテル大阪天王寺に宿泊です。

 そう、

 1,2日目もスーパーホテル、大阪本町駅前でした(笑)

 

 ホテルに荷物を預け、環状線天王寺から玉造駅まで。

 

 向かうは、、、念願の真田丸👍

 歴史に全く興味がない我が息子が、

 真田丸大河ドラマ)だけは一緒に見てました。

 

 しかし私のイメージは昔放映の真田太平記

 草刈正雄の幸村です。(昌幸役も良かった)

 真田丸の戦い前夜の幸村、15年も待ち続け、

 蓄積された気合、かっこよかった!

 今時マニアックすぎるか(*_*;

 

 と言いつつも、

 大阪に来る前に真田太平記を全部見ておいて、

 イメトレOK👍

 

 では今回は、真田丸の戦いで有名な

 大坂冬の陣の痕跡を求めて探訪してみます。

 

1.真田丸

 大阪環状線の玉造駅を出て、早速スマホのマップで

 確認しながら、西方向に進むと・・・、

 

 三光神社の北側に来ました。

三光神社
(左手が神社、ちょっと高台になってる)

三光神社前の案内拡大

三光神社北側入口

<マップ①>三光神社境内

 三光神社にある真田の抜け穴、忘れましたm(__)m

 

 そして三光神社北側の道を西方向に進み、

 ふと北側を見ると、道が下がって上がってるのが

 見えました。

 あまりこんな道見たことありません。

 外堀の位置っぽいですよねー? 

空堀の名残かな?

 そして、来ました(⌒∇⌒)。

 テレビや下調べで見たことがある

 真田丸で有名な場所。

 ちょっと武者震いがして感動(@_@;) 

 

 玉造駅から真田丸までの地図を載せます。

 上の二本線は外堀を表してます。

  ①三光神社、②どんどろ大師真田丸の出丸)③心眼坂

  ④真田丸顕彰碑、⑤出丸跡の碑(心眼寺)  

 

 ちょっと調べてみると、真田丸の規模は

 ざっくり、下記1~3の3つの説が見れます。

  (説1)②~⑤がある坂が真田丸空堀とも言われていて、

      この堀の左側のみ(ほぼ名星学園の大きさ)の説。

  (説2)説1+心眼寺等の西側のお寺までを含めた説。

  (説3)地図①の三光神社まで含まれる説

 

 とりあえず、私は(説1)で進めますが、

 他の説も否定しません。

 知識が薄いので(-_-;)

 

 下の案内図は三光神社も含めた(説3)です。

大坂の陣史跡散歩案内所の散策マップ  真田丸と外堀 

 上の図は外堀が非常に分かり易いです。

 ただ、この地図に書かれている真田丸が東西180m

 という説明ですと、三光神社を含めた上の地図では

 2倍となってしまい、矛盾してる感じです。 

 古地図も色々ある様ですね~。

 

<マップ②>真田丸で見覚えのある場所に来ました(⌒∇⌒)
真田丸を北東側から南西方向を見てます

 そして、上写真の正面が真田丸跡地と言われています。

 (どの説でも真田丸の位置とされている様です)

 

 明らかに高台になってますよね~、

 写真右手の大阪城方向には空堀等で

 低くなっているとの事なので合致してます。

 この道を上がります。 

真田丸東面を南方向に進む
(正面が大阪明星学園真田丸比定地)

 

<マップ③>登って来た坂を振り返る
(左手が真田丸、右手がお寺)

明らかに登ってます
(写真で下った先が秀吉時代の大阪城外堀です)

 

 この坂道は真田丸の東側で心眼寺坂と

 言われています。

 ざっくりですが、上の写真は

 現地に掲載されていた下の地図で見ると、

 緑色の心眼寺坂の上側半分位となります。 

真田丸及び写真の位置
(この古地図ですと、赤丸で隠れてしまいましたが
学園部分(赤丸部分)に真田丸と記載されてます)

 

 視点を元に戻し、心眼寺坂(上地図の緑色の道)

 を登ります。

 右手には真田丸比定地(中心地)である

 明星学園があります。

真田丸比定地(道の右側)

 学校の正面には真田の顕彰碑がありました。

<マップ④>真田丸顕彰碑

 

 そして坂を挟んで真田丸と反対側(東側)は

 お寺が並んでおり、古地図でも記載されています。

 

 その中の心眼寺は、1622年真田父子の菩提を弔うために

 建立されたそうです。

<マップ⑤>心眼寺正面

心眼寺正面拡大

 入ると幸村のお墓がありました。

心眼寺真田幸村のお墓

 

 心眼寺の正面を見ると、

心眼寺から正面の真田丸跡(学園グランド)を見る。
グランドの先のビル群の下側がグランドに隠れていて、
特にグランド左側(真田丸が)高い位置である事が分かる

心眼時坂を南方向に登りきる

心眼坂を登って東西方向に交差する道の東側
(道が下がっている⇒真田丸が一番高い)

 

西へ向かう、右が明星学園の南面
(平な道全体が真田丸の南面、徳川方は写真の左側)

 

 下の写真、真田丸から南正面を写しています。

 南から徳川軍が真田丸に取り付き、攻撃。

 これを真田軍が撃退。

 この辺りが、まさに激戦地だったのかな~?

