歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その15) 小県侵攻(1) 武田家の前線基地、長窪城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

 

諏訪、伊那北部、及び佐久郡を攻略した

武田家は、北信濃最強の領主村上義清との

初対決、上田原の戦いへと進みます。

 

8.小県侵攻

 天文16年8月志賀城を攻略し、佐久郡を手中に

 収めた武田家は、翌天文17年(1548年)2月、

 早くも北信濃小県郡へ進軍を開始しました。

 

 甲府を出発し、諏訪上原城で宿老筆頭格の諏訪郡代

 板垣信方と合流した武田晴信本隊は、大門峠を越えて

 北進し、小県郡南部の長窪城に着陣しました。

 (大門峠は現国道152号線の白樺湖の北で、

   近くに霧ヶ峰、車山等があります)

 

甲府、諏訪、佐久、長窪城(マーク地点)と上田原の位置関係です。
当時上田地域はほぼ村上方の領地でしたので、武田所有の長窪城
結構前線にあった事が伺えます。(黄色矢印が武田軍進路)

 

 ⑱長窪城

  長窪城は小県郡南部に位置し、諏訪家の所有で

  したが、天文12年の諏訪侵攻時に武田家が

  大井貞隆から奪取していました。

 

  天文17年2月武田軍は北信濃攻略(まずは

  武田家領地と隣接する小県郡攻略)の為、

  長窪城を度々前線基地に使ったとの事です。

 

 それでは、その長窪城に向かいます。

 国道152号線を北進し、名和町の国道254号線

 へ右折東進。1km強進むと山道のカーブに長窪城

 に通じる林道への案内看板がありました。 

 ここは搦手に通じる道で、大手側は別にある様です。

国道254号線の長窪城案内看板
(ここを右折して林道に入る)

長窪城の入口に到着しました。
小さな駐車スペースがあります。

写真案内図の下側が現在地です。
とても分かり易いです。

長窪城 説明板

 説明板の年代から、1548年上田原の戦い

 1550年砥石崩れ、1553年第一次川中島

 の戦いで、前線基地として使われてた様です。

 

 これ以降は村上氏が駆逐されてるので、

 戦線が北上し、前線基地としての役割が

 終わったと思われます。

それでは歩いて長窪城跡へ進みます
もうほぼ山頂付近なので登りは少ないです。

少しだけ登りますが、とても歩き易いです。

堀切がありました

堀切拡大

2つ目の堀切

2つ目の堀切拡大

その先にまた3つ目の堀切があります

3つ目の堀切拡大
縄張図を見るとまだありそうです。

3つ目の堀切の先から来た道、搦手側を見ます。
尾根の両側は急斜面で、痩せ尾根に堀切
施しているのが分かります。

3つの堀切を超えると二の郭に到着しました。
その先、一段上が本郭です。

本郭に到着しました

長窪城址石碑

長窪城から西側の名和町街並み

長窪城から北西側
この先が上田市です。上田原に通じますので、
武田軍もこの方向へ進軍したと思われます。

北西側拡大

南西側

本郭から西側の真下、急斜面と共に、依田川が見えます。

 天気も良く、長窪城からの眺望はとても綺麗でした。

 東屋でのんびりしたい所でした。

 

本郭の先は大手口等に続きます

元来た道を戻ります。

 

 前回触れましたが、この日は、

 長窪城→志賀城→内山城の計画でしたので、

 長く滞在せず、大手側へは行きませんでした。

 

 甲斐武田家の歴史に出てくる長窪城

 この北はすぐ上田市で、村上義清の居城葛尾城

 も20km程の距離です。

 

 佐久郡を奪い、東からも武田家小県郡

 村上領に侵攻出来る様になりました。

 村上家は相当警戒していたでしょう。

 

 いよいよ武田vs村上の決戦です。

 と進めたい所ですが、長すぎない様、

 ここで終わります。

 

 次こそは上田原に到達するはずです。多分。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その14) 佐久侵攻(2) 志賀城攻略と悲哀

こんにちわ、rekikakkunです。

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

 

