こんにちわ、rekikakkunです。
武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその
時系列に沿って進めています。
私の武田信玄ゆかり探訪記事は、下表で計画しています。
間違ってる点があるかもしれませんがご容赦下さい。

武田信玄ゆかり探訪の表
赤字の探訪場所は既に訪問済です。
昨今の熊騒動で、相当数の山城には行き難くなって
しまったので、騒動前におおよそ行けて良かったです。
前回まで、No.1生誕地の①積水寺から、
No.5諏訪侵攻の⑫長窪城までをご紹介しました。
今回より、No.6伊那侵攻編を進めていきます。
(上伊那、下伊那は分けず、お城中心の探訪となります)
6.伊那侵攻
⑬高遠城の攻略
天文11年(1542年)6月の諏訪郡攻略後、
諏訪領地は、宮川を境に北東は武田家、南西は高遠家
に分割されました。

武田家と高遠家による諏訪領の境、
現在の宮川(おおよそ黄色線)です。
しかし高遠家の当主高遠頼継は、諏訪惣領家を継ぎ、
諏訪全土の領有を欲していたため、同年9月に
早くも両家は宮川付近で衝突しました。
結果は高遠勢が敗北し諏訪領から撤退しました。
天文12年(1543年)武田晴信は諏訪領統治
を固める為、上原城を修築し、そこに諏訪郡代と
して重臣筆頭格の板垣信方を配置しました。
(養子は入るが、明治の板垣退助の先祖)
そして天文13年(1544年)、第一次上伊那
侵攻を行いましたが、この時の武田軍は攻略を
失敗し、撤退してます。
翌天文14年(1545年)4月、武田晴信は
第2次上伊那侵攻を行います。
諏訪上原城の南、杖突峠から南下して高遠城を
急襲し、高遠城は落城、高遠頼継は逃亡しました。

上原城から見た杖突峠。この峠を越えて南下すると高遠に至る

杖突峠を越えて高遠城へ至る地図(黄色矢印)
それでは、高遠城に向かいましょう。

駐車場に到着しました。とても広いです。

ここは勘助曲輪と命名されている様です。
(ただし勘助とはほぼ関係なさそう)

高遠城下と伊那の山並みが綺麗です
山並みの麓に伊那盆地があり、城下町はその段丘の上、
高遠城はそのまた上の河岸段丘を利用してる様です。

大手門跡

大手門跡 説明板
武田時代の大手門は東側にあり、この西側は断崖になっていたが、
平和になった江戸時代に、城下町発展と共に東側に築かれたそうです。

よってこの大手門脇の石垣は江戸時代当時の貴重な遺構だそうです。

大手門から入り、城内はさらにこの斜面を登ります

北側の入り口かな?

北側の空堀

この地図では左上の所が北側の入り口になります。
(大手門跡は左下の所です)

二の丸跡の散歩道
この辺りから、どこの写真か分からなくなって
きました・・・。なので適当になりますm(__)m

空堀跡

本丸に入る桜雲橋と問屋門

問屋門は、城下からここに移築されたそうです。

本丸跡
二の丸も本丸も広くて、大きな城だったようです

神社があります

武田家滅亡時に最も頑張った仁科信盛と藤原氏を合祀した神社

どこかの断崖

本丸から伊那盆地方向を見る

南曲輪

南曲輪には会津藩祖保科正之が居たそうです。
彼は徳川秀忠の子ですが、ここに住んでいた云われや、
後に家光と対面し、実直な人柄で信頼を得て幕政参加等、
会津若松城に行く機会がありましたら語りたい方ですね~。

確か南側の空堀と思います。
堀底を歩けるなんて、とてもラッキーです😌

堀底と曲輪の斜面👍

綺麗な空堀。気分爽快とはこのこと・・・。

迫力のある空堀
いや、ちょっと高遠城で堀底を散策できると
思ってなかったので、嬉しいです。(⌒∇⌒)
ただこれに満足してか、その後の写真が無かったです。
高遠城は上田市から杖突峠、青崩峠から浜松市に至り、
日本の中央を南北に進む重要な街道(現在の県道152号線)
に位置しており、武田信玄の西上作戦等、馴染み深いですね。
高遠頼継はその後武田家に従属、離反を繰り返し、
高遠城落城の7年程後に自害させられたそうです。
その後高遠は、頼継の家臣保科氏が治め、
前述の保科正之へと繋がっていきます。
また彼の系譜は会津松平家となり、保科家自体は
上総の国で大名として江戸時代を生き抜いてました。
この様に高遠城は数々の歴史ドラマが刻み込ま
れていて、とても語り尽くせません。
以上で終わります。
次回は同じく諏訪氏の分流である
藤沢頼親の福与城です。
ご高覧ありがとうございましたm(__)m