真田丸(学校)の南端の道から、南側(徳川軍方面)を見る
(南側も下っている⇒真田丸が高い)

 

明星学園の西南角から北(大阪城方向)を見る
心眼寺坂と同様下っている、写真右手が明星学園

 

 以上、真田丸でしたが、、大阪城真田丸の間には、

 総構えの外堀(崖地形だったのかも)があり、

 現在でも低くなってました。

 そして東面と南面も真田丸より低くなっており、

 真田丸の立地がイメージできました。

 

 ただ、真田丸三光神社の丘陵をも含まれて

 いたのかは分かりません。

 また心眼寺等のお寺が真田丸内だったのかも

 ちと?です。

 そもそもお寺群が1615年の時あったのか?等

 

 でも真田丸

 ここで激戦があったのは間違いないですよねー。

 痕跡は充分感じることが出来て感激でした(⌒∇⌒)

 

 

2.空堀商店街
 さて、真田丸明星学園)の次は空堀(外堀、総構え)

 を見に行きます。

 Youtubeの歴史物で、空堀商店街があることが

 分かりました。

 

 地図で確認すると、真田丸から西の方向、

 歩いて行けそうな距離です。

  ①真田丸

  ②空堀商店街(もっと東から商店街になってます)

  ③田島北ふれあい広場

  (プラタモリでも紹介され、空堀の痕跡といわれている)

  ※超ざっくりは、①から②③を結ぶ線が外堀の南面です。

 

 そもそも真田丸の北側は大阪城の南面であり、

 南面の外堀が東西方向に延びてました。

 その痕跡の一部が商店街になっている様です。


 真田丸の南面から西方向に100m程進むと・・・、

 早速、道が下がって上がっている・・・w

外堀の痕跡かな?

 丁度真田丸の西側から外堀は斜めに南西側に傾いており、

 位置的にピッタリ感アリアリ👍

 

 ここから上町筋まで歩くと、

 空堀ど~り商店街が見えてきました。

空堀ど~り商店街 上町筋からの入口

 

 時間はちょうど12:00。

 商店街を西に進みながら全国割りのクーポンが使える

 お店を検索した所、すぐ近くにレストランがありました。

右手のキッチントウレンタで昼食しました
(正面の道は空堀ど~り商店街)

昼食のカルボナーラセット、美味しかったです。

空堀ど~り(谷町筋と上町筋の間)の北側の坂道

 ただし、空堀ど~り商店街の東側半分はアーケ-ドが

 無くて、ここの外堀は商店街の南側にあった模様。

 写真は無いが、南側を見ると確かに道は下ってました。

 しかしこの上の写真は商店街の北側(城の中側)ですので、

 何で下がってるのか全然分かりません。

 誰か教えて~

 

 そして、西に進んで谷町筋に来ました。

 ここからは空堀商店街になってます。

谷町筋から商店街への入口
(正確には「はいからほり」の入口、
途中から「空堀商店街」に変わる模様)

 

 ・・・と思ったら、

 何か微妙に名前が違うな~、と

 ここを書いてる最中に、念のため確認してみると、

 大分感違いしてました🤣。

 

 空堀商店街っていうのは3つの組合に

 分かれていて・・・、

 

 ①最初の上町筋から谷町筋までを、

  「空堀ど~り(空堀通)商店街」。

 ②谷町筋から西方向の三角屋根のアーケード部が

  「はいからほり」。

 ③上記から更に西へアーチ状になってる部分が

  「空堀商店街」。

 

 だそうです。

 だから入口に「はいからほり」と「空堀商店街」

 の2つが表示されていたのか~~~。

 それを知ってから行くべきでした。

 

 まあ、もう行ってしまったので(笑)

 「はいからほり」の商店街を進みます。

「はいからほり」の商店街を西へ進む
(ちょうど写真の真ん中が境目で空堀商店街になる)

 

 そして谷町筋から150m位西に進むと、

 アーケードが三角からアーチ状に変わり、

 空堀商店街のエリアとなります

 

 入ってすぐ北側の道は、下がってる?

空堀商店街の北側の道

 何故堀の北側(城内側)が下がってるのかな?

 商店街は城内側の土塁の上だったとか?

 

3.田島北ふれあい広場

 そして空堀商店街に入ってすぐの、

 南側の道、下ってます。

 ここはプラタモリで紹介された空堀の痕跡だそうです。

空堀商店街に入ってすぐ南側に入る道

番組で見た、田島北ふれあい広場

左側高台になっていて、ここは
堀の中の名残と言われています
(ちょうど堀がクランク(南北)になってるところかな?)

 さて、空堀商店街を西に進むと、上町台地の西側の斜面

 になっていて、下り坂になってる様です。

 が、うっかりそこを通る前に、谷町の地下鉄の方へ

 行ってしまいました。

 

 実際、マップで確認しますと、

 天王寺7坂と言われる上町台地西側の坂、

 その北側延長線上に商店街の坂がありました。

 

 参考に翌日に撮った上町台地西側の縁(北方向に撮影)。

 写真中央と右側が上町台地(高台)です。

 写真左のビル群が低くなってます。

 写真下部のお墓が左側に段々に下がってるのも分かりますね。 

上町台地の西側の縁(大阪の清水寺

 

 (参考写真)

以前掲載しました静岡県の磐田原台地
(上町より高いですが、台地のイメージです)

 

 真田丸、外堀、及び上町台地の高台等により、

 徳川軍を撃退した大阪冬の陣の痕跡が、

 ちょこっとですが、見ることが出来ました(⌒∇⌒)

 

 以上で大坂冬の陣終わります。

 

 次回は大坂冬の陣、最大の激戦地、

 舞台は天王寺です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

<大阪府と周辺 歴史探訪3> 飯盛城、天下統一へ歴史が動き出す!(2/2)

こんにちは-、rekikakkunです。

 大坂歴史探訪2日目、

 飯盛城の2回目です。

 

 前回、飯盛城の防衛の中心部である

 本曲輪(高櫓郭)と展望台の曲輪まで来ました。

    今回、石垣探しを中心に城の北半分を巡ります。

 

<石垣配置図>

飯盛城石垣位置
(上の地図の番号①~⑩と写真の番号が同じです)