諏訪、伊那北部を手中にした武田家は佐久地方の

攻略へと進みます。

 

7.佐久侵攻

 ⑰志賀城

  志賀城は長野県佐久市に存在した山城です。

 

  天文16年(1546年)武田晴信佐久郡制覇

  の為、内山城に続きその北方に位置する志賀城の

  攻略に動きました。

 

  当時の城主は笠原清繁でした。

  彼は単独では武田家に敵わないので、佐久郡の東、

  碓氷峠を超えた先の一大勢力だった関東管領

  上杉憲政に援軍を求めました。

 

  彼こそは後に、長尾景虎に関東管領上杉家の

  家督を譲った人です。 

 

  武田家が志賀城を包囲した後、上杉家の援軍

  は碓氷峠を越えましたが、同年8月武田軍は

  志賀城北方の小田井原で迎撃し、武田軍が

  大勝したとの事です。(小田井原の戦い

 

  話をここで一旦止めて、志賀城に行ってみます。

佐久平の東側、長野県道44号線を東進

その先を拡大すると、中央の山が志賀城となります。
山城の雰囲気がびしばしです(笑)

志賀城の南麓、雲興寺さんの駐車場をお借りしました。

その脇から登城します。正面が志賀城本丸だと思います

分かれ道を左へ進みます

竹林に入りましたが、内山城より行き易いです

大きな志賀城趾の石碑がありました

この近く、山道に入る前で軽食を食べました。
おにぎりとアクエリアスです。ゴミではありません!

山麓の樹木群を超えると、山肌が見えてきました

かすかに分かる山道を登ります

振り返るとこんな感じ

 前項の内山城と同じ構図です。

倒木の下を潜り抜けます

登ってる時は山道に見えますが

振り返ると、どこが道なのか分かり難いです

それでも目線の先に稜線の雰囲気が出てきました

稜線にたどり着きました。人工的っぽい高低差があります。

縄張図が無いのですが、堀切の遺構があります

木々の間に南麓が見れます

曲輪ですね

虎口かな?

石積みがはっきり残っています。
これを見に来た感じです。

本丸あたりから下を見ると急峻な要害の様です

 

 今見ると本丸はどこだ?と思いましたが、

麓まで降りてきました

麓から再度志賀城趾を見ます

拡大すると右側が本丸かな?

 

 志賀城から車で少しだけ奥に進みます。

田畑の中に、史跡があります

看板が色あせていますが、志賀城主
笠原清繁の首塚と言われています

このぽっつり感が妙に悲哀を感じます

首塚拡大

 

 首塚を後にして、内山城へ向かいます。

志賀城から内山城に向かう途中

北側に浅間山の絶景です

 実はこの日は、長窪城→志賀城→内山城の順に

 巡って、佐久市で一泊しています。

 投稿は、歴史の時系列に沿って、逆になってます。 

 

内山城に行く途中、食堂を見つけました

フライの定食、めちゃ美味しかったです

夜は佐久平駅近くのビジホに泊まり

佐久での夕食は、確か夢庵の鍋料理です

 

 さて話を戻して、小田井原の戦い、志賀城攻略

 で大勝した武田軍ですが、

 

 ①討ち取った上杉兵3,000人の首を志賀城前に

  晒して威嚇しました。(数は誇張ですね)

 

 ②上杉の援軍の見込みがない事を知った志賀城兵は

  士気が低下し、その数日後に落城。

  城主笠原清繁以下300名程が討ち取られました。

 

 ③彼の後室は武田家臣の小山田信有の側室と

  なったそうです。(岩殿城主)

  諸説ある様ですが、信有が恩賞としてもらった

  とする説があります。

 

 ④また捕らえられた城兵や家族は人身売買に出され、

  奴隷にされた人も居たそうです。

 

 これら①から④等の過酷な処置は、信濃国人衆の恨み、

 反発を強め、佐久と領地を接する北信濃の有力領主

 で信濃国衆の期待を集めた、村上義清との対決へと

 展開していきます。

 

