歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<お城へぶらり3>奥三河 山家三方衆 戦国生き残りへ苦闘 作手亀山城と古宮城(2)

 

 

こんにちは、rekikakkunです。

先のブログの話を続けますね。

 

元亀3年(1572年)10月3日

武田信玄は生涯最後の決戦となる

西上作戦を開始し、甲府を出陣。

 

その少し前の9月29日、

別動隊の山県昌景三河の北東部に侵攻し、

かねてより徳川から武田方に寝返った

 ・作手亀山城の奥平氏

 ・長篠城の菅沼氏

 ・田峰城の菅沼氏(一族の総領)

通称山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)を

自軍に加えました。

 

前回のブログ地図を再掲載します。 

地図上の番号は、①作手亀山城、②長篠城、③田峰城

 

今回は山家三方衆の一人、

平氏が当時本拠としていた

作手亀山城とそのすぐ近くの古宮城を

探訪したいと思います。

上の地図の①です。

 

最寄りは新東名の新城IC。

思いっきり長篠合戦のところで、

見所いっぱいの所です。 

 

平氏というと天正3年(1575年)の

長篠の合戦武田勝頼軍の猛攻をしのぎ、

武勲を建てた奥平信昌が有名ですよね。

 

戦国中期の奥平氏の流れを確認してみますと、

①元亀元年(1570年)東美濃で武田軍との

 上村合戦で、山家三方衆は徳川方として参戦。

 (既に武田に内通していたという話もあるみたい)

②上村合戦で徳川方敗北後、武田方に転身。

 (元亀2年馬場信春が作手盆地、亀山城

  北に三河攻撃の拠点古宮城を築城)

③元亀3年(1572年)西上作戦において

 武田方として参戦。

 

~ここまでは山家三方衆の動きは同じの様です~

 

天正元年(1573年)6月、家康の長女亀姫

 と奥平信昌が婚約し、徳川家臣となる。

 ここが分かれ目だった様ですね~。

 (結果的に天下を取った徳川家康の婿となった)

⑤8月奥平氏は、古宮城武田軍の追撃を振り切り、

 作手亀山城を退去する。 

 9月離縁した元妻を含む人質は勝頼により処刑された。

 厳しすぎる時代( ;∀;) 

⑥上記により天正3年、長篠城主となっていた

 奥平信昌は徳川家の一員として、武田勝頼

 猛攻を耐えに耐え、後世に名を残しました。

 

 長篠合戦後、古宮城は武田の拠点から外れ、

 廃城した模様。

 

さて、ようやくお城に行きます。

前置き長くなりすいません_(._.)_

 

上の地図の①部分の作手盆地を拡大したのが下の地図です。

  ①作手亀山城(奥平氏本拠)、②古宮城(武田氏拠点)   

  2つの城の距離は約1km位。

 

 上の地図①の亀山城本丸から、身を乗り出して

 古宮城を撮ったのが下の写真です。

 なんとか2つの城を1枚に収めたかったんです。

 まあ、お互い丸見えですよねー。

 周辺の高い山にも双方の砦がありますし。

亀山城と古宮城

 ①作手亀山城

  奥平氏は1380年頃、群馬県から

  愛知県作手盆地に移り住み、

  1424年亀山城を築き居城としました。

  それから上述の1573年に退去するまでの期間。

  そして1602年から1610年、信昌の4男

  松平忠明が城主となっている2つの時期が

  あるとのことです。

 

  亀山城は、「道の駅つくで手作り村」のすぐ脇です。

  道の駅に停めても良いし、城址目の前にも

  広い専用駐車場がありました。

道の駅とその裏の亀山城
(写真中央のこんもりが亀山城址)

作手地区の案内図
(⑤亀山城、中央⑥が古宮城。周辺にもお城やお寺がある)

亀山城入口(やっとお城の写真が出た)

亀山城 想像図
(これ見るとイメージ湧くねー)

入り口の階段(ここ登ったらすぐ曲輪)

西曲輪

本曲輪に行く前に見える作手地区

お~、あっという間に本曲輪に到着しました

入って右側(東)に土塁

入って左側(西)に亀山城の看板
(この看板から古宮城が見えたので先程撮りました)

亀山城縄張り図
(先にこれが必要でしたね、左側から本丸に来ました)

二の丸

大手跡と本丸の切岸
(大手は作手街道の反対側ですね。攻撃されにくいからかな?)

堀跡

 亀山城は以上となります。

 遺構は多くは無いですが、整備されており、

 一族の居城としての広さを感じました。

 またここは山、丘陵というよりも公園

 ですね。気軽に散歩できますよ~。

 

②古宮城

 さて、今度は武田の前線基地古宮城に行きます。

 車で数分。

 途中、作手歴史民俗資料館に寄り、

 古宮城の情報を仕入れました。

 (。´・ω・)ん?何を仕入れたかって?

 確か縄張り図をもらったよ。。。

 なんとか思い出した(-_-;)

 この縄張り図を片手に歩いたんだ。

作手歴史民俗資料館

古宮城全景(まん中の丘陵全体が古宮城です)

お城南側の道沿いの白鳥神社に駐車スペースが
2,3台分あり、この神社から古宮城に入ります。

古宮城説明看板

~古宮城縄張り図と探訪経路~

 お城の出入り口は基本、下の縄張り図の

 白鳥神社からです。

 

 城本来の出入口は西側の作手街道側

 (縄張り図の左下の入口)からですが、

 一般所有地であり、ロープが張ってますので、

 外から直接入れません。

 (ここまでは事前の調べで分かってました) 

 

 なので私は最初白鳥神社から城内の縄張り図⑦に

 来て、しょっぱなから凄い遺構だな~と

 見てましたが、⑦は城の中央部になります。

 

