歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その12) 伊那侵攻(3) 甲州流三日月堀が残る伊那大島城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

前回は福与城、今回は大島城のご紹介になります。

 

6.伊那侵攻

 ⑮大島城(伊那大島城)

  大島城は長野県松川町に存在し、伊那盆地の

  中央駒ヶ根と南部の飯田の中間位の位置です。

 

  大島城は天文23年(1554年)、

  領主の大島氏から武田氏が接収しました。

 

  1540年代の高遠城福与城等の上伊那侵攻

  とは時期が異なり、1550年代に伊那盆地

  南部を攻略した、下伊那侵攻に分類されます。

  今回私は伊那侵攻として、まとめてしまってます。

 

  さて、国道153号線から東へ入り、

  天竜川沿いの大島城に到着しました。

大島城は別名台城と言われ、現在台城公園となっています
(右側はもう三日月堀

大島城(台城公園)駐車場

大島城 説明板

大島城 想定図

大島城 縄張図

 これらの資料からも見える通り、天竜川を天然

 の堀に使って本丸を配置し、敵が攻撃してくる

 反対の台地側に、人工の防御施設を設置した

 後ろ堅固の城になっています。

 

 そして敵が最初に攻めかかる箇所に、二重の三日月堀

 と馬出、枡形虎口で防御力を高めているのが特徴的で、

 甲州流築城術と素人ながら思ってしまいます。

二重の三日月堀
真ん中左を見ますと、2つに区切っている土手が見られますね

三日月堀

三日月堀と表示版

 

 静岡県の諏訪原城も、武田勝頼徳川家康ゆかりの城で、

 巨大な三日月堀、馬出と大井川の後ろ堅固等が似ています。

諏訪原城の馬出と三日月堀

 

 大島城に戻ります。

三日月堀枡形虎口の間にある外堀

三日月堀の内側は馬出になってるのですが、
馬出に民家があるので、入れません。

そして馬出の内側には桝形虎口

桝形虎口外堀に連なる土塁

この縄張図の赤丸で囲った三日月堀、馬出、外堀、
土塁、
枡形虎口が見所だと思いますので、行ったり
来たりしましたが、上手に撮れませんでした。T_T

 ただこの甲州流築城術の遺構が現ナマで

 残されていて見れるのは、たまらないです。

 なにが?と言われても╮(╯▽╰)╭。

整備されている三の丸

枡形虎口土塁を撮ろうと努力しているが・・・

こちらは北側の馬出し、土塁、堀

二の丸本丸へ延びる道

二の丸に入っていきます

二の丸の土塁

二の丸 広いですね

この先が本丸

本丸手前の巨大な堀

堀底から井戸跡に行ってみます

井戸がありました

井戸の説明板の通り、周囲から見えない低い位置にあります

井戸跡から本丸へ進みます

天竜川が見えました。後ろ堅固なので、もうすぐ本丸

本丸に到着しました

こう見ると、天竜川本丸の高低差が結構あります

本丸から戻る道

ここも大きく掘られています

 

 その後、どうしても天竜川側から大島城を撮りたくて、

 駐車スペースを探し、走って撮りに行きました。

大島城眺望1

大島城眺望2

大島城眺望3

大島城眺望4

 

 大島城から離れ、飯田方面に南下します。

飯田市のイオンでラーメン食べました。美味しかったです😌

 ・・・が力尽きて、予定していた飯田城には行かず、

 静岡の自宅へ向かいます。

 

道の駅信州新野千国平
飯田から151号線で南下したところ

道の駅で何したか忘れる(@_@;)

 以上で大島城探訪伊那侵攻編を終わります。

 

 大島氏から奪取した大島城ですが、その後の

 西上作戦伊奈防衛兵站、防衛拠点として

 大改修をしました。つまり後期の仕上がった

 甲州流築城術が残されてると言えます。

 

 天正10年(1582年)織田信長

 甲州征伐に乗り出しました。

 

 この時、大島城には信玄の実弟武田信廉が入城

 していましたが、なんと城兵を置いて逃げて

 しまったと信長公記に記されてるそうです。

 