 次回はいよいよ猛将村上義清との初対決、

 上田原の合戦の史跡巡りをご紹介致します。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その13) 佐久侵攻(1) 内山城攻略

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

 

今回は、下表の7佐久侵攻、⑯内山城となります。


7.佐久侵攻

 ⑯内山城

  内山城は長野県佐久市に存在した山城です。

 

     場所は有名処として、軽井沢がある地域です。

 

  甲斐武田家としては、信濃北半分の攻略

  として、佐久から小諸、上田、長野へ抜ける

  進路と、諏訪から松本、安曇野、白馬

  進む進路があります。

 

  信濃諏訪地方と伊那の半分を攻略した

  武田晴信は、上記の中で、佐久攻略を

  次のターゲットに選びました。

 

  佐久平駅の南東5km位に、内山城

  ありますので、行ってみます。

 

内山城遠望、中央が内山城本丸です。

中央が本丸です。拡大すると山城の雰囲気がありますね~

  

内山城へは、南麓の園城寺さんにお参り奉納後、
駐車させていただきました。

内山城への案内板がありますので、その通りに歩きます

振り返ると山並みの間に佐久盆地の南側が見えます

衣笠神社の鳥居に来ました。

社殿に来ましたが、ここは城への道では無いようで引き返します。

ちょっと分からなくなり、鳥居まで降りて神社を通り過ぎます

その先に内山城の案内板がありました

 

藪の中を突っ切ります

案内板がありました

また藪の中に入ります

リボンがあるので間違いなさそうです。
とわ言えこんな藪道は初めてです。

藪を通り過ぎ、山肌が開けてきました。

内山城跡の案内板もありました

視界は開けてるのですが、道が分かり難くなります

枯草に足を滑らせると落ちてしまいます
絶対に山用の靴が必要です。

稜線が見えてきました

岩肌が露出しています

稜線にたどり着き、案内板もありました

 

遠くに綺麗な山が見えます

軽井沢の近く、噴火で有名な浅間山だと思います。

と言ってるまに、切岸と腰曲輪の遺構に来ました

 

多分本丸に向かう最後の登りです

本丸の平削地に着きました

本丸跡に建つ内山城跡の石碑です

本丸の奥に進んでみます

落ちたら大分やばいです

麓が見える所に来ました

内山峠・江戸方面の看板があります

そこには麓を含む絶景が見れました

内山峠に向かう谷

内山峠方面拡大

 内山峠は国道254号線で結ばれるている、

 長野県と群馬県の県境の峠です。

 地図で確認しますと、この先を東へ進むと

 群馬県に入り、富岡、高崎へと繫がります。

 この内山城より北側の県境の道は、軽井沢から

 碓氷峠を超え、松井田、高崎へと繋がります。

 内山城は信濃佐久と上野の境を見据える事が

 出来る城だった様です。

 看板がある所はその見張り台の様です。

見張り台から本丸へ戻ります。

本丸を降りて腰曲輪を歩くと、三の丸の看板がありました

 

 実はこの後の写真が無いのですが、半分以上降りた

 所で道を間違えて、藪の中に入ってしまいました。

登りの時に撮った、正しい竹藪の中の道

 この藪に全然違う所から入ってしまい、迷って

 しまったので、迷ったときは上に行くの鉄則で、

 登って道を再確認出来ました。

 

 山道は途中枯葉で隠れ、斜面と同化してる

 箇所も多く、見通しは良いものの、その注意は

 必要と経験しました。

迷ったところは、多分こんなところ。
リボンが無いと、道が枯葉で隠れ全部斜面に見える

 

 さて、天文15年、1546年5月大井貞清

 が籠る内山城を落とした武田晴信は、

 次に笠原清繁志賀城攻めに入ります。

 

 この志賀城攻めは、晴信にとって重要な

 合戦や悲劇の伝承が残る戦いとなります。

 

 次回その志賀城をご紹介したいと思います。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















 

  

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その12) 伊那侵攻(3) 甲州流三日月堀が残る伊那大島城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

前回は福与城、今回は大島城のご紹介になります。

 

6.伊那侵攻

 ⑮大島城(伊那大島城)