 また、高櫓郭と展望台の郭、この2つの曲輪名称

 が資料によってバラバラなので、

 ここで、2つの曲輪をまとめて本丸とします。

本丸北側の石垣①

本丸北東の石垣②

 

 ここから、縄張図を片手に、曲輪や石垣が

 ありそうな東の方向に進みます。

展望台の曲輪から東へ山道沿いに下る

石垣③

石垣③

 

東へ下る
(左の道自体が曲輪みたい)

楠公寺、FM送信所に続く車道に到着

 せっかくなので、上写真右方向の、

 楠公寺に行きます。

楠公

楠公寺 説明板

 もっと南へ戻れば竪堀があったのかも。

 全体像は掴んだので、先程の交差路に戻り、

 ハイキング道を北方向に進みます。

 

 そうすると、飯盛城でもしっかり残ってる

 石垣がありました。

本郭の東側、ハイキング道沿いの石垣④

石垣④

 ちょっと見難いですが、このハイキング道の

 石垣の上の段にも石垣がかすかに見えます。

ハイキング道の石垣④と、その上にも
かすかに石垣が見える、つまり段になっている

 

 そしてハイキング道の下側にも石垣が

 ありました。

 結構高くて、長いです。

石垣⑤

石垣⑤

石垣⑤

 少なくとも本丸の東斜面には、

 4段以上の石垣が連なっていたのが

 見れました。(⌒∇⌒)

 

 飯盛城が点々と石垣を使ってたではなくて、

 城全体に石垣を多用していたという話・・・

 本当に感じましたよ~。👍

 

本丸の北にある曲輪の石垣⑥

1560年前半、石垣⑥拡大
(角は算木積みではない)

 

 ここから参考ですが、

 まず1550年代と言われる

 近江 六角氏の観音寺城本丸の石垣。

1550から60年代?、観音寺城本丸の石垣
(算木積みになろうとしている)

 てか、一見飯盛城と観音寺城の石垣似てる?

 ただ石自体は安土城観音寺城が同じみたいです。

 

 算木積みが本格的に導入されたといわれる

 安土城二の丸の石垣(当時のままといわれてます)。

 ここは流石に財力、規模が違いすぎますよね~。

1579年完成、安土城二の丸の石垣
(ほぼ算木積み)

 畿内の名城、観音寺城、飯盛城、安土城

 天下統一の気運が見え始める

 戦国中期から後期に向かう時代の

 大城郭山城、よく残してくれました👏

 

 よし、他の名城も行くぞ(ノ・ω・)ノオオオォォォ-

 

 さてっと、飯盛城に戻ります。

本丸北の郭から北東に伸びる曲輪群
(道が無いので行けなかった)

めずらしく西側斜面にある石垣⑦
(本丸の北西、一部崩れてしまってる)

本丸の北側の尾根に戻ってきました
尾根道を北へ進みます

 

 御体塚に到着する直前に、右側へ入る山道

 がありますので、ここは行ってください。

 山道の上下に石垣が立体的にあります。

御体塚手前を右へ入る山道

石垣⑧ 

石垣⑧
(上2つ、下1つの3か所ありますよー)

石垣⑨ 上を見るとちょくちょくあります

 道を戻り、先程の階段を上がると、

 三好長慶を葬ったとされる御体塚に着きました。

御体塚

御体塚

 

御体塚の東側斜面の石垣⑩

石垣⑩

 

 さて、御体塚から山を降ります。

御体塚から飯盛城を降りる

多分飯盛城最北東の曲輪群(道が無い)

御体塚郭北の堀切

堀切

御体塚の北側、堀切が凄い

 ここを上がると、尾根筋最後の曲輪に着きました。 

御体塚北側の尾根筋最後の曲輪

 お、こんなに人が居たのか~、

 この時知りました。

 ハイキングに来ていたんですね~👍 

 

 そして景色を見ると・・・(@_@;)

 こんなに眺望が凄かったのか~

 本丸展望台より、はるかに見渡せる

 範囲が広いです。

大阪中心部眺望(飯盛城の西)
(左側の高い影が天王寺のアベノハルカス)

大阪中心部の北側(飯盛城の北西)

中央右上は多分京都の入口(飯盛城の北)
天王山、山崎方面

天王山、山崎方面拡大

 

 180°以上見えます。

 京から西へ向かう動きが丸見えですね。

 長慶の意図が少しだけでも分かる気がします(⌒∇⌒)。

 

 さて、飯盛山を降りて、四条畷駅を目指します。

四条畷方面に降りる

降りてます

 

 四条畷神社に降りてきました。

 御体塚から下りは30分位。

 登っている方は大変そうでした。。。(;^_^A

四条畷神社

楠木正成、正行父子別れの像

 正成の心中、父の死後正行のどうどうたる武者ぶり、

 これはこれで思いに耽りたいのですが・・・、

 膝がガクガクで手を合わせるだけでした。(;^_^A

 

 四条畷駅に向かう途中、背後の飯盛城を撮りました。

 う~ん、どこかな?

 たぶん、中央及びその右側が飯盛城と思われます。 

飯盛城

飯盛城

 どうでしたでしょうか?

 飯盛城はハイキングコースが整備され、

 比較的安全に山城を楽しめる場所かと思います。

 (ぼくは登りをタクシーで行ってしましたが)

 

 飯盛城の東側には石垣が連なってました。

 当時はもっと何十倍もあったのだろうと考えると、

 城東側の奈良、京都に対して見せてるのかな?

