歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その11)>いよいよ 豊臣軍による小田原城包囲(2/2)

こんにちわ。rekikakkunです。

小田原北条氏の防衛戦を綴っていまして、

前回は、下記の9.4).⑦まで進んでいます。

 

9.小田原城の包囲

 1)小田原城包囲までの流れ

 2)小田原城包囲戦 布陣図

 3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類

 4)小田原城包囲戦 陣地探訪

  (★1)東海道方面

    ①豊臣秀吉本陣

    ②石垣山城 

    ③堀秀政陣所

    ④富士山砦

    ⑤小田原城 三の丸外郭新堀土塁

  (★2)尾根筋、大堀切ルート

    ⑥水之尾口櫓台

    ⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣 

 

 今回、4)小田原城包囲戦陣地探訪

 続きでからとなります。

 

 下の布陣図の〇番号と、記事の番号を同じにしてます。 

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

 

  山内一豊、⑨羽柴秀次陣所

   では、⑧、⑨を探していきます。

   まず起点は小田原城の西端、水之尾口櫓台です。

   (上の布陣図では⑥の所です。)

⑥水之尾口櫓台

 

  上の写真水之尾口櫓台から西側の尾根筋を進みます。

  (下の拡大図で見ると、黄色線が尾根筋で、

   左方向に進みます)

<水之尾口櫓台西側の布陣図拡大>

 

  そうすると水之尾バス停がありました。

  上の図では緑〇印の場所です。

ここが水之尾バス停
(この道が尾根筋)

 バス停付近から北側を見ますと、

 丘陵が見えます。

水の尾バス停付近から北側を見る

 布陣図の位置を確認し、

 その丘陵辺りが山内一豊と⑨羽柴秀次の陣所と

 推定しました。

山内一豊羽柴秀次陣所

 

  そこから少し西に進むと、その丘陵方向(北側)

  へ通じる道がありました。

山内一豊陣所 と 青線の道

  <水之尾口櫓台西側の布陣図拡大>青線です。

 

  この布陣図とグーグルマップ、小田原厚木道路

  現地で見た道の4つが、青線の道で合致したので、

  道の方向、角度から山内一豊の陣所と感じました。

 

  まあ少なくとも、この写真の丘陵周辺に、

  堀尾吉晴中村一氏を含めた豊臣軍が

  多数布陣していたのだと思います。

 

 (★3)小田原城北西面の谷津丘陵と相対峙する豊臣軍

  黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷 陣所

   さて、今度は(★3)の小田原城の北西側を

   探します。下の布陣図で、青で囲んだ所です。

小田原城 北西側

 

   その小田原城の北西側は、谷津丘陵の外側に

   総構え(堀とかき揚げ土塁等)を構築し、

   勘弁してくれよ~っていう位の強い防御力に

   なっていた様です。

(参考)谷津丘陵側の総構え遺構の一部(稲荷盛)
これがもっと深く、高くなっていたのでしょう。

 参考に、小田原城西端の水之尾口櫓台から見ると、

 下の図と写真になります。(前回の投稿でご紹介)

黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷 他 の陣所 布陣図

黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷 他 の陣所遠望👍

 

  小田原城大堀切西堀から豊臣陣地を見る

   さて、ここから水之尾口櫓台から離れ、

   近くの大堀切西堀を再探訪致します。

 

   大堀切西堀は下の布陣図の青丸部です。

   青丸周辺から、黄色丸の豊臣軍を

           見渡せる所を探します。

大堀切西堀付近から豊臣陣地を見る

 

    大堀切西堀の部分を拡大すると、下図になります。

大堀切西堀 拡大図
(赤線の西堀と、緑線の総構えの堀の合流点が青丸です)

  上地図の赤線(西堀)を通って、

  青丸の合流点に向かいます。

大堀切西堀を進む
(この堀底を先へ進みます)

 

上の写真(堀底)を進むと、前方が開けてきました

2023年10月の西堀と総構えの合流点

  ここ大堀切西堀を進むと、総構えの堀と合流する

  珍しい場所と現地の説明に書いてあったので、

  昨年10月に行ってみましたが、上の写真の通り

  だったので、前回はここから先には行きませんでした。

  (以前投稿済の写真です)

  

  今年1月再訪時、まあもう1回行ってみるか程度で

  行ってみると・・・、

  なんと!合流点が綺麗に整備されてました。😀😀😀

  (四角いコンクリートで見比べると明らかです) 

大堀切西堀総構えの堀の合流点
(右下の方向に西堀。中央斜めが総構えの堀。)

  

上の写真の左側は、こんなに総構えの堀が
はっきり残っていました。

総構えの堀を進む

総構えの堀を西へ進んでいくと、堀跡が見え難くなってきました。
写真の左上が水之尾口櫓台付近だと思います。

  さて、西堀から総構えの堀まで来ることが出来、

  かつ北方の見晴らしがよいので、豊臣軍を見渡します。

西堀と総構えの合流点から豊臣軍を見る 1

西堀と総構えの合流点から豊臣軍を見る 2

黒田官兵衛陣所 拡大(右側の丘陵)

少し別の場所から豊臣陣地を見渡す

   大堀切西堀総構えは圧巻でした。

   また、豊臣軍も良く見渡せます。

   対峙している緊張感を感じながら、

   のんびり見てました。😊

 

  小田原城 山の神堀切から豊臣陣地を見る

   今度は少し東に進んで山の神堀切から

   豊臣方の陣地を探してみます。

青丸の山の神堀切から黄色丸の豊臣軍を見ます。

山の神堀切 入口

  山の神堀切谷津丘陵を二分する堀切です。

  実はここも総構えと繋がっています。

 

山の神堀切の中を進みます

突き当たると、総構えが正面を横切っています
(山の神堀切の堀底北端から、正面の総構えの堀を見てます)

 

  さて、山の神堀切から豊臣軍を見てみます。

山の神堀切から豊臣軍を見る 1

山の神堀切から豊臣軍を見る 2

  小田原城の一辺、北西面の正面には、対峙する

  豊臣軍の丘陵があり、ほぼほぼ黒田官兵衛の陣所が

  どこからも見えますね~。

  (違ってたら、え~ってなっちゃいますが(@_@;))

 

  ~今度は逆に黒田官兵衛達、豊臣軍が在陣していた

   丘陵から小田原城を見てみます。~

 

  しかしその丘陵に行ってみると車を停める所が

  無いのと、道から小田原城側はほぼ全て農園の

  木々や住宅で見えなかったので、隙間を見つけて

  道路から少しだけ撮ってきました。

  (小田原城を見る為の場所が欲しい😢)

 

 黒田官兵衛陣所付近から小田原城を見る~

黒田官兵衛陣所から小田原城を見た方向

黒田官兵衛の陣付近の隙間から、小田原城を撮影

上の写真を拡大。
写真中央左上辺りが山の神堀切

 

 蒲生氏郷陣所付近から小田原城を見る~

蒲生氏郷陣所付近から小田原城を見る
(見た方向をA,B,Cで表示)

  (方向A)

蒲生氏郷の陣付近から小田原城を撮影 (方向A)
小田原城の北端、城下張出付近)

  (方向B)

蒲生氏郷の陣付近から小田原城を撮影(方向B)
山の神堀切付近)

  (方向C)

蒲生氏郷の陣付近から小田原城を撮影(方向C)
小田原城の西端、水之尾口櫓台付近)

  やっぱり小田原城谷津丘陵と、それに相対峙する

  黒田官兵衛蒲生氏郷ら人気武将の布陣場所から見る、

  小田原城が当時の雰囲気を最も感じられる気がします。

 

  小田原城側から見ると、包囲する豊臣軍の圧を

  感じますが、逆の豊臣軍側から見ると、小田原城

  その威容を相当保持していた事を感じます。

  

  つまり上の3つの写真に写っている小田原城

  谷津丘陵は、豊臣軍側から見ると、丘陵全てが

  総構えの堀、土塁、斜面等の防御施設として

  見えてたと思うので(@_@;)

 

  なので北条氏も籠城したくなる気も分かる様な・・・。

 

  個人的にはそれが感じられて大満足しました。😓

 

 (★4)小田原城の東側、足柄平野方面に布陣する

     織田信雄徳川家康の大軍

 

  ここはあまり雰囲気が無いのでさらっと書きます。

 

  当時、徳川家康は150万石弱、織田信雄は100万石弱位

  だった様で、小田原参陣武将の中でも、秀吉の次の

  No.2、3の実力を占めました。

  なのでこの2大名で東側大部分の包囲を任せられてた様です。 

  (ただちょっと思ったのは、後に秀吉はその2大名分の

   戦力を家康一人に渡しちゃったんだよな~。なんで?)