 途中で流れが中途半端になってしまう事に気付き、

 ⑦から城内を通って入口の所①までさくっと歩き、

 攻撃侵入路順(①から順)に縄張りをゆっくり

 確認していきました。

 

古宮城縄張り図

 

古宮城縄張り図及び探訪経路

 お城の基本構造は上の縄張り図の通り、

 西城エリアと東城エリアに分かれていて、

 中央の大堀切で完全分離されてます。

 

 本丸は西エリアの先、縄張り図⑨の東城です。

 西城から東城への道は、縄張り図⑥の土橋のみです。 

 

 東城エリアのさらに城の東外側(縄張り図⑪の右側)

 は湿地帯になっていて侵入し難かった様です。

 (今も水田が広がってました)

 

 なので西側、街道側からの攻撃に対する

 防御施設が相当凝ってます。

 

①入口から外堀を通る 

縄張り図の入り口のところ
(この写真の背面がお城です)

 ~ここから、ほとんど似たような写真が大量に

  掲載され、分かり難いと思います~

  ただ後世、大きくは荒らされず、当時の保存状態が

  大変良い事で有名なお城なので、見所多く我慢して

  観て下さいね_(._.)_

 

入り口の堀から進む(縄張り図①)

入って右手を見ると、早速切岸になっていて、
守備側から攻撃されますね~
(縄張り図①から④を見上げる)

入った堀は、それ自体にまた溝、土塁があり、
すんなりは通れない様になってたみたいです

 真っすぐ進み、下写真を越えると、東西に大きく

 分かれているお城の西側エリアから東側に行けます。

大堀切の下(縄張り図②)

大堀切の最下部(縄張り図⑩)

 しかし元々、当時は簡単には入れなかったと

 思いますので、縄張り図②から攻城進入路である

 ③の西城エリア方向を登ります。

  

西エリア(縄張り図③方向)へ登る道
(もはや複雑すぎて写真の説明が出来ません(-_-;))
実際ここに来たら土の城の迫力が凄いです

写真真ん中は行き止まりに誘う道と思います

 この様に、この城は細い通り道を作り、全ての

 通り道は、その上から道全面に攻撃できる

 防御設計なのがよく分かります。

 

 つまりお城の基本的な設計が分かり易く

 残ってるんですね~。

 ほとんどの写真がそうなってますね~。

縄張り図③から下を見る

縄張り図③から④に向かいます
この写真構図はまさに武田の馬出と横堀ですね~

 ※縄張り図の③から⑤に行く前に、少し戻って④方向

  に進みました。

縄張り図④から下の①方向を見る
(上から攻撃する)

 

縄張り図③に戻りました。③の下の緑の道(細い道)
攻城側はこの道を通らなくてはならず、
たまったものではない(笑)

縄張り図③から⑤方向へ180度曲がる道

縄張り図⑤の手前(右手に虎口が見えます)

 

縄張り図⑤西城主郭に到着です

西城を2つに区切る土塁跡

縄張り図④ 西城の西側の土塁

縄張り図⑤の南側の虎口
(本当は南側からも入れるみたい)

もはやどこだか分からないない_(._.)_

ここは分かるぞ~、縄張り図⑥の手前。
(左上に東城の櫓台⑧、⑥の土橋を通る。左が大堀切)

大堀切(⑥から北を見る)

大堀切の反対側、南斜面の竪堀
(縄張り図⑥から南を見る)

縄張り図⑦の両袖桝形虎口
白鳥神社から上がると最初、この付近に来ます。
(写真の左右にコの字型対象に土塁を配置して
桝形を形成。出入口もずらしてますね~)

⑦両袖桝形虎口内
(この先が東城です。ここを突破されたら落城ですね)

⑦虎口越えてすぐ左に進むと縄張り図⑧の櫓台があります

櫓台跡上から⑥の土橋を見る
(土橋を通る敵を上から攻撃できる。西と東の境目の重要場所)
ただしここまで攻められたらお終いかな~?

⑧櫓台から見る大堀切

⑧櫓台から大堀切を介して⑤西城を見る

⑨東城の土塁から、縄張り図③と⑨の間位の大堀切

⑨東城(本丸)の北側の虎口
(あんまりよく分からないですね、)

⑩大堀切の脇の土塁を降りてます

⑩大堀切脇を降りてきた土塁道を見上げる

⑩大堀切を降りて東側の広い外曲輪に入る
(縄張り図⑪近辺)

縄張り図⑪から上を見上げる

 

縄張り図⑪を神社に向かって歩いてるところ
もう写真左手は城外の田んぼ

神社の前の道(お城の南)に戻りました。
この道も当時から伊那街道に通じる道らしいです。
(写真右手が白鳥神社、古宮城)

 以上で古宮城探訪が終わりました。

 古宮城の凄さはどうでしょうか❓

 写真だと土の城って分かり難いですよね~。

 

 ただ通常山城って山を登り、大半は

 樹木、藪で、熊よけしたりして、

 その中に遺構が点在してる感じですよね~。

 

 しかし古宮城は丘陵ほぼ全部遺構になってます。

 また小さな独立丘陵なので、動物とか居なくて

 足も疲れず、安全にじっくり探訪できる城、

 造りも凝ってるということで、お勧めMaxですよ~。 

 

 さて、後の歴史は、武田氏はみなさんご存じの通り。

 奥平氏は家康の長女を娶ることが出来た。

 (武田に困っている織田、徳川の、ちょうど

  欲しい「時」と「地」に奥平氏が居た・・・かな)

 これにより江戸時代も10万石の大名として、

 勝ち組として厳しい時代を生き残りました。

 

 古宮城と亀山城、及び武田氏と奥平氏

 のそれぞれの事情、変化を感じながら探訪

 してみるのも面白いかなと思います。

 

 長々とお付き合い、ご高覧

 ありがとうございました。_(._.)_

 

 次回は山家三方衆の中で、

 長篠城はもうブログ探訪終わってるので、

 残りは田峰城になります。かな?