 でも、どう見えるのか分かりませんでした。

 (上の写真は城の西側ですし)

 車なら山麓をぐるっと廻れるんですがね~。

  

 ただ、天下を狙う立地と規模は

 感じられましたよ~👍

 

 電車で本町に戻ってきました。

 

 本町2日目の夕食は、ホテル隣にあって、

 安くて気になっていたうどん屋さん。

 う~ん、と500円で唸る、

 心がほっとする美味さでした(⌒∇⌒)

 

ホテル横のうどん屋さん

 

 以上で飯盛城編を終わります。

 

 折角なのでホテルの場所を少し変え、

 3日目から天王寺に拠点を移します。

 

 次回は、山や城から離れて・・・、

 真田丸空堀商店街、茶臼山四天王寺等、

 天王寺周辺を街歩き散策をしてみます。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

<大阪府と周辺 歴史探訪2> 飯盛城、天下統一へ歴史が動き出す!(1/2)

 こんにちは-、rekikakkunです。

 大坂歴史探訪2日目です。

 

 今回、三好長慶最後の拠点、

 飯盛城を探訪しました。

 信長の安土城に先駆けて、城全域に

 石垣を活用したとも言われています。 

 

 さて、まずは戦国最初の天下人とも言われる

 三好長慶の略歴を調べ始めると・・・。

 

 お父さんの三好元長は、主君の細川晴元達の

 策略により、一向一揆から攻められ、

 自害したと・・・、

 

 oh!、難しいではないか(@_@;)

 

 色々調べてみると、いつも

 木沢長政という、なじみが薄い人物が

    何度も出てきます。

 (私はよく分かんない)

 

 まず、三好長慶終焉の地、飯盛城と

 松永久秀終焉の地、信貴山城。

 この2つの立派なお城は、最初に

 木沢長政が築城してるみたい。

 知らなかったよ~、まじかねって感じです。

 

(下は木沢長政の後に改修拡張された参考図です)

(参考)信貴山城縄張り図

(参考)飯盛城想定図

 

 木沢長政は、室町幕府管領家の名門

 河内の守護畠山氏の被官だそうです。

 

 この畠山氏は、現在の大河ドラマ

 鎌倉殿の13人で、中川大志さんの

 カッコイイ好演で話題となった畠山重忠

 と系図が繋がっていました。

 

 重忠が北条氏に敗死した後、

 その妻が足利氏と再婚しました。

 当時は後家さんが所領を引き継ぐことが

 一般的にあったとのことです。

 

 よって重忠までは平氏系でしたが、

 その後の系譜は重忠と血縁は無いですが、

 源氏系(足利なので)の畠山氏として

 続きました。

 

 その畠山氏は室町時代、諸家に発展

 していきましたが、戦国の時代、

 河内を本拠とした畠山総州家の当主が

 畠山義堯で、木沢長政は彼の部下でした。

 

 ・・・と、だいぶはしょったのに、

 これだけで長くなってしまうw。

 

 いや!

 三好長慶のお父さん、元長でさえ

 まだ到達していない( ;∀;)。

 

 はしょります。

 1531年(享禄4年)その木沢長政が、

 主君畠山義堯へ謀反する事が発覚したため、

 畠山・三好連合軍が木沢長政の籠る

 飯盛城を攻撃しました。

 ⇒飯盛城の戦い です。

 

 そこに細川晴元の要請により、

 一向宗法主証如が動員をかけ、

 畠山・三好連合軍の背後を襲撃。

 

 ん、なんで急に細川と一向宗

 

 細川家としては畠山家はライバル家、

 また三好の台頭を晴元は警戒する様になり、

 法華宗一向宗の対立を利用して、

 一向宗へ畠山・三好を攻撃するよう

 けしかけたという・・・。

(もっと複雑なんだろうけどねー)

 

 一向宗は3万とも言われる大軍で

 連合軍に攻撃し、畠山義堯は自害。

 一向宗はまた泉州堺に居た長慶の父、

 三好元長をも襲撃し、自害に

 追い込みました。

 

 これでは、後の信長の対応も

 分かる気が・・・。

 

 その後木沢長政は畿内の実力者として、

 信貴山城を築城して大和の支配をも

 伺う等、権勢を振るったが、

 1542年(天文11年)細川・三好連合軍に

 敗れて討ち死にしました。

 

 流れの把握、難しすぎや~~(@_@;)

 すいませんが、間違いが

 御座いましたらご容赦を。

 

 その後、長慶は細川、足利将軍等と

 敵味方となりつつ勢力を拡大し、

 応仁の乱以降の畿内No.1の実力者

 となりました。

 

 1560年(永禄3年)三好長慶

 芥川山城から飯盛城へ居城を移し、

 城も大改修して現在の城郭になりました。

 

 ところが、1561年長慶を支えていた

 十河一存が、また1563年には

 嫡子義興が急死。

 

 1564年(永禄7年)長慶は

 飯盛城で病死しました。

 享年43歳。

 

 織田信長足利義昭を奉じて上洛したのは

 長慶が亡くなってすぐ、4年後の

 1568年(永禄11年)のことです。

 時代は絶妙にバトンタッチされました。

 

 あ~、やっぱり、書き始める前から

 要領を得ずだらだら、こうなる様な気が・・・。

 すいません。

 さっそく飯盛城跡に行きましょう。

 

 ①飯盛城、②信貴山城、③大阪城本願寺)、④芥川山城 

 飯盛城は上の地図の①の場所です。

 大阪府奈良県の北側の境、

 生駒山系の北西に位置します。

 大阪府四条畷市大東市にまたがります。

 

 かの楠木正成の嫡子正行が、足利軍と

 四条畷の戦いで討ち死にしました。

 戦場は飯盛山とその西麓だったと思います。

 それで四条畷の名は私も知っていました。

 

 当時は飯盛山の西は大きな池になっていて

 池と山の細い間での戦いだった様ですね。 

 もっと昔は大阪城本願寺)が立地している

 上町台地以外は海で、だんだん平地化したとか。

 また話がそれそう_(._.)_。

 