織田信雄軍 と ⑮徳川家康軍 の布陣場

  織田信雄陣所

   そもそも陣所は分からなくて、行ってないので、

   先に使った写真を載せます。

織田信雄が展開していた場所と推定

 

  徳川家康陣所

   ここには陣所の記念碑があります。

   グーグルマップに載ってますので、

   ちょっと狭い道ですが、少しだけ

   訪問出来ると思います。 

徳川家康陣地跡1

徳川家康陣地跡2

徳川家康陣地跡3

徳川家康陣地跡4
(上の記念碑の反対側。なんとなく四角い区画。)

  まあ小田原城が見えないので記念碑が建ってる

  としか感じないんですが・・・。

 

  以上で小田原城包囲編を終わります。

  長々お付き合いありがとうございました。_(._.)_

 

  次回からいよいよ(やっと)、関東のお城の

  探訪になります。

  多分、時系列的に玉縄城かな?

  

  ご高覧ありがとうございました。

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その10)>いよいよ 豊臣軍による小田原城包囲(1/2)

こんにちわ。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

やっと小田原城包囲戦の布陣巡り

まで辿り着きました。🤣

(まだそこかい(@_@;))

 

今回のシリーズは、これ(布陣巡り)

が目的だったと言っても過言ではありません。👍

 

小か中学生の頃、家族と猫も一緒に小田原城

連れて行ってもらい、布陣図を見て感動

したのを覚えています。

 

今回は、何度か小田原に行って、布陣図

とグーグルマップを見比べて、ここかな?

と探訪してきました。

 

間違いもありそうですが、

おおよそで見て下さいね。_(._.)_

 

9.小田原城の包囲

 1)小田原城包囲までの流れ

  1590年(天正18年)、

   3月29日 山中城落城及び周辺の城攻略。

   4月4日  徳川家康ら諸将の小田原城包囲が完了。

   4月5日  豊臣秀吉早雲寺を本陣とする。

   4月8日  織田信雄蒲生氏郷韮山城包囲軍

         一部を残して小田原城包囲に参加。

 

  山中城を攻略してからほぼ1週間足らずで、

  約18万もの大軍が小田原城を包囲しました。

 

 2)小田原城包囲戦 布陣図

   現地の公式案内板であると共に、

  背景に現在の道が薄く載っているので、

  この布陣図で布陣位置を推定してみます。

小田原城包囲戦 布陣図小田原城史跡の説明板)

 

  上記小田原城包囲戦 布陣図を基に、下のグーグルマップに

  豊臣方の陣地と小田原城の遺構を表示しました。

 (ただし、陣地跡が無い所は近くの施設で位置表示)

 

 グーグルマップは番号クリックしますと案内が出てきます。

 作ってみましたが、なんだか分からないですね~😓

 

 色別標高図に小田原城輪郭に載せると、

 少し見えてきました。😃

 (上と下のマップの〇番号は合わせています)

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

  ※すいません、水軍は無しです。_(._.)_

 

 3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類

  こうして布陣図や地形を見て自分なりに

  整理しますと、小田原城包囲戦の布陣

  探訪するのに、下記の4つに分類されました。

 

  (★1)まず、①~⑤小田原城南西方向、

      箱根、東海道方面です。

      包囲軍は秀吉の本陣とその手前の

      石垣山周辺の陣地となります。

      ここは小田原城三の丸から良く見えます。

 

  (★2)⑥~⑨は、小田原城唯一の尾根筋侵入ルート

      に対し、城側は3つの大堀切及び水之尾口櫓台

      が構えられています。

      その尾根筋を囲むように豊臣軍が布陣してます。

      そして標高図を見ると⑥水之尾櫓台は、小田原城

      で最も高く、ほぼ全方位が望めたかもしれません。      

 

  (★3)⑩~⑬小田原城北西面の谷津丘陵

      その正面の丘陵に、北条軍と豊臣軍が

      対峙しており、相手の丘陵を見渡せるので、

      当時の雰囲気が最も感じられます。

 

  (★4)小田原城の東側、足柄平野⑭、⑮には、

      秀吉に次ぐ大名No.2の徳川家康軍と、

      No.3織田信雄軍が大軍で展開してます。

     (ここはもう市街地化してて全く分からなかったです。)

 

 4)小田原城包囲戦 陣地探訪

  それでは、陣地探訪に向かいます。

  既に紹介済や後述予定の場所は、

  さらっと掲載します。

  (マップと下の〇番号も合わせています)

 

  (★1)東海道方面

   豊臣秀吉本陣(開戦時)

    開戦当初の大将秀吉の本陣は、

    現在の箱根湯本駅の近くにある

    早雲寺でした。(前回ご紹介済)

早雲寺境内


  ②石垣山城 

   いずれ後述予定の石垣山城の位置です。

   6月に入り、早雲寺から本陣を移しました。   

石垣山城雄大な石垣

石垣山城から小田原城を見る
(鉄塔の左側に小田原城天守が見えます。
見えている街並の8割位が当時の城域でしょうか。
凄い(@_@;))

 

  堀秀政陣所

   石垣山の東麓、海蔵寺堀秀政

   布陣したとの事です。

   丁度上の写真の麓位の位置です。

   (お寺とお墓があるのでグーグルマップ

    に載っています。)

 

   堀秀政の名前は耳にしますよね~。

   美濃出身で13歳にして信長の小姓から始まり、

   信長、秀吉に使え、北の庄、長久手、九州、

   小田原等の数多くの天下統一戦に参加しました。

 

   有能と謳われた秀政でしたが、

   小田原参陣中の5月27日、病により

   38歳の若さで陣没しました。

  

   蒲生氏郷と共にとても残念`(*>﹏<*)′

 

海蔵寺入口
石垣山城へ向かう山道の途中です)

 

堀秀政の墓

海蔵寺堀秀政の墓 説明板

  海蔵寺堀秀政陣所)から小田原城を見てみます。

堀秀政陣所から小田原城を見る
(中央右寄りに小田原城天守が見えます。写真右手が相模湾

  上写真正面の丘陵は全部小田原城です。

  こう見ると小田原城も広大で威圧的に言えますね。

  普通なら落ちそうに見えない。

 

  布陣図を見ると、堀秀政の周辺(石垣山の麓)

  には池田輝政小早川隆景吉川広家らが

  布陣していた様です。

 

 ④富士山砦

  上の写真の北西側(左側)を見てみます。

小田原城北西側と細川忠興の陣所

  写真の右半分の丘陵は小田原城です。

  左手の少し丸くこんもりした丘陵が、

  富士山砦細川忠興の陣所です。

 

  細川忠興は当初韮山城包囲軍に居ましたよね。

  てことは、4月8日頃、他の諸将より

  遅れて小田原城包囲に参加したと思われますが、

 

  空いてる所が無いからこちらへどうぞ、

  って一番小田原城に近い前線じゃない?

富士山砦拡大(海蔵寺から見る)

 でも陣地としては結構良い具合の立地に見えますよね~。

 いつ決まったのかな? 

 さて、富士山砦に向かいます。

 

 上の写真で遠くから見ていた様に、砦の丘陵は

 住宅地化されてまして、車で細道を進みました。

 

 そしたら行き止まりになって、入口を見ると・・・、 

富士山砦の入口(中央下)

  どう考えても意図的に枝で道をふさいでます。

  ここも私有地と思うので、所有者が入るな

  と伝えてますね。

  ただ口コミ確認で事前に想定はしていました。

  (途中、道案内の看板は残ってます。)

 

 小田原城 三の丸外郭新堀土塁

  ①~④小田原城南西、箱根方面の

  豊臣軍包囲陣地です。

  これを小田原城側から見るには、

  三の丸外郭新堀土塁から良く見えます。

小田原城 三の丸外郭新堀土塁
(以後三の丸と表記します)

  ここから箱根口を中心に撮ると。

小田原城三の丸から箱根方面を見る

 

 上の写真とちょっとズレてるだけですが、

 石垣山をメインに撮ると。

小田原城三の丸から堀秀政陣所、石垣山方面を見る

  つまり三の丸は、現在でも箱根方面や

  相模湾が一望できる名所ですね。👍

 

 (★2)尾根筋、大堀切ルート

   上記の⑤三の丸からは、3つの大堀切を

   通りながら、⑥水之尾口櫓台まで歩いて

   探訪出来ます。

   (小田原城一番のお薦めルート)

 