 少し涼しくなってきましたね~。

 

 

<お城へぶらり2>奥三河 山家三方衆 戦国生き残りへ苦闘 作手亀山城と古宮城(1)

こんにちは、rekikakkunです。

 

 私は静岡県在住なので、お隣の愛知県、

 特に県境の東部は、お城へぶらり探訪

 するにはもってこいの場所でございます。

 

 戦国時代、三河の北東部、奥三河は、

 山家三方衆といわれる、

  ・作手亀山城の奥平氏

  ・長篠城の菅沼氏

  ・田峰城の菅沼氏(一族の総領)

 が有力勢力でした。

 長篠城なんかは長篠の合戦で有名ですよね。

 

 といっても訳が分からないので、

 下の地図で確認してみました。

 (もし地図の①~⑥全体が見えてない場合、

  マイナスを押して縮小してみて下さいませ)

 

 今回表題の山家三方衆は、①作手亀山城(奥平氏)、

 ②長篠城(菅沼氏)、③田峰城(菅沼氏)  の位置です。

 地図の番号を押すと説明が出てきます。

 

 ④は私の前回ブログでご紹介しました高根城。

 ⑤は後日紹介する二俣城。

 (地図で見ると⑤二俣城は遠江への出入口であり、

  信玄にとって掌握必須であることが見えます)

 

 信玄の西上作戦は、通説では・・・、

 ⇒秋葉街道(国道152号線)を④から⑤へ

  信玄本体が南下。

 ⇒国道153から257号線に南下し、

  ①②③の山家三方衆を従えてから⑤に

  合流する山県昌景の別動隊。

 ⇒⑤の二俣城を落としてから武田全軍が

  近くに向かう、家康の居城浜松城が⑥。

  という位置関係です。

 (岩村城方面は別途) 

 

 これはエグイですね~( ;∀;)

 特に山県昌景別動隊が。。。

 信州本土への何本かの道を全て

 掌握してから南下。

 (信玄は道路整備も行ってた様です) 

 そして家康の居る浜松城は上から

 (北から)完全に圧迫されてます。

 

 地図的に浜松の東側は空いてますが、

 拠点である掛川城高天神城等は

 あまり動けないのを見越してるんでしょうね。

 (駿河は武田領なので奪われてしまう)

 

 これを書いていたら、家康の苦悩が

 よりはっきりと感じられました。

 えらいこっちゃ。

 それを感じる為にブログで調べてますー(⌒∇⌒)

 

 そして山家三方衆も、三河にあって、

 信州(長野県)、美濃(岐阜県)、遠江(静岡県)

 に近い境目の土地。

 ずっと織田、徳川、武田、今川の大勢力

 に振り回され、生き残るのは大変だったと

 推察致します。

 

 前置きが長くなりすぎてしまって。。。

 お城探訪は次回に。_(._.)_

 

 次回は山家三方衆の一人、奥平氏の居城 作手亀山城

 と、その対抗城として武田流縄張り遺構がはっきり

 残ってる事で有名な古宮城を探訪したいと思います。 

 (上の地図の①です)

 

 そうやって話を繋げてる間に、行ったことが無い、

 最近知った田峰城とか行ってくる作戦です(笑)

 

 田峰城は長篠の敗戦逃走時、勝頼の入城を拒否し、

 後に菅沼氏同士で壮絶な歴史がある様ですし、

 勝頼の逃走経路と西上作戦時の山県昌景

 侵攻ルートが同じみたいです。

 

 なんて書いてますが、お城へぶらりが2で

 亀山城が(1)と数字がごちゃまぜに(-_-;)

 何か変な構成になっていきそうです😿

 話があっちこっち、ゆるして///・・・

 

作手亀山城と古宮城
(西上作戦時は味方同士だったが、その前後は
この2つの城が敵対していた。結構近いですよねー)

 

作手亀山城の本丸

 

古宮城の遺構
(ここの遺構が沢山残ってます。続日本100名城に選定。)

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

<お城へぶらり 1> 高根城 見事に復元整備された遠江最北端のお城

こんにちは、rekikakkunです。

 

 ぶらりと単発で探訪してきました

 お城を「お城へぶらり」と題して

 ご紹介していきたいと思います。

 ~特にネタ切れの時にね(笑)~

 

 今暑いから行ってない。

 ⇒だからネタ切れ(^^♪

 

 極力歴史の流れと共に作りたいので、

 どうしようかと考えてて時間が

 経ちましたが、

 なんとか武田信玄最後の決戦、

 西上作戦に繋げられたらと思います。

 

 今回は初回として、信玄が元亀3年の

 西上作戦進軍時に通ったかもしれない

 秋葉街道、静岡県と長野県の

 境に近い水窪町にある、

 高根城をご紹介致します。 

 (遠江最北端の山城)

高根城 本曲輪に向かう(2021/4/18撮影)

 

 ~高根城の位置~

   地図①を南北に通っている道は

   国道152号線です。

   北は長野県上田市から諏訪、県境の青崩峠

   高根城のある水窪天竜川沿いに下って二俣

   を経て浜松へ至ります。 

   (秋葉街道、塩の道とも言われています)  

 

 

 ①高根城

  高根城は2001年に櫓や城門等を復元し、

  各曲輪と堀切等が整備された武田時代の

  山城構造を直に見ることが出来るところで、

  気軽に山城の雰囲気を楽しむことができます。

  ・・・とネットで分かったので車でパーっと

     行ってきました( ´艸`)