 大阪から飯盛城へのアクセス、

 最寄りの駅は学研都市線

 四条畷駅又は隣の野崎駅です。

    

 私は野崎駅からタクシーで飯盛城の南側、

 近くのキャンピー大東まで行きました。

 (タクシーで登った)

 2,670円でした。

 全国割により太っ腹です(笑)

 

 つまり野崎駅からスタートし、飯盛城を歩き、

 四条畷駅へ降りて帰る です。

    (上の地図を拡大すると①の左側に

  JRの駅が見えてきます)

 

 ただし、少し注意が必要でした。

 まず野崎駅にはタクシー停留所が無かったです。

 大阪は大都市だからJR駅にタクシーが居るだろう、

 と、都合よく思い込んでました。

 想定外でちょっとうろうろしましたが、

 運良く、野崎駅にお客さんを降ろした

 タクシーに遭遇出来ました。

 ほ~良かった😓

 

 そして、運転手さんにキャンピー大東まで

 お願いしますー、と当然の様に言ったら・・・、

 ん?どこかな~?

 と言われ、またあたふた、

 

 確か、野外何だかセンターとも

 言うみたいですと言ったら、すぐ分かりました。

 別名、大東市立野外活動センターです。

キャンピー大東 事務棟入口

 ここで飯盛城の縄張り図、御城印、

 石垣配置図等を入手しました。

 事務の方が優しく教えてくれました。

 さて、ここは飯森城の南ですので、

 北の方向に出発です。

 

 少し歩くと飯盛城跡駐車場がありました。

 10台以上は停められます。

 下調べでは分からなかったですね~。

 10:45の時点で全空きでしたので、

 通常は停められそうです。

飯盛城駐車場

先程の飯盛城 復元鳥観図
(左下の赤丸が現在地、駐車場)

 飯盛城には一番最初に、写真赤丸の駐車場から、

 右上にある「虎口」に向かいます。

 城の入口ですからね~。

 搦め手みたいですけど、入口からスタートしたい。 

 

 しかし道をそのまま進むと虎口の南、

 楠公寺に行ってしまいますので、

 途中、山道に入ります。

 

 下写真の不自然に黄緑色に塗られた木の脇にある

 山道、ここがそうだろうと想定し登りました。

(結果合っていたので、ここです。)

車道から虎口へ向かう山道の入口
(車道から左に入る)

登っていくとすぐに尾根道にぶつかりました。
(写真右側が虎口、城跡方向です)

飯盛城ののぼりが見えてきました。

虎口に来ました。間違いないですね~

 キャンピー大東から、最初の城跡の

 虎口までは約15分でした。

 虎口の位置は、下の飯盛城縄張図の左下です。

飯盛城 縄張図

  この縄張図の左下から右上へ、

  飯盛城内をおおよそ青い矢印の方向に進みます。

  色々な地図を持ちましたが、キャンピー大東で頂いた

  この石垣ガイドの地図が、私的には一番良かったです。

  城散策に必要な脇道、石垣位置が正確に描かれてます。

 

虎口の階段

虎口の案内板

 虎口から入ると、南丸という曲輪になります。

南丸(虎口を入ってすぐの曲輪)

南丸案内板

南丸の南にある曲輪の土塁
(土塁の左下が虎口、虎口来た敵に横矢をかける)

 南丸だけでも結構広くて、虎口、曲輪、

 石垣、土塁と見応えがありました。(⌒∇⌒)

南丸から千畳敷へ向かう

 千畳敷は、その構造、発掘調査から、

 三好長慶の居館があり、政治の中心だったと

 推定されています。

千畳敷

千畳敷郭の中心部が一段高くなっている
(現在FMアンテナ塔が建っており、ここが居館跡と推定)

千畳敷郭の南西部分の曲輪

 上の曲輪を進むと、木の影から

 西側の景色が見えました。

千畳敷郭からの眺望
(飯盛城の西方向、少し北側)

千畳敷郭から大阪中心部の眺望
(飯盛城から西方向、少し南側)

千畳敷郭を降りる

 千畳敷を北に降りると、大きな堀切になります。

 現在は車道にもなっていますが、南北を遮断する

 形は見て分かります。 

飯盛城を南北に2分割する堀切
(写真右手が千畳敷方向、左手が主郭方向)

堀切案内板

 飯盛城南半分は、居住空間の広い曲輪で

 構成されていて、千畳敷を中心とした城郭。

 北半分は、小さな曲輪で防御性を固めている

 主郭を中心とした城郭になってる様です。

 

 そして土橋も挟んで、主郭に向かいます。

堀切から土橋に向かう
(写真中央から少し左側に入る山道)

土橋
(本当にS字になってる、うれしい(@_@;))

S字感動の為、もう1枚👍
(見えませんが両側は竪堀になってます)

 土橋を越えるとすぐに主郭に到着しました。

主郭(高櫓郭)

飯盛城碑

楠木正行
(歴史好きでないと分からないかもですが、
楠木正成の嫡子、歴史に名を残しています。)

主郭を降りると副郭が見えました

 副郭には展望台がありました。

飯盛城展望台から西側、大阪を見る

大阪中心部拡大
(写真中央の左側に大阪城、ちょっと分からないかも)

 

展望台の案内図

 キャンピー大東を出発して展望台まで

 ちょうど1時間でした。

 当日はちょっと、もやがかってて少し残念~。

 朝、晴れてはいたんですが、時間と共に曇ってきました。

副郭を北へ降りながら振り返る

 お、三好長慶大河ドラマ化への幟。

 是非やって欲しい~。

 信長上洛前の日本の中心地はどうなってたんだか?