 そして上原城に駐留していた武田勝頼も無視

 して甲府へ帰り、勝頼が天目山で自害後、

 織田家に捕まって斬首されたそうです。

 

 高遠城で壮絶に玉砕した仁科信盛

 比較されてしまいますね。

 

 ただ信廉は黒澤映画影武者の重要人物で

 信玄の影武者を務め、また実際でも絵画に

 長じ、父信虎の肖像画等が残されています。

 得手不得手がはっきりしている方だったのかも。

 

 さて、伊那地方(この時は上伊那)を治めた

 晴信は、次に佐久平(甲府の北、軽井沢の方面)

 の攻略へと駒を進めます。

 

 佐久のお隣には村上義清が居ますね。

 いよいよ小笠原村上長尾景虎

 強豪との対決が近づいてきました。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その11) 伊那侵攻(2) 藤沢頼親と福与城 

こんにちわ。rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

前回は高遠城、今回は福与城になります。

 

6.伊那侵攻

 ⑭藤沢頼親と福与城

  福与城高遠城の北西約10km程に位置し、

  天竜川沿いの河岸段丘上に築かれています。

 

  藤沢氏は諏訪大社上社大祝諏訪家の分流と

  伝わり、鎌倉時代の吾妻鑑に弓の名人として

  藤沢清親の名が記されてるそうです。

 

  天文14年(1545年)4月、高遠頼継

  高遠城を攻略した武田晴信は、高遠頼継

  属していた藤沢頼親福与城に攻め寄せました。

 

  その福与城を訪問しましょう。

福与城跡 (すぐ近くに広い駐車場があります)

福与城 説明板

福与城 縄張図(中央下の現在地から進みます)

駐車場から主郭へ進みます
(写真中央方向)

正面に主郭が見えてきました

斜面と堀で守られています

主郭へ進みます

主郭と表示板が見えます

 

福与城主郭に来ました

福与城 説明板

 武田軍の猛攻を50日耐えたが、落城し、

 藤沢頼親は流浪の身になったと記されています。

主郭から北城の方向
(北城は、北の曲輪の意味だと思います)

北城から主郭を見上げる

断崖、谷の地形

二の郭

主郭正面の方向に戻る道

トンネルがありました

 

 あらためて福与城からの眺めを見ます。

福与城から伊那盆地方向を見る

拡大1

拡大2

 福与城を後にし、南下してます。

福与城を出て、河岸段丘を南下中

伊那盆地風景(西側)

伊那盆地風景2

 約1時間程の福与城訪問でした。

 もう少し遺構がありましたが、景色が綺麗で

 そちらもお勧めです。

 

 そして、福与城を追われた藤沢頼親ですが、

 その後、高遠頼継と同様に武田家に帰順離反

 を繰り返す様なのですが、なんと

 福与城の戦いから10年後の1555年に、

 三好長慶に仕えたとされています。

 芥川山城に居たのかも?

 

 長慶没後に旧領付近に戻り、

 1582年本能寺の変で勃発した甲信地方の

 天正壬午の乱で再起を図りますが敗北し、

 自害したとの事です。

 

 戦国の国人、小領主の大変な生きざまを

 感じられます。

 

 以上で福与城を終わります。

 次回は同じ伊那地方の大島城をご紹介します。

天竜川を背に小高い台地に築かれた大島城
(武田信玄の実弟、武田信廉が守っていたが・・・)

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その10) 伊那侵攻(1) 高遠頼継との抗争と高遠城攻略 

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

 

私の武田信玄ゆかり探訪記事は、下表で計画しています。

間違ってる点があるかもしれませんがご容赦下さい。

武田信玄ゆかり探訪の表

赤字の探訪場所は既に訪問済です。

 

昨今の熊騒動で、相当数の山城には行き難くなって

しまったので、騒動前におおよそ行けて良かったです。

 

前回まで、No.1生誕地①積水寺から、

No.5諏訪侵攻⑫長窪城までをご紹介しました。


今回より、No.6伊那侵攻編を進めていきます。

(上伊那、下伊那は分けず、お城中心の探訪となります)