 

  また武田信玄が生涯最後の決戦として、

  元亀3年(1572年)甲府から諏訪を

  経由して三河遠江徳川領に侵攻しました。

  三方ヶ原の戦いで有名な西上作戦です。

  

  その南下ルートの一つである秋葉街道

  沿いに高根城が位置していますので、

  信玄が立ち寄ったかもしれませんね~。

  初回からこじ付けか~  ((((;゚Д゚))))

 

  さて高根城に行きましょうー(⌒∇⌒)。

 

  国道152号線からJR向市場駅

  方向に向かい、少し南へ登ると

  高根城の駐車場に到着しました。  

高根城の駐車場
駐車は充分な広さでトイレもありました。

    

駐車場から高根城に向かう山道

  標高420mとの事ですが、比高は150mで、

  中腹の駐車場まで車で行ったので、山道登頂は

  30分弱位でした。

  そして山頂の本曲輪、復元された門が見えてきました。

高根城 本曲輪 復元虎口、門

  

 そして上写真の位置から城の正面へ振り返ると・・・

 お~~凄い(゚д゚)!

高根城から水窪の町眺望1

  

高根城から水窪の町 眺望2

  雲一つない晴天、ちょっと別世界の絶景でした👍

  伐採されていて、山城では珍しく広範囲が見える。

  ベンチがあって、一人座ってのんびり眺めてました。

  これ目的でも充分かと。

 

  さて城中に入っていきましょう。

本曲輪の門

本曲輪の塀

本曲輪の復元井楼櫓

 さて、本曲輪を抜けると二の曲輪となりますが、

 本来は反対ですよね。

 尾根伝いに攻撃されるのを防ぐ構造と思いますので、

 お城をば~と通り過ぎて、反対の尾根側から再侵入

 します。

 

 

高根城南側に通じている尾根道

尾根から最初の曲輪?(縄張り図では城外)

尾根側から城を見る
正面は三の曲輪で、その手前に2重の堀切が
写真ではうっすら見えます

三の曲輪に向かう

城の反対側の急斜面(上の写真の右手)
ここは登れませんね~

三の曲輪の南側の2重堀切

2重堀切の一つを横から見る

 

三の曲輪から2重堀切を見る

 

三の曲輪から二の曲輪を見る

 

三の曲輪から二の曲輪に向かう

二の曲輪と三の曲輪間の深い堀切

 

二の曲輪から本曲輪に向かう

本曲輪と二の曲輪間の深い堀切

本曲輪に入る前に二と三の曲輪を見る

 

二の曲輪から本曲輪に向かう

 

本曲輪内に入りました



 本曲輪の門を越えると、最初の絶景ポイント

 になります。

 

 お城自体はそう大きくは無いですが、

 その城域は全体が整備されていて、

 イメージし易く復元された良いお城でした。

 

 さて信玄の西上作戦の初期ですが、

 信玄本隊は犬居城を接収し、

 周辺諸城を入手後、二俣城を攻撃します。 

 

 また別動隊として山県昌景東三河方面

 から作手亀山城長篠城、田峰城を主城

 とする山家三方衆を味方につけ、遠江

 侵攻します。

 

 次回はここらあたりで行ったことがある

 お城を紹介したいと思います。

 

 ご高覧ありがとうございました。

  

 

近江八幡探訪4 ~安土城、信長 天下取りへの夢の跡~

こんにちは、rekikakkunです。

 

 安土城の続きですー。

 前回は天守閣まで行って、琵琶湖方面の

 綺麗な景色が見れました。

 

 そして天守閣の石垣土台はぐるっと歩けます。

天守台の土台 (ここから北側の景色が見れました)

天守台の土台 (右手が南側ですね)

天守閣石垣土台から本丸を覗く⇒よく分からない(笑)

 さて天守閣跡を下りて、本丸周辺を散策しましたが、

 本丸の東側方向の、八角平や伝米蔵、伝三の丸

 への立ち入りが出来ませんでした。

 (通行止めになってる)

 よって、来た道を戻ります。

二の丸と本丸の間、左側が天守台の石垣
 これはこれで趣ありますなー(^^♪

 

 黒金門を降りると、登って来た大手道とは

 別の道との分岐点(下の写真)に来ます。

分岐点(下の経路図で赤線と青線の分かれるところ)

 分かり難いので、安土城考古博物館にありました

 全体模型の写真で経路を載せます。

安土城経路図(赤線が登り、青線で帰った)

 赤い線が登り道で大手道から天守閣跡まで行きました。

 

    実は安土城は今回で3回目なのですが、

 過去2回は赤い線しか行ってません。

 

 前回は子供と一緒だったので、大手道の途中で

 座って休んでてもらい、一人で天守閣まで

 走り、すぐUターンしてました。

 (まだ若かったか(・・?)

 

 なのでなんか行った気がしなくて・・・

 

 今回一人なので天守閣石垣土台を歩いて

 景色をゆっくり見れました。

 一人旅行はわいわい楽しい訳では

 ないですが、自由に動けるので、

 嬉しいって感じですね。

 まあ一長一短です。 

 

 そして上写真の青線=総見寺、百々橋口

 方面に初めて降りました。

 この百々橋口(上写真内の一番左)が、

 家臣たちが往来する通常の登城口で、

 その先に城下町があったとのことです。

 

 てこてこ歩くと、信長が安土城内に建てた、

 総見寺跡が見えてきました。

 ここ秀吉や勝家達が通ってたんだねー。

総見寺跡

総見寺案内板

 

    お、西の湖かな~、

 総見寺跡の見晴らし台から

 なかなか良かったです(⌒∇⌒)

西の湖

西の湖拡大 (浮島みたい)

総見寺三重塔
信長が甲賀の長寿寺から移築したと伝わる

3重塔から降りる

総見寺仁王門 
なかなか迫力あり、元亀2年建立、天正4年信長が移築

  総見寺、思ってたより当時の建物が

  しっかり残っててGoodでした。

  しかし現在活動している総見寺は

  大手道にあります。

  え~、通り過ごしてるじゃないか(゚д゚)!