   大堀切が3つも有るのは、以前ご紹介

   致しましたが、水之尾口の尾根筋が

   箱根から小田原城に向かって通っており、

   高さによる防御の優位性が保てない為、

   堀切で防御力を上げてるからです。

 

 再度標高図を掲載致します。

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

  標高図で⑥と⑦の間が尾根で繋がっている様に

  見えると思います。

  

  実際行ってみますと、⑥と⑦の間は、

  少しへこんではいましたが、

  ほぼ東西に尾根筋が通っており、

  その南北方向はだいぶ下っていました。

 

 ⑥水之尾口櫓台

  三の丸から大堀切を通って水之尾口櫓台

  へ向かいます。

3つの大堀切の一つ、東堀
(三の丸のすぐ目の前から進みます)

大堀切から北西へ進む一本道

水之尾口櫓台跡地
小田原城最高点に到着。もうかれこれ4回目位。)

  ここからの眺望が今も良いんです。😉

 

 ~水之尾口櫓台から、谷津丘陵と⑮徳川家康軍を望む~

赤丸の「現在地」⑥水之尾櫓台から、青矢印方向を撮ります

⑥水之尾口櫓台から東の方向を見る

⑥水の尾櫓台から東の方向を見る2

 

 ~⑩黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷、⑭織田信雄軍を望む~

⑥水之尾櫓台から北方向を望む。
私的には官兵衛と氏郷が居た場所が
分かったこの写真が一番なのです😓
(位置はおおよそです)

 

蒲生氏郷軍の布陣場所拡大
(中央下を横切っている道が、
小田原厚木道路

黒田官兵衛羽柴秀勝軍布陣場所拡大

  布陣図とマップ、現地と確認して、ここが

  黒田官兵衛達が布陣していた丘陵で間違い無い

  と分かりました。😊

  ボランテイアの方と一緒ならすぐ分かるのにね~。

 

 ⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣 

  小田原城西端の⑥水之尾口櫓台から

  西方向へ進んでみます。

⑥水之尾口櫓台跡地
(この先へ進みます。城外になります。)

薄暗い道を歩く
(どこかに堀切があったのかもね)

水之尾口櫓台方向へ振り返る

先に進む。ちょっと明るくなってきました。

農道から一般道路に出ると、水之尾のバス停がありました

  このバス停付近は⑥櫓台から西へ続く尾根筋です。

  と言うのもこの道の直交方向を見ると、

南の方向は相模湾ですが、直下が崖ですね。
遠い街がだいぶ下ですよね。

北の方向も大きく下ってます。

 こう見ると、先程の尾根筋が攻略ルート

 として見えてきました(⌒∇⌒)

 

 尾根筋を布陣図に載せてみます。

 だいぶざっくりですが、

 黄色線が小田原城周辺の尾根筋で高所です。

布陣図に黄色線で尾根を追記
(左下は尾根と言うよりか石垣山です)

 

  小田原城の西側半分はほぼ尾根筋を防御(総構え)に

  使ってますから、黄色線に沿っています。

 

  豊臣包囲側も高所に布陣したいので、

  尾根筋に沿っていますね~。

 

  上図の赤丸の現在地の右手には小田原城内の

  尾根が続いており、先程申しました3つの

  大堀切で守っています。

  左手は当然豊臣軍が布陣してますね~。

 

  ただ、ちょっと疑問点が2つ湧いてきました。

 

  上布陣図の現在地(水之尾口櫓台)から

  水之尾バス停を経由して尾根上を西へ進むと、

  青丸の宇喜多先衆軍と織田信包軍が布陣してます。

 

  このルートは小田原城へ高低差少なくアクセスできる

  重要なルートだと思うのですが、そこの担当が

  ⑦織田信包って、ピンとこないです。

 

  織田信包織田信秀の子です。

  信長の弟であり、かつ織田有楽斎信益の

  兄さんの位置です。

  本能寺の変後も生き延びて秀吉に従ったのに、

  この小田原の陣後、秀吉によりあっさり改易

  されてしまいます。

 

  つまりここを北条軍が抜けて奇襲等させない様に

  しっかり守れる人、又は功を立てさせたい人、

  では無さそうです。

  なので何で彼がここに布陣なのか(・・?です。

 

  そして、織田信包軍の手前(城側)に

  宇喜多先衆が居ますね。

  宇喜多秀家が守ってるなら分かります。

  ただこの布陣図の宇喜多秀家本隊は布陣図を

  見ると先衆の左上にあり、異なる尾根筋です。

  なので先衆との間には谷があって、

  すぐに援助できず離れすぎです。

 

  まあちょっとそこら辺り不明点が残っています。

  (ただ布陣図も色々ありますし)

 

  もう一つ言ってしまうと、山中城で戦死したはずの

  一柳直末の名前が布陣図に載っていますね~。

 

  さて、残りは下記⑧~⑮です。

  行ってない所もあり、写真も残り

  少しですが、次回に致します。

小田原城包囲戦布陣図(色別標高図)

 (次回)

  山内一豊堀尾吉晴陣所

  羽柴秀次陣所

  ⑩黒田官兵衛陣所

  ⑪蒲生氏郷陣所

  ⑫小田原城大堀切西堀から豊臣陣地を見る

  ⑬小田原城山の神堀切から豊臣陣地を見る

  ⑭織田信雄陣所

  ⑮徳川家康陣所

  

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

<小田原北条氏の防衛戦(その9)> 豊臣軍による箱根守備網の攻略と突破

こんにちは。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

豊臣軍による北条領への攻撃が開始されて、

まず1590年(天正18年)3月29日に、

箱根東海道筋の最重要防衛拠点である

山中城が落城しました。

 

4月1日前後には山中城の隣、

足柄街道筋の足柄城も攻略。

 

ここまで前回ご紹介致しましたが、

その他の小田原城西側の拠点について

簡単にまとめてみます。

 

7.小田原城以西のその他拠点の攻略 

 小田原城以西の城の配置図

 山中城、②足柄城、③河村城、④韮山城、⑤小田原城 

 (ほんとはもっとあります(__))

 

 

 1)河村城(配置図の③)

  神奈川県山北町小田原城がある足柄平野

  北端を守る位置に河村城が配置されています。

 

  実はほとんど知らなかったのですが、

  保存整備がしっかりなされてる様で、

  遺構も良く残っていました。

  早速行ってみます。

河村城駐車場に到着しました。
 (5,6台停められます)
登城入口にトイレもあります。

 

河村城 案内図
上記の入口は、案内図の現在地(赤字)の位置です。

  

河村城縄張図
(上図の拡大版、この図は下が北です。)

 上図の現在地から登って行きます。

 (河村城の北側から登ってます)

緩やかな坂を歩く

急な坂になった(~ ̄▽ ̄)~

最初の遺構、畝堀。だが畝は見えない。

山頂部に到着。(10分程登って到着)

本城郭

本城郭の北側にある社

 社の脇道に入って進むと、 

先程の畝堀を本城郭から見ています。
その先が縄張図の小郭ですかね。

本城郭の南、馬出郭の方へ行ってみます。

馬出郭1

馬出郭2

馬出郭の道を少し降ります。

西郭(左手が西郭ですね)

 もう少し進んでみます。

西郭から進んでいます

北郭に到着しました。(⌒∇⌒)

北郭と西郭間の堀切かな?

たぶん、自然地形の谷

本城郭に戻った

 馬出郭から北郭までの区間

 自然な遺構が残っていました。😊

 

 今度は本城郭の東側へ行きます。

 そうすると、本城郭と蔵郭の間に、

 整備された堀切と木橋がありました。

堀切と木橋

堀切と木橋

堀切と木橋の説明板

木橋を渡ります

蔵郭

蔵郭にあった縄張図
(これは分かり易いです)

蔵郭の案内板

近藤郭への橋

近藤郭と蔵郭間の堀切は
コンクリ-トの橋でした。
(橋とその脇道の両方共通れます)

堀切を見下ろす。(畝になってますね)

 

発掘調査の説明板

近藤郭

大庭郭からは南方の足柄平野全体が一望できます

 ただし小田原城は写真右手、

 箱根外輪山の裏で見えないです。

 

展望説明板

河村城から見る箱根の山並み

河村城遠望と富士山(雪がまだ無い頃)

 河村城の立地は足柄平野北の頂点を占める

 浅間山の丘陵に築かれ、規模も大きく

 見所いっぱいでした。

 

  ただ豊臣軍との戦いにおいては、東海道

  足柄街道を攻略されてしまっては、

  ここを守っても小田原城を支えられないので、

  すぐに攻略されてしまったのかなと思われます。

 

 2)韮山城(配置図の④)

  韮山城は北条家にとっては初代早雲の

  本拠地となり、最後を迎えた城。

  そして北条家最初の領国伊豆国の玄関口です。

  

  豊臣方は、織田信雄を主力として、蒲生氏郷

  福島正則細川忠興ら有名人達が40,000を

  超える軍勢で包囲しました。

 

  対する北条軍は4代氏政の弟北条氏邦を城将とし、

  3千数百人で守備。

  彼は一度京都に上洛しており、また北条家の交渉役

  として徳川家康達とも交渉をしていて、非戦論者

  だったとされています。

 

  だからでしょうか、山中城とは異なり、

  一気には攻めず、降伏勧告後、包囲戦となりました。

韮山城 本丸付近

だいぶ見難いですが中央右下の韮山城(現在地)
に対して、写真左の山に包囲軍の陣地があります

韮山城正面と城池。実はそれほど高くないのに、
激しく攻撃されていない。
周辺が池や沼地だったのかな?