 

6.伊那侵攻

 ⑬高遠城の攻略

  天文11年(1542年)6月の諏訪郡攻略後、

  諏訪領地は、宮川を境に北東は武田家、南西は高遠家

  に分割されました。  

武田家と高遠家による諏訪領の境、
現在の宮川(おおよそ黄色線)です。

  しかし高遠家の当主高遠頼継は、諏訪惣領家を継ぎ、

  諏訪全土の領有を欲していたため、同年9月に

  早くも両家は宮川付近で衝突しました。

  結果は高遠勢が敗北し諏訪領から撤退しました。

 

  天文12年(1543年)武田晴信は諏訪領統治

  を固める為、上原城を修築し、そこに諏訪郡代

  して重臣筆頭格の板垣信方を配置しました。

  (養子は入るが、明治の板垣退助の先祖)

 

  そして天文13年(1544年)、第一次上伊那

  侵攻を行いましたが、この時の武田軍は攻略を

  失敗し、撤退してます。

 

  翌天文14年(1545年)4月、武田晴信

  第2次上伊那侵攻を行います。

  諏訪上原城の南、杖突峠から南下して高遠城

  急襲し、高遠城は落城、高遠頼継は逃亡しました。

上原城から見た杖突峠。この峠を越えて南下すると高遠に至る

杖突峠を越えて高遠城へ至る地図(黄色矢印)

 

 それでは、高遠城に向かいましょう。

駐車場に到着しました。とても広いです。

ここは勘助曲輪と命名されている様です。
(ただし勘助とはほぼ関係なさそう)

高遠城下伊那の山並みが綺麗です
山並みの麓に伊那盆地があり、城下町はその段丘の上、
高遠城はそのまた上の河岸段丘を利用してる様です。

大手門跡

大手門跡 説明板
武田時代の大手門は東側にあり、この西側は断崖になっていたが、
平和になった江戸時代に、城下町発展と共に東側に築かれたそうです。

よってこの大手門脇の石垣は江戸時代当時の貴重な遺構だそうです。

大手門から入り、城内はさらにこの斜面を登ります

北側の入り口かな?

北側の空堀

この地図では左上の所が北側の入り口になります。
(大手門跡は左下の所です)

二の丸跡の散歩道

 この辺りから、どこの写真か分からなくなって

 きました・・・。なので適当になりますm(__)m

 

空堀跡

本丸に入る桜雲橋問屋門

問屋門は、城下からここに移築されたそうです。

本丸跡
二の丸も本丸も広くて、大きな城だったようです

神社があります

武田家滅亡時に最も頑張った仁科信盛と藤原氏を合祀した神社

どこかの断崖

本丸から伊那盆地方向を見る

南曲輪

南曲輪には会津藩祖保科正之が居たそうです。
彼は徳川秀忠の子ですが、ここに住んでいた云われや、
後に家光と対面し、実直な人柄で信頼を得て幕政参加等、
会津若松城に行く機会がありましたら語りたい方ですね~。

確か南側の空堀と思います。
堀底を歩けるなんて、とてもラッキーです😌

堀底と曲輪の斜面👍

綺麗な空堀。気分爽快とはこのこと・・・。

迫力のある空堀

 いや、ちょっと高遠城で堀底を散策できると

 思ってなかったので、嬉しいです。(⌒∇⌒)

 

 ただこれに満足してか、その後の写真が無かったです。

 

 高遠城は上田市から杖突峠青崩峠から浜松市に至り、

 日本の中央を南北に進む重要な街道(現在の県道152号線)

 に位置しており、武田信玄の西上作戦等、馴染み深いですね。

 

 高遠頼継はその後武田家に従属、離反を繰り返し、

 高遠城落城の7年程後に自害させられたそうです。

 

 その後高遠は、頼継の家臣保科氏が治め、

 前述の保科正之へと繋がっていきます。

 

 また彼の系譜は会津松平家となり、保科家自体は

 上総の国で大名として江戸時代を生き抜いてました。

 