 難解だし。

   

 朝倉宗滴尼子経久、六角定頼等、

 戦国ラストの一つ二つ前の時代、

 信長の野望でも実力値の高い名武将達👍、

 

 信長や謙信も一時上京していて・・・、

 尾張1国を統一したばかりの信長の心の中、

 見てみたいですね~。

 

 もっとマイナーな木沢長政、畠山氏、

 本願寺、足利将軍達も凌ぎを削ってる。

 充分1年間ドラマ化出来ますよね~、

 期待してます(⌒∇⌒)。

 

 そして副郭の下に降りると・・・。

副郭を北側に降りて、東側の石垣

 虎口以降見られなかった

 石垣が見えてきました。

 

 ここから石垣が各所に点在しており、

 石垣三昧になりますよー👍

 悪く言うと石垣だけ探し廻ってます( ;∀;)。

石垣、こんな感じだよ~

 次回へと続く。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_














  

 

 

 

 

<大阪府と周辺 歴史探訪1> 天下分け目の天王山と山崎城

こんにちは-、rekikakkunです。

 

全国割りを利用して、大阪・京都・奈良

を中心に歴史探訪を計画しましたが・・・

 

10月11日、全国割り予約が開始され、

仕事から帰宅し、直ぐにネット予約

をチェックしてみると・・・、

 

京都、奈良の予約がまだ不可の様でした。

大坂府の全国割りの方は、予約可能なのが

分かりました。

そして予約の枠も減っていく~w

 

そこで大阪で、割引後1泊3,500円

前後のビジホを4泊分取り、大阪中心の

歴史探訪で再計画することにしました。

 

これにクーポンが3,000円×4泊分

得られるので、実質1泊500円

ということに・・・(^▽^)/

 

今回は旅行の流れで探訪場所を

ご紹介していきたいと思います。

ん? 歴史の流れは? 

(ヾノ・∀・`)ムリムリ

 

~探訪1日目~

11月に入り、出発当日となりました。

天気が良いので、大阪-京都間の天王山、

山崎城へ初日行くことにしました。

11月前半は、お天気良かったですよね~👍

(今回は公共機関移動です)

 

京都でJR京都線に乗り換え、

山崎駅に到着。

事前に確認していたコインロッカーに

荷物を預ける事が出来、山崎駅を出ました。

山崎駅構内のコインロッカー(改札口前)

山崎駅前(南口)

 天王山に行くには上の写真の右側(駅の東方向)

 に進み、線路を越えます。

  

 天王山、これもご存じの方多いですよね~。

 本能寺の変の後、羽柴秀吉

 明智光秀と戦い勝利を収めた山崎の合戦で

 重要な戦略拠点となり、

 勝敗を決める節目を意味する様になりました。

 (確か異説もあった様な? でも歴史を

  見ていた場所である事は確実ですよねー)

 

 そして秀吉が大阪城に移る前の拠点として、

 この山に山崎城を築きました。

 

 さて、駅から歩いて5分程で天王山登り口に来ました。

 (何箇所かある様ですが、山崎駅に近い登り口です)

天王山登り口

天王山登り口 拡大

 坂を上っていき、途中、大念寺境内を通過。

大念寺境内


 そして、直ぐに宝積寺に着きました。

 天王山の南側の山腹です。

 聖武天皇の勅願で行基が建立したと

 伝えられています。

 そして山崎の合戦では、秀吉の本陣

 だったとの事です。

    やはり小高い所を選んでますね~

宝積寺山門

宝積寺三重塔(秀吉が建てたとか)

宝積寺境内
(この写真右手が天王山への道)

宝積寺境内の天王山案内

宝積寺を出てすぐの山道

途中の景色(大阪の方向としか分からない)

なんか山城っぽくなってきました

分岐点に到着

旗立松
(山崎合戦時、秀吉方が旗を立てたとの伝承)

山崎合戦之地の碑

 そして、展望台に到着しました。

旗立松展望台

天王山眺望1

天王山眺望2

 

天王山眺望3
(見えてる所が合戦地とは思うが・・・)

展望台付属の合戦図
(う~ん、何か基準が見つからず、
眺望と合戦布陣の位置がよく分からない😿)

 

屏風絵

合戦開始直前の絵
(右側の川と山の間から出てくるのが秀吉軍、
中央と左側に光秀軍)

 そして3分程登っていくと・・・。

天王山分岐点

 階段を登ると、禁門の変での

 十七烈士の墓がありました。

禁門の変 十七烈士の墓

禁門の変説明板

真木和泉の墓碑

 時は幕末騒乱・・・1864年文久4年6月、

 京都奪還に燃える長州藩禁門の変に参加する為、

 尊王攘夷運動の中心的思想家の一人であった久留米藩

 真木和泉を隊長とする約300名が、先程の大念寺、

 宝積寺及び天王山等に布陣します。

 

 しかし京都御所において、長州軍は会津薩摩等佐幕派に敗退。

 ここ山崎を西へ落ち延びる長州軍の盾となって、

 真木和泉達が殿軍(しんがり)を努め、

 最後天王山の陣屋に火をかけ、十七名が切腹自刃します。

 

 この十七名は長州藩士ではなくて、久留米や肥後、土佐等

 自分の志を持って命を懸けた方達だと思います。

 真木和泉が有名ですが、その他全員一人ひとりに物語が

 あるんだと思うと、手を合わせずにはいられません。

 

 しかも多大な犠牲により明治維新が成り、

 勝ち組となったはずの攘夷派達は、

 薩摩長州の天下となった後も、時代の変化に

 ついていけず、消されていく人も・・・。

 大変な時代です( ;∀;)

 

 う~、話が秀吉から幕末にすり替わっていく

 ・・・( ;∀;)

  

 さあ~烈士の碑を抜けて、

 次の写真はと、

 お、すぐに神社が見えてきました~、 

 て、え~と神社の名前を間違えない様に確認してみると、

 ん?