  そして秀吉の命令で、韮山城には抑えの軍を残し、

  織田信雄達主力は小田原城包囲へ転進しました。

  その為3月29日から6月24日開城まで

  約3カ月持ちこたえています。

 

 3)下田城 (配置図無し)

  下田城は伊豆半島のほぼ南端に位置しており、

  北条水軍が対豊臣軍への本拠点としました。

  

  4月1日攻め寄せる豊臣水軍は、羽柴秀長

  長宗我部元親九鬼嘉隆等約20,000人。

 

  対する下田城守備は清水康英を城主として

  城兵たったの600人だったとも。( ;∀;)

 

  しかし粘って開城したのは4月23日でした。

  豊臣水軍の大部分は開戦後すぐに小田原城

  海上封鎖に転進してます。

 

  今回下田城、行って無いので写真が無しです。_(._.)_

  幕末当初の下田港は日本の玄関口の一つとして、

  ペリー、ハリス等の対応で活躍しました。

 

  以上、一部ですが小田原城西側を守っていた

  お城のご紹介でした。

 

8.豊臣軍の箱根越え

 1590年(天正18年)3月29日、

 山中城を落とし、勢いに乗った豊臣軍は、

 足柄城河村城等小田原以西をほぼ制圧し、

 4月1日頃より箱根を東進しました。

 

 4月5日には早くも秀吉が北条家の菩提寺

 である早雲寺を本陣として着陣した模様です。

 現在の箱根湯本駅のすぐ近くです。

 

 そして、その東にあたる笠懸山(かさがけやま)

 、現在の石垣山に城を築城し始めました。

 

 1)早雲寺

  初代北条早雲の息子氏綱により、1521年頃

  創建されたと伝えられています。

  北条家の菩提寺として栄えました。

 

早雲寺門前

早雲寺案内板

風情ある早雲寺境内

奥に北条幻庵作の枯山水庭園

早雲寺 庭園

北条氏5代の墓入口

北条氏5代の墓

北条氏5代の墓 説明板

  これを見て初めて知りましたが、

  1590年4月5日、秀吉が本陣として利用した

  早雲寺は、石垣山城が完成し、そこに本陣を移した後、

 (たぶん6月か?)焼却されてしまったとの事です。

 

  利用した後、お寺を燃やしちゃうんですね~。

  確か武田信玄駿府侵攻で、これまで同盟関係

  だったのに駿府の街や臨済寺等を燃やしてますね。

 

  戦国時代とはいえ、あまり抵抗してなさそうな

  お寺を燃やすのはちょっと悲しく感じます。

 

  後の江戸時代、小大名として残った北条2家の

  援助等により、復興された様で良かったです。😊

 

 2)底倉と太閤の湯

  ちょっと先の話ですが、伊達政宗が秀吉に投降した時、

  箱根の狭い場所に逗留されて恐れた。

  ・・・ような話を聞いた事ありませんか?

 

  その場所は底倉と言って、名前からしてらしいですが、

  ここには秀吉が(豊臣軍が)利用したと想定されている

  温泉が残っています。

 

  また、駅は早雲寺より少し箱根側の「宮ノ下」です。

  箱根駅伝で聞いたことあるかもしれません。

  駅伝の道や富士屋ホテルも近いですね~。

 

  箱根に残っている史跡なのでご紹介します。

太閤の湯 遊歩道入口
(宮ノ下、国道138号線から入る)

 

太閤石風呂通り 入口

遊歩道

太閤の湯 案内板

太閤の湯が見えてきました

太閤の湯 拡大1

太閤の湯 拡大2

  私有地であり下に降りれないそうですが、

  この辺りに豊臣軍が利用した温泉が

  あったかもとの話です。

 )箱根遠望

  北条氏側(小田原城)から箱根方面を見る。

小田原城三の丸土塁から箱根方面を見る。
山中城落城後数日で、小田原城のすぐ隣の
石垣山を守れなくなってしまった。

 

  上の写真を反対側(箱根側)から見ると。

  ざっくり豊臣軍が小田原方面へ進軍した際の

  箱根風景かな?

道の駅箱根峠」から二子山、芦ノ湖を見る
この先が箱根湯本、そして小田原城

  実は外国の方が沢山居たので、何かあるのかな?

  と寄り道したら絶景だったので撮っただけです_(._.)_

 

 以上でお終いです。

 次回はいよいよ小田原城の包囲です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_ 

 


  

 

 

 

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その8)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(3)

こんにちは。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

みなさんもご存じの通り、

北条氏の本拠小田原城は北条領国の

東南の国境に偏り過ぎていますよね。

 

特に豊臣軍主力が、西から小田原城

目指すのは北条方も容易に想定出来ます。

よって小田原城の西側にある箱根とその周辺が、

必然的に重要な防衛ラインとなります。

 

下の全体マップを見て可視化してみると、

よく分かるのではと思います。

 

 

北条氏の本拠地、小田原城に対し、

その西側を取り囲む様に、

 

箱根中央部を通る東海道山中城

旧来のメイン道だった足柄道に②足柄城

その北の道に③河村城

伊豆方面の玄関口に韮山城

 

等の箱根守備網が配置されています。

 

ところがこの内、小田原城西方の守りで

最も重要な防衛拠点だった、山中城が、

初戦、一日で攻略されてしまいました。

 

小田原城及びその他の箱根守備網は

大混乱になったと予想されます。

 

④の韮山城こそは、北条氏政の弟氏規が城将を

していた為か、約3カ月持ちこたえましたが、

②足柄城及び③河村城は、ほぼ戦わずして小田原城

へ退却し、箱根守備網は崩壊した模様です。

 

今回は山中城に続き、その箱根守備網の一つ、

②足柄城を探訪してみます。

 

6.足柄城(あしがらじょう)

 1)足柄城の位置

  上マップの②の場所です。

 

  ここは足柄峠の場所でもあり、

  足柄街道という道が通っています。

 

  足柄街道は、奈良、平安、鎌倉時代には

  静岡県と神奈川県を結ぶメインの道

  だったとの事です。

 

  建武2年12月、足利尊氏討伐が開始され、

  静岡市手越原で新田義貞を主将とする朝廷軍と

  足利軍が激突し、朝廷軍が勝利しました。

 

  しかしその後、足柄峠の登り口、JR足柄駅付近

  で起こったの竹之下の戦いでは、足利方が勝利し、

  そのまま京都へ攻め登りました。

  建武の新政崩壊の初端となった戦地です。

  (なので室町初期も足柄道がメインだったのかもね)

 

  丁度県境なので、毎年綱引きで足柄城

  所有権を決めてるそうで、面白いですね。

 

  多分富士山噴火等による劣化、代替道の需要増等

  により、室町、戦国時代には山中城を通る東海道

  整備されて主要道になっていったと思われます。

  (江戸時代では東海道が五大街道の一つとなった)

 

静岡県足柄駅から旧足柄街道である
県道78号線にて足柄峠へ向かう

 2)足柄城縄張り 

  適当な縄張図が見つからず、グーグルマップで

  曲輪を表示します。

  ①一の曲輪、②二の曲輪、③三の曲輪、

  ④四の曲輪、⑤五の曲輪

  (足柄街道を西から登ると、最初五の曲輪です。

   以下番号順で一の曲輪が本丸で、最高部です。)

  

 

 

 3)足柄城アクセス

   下の写真の正面、すぐ南に駐車場があります。

足柄峠に到着。足柄城に進む階段。

  そして上写真の通り、78号線沿いに

  足柄峠の看板があり、階段ですぐに

  足柄城一の曲輪に到着します。

 