 この様に高遠城は数々の歴史ドラマが刻み込ま

 れていて、とても語り尽くせません。

 

 以上で終わります。

 次回は同じく諏訪氏の分流である

 藤沢頼親福与城です。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その9) 諏訪侵攻(番外編) 高島城と諏訪氏のその後

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

前回まで上原城桑原城諏訪大社上社等を探訪し、

武田晴信による諏訪制圧までのお話をしました。

 

天文11年(1542年)7月、諏訪家の当主

諏訪頼重が甲斐で自刃に追い込まれ、諏訪郡を

統治していた諏訪惣領家は事実上滅亡しました。

 

その後、頼重の叔父満隣(みつちか)の系譜が

戦国後半を生き抜き、江戸時代を大名として

諏訪領を治めた事が、諏訪湖の南に位置する

高島城を訪問して分かりました。

 

武田信玄との直接の繋がりでは有りませんが、

諏訪領、諏訪家の後日譚を高島城で確認して

みましょう。

 

5.諏訪侵攻(番外編)

 ⑪高島城と諏訪家再興の成功

  桑原城から諏訪湖方向へ3km弱進んだ所に、

  高島城があります。

  無料駐車場に車を駐車すると、もう目の前に

  立派な天守があります。

高島城天守

天守石垣は丸っこいですね。色が変わってますが、算木にはなってます

直ぐに本丸内に入れます

天守内に入ってみます

 受付で入場料を払って、写真OKを確認出来ました。

まず高島城復元想像図があってイメージがし易いですね(⌒∇⌒)

かっこいいです。周りは水田や湿地ですね。
家康の子松平忠輝や吉良上野介の養子吉良義周
配流により、高島城に居た様ですね。

 

 そして高島藩の起源と歴史の概要が下記に説明ありました。

高島藩の起こりとあらまし(1/2)

高島藩の起こりとあらまし(2/2)

 天文11年(1542年)、戦国の領主としての諏訪家は

 武田家により滅びましたが、ちょうど40年後ですかね?

 

 天正10年(1582年)に武田家が織田家に滅ぼされ、

 織田家川尻秀隆の家臣が諏訪を治めましたが、同年の

 本能寺の変や天正壬後の乱等により、徳川家が支配

 することになり、諏訪頼忠が諏訪領主となったそうです。

 

 諏訪頼忠は、冒頭の満隣の子で、桑原城

 武田晴信に投降した諏訪頼重のいとこですね。

 

 その息子諏訪頼水初代高島藩主となったそうです。

 その後3万石前後で推移し、10代藩主忠礼の時に

 幕末を迎えました。

 

 片や、甲斐武田家の江戸時代の身代は高家

 500石だった様です。

 

 諏訪家は、一度滅ぼされた武田家の60倍もの

 身代で復活し、江戸時代270年間、諏訪の藩主

 として生き延びた事になります。

 

 その辺りはあまり知ってなかったので、

 今回高島城を訪問して、とても良かったです。

 実際の資料展示はもっと沢山ありました。

 

 高島城天守閣からの眺望です。

南、甲斐、富士山の方向

上の写真を拡大すると、富士山の頭が見えました。
実際目視でも分かりました。

富士山と逆の、諏訪湖方向

諏訪湖方向

 

 石垣の説明です。 

石垣の説明1

石垣の説明2
野面積みで、稜線のみ加工石だそうです。

 

 写真スポット

かっこいい高島城

水堀、御門、石垣、橋と天守の融合が良い感じです

 

 ⑫長窪城(ながくぼじょう)

  諏訪頼重は、実は諏訪領のみでは無く、信濃小県郡

  (諏訪領の北)の長窪城等も所有していました。

  その長窪城は、武田家の諏訪侵攻後、元城主の

  大井貞隆が奪回しました。

 

  しかし翌天文12年(1543年)武田晴信

  攻め取られたそうです。

 

  突然登場した長窪城ですが、ここは後に武田晴信

  村上義清による上田原の合戦や、砥石城の戦い等、

  武田信玄本軍の北信濃侵攻拠点となっています。

 