 自玉手祭酒解神

(読み方:たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ) 

自玉手祭酒解神

 そうでしたか~~

 名前も知らずに行ってたのか~( ;∀;)

 

 しかし、ここはもう秀吉の山崎城内の一部です。

 その縄張り図がこちらです。

山崎城縄張り図

 登城は右から左手。最初の酒解神社。。。

 とりあえずこれで良いみたいです。

 

 そして、ようやく山崎城に入ります。

主郭に入る手前の分岐点

山崎城 主郭

山崎城 説明板

 主郭奥のこんもり小高い所に、山頂の碑。

主郭の奥(北側)に天王山山頂の碑(標高270m)

 

山頂の天守台の石垣かもしれない石垣
(縄張り図の天守台のところ、何にも説明が無くて・・・)

主郭の北側の切岸

主郭北側の石垣
(これは当時の石垣で間違いないかな?)

副郭
(主郭で写真を撮ってあげたお姉さま達が、ここでお弁当を
食べていて、この先に井戸があると教えてくれました)

井戸跡

 

井戸の説明板

副郭に戻り、北側に小道があったので少し下って
見ると、一番しっかり残っている石垣がありました

この先は危なそうなので止めました。
これ自体山城防御の一つですねー

これは崩れた落ちた石垣の残りですね~

主郭から北東側の曲輪に来ました

その先を少し歩くと、堅土塁なのかな?1

堅土塁なのかな?2

 そして主郭に戻り、建物礎石と思われる石垣を

 撮ろうと思ったら・・・

 ちょうど昼時、礎石が丁度良い高さ、皆さん

 そこに座ってお弁当食べてました(⌒∇⌒)

  

 ここは天王山ハイキングコースのすぐ脇、

 主郭と副郭が休憩にちょうど良い広場です。

 

 山崎駅から1時間と10分で天王山山頂、

 主郭に到着、手頃なコースですね~。

 

 この後、14:00頃大坂に到着。

 最初に大阪歴史博物館に行っときました。

 上町台地の変遷、大阪城の位置関係が

 分かりました。

 (大阪城関連の時に触れますね)

 

 16:30頃、本町のスーパーホテル

 に到着。

初日と2日目の宿泊先

  

  そして、チェックインしてすぐにクーポンが

  使えるお店を、ホテルのウエルカムドリンク場

  でチェック。

  無料ワインをぐびぐび、昼飯のタイミングが

  無かったのですきっ腹で、多分赤くなってたかと・・・。

  

  クーポン店チェックで1時間かかるよ~( ;∀;)

  (場所距離と料理種類、カウンター有無、開店時間等を

   数十店確認して、狙いを数店に絞ると・・・)

  ある意味、クーポンに振り回されてる(笑)

 

  そして初日の夕食、クーポンを使い一人焼肉へ。

  これで生中も加えて実費千数百円👍

  最初に高価な所に行っとくと、食欲望が無くなり

  ました(笑)

一人で焼肉、高いので腹七分目で我慢( ;∀;)

 ただ本町駅周辺を少し散歩しましたが、

 どこもそんなに混んではいなかったです。

 まだまだ飲食店は厳しそうですね~。

 

 以上で大坂探訪初日は終わります。

 

 実は今回の大坂探訪のメインは

 飯森山城と真田丸です。

 ある意味、天下統一の始まりが飯森山城で

 終わりが真田丸大阪城と、言えなくもない? 

 

 翌日は飯森山城です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

<お城へぶらり7>信玄最後の西上作戦(完) 決戦三方ヶ原と信玄の最後

こんにちは、rekikakkunです。

 

    信玄の西上作戦も今回で最後になります。

 本当ですよー🙄

 

 元亀3年(1572年)10月19日に

 二俣城を落とした武田軍は10月22日、

 進軍を開始しました。 

前々回掲載しましたが、二俣城と天竜

 

 下の、犀が崖(さいががけ)資料館の

 進路地図を見ると、

 二俣城から南方向に向かい、

 浜松城に届く前に西に進路を向け、

 三方ヶ原に入り、北西に進んでいます。

武田軍進路(犀が崖資料館)
(二俣城からは、中央天竜川の左側を南に進んでます)

 

 三方ヶ原台地を少し確認してみますと、

 浜名湖天竜川間の洪積台地となってます。

 国土地理院の地図でざっくり図示してみますと、

  ・赤丸が二俣城

  ・青丸が浜松城

  ・緑色の囲んだ部分が三方ヶ原台地 です。

   (ざっくりの範囲と思ってください) 

三方ヶ原台地と武田軍進路

  浜松城は三方ヶ原台地の南東角付近に

  築城されており、台地の高低差を

  利用しているのが分かります。

 

  地図の赤矢印が武田軍進路で、

  矢印部分が台地を北に降りる道の一つで、

  祝田(ほうだ)という場所になります。

 

  家康は、武田軍が祝田の坂を降りる所を、

  背後(南)から急襲する作戦でした。

 

 ①祝田の旧坂

  祝田の坂の旧道が部分的に残ってます。

  なんとなく合戦を感じるのに、

  この祝田の旧坂に行きたかったです。

  ただし特に駐車場があるわけではありません。

 

  犀が崖資料館の方に、旧坂に行くために

  駐車するなら、蜂前神社(はちさきじんじゃ)

  が良いと教えてもらいました。

 

  ここには先の大河ドラマで主役だった

  井伊直虎の朱印状が残されてるそうです。

蜂前神社1(駐車場から撮影、ここに駐車)

蜂前神社2 案内板

蜂前神社

 蜂前神社の前の道を東に歩いていくと、

 すぐに国道257号線にぶつかりました。 

    南へ上がります。

蜂前神社から国道257号線に出て
祝田の旧坂に向かう(南方向に上がる)