 4)足柄城探訪

  それでは足柄城に向かいます。

  (・・・と言っても階段2分位で本丸ですが😓)

 

  ①一の曲輪

階段を登って最初、足柄城一の曲輪

 

玉手ケ池

玉手ケ池 水がありました

玉手ケ池 説明板

一の曲輪から二の曲輪へ向かう土橋
・・・お城の遺構( ^ω^)・・・

  ②二の曲輪

   二の曲輪に入ります。

   ここには超絶展望地があります。

   (一度ご紹介し、綺麗と言って頂いてますね👍)

二の曲輪に渡って振り返る

 二の曲輪西の方向に椅子がある様です。

二の曲輪 展望用の椅子
(ここにはほぼ常時誰かが居る感じ)

  おー😍 何枚か掲載しますね~。

二の曲輪からの富士山1

二の曲輪からの富士山2
げ、凄い眺望(@_@;)

二の曲輪からの富士山3

二の曲輪から富士山の南、愛鷹山

二の曲輪 表示板

  二の曲輪の東側に何か入口があって行ってみると、

  蔵屋敷の表示板と曲輪がありました。

蔵屋敷跡 明らかに階段状に整地されている。
こういうの、何かそのまま残ってる感じで良いね~

二の曲輪の展望椅子に戻る。

二の曲輪からの富士山4 撮影9:30位
(この1.5時間後、富士山は雲で覆われてしまう)

足柄城を一通り見て、別の撮影ポイントに行ったら、
雲に覆われてた富士山 撮影同日11:00頃

二の曲輪から富士山と愛鷹山の間の稜線。
手前の街が御殿場。
自衛隊の大砲の音も聞こえます。

二の曲輪から三の曲輪に向かいます

二の曲輪三の曲輪間の堀

  ③三の曲輪

   三の曲輪に入ります。

三の曲輪から堀と階段を
介して二の曲輪を見る

三の曲輪 ここも少し展望整備されてます

三の曲輪から山道に入ると井戸跡
(ここからは誰も居ません)

 三の曲輪を越えた辺りから、木々に囲われた

 暗い雰囲気となり、私の記憶もあやふやに

 なってきました。😓

四の曲輪に向かう

  ④四の曲輪

多分四の曲輪

土塁跡のようですね

四の曲輪の脇の竪堀か横堀なのかな?

四の曲輪 表示板

上から下の堀を撮る

う~ん、どこだか分からない

確か、四の曲輪の周辺を廻って撮った堀跡

堀が続いている
(雨水の流れ跡か?)

多分四の曲輪から降りてきた

堀跡の案内板

  ⑤五の曲輪

五の曲輪の案内板

多分 五の曲輪から降りる階段

五の曲輪から降りる階段2

 

降りて遊歩道の案内板

遊歩道、ここは五の曲輪の外側の堀1
(結構壮大な堀跡です)

五の曲輪の外側の堀2
(この堀跡が遊歩道となってます)

堀の外側の崖

五の曲輪の外側の堀3

五の曲輪外側の堀を進むと、県道78号線に出ました

逆に県道78号線側から堀を覗く。
遊歩道=五の曲輪外側の堀 です。 
(ただこちら行くには、外堀を進んで四の曲輪
への登り口に気付かなければならないので、
縄張を分かってないと厳しいかもです)

県道78号線 この少し先が足柄峠の駐車場

 

 ⑥足柄城周辺の史跡

 足柄峠

足柄峠の分岐道
(ただし左右足柄城みたい)

八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光ゆかりの石
(義光は武田信玄の先祖)

 ~足柄の関~

  足柄峠を少し神奈川県側に78号線を降りると

  足柄の関の跡がありました。

足柄の関 1

足柄の関 2

足柄の関 3
治承4年は頼朝旗揚げの年。この時足柄の関守が居た。
鎌倉時代の内に関所の機能は無くなったと書いてますね。

足柄峠の説明板1
(神奈川県側から登る方向)

足柄峠 説明板
空海、頼朝、日蓮足利尊氏太田道灌
有名人が通った記録がある様です。

 ~足柄古道~

  足柄古道を歩いている方も何度か見かけました。

足柄古道

足柄古道

現在の自動車道である78号線
江戸時代の足柄道矢倉沢往還とも言われ、
その地名が看板にも残っている

 ~小田原方面の眺望~  

足柄道を神奈川県側に降りる途中の眺望

眺望 手前箱根外輪山の一部 ⇒ 足柄平野
⇒ 大磯丘陵、そして相模湾
小田原城は右側で、隠れて見えない)

 

 5)足柄城の防衛戦

  防衛戦当時の城主は、北条氏康の九男氏光。

  (別説あり)

  彼は600名程の兵で守備していましたが、

  1590年3月29日、山中城落城を知ると、

  足柄城を退去し、小田原城に入りました。

 

  翌3月30日、井伊直政足柄城を攻撃し、

  残った兵はわずかの為、4月2日落城

  又は降伏した様です。

 

  そもそも城の規模からして600人では

  全く足りないので、足柄城は捨ててますね。

 

  ただ、豊臣との戦いこそ機能しませんでしたが、

  1571年、足柄城の西麓の方にある深沢城

  が武田信玄に攻略されてから、約20年間、

  足柄城河村城の両城は、本拠地である

  小田原城の西側をしっかり守っています。

 

 以上で足柄城編を終わります。

 思ってたよりも足柄城は大きな規模で、

 堀の遺構も大きく残っていました。

 そして富士山等西側の眺望は凄いの一言です。

 

 次は河村城及び小田原城の包囲の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

 


 

































 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その7)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(2)

こんにちは。rekikakkunです。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

前回は山中城を探訪して、岱崎出丸、三の丸、

西櫓をご紹介致しました。

今回もその続きになります。

 

5.山中城攻防戦

 1)山中城 縄張図

 2)攻城戦の概要

 3)山中城アクセス

 4)山中城探訪

  ①岱崎出丸

  ②三の丸

  ③西櫓

  ④畝三昧

  ⑤西の丸 ⇐ 今回はここからです。

 

  山中城の西側は、西櫓を越えると西の丸になります。

  西櫓は西の丸虎口の馬出しの役割として説明されてます。

西櫓と西の丸 角馬出の説明板

 

  ただし西櫓は捨曲輪みたいな扱いで、木橋も無く、

  西の丸への直接射撃を遠くする為のスペース

  として使ったのかも、という記事も見ました。

  西櫓へ攻撃する敵に対し、西の丸はサポート

  し難そうなので、なるほどな~と思います。

 

 (西櫓、西の丸は下の縄張図の右上です)

山中城 縄張図

 

  

西の丸全景
(奥に西の丸西端の見張台があります)

西の丸見張台

西の丸見張台の中

西の丸見張台の説明板

西の丸見張り台から、西櫓と障子堀を望む
西の丸側には西櫓の土塁が無いですね~。
ここからの眺めも四方圧巻です👍。

西の丸見張台から、西の丸本体を介して本丸方向を望む

西の丸見張台から本丸方向拡大
(手前から、西の丸⇒元西櫓⇒
二の丸の桝形虎口⇒二の丸見張台 の感じ)

  

西の丸から本丸方向へ向かう道

西の丸と元西櫓間の谷

 

 ⑥元西櫓

  西の丸と二の丸の間は、堀を介した小さな曲輪で

  区切られており、昔は無名曲輪と呼称してたそうですが、

  現在は調査の結果、元西櫓の名称となってるそうです。

 

  秀吉対策前はここが一番西の曲輪だったとか?

  (なんでかは❓でした)

  その割になかなか特徴的な曲輪なんですよね~。

西の丸から元西櫓拡大(手前の曲輪。奥は二の丸)

 

西の丸と元西櫓の分岐

西の丸と元西櫓間の堀と各曲輪の切岸
(左側西の丸、右側が元西櫓)

元西櫓へ登る道

元西櫓虎口から西の丸を望む

元西櫓 説明板

元西櫓

  実は・・・元西櫓って自分何度か行ってますが、

  何故か説明板が全てピンボケしてて、

  曲輪内でも写真を撮ったつもりなのに

  何故か無いんです。

 (唯一ちょっと今一な上の写真だけ)

 

  周辺は撮れてるんですけど・・・(・・?