  歴史に繋がりがあるので、有名な上田原の合戦

  の時にご紹介したいと思います。

長窪城本丸より

 

  そして諏訪攻略を果たした武田晴信は、

  次の攻略目標を伊那郡に定めました。

 

  よって次回より伊那侵攻編となり、高遠城

  福与城飯田城大島城あたりの探訪ご紹介

  を予定してます。

 

  以上で諏訪侵攻編を終わります。

  ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その8) 諏訪侵攻(4) 桑原城落城と諏訪頼重の最後

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

前回まで上原城干沢城諏訪大社上社

を探訪し、ご紹介しました。

 

5.諏訪侵攻

 ⑩桑原城落城と諏訪頼重の最後

  天文11年(1542年)6月、諏訪領は、

  東から甲斐の武田軍、南から伊那の高遠勢

  から侵攻されました。

 

  その状況を下の地図で示します。

上原城、桑原城とその周辺

 青字武田高遠侵攻軍に対し、

 諏訪家当主の諏訪頼重は、赤枠の本拠上原城

 を捨て、北西方向の桑原城へ避難しました。

 

 その桑原城を探訪します。

 国道20号(甲州街道)から県道424号に入ると、

 1km程で下写真の桑原城登城口に到着します。

桑原城登城口
(入った脇に車を駐車できます)

桑原城登城口の説明板

 上記説明板によりますと、諏訪頼重は7月2日夜に

 本拠上原城に火をつけ、桑原城に退去しました。

 

 3日夕方、頼重は検分の為、麓方向に下った所、

 それを見た家臣達が、主君が城を捨てたと判断して

 多くの兵士が逃亡し、城内は残り20名程になって

 しまったとのことです。

 

 翌4日に諏訪頼重は降伏しました。

桑原城を登っていきます

整備されている山道

T字路に着きました。

登山道から桑原口へ進みます

山頂付近が見えてきました

途中空堀がありました

空堀。堀切かも。

山頂が見えてきました

山頂付近の曲輪に着きました

東曲輪

首塚
(いわれは分かりません)

少し登ると空堀に着きました。
本丸二の丸を区切っています。

本丸に着きました

本丸

本丸の説明板

桑原城縄張図

説明板の背後に本丸の土塁が残っています

土塁の上を歩いています

土塁から下を見ます。
流石に切岸が高いです

本丸土塁から街(甲州街道側)が見えます

本丸から、空堀を挟み、二の丸に行きます

二の丸に来ました

二の丸の端まで来ると、諏訪湖が見えてきました

桑原城から諏訪湖を見る
晴れの日ならではの、とても綺麗な風景です。👍

諏訪湖拡大。
奥の雪山は上高地方面の穂高岳かも。

二の丸から諏訪湖と逆方向の本丸を見ます

本丸二の丸から戻ります

T字路に戻ってきました
(往復約40分程度でした)

 桑原城探訪は以上となります。

 甲州街道と諏訪湖が望める好立地だった様です。

 遺構もとても整備されていました。 

 

 さて7月4日に降伏した諏訪頼重は、甲府に

 連行され、20日頃東光寺にて自刃しました。

 

 諏訪領は大筋としては、最初の地図に黄色線で

 示しました宮川を境として、北は武田家、南は

 高遠家に分割された様です。

 

 諏訪惣領家は後に晴信の四男勝頼が継ぎますが、

 一時的なものであり、本筋としては頼重

 叔父満隣(みつちか)の家系で復活し、

 高島城主の大名として生き残りました。

 

 次回は予定してませんでしたが、せっかくの

 流れなので、高島城諏訪家の今後について

 少し触れたいと思います。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その7) 諏訪侵攻(3) 高遠頼継の野望

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

 

5.諏訪侵攻

 ⑧諏訪大社上社、法華寺

  諏訪大社は信濃国の一宮であり、日本最古の神社

  の一つとも言われ、日本を代表する神社です。

 

  諏訪氏はその最高位の神官である大祝(おおほおり)

  を務め、かつ中世に武士団化した諏訪家の主(惣領

  でもありました。

 