国道257号線を振り返ると
下り坂になってるのが分かります

国道257号線のバス停、祝田南

 ここのバス停の少し南に、入る道があります。

国道から祝田の旧坂がある道に曲がる

 

 曲がってすぐに、祝田の旧坂入口が見えてきます。

祝田の旧坂1(北側の入口)

 

 来ました。

 雰囲気ばっちりです(⌒∇⌒)

祝田の旧坂2(北から南へ登り始め)

祝田の旧坂3(北から南へ登る途中)

祝田の旧坂4
(北から南へ登り、森林から出てきました。
逆にここから下る事も出来ます)

 

南から北へ降りる入口

 

祝田の旧坂5(南から北へ下るところ)

 片道5分程の旧道でしたが、

 雰囲気を感じることが出来ました(⌒∇⌒)。

 

現在の祝田の坂道(R257)を降りるところの景色
(北方向を見る)

 

三方ヶ原の戦い 

 武田軍は祝田の坂を降りる前に反転し、

 三方ヶ原の台地上に陣を敷き、

 待ち構えた状態で、徳川軍と

 合戦となりました。

 

 家康が狙っていた奇襲には

 ならなかった様です。

 三方ヶ原台地の国道257号線に

 古戦場の碑があります。

三方ヶ原古戦場の碑

三方ヶ原古戦場 説明板

武田軍進路拡大

  この武田軍の侵攻図は

   ・山県昌景軍(黄色)は定説通り。

   ・信玄本隊(赤色)は駿河進路。

   ・別動隊(赤点滅)で高根城から犬居城

    及びその南方の城攻略。

   ・秋山隊は別途有。

  という4方面作戦って感じですねー。

  

 そして下の拡大写真が三方ヶ原台地と

 布陣図です。

三方ヶ原の合戦拡大

 

浜松城

 合戦の経過は省略しますが、結果は皆さん

 ご存じの通り、武田軍の圧勝となり、

 徳川軍、家康は浜松城に撤退。

 

 撤退場所は下写真の赤丸の上にある

 玄黙口(城の北口)だったそうです。

浜松城変遷
(家康が引馬城含め増築し、浜松城になりました)

引馬城本丸跡
(この北側の門から帰城したと書いてあります)

現在の浜松城 天守曲輪を見上げる
(曲輪の外郭斜面の上半分が石垣で下半分は土)

 こちらは浜松城天守です。

現在の浜松城天守

 家康はなんとか浜松城に入城しました。

 夕方前の合戦開始だったこともあり、

 武田軍は深追いを辞め、城北側方約1km

 付近にある断崖、「犀が崖」(さいががけ)の

 北側等に野営の陣を張りました。

  

 そこを家康は夜襲するのです。

 敗戦した日の夜に。

 

 武田軍は暗闇の中、慌てふためき、

 崖に転落する者が続出し、

 家康は一矢報いたとの事です。

犀が崖現在の谷底
(陥没してできたとのことです)

犀ケ崖古戦場

 この崖には浜松市の資料館があり、

 今回説明員の方が、色々と親切に

 教えてくれました。

 ありがとうございます_(._.)_。

犀ケ崖資料館

資料館内の犀が崖説明

 

野田城
 12月22日三方ヶ原合戦で勝利した武田軍は

 浜名湖北東の刑部(おさかべ)に滞陣しました。

 

 年が明け、元亀4年1月10日、

 武田軍は三河に進軍し、長篠城の南方の

 野田城を包囲します。 

野田城遠景(東側から見る)

野田城西側の案内板
野田城へのアクセスは西側からでした)

野田城 案内板
(この図の右側が南で豊川があり、河岸段丘の崖だった
と思います。よって写真の左側からしか攻め口が無い)

二の丸と本丸間の堀

本丸入口

野田城本丸跡

本丸の東側を見ると何かの看板が

信玄狙撃の案内板

 信玄が野田城内の笛の音を聞きに来た所を、

 鉄砲で狙撃したという伝説があり、狙撃した

 場所の看板がありました。

 映画影武者の舞台を見れて感動😿

 真偽のほどは別にいいよ~~(⌒∇⌒)

 (狙撃された場所もある様です)

 

 野田城は武田軍の包囲に耐えましたが、

 水の手を絶たれ、2月15日に開城しました。

 

 城主菅沼定盈は武田軍捕虜となります。

 ⇒ところが約1ケ月後の捕虜交換により

  徳川方に帰還、長篠合戦での活躍等により

  戦国時代を生き抜き、大名となりました。

  Good jobです👌

 

 さて信玄は、狙撃云々ありますが、

 そもそもの病状が悪化し、

 4月に入って信濃に撤退。

 その途中信濃駒場で4月12日死去しました。

 歴史が大きく変わった瞬間と思います。 

 

 <お城へぶらり1>から武田信玄

 西上作戦を取り上げて、とうとう7までに。

 

 戦国時代に生き残る厳しさ、信玄の高い戦略

 と家康の危機忍耐を感じることが出来ました。

 

 7の途中まで、家康涙目の

 連続だったのに、

 最後あっけなく大ピンチ終了。

 

 来年度の大河ドラマは家康か~、

 昔やったじゃん? 

 と思ったのだけれど・・・、

 

 この西上作戦だけでも、ほんと、

 手の打ちようがなく厳しい家康!

 ですよね~。

 

 実際はそれ以外でも、危機の連続

 ですし、キャストも凄い。

 「どうする」を主眼に置いた家康、

 面白そうです😊😊

  

 以上で西上作戦編を終わります。

 

 次回は大阪方面にぶらり行って

 来ましたのでその辺りを。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_