  (帰ってから知りました///・・・)

 

  仁王門から下り、そのまま南面の遊歩道を

  進んで大手門付近まで戻りました。

安土城南側遊歩道

 

  来るときに入った平虎口から出ます。

  この下の写真、正面が駐車場です。

  お寺と役所のからみがある様ですが、

  見た所、この時は全部無料駐車でした。

安土城南面の平虎口

 

  さて次は一度安土城から離れ、すぐ近くの

  「安土城考古博物館」に行きました。

  ここに六角氏の特別展示がありました。

安土城考古博物館

 主に六角氏3代にわたる書状等の展示が多く、

 内容が充実して良かったです。 

 しかし六角氏の展示室は撮影不可でした。

 展示室を出ると///・・・

 もう忘れてしまた(@_@;)

 

    ほんとは中世ずっと近江の領主だった

 六角氏についても書きたかったんだけど、

 持って帰れる頭脳が無かった_| ̄|○ 

 

 撮影可能だったものを載せます。

観音寺城安土城(真ん中の小さな山が安土城

観音寺城模型

安土城模型
いつもこの方向が正面ですよねー、
だけど城下町は左側だけなのがちと不思議


  さて安土城駐車場に戻り、今度は

  安土城を自転車で1周しました。

  (車に折り畳み自転車を持参してます)

 

①お城の南の道 (目の前の田んぼは、当時水堀ですね)

 

②南西角に向かう

③百々橋口(当時の登城口、今はここから入れない模様)

 

④西面(当時は琵琶湖)

安土城西側全体、左が北側先端(当時は琵琶湖)

 

安土城北側の端っこ(当時は琵琶湖)



安土城東側
(右の山が安土城、正面真ん中が観音寺城のきぬがさ山)

安土城東側の道

 

安土城を東から見る
(どこかに搦め手入口がないかな?と思ったのだけど
見つからなかったです。今一天守もどこか分からない)

  自転車で安土城1周(写真①~⑨)しましたが、

  大半が琵琶湖だったこともあるのか、

  何も見つかりませんでした。

  眼力無し(@_@;)

  山裾は家、私有地なので近づけないし。

  まああまり無い写真とは思うので、

  見てやってください(笑)

  

  ただし城全体の規模感は感じられて

  良かったです。

 

  さて、最後に車で西の湖を廻って、

  近江八幡に戻ります。

西の湖

西の湖の道(中央が安土、観音寺城

  すがすがしいドライブと景色でした。

西の湖から見た安土城観音寺城
(左手前が安土城、奥の大きい山が
観音寺城がある、きぬがさ山)

  自分の感じ方は、これを見る限り、

  安土城観音寺城から思いっきり

  見下ろされてますよねー。

  観音寺城は信長時代の改修もあったようですが、

  はっきりいって安土城はちっぽけに見えますねー。

  縄張りも、攻めにくいとは思うが、

  そんなに堅牢な感じじゃない。

  多分上杉対応の一時的な城、

  (権威を見せる城)だったと感じます。

 

  でも当時最先端かつ事実上天下人の

  財力で作った壮麗な城郭。

  関係者により発掘して復元整備を

  してくれたおかげで事実を知り、

  またどんどん歴史好きに、

  そのイメージを膨らませて

  くれました。ほんと感謝です。

 

  信長が天下取りの夢、最初に行動

  を起こした上洛戦、観音寺城

  そして信長がほぼ天下、夢を手中

  にした集大成の安土城

  2つセットでの探訪がお勧めです~。

 

  これで安土城探訪を終わります。

  ご高覧ありがとうございました。
 
 

 

近江八幡探訪3 ~安土城、信長 天下取りへの夢の跡~

 

こんにちは、rekikakkunです。

 

 近江八幡探訪3は、観音寺城のお隣、

 有名な安土城に行ってきました。

    学術的な事は分からないので、

 写真を中心に載せていきますね~。

 

 前回の観音寺城探訪後、近江八幡のホテルに

 宿泊しました。

 ホテルの部屋から丁度安土城観音寺城

 見れました。

 部屋から目的地が直接見えると、来たんだな~

 と感じますよねー(⌒∇⌒)

近江八幡のホテル部屋から安土城観音寺城を撮影

 因みにホテルは「グリーンホテルyes近江八幡さん」。

 15:00から(つまりチェックイン)から、

 朝食会場でドリンク、ワインを無料提供してたり、

 大浴場もあったりで大満足でした。

 

 さて、宿泊地の近江八幡から車で10分も

 かからない位。

 安土城到着前に、せっかく時間あるので

 西から安土城観音寺城が見える所を探して、

 撮影しました。

安土城観音寺城 遠望(西から)

 

 さあ、安土城駐車場で車を降りて、

 お城に向かいます。

 駐車場からすぐ、行幸用に備えられたと推定

 される平虎口が3か所ありました。

 京都内裏の1辺3門と合わせたとのことです。

安土城 南側石塁と大手三門

 

  そして入城手続きし、直ぐに大手道です。

復元された有名な直線大手道

 大手道を登ってすぐ左手には「伝羽柴秀吉邸跡」

 があります。

羽柴秀吉邸跡①

羽柴秀吉邸跡②

羽柴秀吉邸跡③

 秀吉邸跡はぐるりと回れるんですねー。

 ここだけでも結構なボリューム感。

 石垣の脇道を歩けてうれしいです。

 