  なにかここで激戦、亡霊的な⁈ (*_*;

 

  なんて、山中城は全部激戦場所ですよねー。

 

  実は西の丸方面の北条方はどなたが守っていたのか、

  ちょっと調べましたが分からなかったです。

  攻撃側は、徳川家康軍が3万程の大軍で攻めてきました。

 

  現在は見えませんが、戦闘時西の丸から

  岱崎出丸が敵軍に占領されてしまった

  のは見えたと思われます。

  (もしかしたら時系列が逆かもしれません)

 

  士気が下がり、戦力差もあって、自慢の畝堀

  3方向から西の丸は攻撃されたと思われます。

  支えきれずに二の丸へ退却していきました。

 

 ⑦二の丸

  二の丸は山中城の指揮所とも言うべきで、

  最も重要な曲輪だったのでは、と思います。

 

  と言うのもここからは、西の丸方面、三の丸方面、

  本丸へと繋がっており、状況に応じて指示や

  援軍を出せます。

  下の縄張図を見ても、城のほぼ中心ですよね。

山中城 縄張図

元西櫓から二の丸への木橋と桝形虎口

二の丸桝形虎口

二の丸桝形虎口 説明板

二の丸

 二の丸には西側と東側にそれぞれ櫓台があります。

 それぞれ見所がありますので登ってみて下さい。

二の丸の西側櫓台から二の丸内を見る

二の丸西側櫓台から元西櫓、西の丸を望む1
(一番奥に西の丸の見張台が見えます)

二の丸西側櫓台から元西櫓、西の丸を望む2
(真ん中が元西櫓、その両側(南北)の堀も見える。
凄いアングル😊)

二の丸の東側の櫓台

二の丸東側の櫓台から岱崎出丸方面を望む

上写真の拡大、岱崎出丸が見える(写真中央付近)

二の丸から三の丸へ通じる道1

二の丸から三の丸へ通じる道2

二の丸から三の丸へ通じる道3
(傾斜+曲がり+土塁隠し)

二の丸から三の丸へ通じる道を下って、正面が三の丸

 さて山中城の喉元とも言える二の丸ですが、

 ここの守将は玉縄城主であり、一門衆でもある

 北条氏勝と言われています。

 

 彼は川越夜戦等で勇名をはせた、

 北条綱成の孫です。

 

 その彼が山中城に援軍として派遣されたという事は、

 山中城防衛に北条氏は本気だったと言えます。

 

 しかしあまりの大軍、そして上方のプロ兵士相手に

 押された北条軍は、岱崎出丸、三の丸、西の丸を

 落とされ、残るは二の丸と本丸のみとなり、

 落城までの時間もわずかとなりました。

 

 二の丸で指揮していた北条氏勝は、

 城主の松田康長や弟達の説得により、

 城を脱出し、玉縄城へ逃げ落ちました。 

 

 ⑧本丸

二の丸から本丸へ通じる木橋

二の丸と本丸間の堀

本丸跡
(奥が二の丸。徳川勢が迫って来る)

本丸跡2
(三の丸側から見る。豊臣兵が攻め上がっていった)

 二の丸、三の丸両面から豊臣軍は本丸をめがけて

 突進しました。

 城主松田康長は、本丸天守櫓で自刃。

 北の丸に追い詰められた北条兵も玉砕しました。

 

本丸跡3 正面右の高台が天守櫓跡
そこで城主松田康長が自刃したとの事です

本丸の天守櫓跡 説明板

 

 ⑨北の丸

本丸から北の丸へ通じる木橋

本丸と北の丸間の空堀

北の丸
(この奥に曲輪はもう無い。ここで追い詰められて
最後に戦死した兵士が沢山いたと思われます)

 

北の丸堀 説明板

説明板の空堀(右側は本丸)

 岱崎出丸、大手口攻撃を担当した中村一氏の家臣、

 槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛は、この山中城攻めでの

 自身の武功をまとめた有名な覚書を残しています。

 その内容は、

 ・(大手門付近では)敵の射撃が厳しくて

   身動きが出来なかった。

 ・射撃が弱まったので(岱崎出丸の)堀を

  よじ登って一番乗りを挙げた。

 ・そのまま(三の丸方向へ進み)敵の退却を

  追いかけて(二の丸)に侵入した。

 ・(二の丸では)本丸がどこか分からなくなった。

  

 等、戦場の生の声を表現していることで有名な様です。

 

 勘兵衛覚書によると、本丸には攻撃方が多数押し寄せた為、

 本丸の塀が倒れて敵味方が団子の様に堀に重なり落ちたと

 書かれてるとの事で、上の写真はまさにその堀

 かもしれません。

 

 本当は彼の覚書のストーリーに沿って進めたかった

 のですが、曲輪の位置等が今一不明瞭だった等、

 理解不足であきらめました。😂

北の丸から本丸の裏手(東側)へ降りる道がありました
ここを降りると、旧国一から堀跡の入口になります。

 

 山中城北側外周の空堀

  北の丸と本丸間の空堀は、説明板の通り、

  本丸をぐるっと囲んでいますので、

  上の写真の土塁階段を降りて、

  下から空堀を再度登りたいと思います。

<縄張図の★1>
本丸の東側の空堀入口(左が本丸)

 上の写真の堀底を登ると、先程の本丸北の丸間木橋

 二の丸まで堀が通じているので、進みましたが、

 丁度上の方で業者さんが草刈りをしてたので

 行けませんでした。(写真に小さく映ってる)

 

 ちょっと残念だな~と周辺を見ると、

 先程の空堀の外側にも空堀があったので、

 そこを進んでみました。

<縄張図の★2>
北の丸の外側に延びる、山中城の一番外周の空堀の入口
(上の写真の右側の土塁の更に右側。
そしてこの写真の右は旧国一。もはや意味不明か(*_*;)

 分かり難いので縄張図で示します。

山中城空堀散策
(赤★1の堀は草刈り作業で行けなかったのですが、
黄★2の堀を見つけたので、そこを進みました)

 

★2の黄色線を北方向に進んでます。
だいぶ大きな堀ですね~

小田原城の堀切みたいな空堀
この内側に本丸の空堀があるので、
本丸は2重の堀に囲われているのを知りました。

ここで西方向に曲がってます

曲がった方向を見る

 この時は、ここがどこだか分からなかったので、

 堀底から外側の土塁に登って確認してみます。

 

 上から見ると北の丸の北側の空堀でした。

 たぶん山中城の最外周の堀の様です。

 (縄張図に載ってないので?ですが・・・)

堀の外側を登って見てみると、
正面は見覚えのある北の丸です。

 

北の丸の北側の土塁道をそのまま進む
(結構整備されていますが、案内板等は無いです)

北の丸の外側の堀1
(普通の山城風の光景。なんか山中城らしくない
感じですが、妙に親近感があって嬉しかったです)

北の丸の外側の堀2

北の丸の北側の堀を西側から見る
(右上が北の丸。左上から降りてきた。)

上の写真の反対側を見る。
たぶん二の丸の北側の堀の、もうひとつ外側の空堀

階段を登って本丸の北側の道(土塁)
に出ましたが・・・ん?ロープがあります。
(いつからか正規の道では無くなってた様です)

 この最外周の空堀は、小田原城の総構えに似ていますね~。

 秀吉との戦い直前に追加したものかもしれません。

 ただそう考えると、相当の規模ですね~。

 

 ⑪宗閑寺

  旧国一沿い、三の丸跡地には宗閑寺があります。

  (同じ敷地に山中公民館です)

  戦国時代でも有数の激戦だった山中城攻防戦で、

  戦死者を弔ってますので、是非寄ってみて下さい。

右手が宗閑寺入口

 宗閑寺は、岱崎出丸の守将で壮絶な戦死をとげた

 間宮康俊の娘お久(普照院)が、江戸時代に入り

 父の供養の為に尽力し、建立しました。

 なんと彼女は徳川家康の侍女、側室となり、

 家康の四女松姫の母だったとの話もあります。

 へえ~そうだったのか~、真面目に確認すると

 新たな歴史が見られますねー😓

宗閑寺 説明板

山中城攻防戦での武将達のお墓
(お墓を矢印してすいません。
知ってもらえたらと思ってますm(__)m)

山中城の戦い 武将のお墓1
(右が城主松田康長、左の3つが間宮康俊とその一族のお墓)

山中城の戦い 武将のお墓2
(豊臣方の大名で戦死した一柳直末のお墓)

 

 山中城攻防関連で攻撃側の一柳直末のお墓が

 一番立派なのに少し違和感があったのですが、

 調べて見ますと、長い年月によりお寺が荒廃し、

 明治以降に一柳家が整備し直したとのことです。

 