  大島城は長野県松川町に存在し、伊那盆地の

  中央駒ヶ根と南部の飯田の中間位の位置です。

 

  大島城は天文23年(1554年)、

  領主の大島氏から武田氏が接収しました。

 

  1540年代の高遠城福与城等の上伊那侵攻

  とは時期が異なり、1550年代に伊那盆地

  南部を攻略した、下伊那侵攻に分類されます。

  今回私は伊那侵攻として、まとめてしまってます。

 

  さて、国道153号線から東へ入り、

  天竜川沿いの大島城に到着しました。

大島城は別名台城と言われ、現在台城公園となっています
(右側はもう三日月堀

大島城(台城公園)駐車場

大島城 説明板

大島城 想定図

大島城 縄張図

 これらの資料からも見える通り、天竜川を天然

 の堀に使って本丸を配置し、敵が攻撃してくる

 反対の台地側に、人工の防御施設を設置した

 後ろ堅固の城になっています。

 

 そして敵が最初に攻めかかる箇所に、二重の三日月堀

 と馬出、枡形虎口で防御力を高めているのが特徴的で、

 甲州流築城術と素人ながら思ってしまいます。

二重の三日月堀
真ん中左を見ますと、2つに区切っている土手が見られますね

三日月堀

三日月堀と表示版

 

 静岡県の諏訪原城も、武田勝頼徳川家康ゆかりの城で、

 巨大な三日月堀、馬出と大井川の後ろ堅固等が似ています。

諏訪原城の馬出と三日月堀

 

 大島城に戻ります。

三日月堀枡形虎口の間にある外堀

三日月堀の内側は馬出になってるのですが、
馬出に民家があるので、入れません。

そして馬出の内側には桝形虎口

桝形虎口外堀に連なる土塁

この縄張図の赤丸で囲った三日月堀、馬出、外堀、
土塁、
枡形虎口が見所だと思いますので、行ったり
来たりしましたが、上手に撮れませんでした。T_T

 ただこの甲州流築城術の遺構が現ナマで

 残されていて見れるのは、たまらないです。

 なにが?と言われても╮(╯▽╰)╭。

整備されている三の丸

枡形虎口土塁を撮ろうと努力しているが・・・

こちらは北側の馬出し、土塁、堀

二の丸本丸へ延びる道

二の丸に入っていきます

二の丸の土塁

二の丸 広いですね

この先が本丸

本丸手前の巨大な堀

堀底から井戸跡に行ってみます

井戸がありました

井戸の説明板の通り、周囲から見えない低い位置にあります

井戸跡から本丸へ進みます

天竜川が見えました。後ろ堅固なので、もうすぐ本丸

本丸に到着しました

こう見ると、天竜川本丸の高低差が結構あります

本丸から戻る道

ここも大きく掘られています

 

 その後、どうしても天竜川側から大島城を撮りたくて、

 駐車スペースを探し、走って撮りに行きました。

大島城眺望1

大島城眺望2

大島城眺望3

大島城眺望4

 

 大島城から離れ、飯田方面に南下します。

飯田市のイオンでラーメン食べました。美味しかったです😌

 ・・・が力尽きて、予定していた飯田城には行かず、

 静岡の自宅へ向かいます。

 

道の駅信州新野千国平
飯田から151号線で南下したところ

道の駅で何したか忘れる(@_@;)

 以上で大島城探訪伊那侵攻編を終わります。

 

 大島氏から奪取した大島城ですが、その後の

 西上作戦伊奈防衛兵站、防衛拠点として

 大改修をしました。つまり後期の仕上がった

 甲州流築城術が残されてると言えます。

 

 天正10年(1582年)織田信長

 甲州征伐に乗り出しました。

 

 この時、大島城には信玄の実弟武田信廉が入城

 していましたが、なんと城兵を置いて逃げて

 しまったと信長公記に記されてるそうです。

 

 そして上原城に駐留していた武田勝頼も無視

 して甲府へ帰り、勝頼が天目山で自害後、

 織田家に捕まって斬首されたそうです。

 