 さて、大手道に戻り、登っていきます。

大手道② 大手道を登っていきます

大手道③ 大手道で最初の曲がり道です

 少しくねくねを越えると、

黒鉄門に至る道

黒金門入口
(ここから信長の居住区域、城の中枢になる様です)

黒金門標識

黒金門を入るとコの字に曲がる

安土城主郭部図

 黒金門を過ぎると・・・、

 安土城はそのほとんどが積み直し

 されている石垣とのことですが、

 信長時代の石垣とされている二の丸の

 石垣が現れました。

 なかなかの迫力です。

二の丸の石垣

二の丸へ進む

二の丸入口

  上の写真を見ると確かに当時の石垣に見えます。

  階段を上り、二の丸に入ってきました。

二の丸

信長廟

二の丸から見た本丸の石垣

 上の写真の左手が多分二の丸東溜り。 

 この石垣の手前から礎石、焼け跡が見つかり、

 本丸天守に接続された舞台の様な遺構で、

 信長が姿を現していたかもしれない様です。

 確かに城下町の方向ですねー。

本丸石垣 天正っぽい

天守入口

天守入口から見た本丸跡

 この本丸跡には建物礎石が残っていて、天皇の御殿と

 同じ建物基礎だったとのことです。

 天皇を迎えようとしたのか?

 天守から御殿を見下ろそうとしたのか?

 その議論は他に方に任せて・・・///

 

 さていよいよ天守閣跡に向かいます。

天守閣跡入口

 

 安土城のてっぺん、天守閣跡に到着しました。

天守閣跡

 下の天守閣説明板を見ると、上写真の礎石部は

 天守閣の地下1階であり、また天守閣自体は

 今見ているこの礎石部の2倍の大きさとのこと。

 ほぼ日本初めての本格石垣城郭としては、

 嘘みたいに大きいですねー(@_@;)

天守閣跡説明

 

 天守閣は礎石部の周辺を歩くことが

 出来るんですねー。

天守閣土台を歩く

 土台を歩くと色々景色が見れましたので、

 載せますね。

天守からの眺望

 

 すいません、時間が経ってどの方向か

 分からなくなってました。

 ざっくりは北の方向なので、

 琵琶湖及び干拓地方向と思います。

 当時は天守から琵琶湖を一望できますね。

 

 日本最初の本格天守は完成から3年後の

 1582年、天正10年に本能寺の変の後、

 6月14日から15日にかけて短い命で

 焼失してしまいました。

 

 何故焼失したのか?

 あほな信雄がという話もありましたが、

 

 燃えて一番得する人は?

 これから天下を取るうえで、

 前覇者の威光は不要。

 だが自分で主君の城を燃やした事

 には出来ない。

 6月13日山崎の合戦で勝利し、

 6月14日から燃えた。

 

 となればただ一人。

 私の推察です(笑)

 

 次も安土城続きます。

 ご高覧ありがとうございました。

近江八幡探訪2 ~観音寺城、頼朝旗揚げ以来の名門佐々木六角氏と信長上洛戦~

こんにちは、rekikakkunです。

 

  前回は観音寺城の本丸跡まで行きました。

  ここから、下の探訪経路図で

  ③本丸から④に向かいましょう。_(._.)_

 

  ちなみに、観音正寺裏駐車場から

  ①を経由して、お寺の入口②までは

  徒歩13分。

  

  観音正寺本殿からは山道に入り、

  ③の本丸までは8分程でした。

観音寺城縄張図  探訪経路

 ~③本丸から④平井丸~

  本丸を出て、石階段を降ります。

本丸の石階段

  石階段を降りてすぐに、3方向の分岐点に戻ります。

3方向の分岐点に戻る(縄張図③の位置)

  上の写真の左側、屋敷跡の方向に足を

  向けると、この道(下の写真)です。

  ここが一番不安な感じですよね、、、  

  25年前は本丸のみでここは

  行かなかったです。てか知らなかった(-_-;)

分岐点③から屋敷跡方向へ山道を下る
(夏だと草で道が見え難いかも)

 

  分岐から下ってほぼ1分で「大石垣まで7分」の

  標識がありました。

  

  観音寺城の遺構としては大石垣が一番迫力があって、

  景色も最高なので、目標の場所になりますよね。

  

  ただしこの時点では本当?~って雰囲気です(笑)

  (なので大石垣まで7分ぽっきりだよ、って案内は

   なかなかタイムリ-で良いです😊)

屋敷跡方向に行くとすぐに標識がありました

 

  分岐点から3分程で視界が開けて広い道になり、

  石垣も見え、安心しました。

平井丸の石垣が見えてきました

平井丸の入口

  ここ、観音寺城の紹介でよく出る処ですよね。

  確かに迫力ありました。

  こんなのが隠れているんですねー。

  確実に戦国時代当時の遺構👍

  これぞ山城巡りの醍醐味っすね😊

平井丸の入口(拡大)

 

平井丸内の標識

 

平井丸の石垣、角は算木積になってますよね~

 

本丸から平井丸に来た道

 

 ~④平井丸から⑤池田丸~ 

  上の写真の右手、平井丸の大きな門跡の正面が
  次の曲輪への道です。

  

平井丸から池田丸へ進む道
(またタイムリーに看板があります。大石垣まで5分)

池田丸にもうすぐで着きます

池田丸の入口
(看板は大石垣まで3分)

池田丸の中に道が通ってます
(探訪経路図のちょうど
⑤の位置ですね)

池田丸の出入口石垣

池田丸の石垣
ちょっと意外、しっかり残ってますね~

 