 武将たちの略歴も少し調べて見ると・・・。

 ~城主 松田康長~

   彼は北条氏の筆頭家老松田憲秀の親戚です。

   松田憲秀は戦いの後、内通の嫌疑等で

   自害しています。

   そして憲秀の長男は、以前私のブログで

   ご紹介しました泉頭城で、柿田川の向こう岸

   にある戸倉城主だった笠原政晴なのですが、

   実は彼も内通の嫌疑で籠城中に処刑されています。

   

   ちなみにその笠原政晴は、「ステキな金縛り」で

   西田敏行さんが演じた、主人公の更科六兵衛の

   モデルとなった人と言われています。

   

 ~岱崎出丸守将 間宮康俊~

   援軍として山中城に入り、岱崎出丸の守将で

   壮絶な戦死をしました。

   戦死を覚悟した彼は70を越える高齢の為、

   白髪に墨汁を塗って戦った気迫の方とのことです。

   そして樺太を島と実地確認し、北海道との間の

   間宮海峡の名前でも有名な間宮林蔵は・・・、

   実は康俊の子孫との事です。

   びっくり(@_@;)。

   調べると色々と繋がってますね~😍

 

 ~二の丸守将 北条氏勝~

   彼は玉縄城主なのでその時に調べてみます。

   結構大変な立場だった気がします。

 

 箕輪城代 多米長定~

   宗閑寺にお墓があるとの事で少し確認しましたら

   初代北条早雲からの古参家臣多目氏の一族

   とのことで、信長の野望にも出てきますし、

   みんなそれぞれ歴史がありそうですよね~。

 

 さて、今回のお話、もう4,000字を

 越えましたのでお開きにしたいと思います。

 なんか話の纏まりが無かったですね_(._.)_  

 

 しかし開戦最初の山中城で(その7)って、

 一体いつまで続けるつもりなんだ⁈

 という声が(@_@;)

 ・・・今私もそう思ってます

 心の中で。

 

 次回は、箱根守備網の位置付けとして

 足柄城と河村城の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

<小田原北条氏の防衛戦(その6)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(1)

こんにちは。rekikakkunです。

 

いよいよ北条軍と豊臣軍との開戦でございます。

 

前々回の投稿では、秀吉が箱根の手前に到着し、

山中城を視察したところまでお話しました。

その続きとなります。

 

視察の翌日、天正18年3月29日の朝、

いよいよ北条軍と豊臣主力軍との戦端が開かれます。

 

山中城豊臣秀次徳川家康を中心とした軍勢にて攻撃。

韮山城へは織田信雄蒲生氏郷らを派遣し包囲を

開始します。

 

 下マップでは、①山中城、⑭韮山城です。 

 

5.山中城の戦い

 1)山中城 縄張図

山中城 縄張図

  赤字で曲輪の名称を追記しましたが、名称は現在、

  現地に掲示されている案内板に合わせてます。

 

  攻撃は、旧東海道から岱崎出丸等を攻撃した

  豊臣秀次軍と、縄張図右上の西櫓付近から

  攻撃した徳川軍の2方面です。

 

  ま、内容は諸説ある中での参考と捉えて下さいね。  

 

 )攻城戦の概要

  ①開戦日:天正18年(1590年)3月29日

  ②落城日:同上

  ③攻撃側陣容:豊臣方総勢6万8千人

         本軍:豊臣秀次等3万8千人

         左軍:徳川家康3万人

  ④守備側陣容:北条方総勢4千人

         岱崎出丸:間宮康俊(援軍)

         二の丸:北条氏勝(援軍、玉縄城主)

         本丸:城主松田康長

  ⑤攻城戦経過:

   ・豊臣秀次を主将とする本軍は、主要道の東海道

    を攻め上がり、三の丸大手と岱崎出丸へ攻撃。

   ・東海道に沿って守備攻撃をする岱崎出丸と

    正面大手の三の丸からの十字攻撃により、

    大手付近に突入した豊臣軍は、6万石の大名

    一柳直末が戦死する等の大きな損害を被った。

   ・しかし守備兵が約500名程の岱崎出丸が

    間もなく落とされ、主将間宮康俊等が戦死。

    豊臣方は北条兵の撤退を追撃し三の丸へ攻め込む。

   ・左軍の徳川家康隊は西の丸方面の攻略を担当。

    岱崎出丸の陥落を見て北条方の守備意欲が低下

    したところを猛攻し、西の丸を落とす。

   ・城主の松田康長は一門衆で玉縄城主の北条氏勝を

    撤退させ、自らは本丸で戦死、同日中に落城

    しました。

 

 3)山中城アクセス

   さて、国道一号線で三島から箱根方向へ向かいます。

   2015年に出来た三島スカイウオーク

   (当時日本一長い人道吊り橋)を過ぎて、

   程なく山中城の標識が見えますので、その通りに

   旧国道1号線へ右折すると、山中城の入口に

   到着します。

   (小田原側からも同様に国道一号線で行けます。) 

 

   この山中城前の道は元々は本当の国道一号線でした。

   交通事故対策等で2016年山中地区のバイパスが

   開通するまで、みんなここを通って箱根に

   行っていました。

   (2020年にはスカイウオーク側のバイパスも開通)

山中城入口
(ここに駐車場、バス停、売店、そば屋、トイレ等があります)

  そして、ここ山中城を過ぎると、現在でも

  箱根を越えて、すぐに小田原の街に到着します。

 

 4)山中城探訪

  それではいよいよお城に向かいます。( •̀ ω •́ )✧

 

  ①岱崎出丸

   この出丸は豊臣秀吉の来攻に備えて追加した出丸です。

   縄張図の通り、攻城軍の主力が通るであろう

   東海道沿いに曲輪を長く配置して、多く横矢(攻撃)

   が出来る様にしました。

旧東海道石畳から岱崎出丸と本丸の分岐点
(正面が三の丸方向なので、激戦場所かな)

岱崎出丸全景
(大きすぎて全体の半分位、写真左方向が東海道

岱崎出丸 三の丸側(正面左の上に櫓台が見えます)

上写真の拡大
(多分二の丸の櫓台。理由は岱崎出丸が
遠望出来たのがそこだけだったので)

 

 岱崎出丸の中ほどに進むと大きな堀跡があります。

出丸御馬場堀の説明板

岱崎出丸御馬場堀1 結構な迫力です

岱崎出丸御馬場堀2 反対側は掘られていない。
説明板に書いて無かったけど何故かな?途中だったとか?

 

こちらは本当に構築途中だった曲輪跡の説明板

岱崎出丸内に構築途中になってしまった曲輪跡

 

岱崎出丸の先端にある、すり鉢曲輪

すり鉢曲輪 説明板

 

 そして岱崎出丸からの眺望も凄いです。

 下の4枚の写真を撮った方向を縄張図で図示します。 

岱崎出丸からの撮影方向(青矢印、青字)

すり鉢曲輪付近から西方向を望む
(豊臣軍が登って来る方向、
中央やや左が長久保城の位置)

岱崎出丸から西方向を望む。畝横堀を介しすぐ下に旧東海道
(遠くに三枚橋城、駿河湾が見える立地)

上の写真の反対方向(本丸方向)
見事な畝横堀
(一生懸命身手を伸ばして撮影😓)

岱崎出丸の見張り台から北西方向を望む
(中央に富士山と愛鷹山、400年前もほぼ同じ風景ですよね~。
本丸が写真右手の山の先の方向になります)

 

岱崎出丸脇の旧東海道石畳
(戦国期は石畳では無かったと思われますが、
この左手が岱崎出丸で、この道から攻撃陣が
上がっていった)

 

  しかし、岱崎出丸は、一番最初に攻略された

  場所の様です。

  写真を見ると長いですよね~。

 

  以前静岡県出身の城郭研究家で、

  著名な加藤理文先生のお城歩き講座で

  山中城探訪に参加しました。

 

  先生がおっしゃるには、技術的には最高峰の山城

  でしたが、戦力差と共に守備ラインが長すぎた

  との事です。

 

  旧東海道沿いに曲輪を囲む形に配置するのは

  良かったが、攻撃側の兵力が多い場合、

  長すぎ=攻め口が長い=全体を守らなければならない

  ⇒攻撃側の被害も大きいが、兵力差がある

  ⇒守備兵、武器が減っていき、いずれどこかの

   守備ラインが突破される

 

  そして問題は、追加補強された出丸とは言え、

  占領されてしまった状況が他の曲輪からも丸見え

  なので、守備側の士気が下がることになって

  しまい、戦局に響いたのでは?と思われます。

 