  その大祝家惣領家は、時代と共に統一や分離、

  抗争を繰り返しているという複雑な氏族の様です。

 

  因みに鎌倉の北条得宗家が滅び、その遺児北条時行

  を主人公とした人気アニメ「逃げ上手の若君」

  今年の4月フジテレビで放映が開始されましたね。

 

  一時は中先代の乱等で、鎌倉を短期的にですが

  奪還しています。

 

  その最大の協力者が諏訪頼重で、戦国時代の

  当主の先祖であり、かつ同名です。

  

  諏訪頼重は、北条時行諏訪大社及び高遠を含む

  伊那地方に潜伏させていたと言われてます。 

 

  一話目を見ましたが、一番目立ってました(笑)。

  

諏訪大社上社 鳥居

諏訪大社上社

諏訪大社上社 入口御門

主祭神は建御名方神でその父が大国主命と説明があります。

諏訪大社上社本宮

諏訪大社上社周辺の案内地図

 この地図の大半を占めていた、黄色文字で描かれている

 神宮寺は明治時代の神仏分離令で破却されたとの事です。

 (勿体なさすぎです)

 

 地図の右上側には、法華寺があります。

 諏訪大社上社のすぐ隣なので行ってみます。

法華寺 正面

案内に沿って進みます。

奥にお墓がありました

吉良義周の墓
なんと赤穂浪士に討たれた吉良上野介の養子義周の墓がありました。
仕方不届として諏訪へ配流となり3年後死去した悲運に触れました。

法華寺の説明板

 また法華寺織田信長が甲州征伐の時に陣所として

 論功行賞をここで行い、また明智光秀を愚弄して、

 本能寺の変の一因となった所と説明されています。 

 大河の真田丸でも描かれていた場面ですね。

 

 この時諏訪大社上社織田軍によって燃やされて

 いたとの事です。

 

  信長の武田家等への厳しい仕打ちは、それだけ

  武田家が脅威だったことを示していると思われます。

 

  しかし当時日本で最も脅威と思われていたのは

  信長自身であったと思いますが、その因果が

  自分に帰ってくる運命だと認識してたでしょうか?

  (でも戦国武将、悟ってる部分があったのかも)

 

 ⑨干沢城探訪(茅野市指定史跡)、諏訪大社前宮

  どんどん話が逸れていますね。😅

 

  武田晴信諏訪頼重の居城上原城を接収した頃、

  諏訪地方の南に位置する高遠地方の領主、

  高遠頼継も、諏訪頼重を攻めてきました。

 

  高遠氏諏訪氏の分家筋であり、上記でも

  少し触れていますが、抗争に乗じ度々諏訪家

  の惣領を狙ってました。

 

  高遠頼継も、自分が諏訪家の惣領になる

  資格があると本気で思っていた感じです。

 

  高遠から諏訪へ侵攻する道は現在の国道

  152号線、杖突峠を越えるルートでしょうか。

 

  以前掲載済の図です。

中央下の152号線。この辺りが杖突峠です。
(写真下の方向が高遠城になります)

  上原城から見るとこんな感じです。

上原城から杖突峠、諏訪大社上社、干沢城を見る
上原城
から見ると真正面に高遠勢が来襲して
きたのが見えます。 右方向が諏訪湖です。

 

まず駐車場がある諏訪大社前宮に向かいます。

諏訪大社前宮
周りに観光客が沢山居ました。

前宮の説明板

前宮の周辺遺構を歩きます

前宮の東側に案内表示がありました。
左手干沢城、800m20分とあります。
戦国当時の杖突峠ルートはこの鎌倉道だったかな?