 ~⑤池田丸から⑥大石垣~

  池田丸を出ると周りが明るくなり、

  前方が開けてきました。 

池田丸を出て大石垣に向かう道

大石垣へ向かう途中

少しぐるっと回って展望地に来ました
観音寺城の旗が立ってます

 

展望地からの眺望
(南方向でお寺での写真とほぼ同じ方向ですが、絶景👍)

  この展望地は実は大石垣の上に立ってます。

  ちょっと右脇から降りて見ると・・・

大石垣1

  こ、これは凄い(@_@;)

  大石垣が見れました(^^♪

  今回探訪で最目的の場所なので、沢山撮影~😊

 

  下写真の石垣の右手の山は

  箕作城跡だと思います。

  観音寺城と箕作城の間に中山道

  通っていたとのこと。

大石垣2 (かっこいいな~)

大石垣3 (かっこいいな~2)

 

大石垣4 旗が上に見えます

 

大石垣5 大石垣の脇を歩けました
(通り抜けられます)

大石垣から南東方向を見る

 

 ⑥大石垣~⑦木村丸

  大石垣の先を少し行ってみました。

木村丸

 

木村丸の先にある縄張図に載ってた竪堀

  縄張図に載ってた竪堀が見れて一人、

  ニヤリと満足したのでこれで戻りました。

  周り誰も居ないから、ばれてないよ(笑)
  

平井丸に戻った。映えるので再撮影

 

  観音正寺を出て、戻ってくるまで約1時間半でした。

  縄張図を見ながら行くと良いと思います。

  また行きたい。

  今度は冬の見やすい時期に佐々木城の方も・・・///。

 


  ~外から観音寺城、箕作城を見る~

   

繖山(きぬがさやま)遠望

  大石垣と観音正寺が正面に見える処に来ました。

繖山(きぬがさやま)拡大

大石垣拡大 旗が見えます


  さてもう一つの目的が、信長の上洛戦、  

  地図は、①:観音寺城、②和田山城、③箕作城、④愛知川

 

  

  足利義昭を奉じた織田信長が永禄11年

  (1568)9月7日岐阜城を出発、

  京都へ上洛し、天下統一戦が始まります。

  その最初の敵対勢力が近江南半国の領主、

  六角氏でした。

 

  9月11日、信長軍は愛知川の北東岸

  (上のマップ④の右上側)

  に集結し観音寺城と対峙しました。

  繖山の西側は当時は安土山まで琵琶湖

  だったから、東側から進軍ですよね。

 

  六角氏は①観音寺城を中心に、④愛知川から見て

  左手に③箕作山、右手に②和田山城の3つに

  兵を分け、最初に一番落とし易そうな

  和田山城に信長軍が取り付くだろうから、

  観音寺城と箕作城から挟撃しようと、

  策を建てたみたいです。

  

  愛知川から戦場の位置関係を撮りたかった

  のですが、うまく撮れる所が見つかりません

  でした。。。_| ̄|○

左が箕作城、右が観音寺城、その右の
写ってないところに和田山城 (北東から撮影)

 

  さて、9月12日攻撃の火ぶたが切られ、

  信長は最初に箕作城(みつくりじょう)を

  攻撃しました。

  

  その際、元々大軍だったので、和田山城と観音寺城

  から挟撃されないよう抑えの軍勢を配備したので、

  六角側は挟撃策を取れず、箕作城は攻撃初日の

  夜襲により1日で落城しました。

  

  翌日、夜が明けたら、観音寺城和田山城の六角軍

  は、ほとんど退散してしまったとのことです。

  (そもそも六角家は内紛状態だったみたい)

 

  よって観音寺城での戦いは、

  ほぼ箕作城の戦いですね。

 

  下の写真前面に信長軍が観音寺城封鎖の軍を

  展開していたんだろうと想います。

観音寺城を南から見る
(正面観音寺城、写真のほぼ中央が大石垣)

 

左が観音寺城、右の山が箕作城
(南西から撮影、見えませんが写真の左手が安土)

  鎌倉以来の名門六角氏にたった1日で

  勝った事は、京都を押さえていた三好松永

  や京都の公家さん達に相当なインパク

  があったと予想出来ますよねー。

 

  というのも翌日、安土考古学博物館の六角氏

  の展示場に行ったのですが、

  信長と対した六角承禎及びその父六角定頼や

  祖父六角高頼は隣接する中央勢力、幕府と

  協力、敵対を繰り返しながら、簡単には

  屈服しないぞという気概、実績を持って

  いたんですね。

 

  そして当時としては最大規模の観音寺城

 

  その六角氏を信長は1日で、まあ実質

  滅亡させてしまったのですから、

  なかなか・・・恐ろしい、スゲー。

  

  締めとしてはこんな感じです。

  なんとか表題の上洛戦に繋げた(-_-;)

  

  次はお隣、安土城をご紹介致します。

  信長の栄華と、まぬがれなかった

  終焉の舞台。

  このブログを見て頂いてる方は、

  ほぼみなさん行ってますよね。

  自転車でぐるっと1周してきました。

    

  ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

近江八幡探訪1 ~観音寺城、頼朝旗揚げ以来の名門佐々木六角氏と信長上洛戦~

こんにちは、rekikakkunです。

 

 今回は安土城考古博物館で近江の守護大名

 六角氏の特別展示会が6/5まで開催されて

 いるのを知り、2回目の滋賀県探訪を計画。

 

 近江八幡を宿泊拠点とし、上記及び

 六角氏の主城である観音寺城と、

 信長の安土城を中心に探訪してきました。

 

観音正寺探訪~

  初日高速を使って八日市ICを経由して、

  12:00頃に観音正寺裏駐車場

  に到着しました。

  観音寺城へは、城域内で頂上に近い

  観音正寺を目指し、そこから行くのが

  一般的です。

 

観音寺城観音正寺)地図
(中央に観音正寺、その左に主な観音寺城跡が載ってます)

 

  観音寺城へは登山道(赤色)が3つあります。

   登山道①:表参道岡寺コース

   登山道②:表参道桑実寺コース

   登山道③:裏参道コース

 

  また車でのアクセス(青色)は2経路あります。

   自動車道①:表参道コース

   自動車道②:裏参道コース

 

  下にアクセス経路を追加しましたので載せますー。

観音寺城(観音正寺)アクセスマップ

 

  今回は自動車で②裏参道駐車場まで行き、

  そこから徒歩で観音正寺までは行きました。

  高低差がほぼ無い整備された歩道なので、

  特に山登りを目的にしてない場合は、

  一番簡単でおすすめです。

 

  さて・・・

  実は、観音寺城はその昔(25年位前?)