 ②三の丸

  岱崎出丸と本丸の間には、三の丸がありました。

  しかし現在は全くその間の防御構造が見えません。

  境目は現在道になってます。

  (元々の国道一号線、面影が見えない😢)

 

  一説には、岱崎出丸が落とされて、北条兵が三の丸

  へ退却するのを追撃して、豊臣方がなだれ込んだ

  とも言われてます。

右手岱崎出丸の端から、左手三の丸入口方向

岱崎出丸を出て、三の丸入口方向
正面中央が旧東海道石畳の道
(大きなカーブの旧国一、三島市の調査報告書を
見ると出丸の名残かもとの事です)

 上の写真のどこかに三の丸の堅固な虎口が

 あったのかな~❓。

 この先が三の丸ですが、旧国道1号線と住居地区

 になっていて分かり難いです。

 

 上写真真ん中の旧東海道に入ります。

 (三の丸に入る感じ)

旧東海道(旧国一から入る)

ただし民家の中ですが、少し見渡すと
土塁の様に見えるものもあります

旧東海道はすぐ旧国一に吸収され、そのまま北東へ進むと
宗閑寺(兼公民館)入口に着きます。
(ここには北条、豊臣両軍の供養塔があるので、後述致します。)

 上写真も三の丸(もしくはその周辺)に含まれており、

 相当広かった様ですね。

 ただし3つ程の曲輪に分割してる図もあります。

 (住宅地区に吸収されてしまったが所々遺構があるのかも)

 

 そして想像ですが、岱崎出丸が落とされた後、

 北条兵は少数の味方兵に対し、20倍以上の

 豊臣軍を見て、三の丸にとり残されない様、

 どんどん本丸、二の丸方向に後退していった

 のかもしれません。

 

 そこを豊臣軍がなだれ込んだのか、

 もう守備をする兵隊が少なかったか。

 

 三の丸の遺構は、一番防御したい西方向に、

 堀土塁の一部が残され整備されています。

 ここは実は、山中城のメインルート最初の遺構です。

 (写真を戦闘時系列的に紹介してしまってる為、

  ぐちゃぐちゃですね(笑))

三の丸西側の堀
(駐車場のすぐ脇にあって、本丸方向へ進む最初の遺構)

  この堀は西側から三の丸への攻撃を防ぐ堀です。

  写真奥正面に旧東海道が横切っていて、

  写真左上のこんもりが岱崎出丸です。

 

 ③西櫓

  一方で西の丸方面は徳川家康が攻撃担当だった様です。

  そして、ここ西櫓と西の丸は山中城一番の見所です。😍

  

西の丸拡大図

城外から城最西端の西木戸口に向かう
(実際は戻ってます)

西木戸口に到着。正面が西櫓。

西櫓の堀を横から見るとちゃんと畝堀が。
(左手が西木戸口、右手が西櫓)

 この辺りから徳川軍が攻め込んだと思われます。

西櫓に入ります

西櫓
(右手は西の丸。ここ西櫓を敵に占領されたら
西の丸から攻撃出来る様、右側のみ土塁が無いとの
ことです。他の3方向には土塁があります。)

 

 畝堀三昧

  そしてお隣の西の丸と西櫓の間。

  ここが凄いんです。間近に見れます。

  南側から西端⇒北側へ、ぐるっと回ります。

西の丸と西櫓の間の障子堀1(南側から撮影)
(右手が西の丸、左が西櫓。ぐるっと右回りします。)

西の丸と西櫓の間の障子堀2

 そして、この一本。

西の丸と西櫓の間の障子堀3と富士山
(先生に教えてもらった撮影ポイント)

西櫓の堀(南側)

西櫓の最西端の畝堀1(南側から撮影)

 西櫓の北側に来ました。

西櫓の最西端の畝堀2(北側から撮影)

西の丸と西櫓の間の障子堀1
(北側から撮影、右が西櫓)

西の丸と西櫓の間の障子堀2
(北側から撮影、左が西の丸)

西の丸と西櫓の間の障子堀3
(これでもかと拡大)
当時はもっと頂上はもっと狭くて、かつ表面は
全面ローム層の赤土でつるつるだった。
崩れ難くする為に芝生や植木をしている。

西の丸と西櫓の間の障子堀4
(右が西櫓、左が西の丸)

西の丸堀の説明板

西の丸と西櫓の間から、北方向に
振り返ると富士山が見えます

富士山拡大

 おわかりでしょうか?

 西の丸と西櫓の間の障子堀が一番の見所ですが、

 ①南側から撮ると障子堀が影になるが、

  富士山が同時に撮れます。

 ②北側から障子堀を撮るとが鮮やかに写る。

  (AM中が良いかも)

 

 ここで3,000文字を越えました。

 西の丸、二の丸、本丸、その他は次回にします。

 

 たまたま三島市の環境整備事業を見たら、

 山中城は昭和45年から平成5年の26年間で

 総額5.6億円をかけて発掘調査、整備を

 したそうです。

 

 山城整備事業の先駆け、日本屈指の山城保存遺構

 で間違いなですよね😊

 

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その5)> 探訪しました北条氏関連のお城一覧(ご紹介)

こんにちは、rekikakkunです。

 

今回は、北条氏関連のお城の投稿前に、

今年秋に探訪致しましたお城を、

簡単に一挙ご紹介したいと思います。

 

マップと各城写真1枚でご紹介致します。

(マップの番号と本編〇番号を合わせています)

 

番号は基本、落城 or 開城した時系列順にしており、

投稿もその順番で予定してますが、例外が3点ございます。

 

・マップの内、⑤の松井田城のみ行っていません。

・⑭の韮山城は2年前の探訪写真です。

・あと⑪の忍城開城は小田原城開城より後ですが、

 話の流れ上、開城より早い番号にしてます。

 

全部で16城です。👍

(マップの番号をポチっとすると、案内が出てきます😊)

 

山中城

山中城 西の丸の障子堀
(見応え充分です。富士山もよく見えます)

 

②足柄城

足柄城 二の曲輪から御殿場方面、富士山
(絶景を見に来る人が多いですが、城の遺構もあります)

 

③河村城

河村城 堀切と復元木橋

 

玉縄城

玉縄城 本丸に通じる七曲坂
(思いっきり市街地の中、保存会の方達等が頑張っている)

 

⑤松井田城

 探訪計画してましたが、今年は情勢により断念しました。🤣

 でも話の流れで触れるでしょうー。真田も絡むし。

 

⑥唐沢山城

唐沢山城 本丸の高石垣
(今回のお城探訪で一番人と会いました😃。100人位かな?)

 

⑦武蔵松山城

武蔵松山城 曲輪4から、奥に見える曲輪3へ歩く

 

⑧杉山城

杉山城 どこを通っても3方向から攻撃されてしまう堀
この城、確かに凄いです。今回2度行きました。😎

 

岩槻城

岩槻城 八ツ橋
太田道灌の頃より頑張ってたお城のイメージ。

 

⑩館林城

林城 本丸土塁跡

 

忍城

忍城 復元3階櫓

 上の⑨、⑩、⑪は、平城なのになんで戦国真っ只中に

 活躍出来たの? と思っていましたが・・・、

 行ってみると、3城共周りが沼、湿地帯だったと知りました。

 なるほど、これが関東の城か~⁈

 事実、忍城が落ちなかったよね~。

 

鉢形城

鉢形城 二の曲輪空堀

 

八王子城

八王子城 御主殿の段石垣と橋

 

韮山城

韮山城 本丸

 

⑮石垣山城

 このお城は開城じゃなくて、築城でしたね。

石垣山城 井戸曲輪の石垣と相模湾

 

小田原城

小田原城 小峰御鐘ノ台大堀切 東堀
(今考えると、凄すぎて我慢できず、
最初に投稿しちゃいましたね😓)

 

 以上、さらっと北条氏のお城のご紹介でした。

 

 千葉県には行ってなくて、その他重要拠点の

 不足もあるかと思いますがご容赦下さい。

 

 今回一覧にしてみて感じたのですが、

 杉山城と八王子城がとても親切だった事を

 思い出しました。

  

 というのもこの2箇所の資料館では、

 施設内の撮影に制限が全く無く、情報を持って

 帰れるので、とてもありがたいと思いました。

 

 そしてボランテアさん等親切で、お城の事を

 知ってね、っていう雰囲気が伝わりました。👍

 個別の投稿時にもう少し触れますね。

 

 以上で終わります。

 次回からほんとにお城探訪となります。

 山中城と足柄城になります。 

 (今回確認したので確定のはず・・・多分(*_*;)

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m