 ここ人多いし、最近の報道でちゃんと周辺熊対策してるで

 しょうからと、かみさんを安心させて、一緒に向かいます。

 と、その直後

あ、目の前にたわわに実った柿の木が1本・・・😅

 流石に干沢城(ひさわじょう)へ行く人は他には

 見当たりませんが、さらっと行ってみます。

 

干沢城に向かう

干沢城の山道案内

ここを登ります

とは言っても、2分も歩くともう曲輪らしい形状が見えています。

空堀です。埋まってますがしっかり残ってますね~

三の郭

郭と郭の間の空堀

郭、空堀、切岸、上段の郭とはっきり残ってます

主郭に着きました。結構広いです。

干沢城説明板

縄張図拡大

縄張図に沿って行ってみたい感じ

南方向の案内

段郭になっています

城域が広いです

 干沢城は、文明十五年(1483年)の上社内抗

 天文十一年(1542年)武田氏侵攻の戦場だった

 と書かれていました。

 

 位置、規模的に諏訪大社上社、大祝家の中心的拠点

 だったと思われます。

 

 そしてどこにも書いてないけど、ここ干沢城

 高遠頼継が最初に攻略したのかなと思います。

 

 もう一度諏訪頼重の居城上原城から見ますと。

杖突峠から高遠軍が正面の干沢城を攻めてます。
武田軍が左側(東側)から侵攻し、攻撃しています。
→それを見た諏訪頼重は右側(西側)へ逃げたくなりますね。

 

干沢城付近から見た上原城

上原城拡大

 という訳で、あまり表題の高遠頼継の野望には

 触れてませんでしたが、諏訪頼重が本拠の上原城

 あっさり諦めて、西側の桑原城にへ向かったのは、

 何となく分かった気がしました。

 

 次回はその桑原城を探訪します。

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その6) 諏訪侵攻(2) 諏訪氏居城の上原城落城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

 

5.諏訪侵攻

 ⑦上原城探訪(長野県指定史跡)

  前回は上原城へ至る山道の中腹にある、

  上原城諏訪氏居館跡史跡を訪れました。

 

  そのまま山上の上原城に車で向かいます。

 

上原城駐車場前の舗装路
山城の中では比較的スムーズに車で行けました。

上原城の駐車場、入口に着きました。ほぼ山頂です。

上原城の説明板

上原城石碑

上原城入口。いよいよ遺構に入ります。

いきなり土の遺構が見られます。
左に竪堀、右手が大堀切、正面が主郭への道です。

現地掲示の縄張図で見ますと、駐車場から青線に進みました。
一つ上の写真が、赤丸の場所です。

右手の大堀切です。
左側が主郭、右側がはなれ山です。

流石に主郭への斜面は急で高いです。

主道に戻ります。左側のR形状が素晴らしいです😊

前に進みます

物見岩が見えてきました

金毘羅神社入口

ここから眺望が見れます

以前投稿しました写真地図です。

神社から二の郭に進みます

ここにも説明板がありました。

 上原城は1466年頃、諏訪信満がこの金毘羅山に

 館を構え、以後5代後の頼重まで、約70年諏訪家

 の居城として諏訪地方を統治したそうです。

 

二の郭から主郭の背後に来ました。
上から大堀切はなれ山を見ています。

主郭に上ります

上原城主郭に到着しました

上原城主郭 説明板

主郭周辺には帯曲輪があります

一番高い主郭から帯曲輪、その下まで見れます

諏訪湖の方面を見ています

拡大、左手に中央道が見えます。

駐車場手前まで戻り、最初の竪堀を見てます

少し竪堀を降りて、攻城兵視点で見上げる
これだけでもやばい。

駐車場に戻ってきました。
看板の先が怪しいので行ってみます。

看板の先に堀跡が見られます。
はなれ山から、尾根側を遮断する堀と思われます。

 以上で上原城探訪を終わります。

 アクセスがほぼ頂上まで舗装道路で車で行ける

 ので、とても楽でした。

 そして小ぶりとは言え、山城遺構をしっかり残し、

 安全でとても良い山城史跡でした。

 

 本拠上原城武田晴信に攻撃された諏訪頼重は、

 守り切れないと判断して、甲斐と反対方面の

 桑原城に逃げました。

 

 また諏訪家の惣領を狙っていた高遠頼継は、

 武田と呼応し、高遠城から北上し、杖突峠を越え、

 諏訪に侵攻。干沢城等を攻略したそうです。

 

 次回はその干沢城を探訪します。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m