  奥さんと初めて旅行に行った時に、

  少しだけ訪れてます。

 

  この時、自分は観音寺城には車では

  行けないと思い込んでいたので、

  麓の駐車場に車を止めて、

  今思えば表参道石寺ルートから

  登りました。

 

  そして観音正寺にやっとこさ着いたら、

  ・・・ (゚д゚)! 

  車の影が・・・

  なんとそこに車で来てる人が居る

  じゃないか( ;∀;)

 

  表参道は高低差が250mもあって

  1時間かけて登るのに対し、

  裏参道は高低差1mを15分程歩いて

  観音正寺に到着できます。

  そして記憶では表参道は、半分壊れている

  石階段をずっと登ってへろへろに( ;∀;)

  (25年前ですが)

 

  奥さんには事あるごとに

  言われ続けています。

  「観音寺城では騙されたよ、って」

  ・・・(´・ω・`)

  以降はちゃんと下調べをする様に( ^ω^)。

 

  なんて脱線話をしていたら・・・

  観音正寺裏駐車場に到着しました。

観音正寺裏参道駐車場

裏参道駐車場から観音正寺に入ります

裏参道駐車場から観音正寺に向かう
(道が平ですねー)

 

  さて、ここから観音寺城の写真が出始めます

  ので縄張図を掲載します。

観音寺城 縄張図

観音寺城 探訪経路図

 

裏参道駐車場から観音正寺に向かう途中に佐々木城跡への
階段がありました(下の探訪経路図の①の場所)

 

観音正寺入口から見れる南方向の綺麗な眺望
(下の探訪経路図の②の場所)

 

上写真より西方向の眺望

  真ん中に特徴のある山があったので、

  グーグルマップ等で調べると近江富士

  呼ばれる三上山でした。

  またこの方向の先が京都の様です。

  

観音正寺

  観音正寺ですが、お寺の紹介によりますと、

  かの聖徳太子繖山(きぬがさやま)で千手観音を彫み、

  お寺を開かれました。

  この繖山が観音寺城観音正寺の舞台です。

  現在は西国第三十二番札所として全国から

  巡礼者がお参りに来ています。

観音寺城探訪~ 

  さて、観音寺城観音正寺と同じ

  繖山の南斜面に展開されています。

  観音寺城主は近江の守護六角氏です。

  

  六角氏は近江佐々木氏の出で、

  現在の大河ドラマの時代では、

  佐々木秀義、定綱父子等一族が、

  源頼朝が伊豆で旗揚げした時から

  味方し、鎌倉幕府設立に手柄を

  立てています。

  

  そして定綱は出身地の近江守護を

  獲得しましたが、

  その子孫は六角氏、京極氏、高島氏、

  大原氏の4家に分割しました。

  嫡流は六角氏でしたが、各家毎に

  幕府に従っていたので、近江全体の

  統一感が無かったようです。

  

  鎌倉幕府末期、京極家からは

  ばさら大名で有名な佐々木道誉

  勢力を伸ばしました。

  関ケ原合戦等でも京極高次

  大津城(近江)で活躍してますよね。

 

  観音寺城の築城、沿革はちと複雑ですねー(笑)

  佐々木城入口の写真を掲載しましたが、  

  佐々木道誉南朝との戦いで籠ったとの事です。

  (ってことは、南北朝時代

  戦国時代初期に大規模な山城が増築

  されていき、代表的な山城として、

  現在、日本五大山城の1つになってます。

  

  さて、話が長くなってしまいました。

  観音正寺の左脇の道、又は本堂裏手

  から観音寺城に向かいましょう。

 

観音正寺から180m程進んだところ

観音正寺観音寺城本丸、観音寺城曲輪跡の3つの分岐点
(探訪経路図の③の場所)

  まず最初に上の写真真っすぐに進んで、

  本丸跡を目指します。

  基本案内看板が分岐点にしっかりあるので安心です😊

 

  すぐに大規模な石階段が見えてきました。

本丸東側虎口前の石階段

  石階段を登ると、本丸跡に到着しました。

本丸跡、説明板

本丸北側の虎口(よく写真で使われる場所かな?)

  25年前の写真を探して見たら、ここの

  石垣配列が同じでちと感動でした(〃ノωノ)

  確かここでUターンしてます。

  (当時はネットも無く、

   あまり分かってなかったです)

 

本丸北側の虎口(本丸外側から撮影、上写真の反対側)
桑実寺コースから来ると、ここに到着すると思います。

本丸を囲う土塁、石垣跡

本丸の石垣、良く残してくれました

  本丸だけでも結構土塁、石垣が残っていますねー😊

 

  観音寺城は標高約400m、

  その後の時代の安土城は約200m。

  2倍の高い山に石垣造りの山城を

  戦国初期に造ったところが凄いですねー。

    

  今回は本丸までとします。

  次回はもっと壮大な石垣跡になりますよー。

  ご高覧ありがとうございました。