 高遠城で壮絶に玉砕した仁科信盛

 比較されてしまいますね。

 

 ただ信廉は黒澤映画影武者の重要人物で

 信玄の影武者を務め、また実際でも絵画に

 長じ、父信虎の肖像画等が残されています。

 得手不得手がはっきりしている方だったのかも。

 

 さて、伊那地方(この時は上伊那)を治めた

 晴信は、次に佐久平(甲府の北、軽井沢の方面)

 の攻略へと駒を進めます。

 

 佐久のお隣には村上義清が居ますね。

 いよいよ小笠原村上長尾景虎

 強豪との対決が近づいてきました。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その11) 伊那侵攻(2) 藤沢頼親と福与城 

こんにちわ。rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

前回は高遠城、今回は福与城になります。

 

6.伊那侵攻

 ⑭藤沢頼親と福与城

  福与城高遠城の北西約10km程に位置し、

  天竜川沿いの河岸段丘上に築かれています。

 

  藤沢氏は諏訪大社上社大祝諏訪家の分流と

  伝わり、鎌倉時代の吾妻鑑に弓の名人として

  藤沢清親の名が記されてるそうです。

 

  天文14年(1545年)4月、高遠頼継

  高遠城を攻略した武田晴信は、高遠頼継

  属していた藤沢頼親福与城に攻め寄せました。

 

  その福与城を訪問しましょう。

福与城跡 (すぐ近くに広い駐車場があります)

福与城 説明板

福与城 縄張図(中央下の現在地から進みます)

駐車場から主郭へ進みます
(写真中央方向)

正面に主郭が見えてきました

斜面と堀で守られています

主郭へ進みます

主郭と表示板が見えます

 

福与城主郭に来ました

福与城 説明板

 武田軍の猛攻を50日耐えたが、落城し、

 藤沢頼親は流浪の身になったと記されています。

主郭から北城の方向
(北城は、北の曲輪の意味だと思います)

北城から主郭を見上げる

断崖、谷の地形

二の郭

主郭正面の方向に戻る道

トンネルがありました

 

 あらためて福与城からの眺めを見ます。

福与城から伊那盆地方向を見る

拡大1

拡大2

 福与城を後にし、南下してます。

福与城を出て、河岸段丘を南下中

伊那盆地風景(西側)

伊那盆地風景2

 約1時間程の福与城訪問でした。

 もう少し遺構がありましたが、景色が綺麗で

 そちらもお勧めです。

 

 そして、福与城を追われた藤沢頼親ですが、

 その後、高遠頼継と同様に武田家に帰順離反

 を繰り返す様なのですが、なんと

 福与城の戦いから10年後の1555年に、

 三好長慶に仕えたとされています。

 芥川山城に居たのかも?

 

 長慶没後に旧領付近に戻り、

 1582年本能寺の変で勃発した甲信地方の

 天正壬午の乱で再起を図りますが敗北し、

 自害したとの事です。

 

 戦国の国人、小領主の大変な生きざまを

 感じられます。

 

 以上で福与城を終わります。

 次回は同じ伊那地方の大島城をご紹介します。

天竜川を背に小高い台地に築かれた大島城
(武田信玄の実弟、武田信廉が守っていたが・・・)

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その10) 伊那侵攻(1) 高遠頼継との抗争と高遠城攻略 

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

 

私の武田信玄ゆかり探訪記事は、下表で計画しています。

間違ってる点があるかもしれませんがご容赦下さい。

武田信玄ゆかり探訪の表

赤字の探訪場所は既に訪問済です。

 

昨今の熊騒動で、相当数の山城には行き難くなって

しまったので、騒動前におおよそ行けて良かったです。

 

前回まで、No.1生誕地①積水寺から、

No.5諏訪侵攻⑫長窪城までをご紹介しました。


今回より、No.6伊那侵攻編を進めていきます。

(上伊那、下伊那は分けず、お城中心の探訪となります)

 

6.伊那侵攻

 ⑬高遠城の攻略

  天文11年(1542年)6月の諏訪郡攻略後、

  諏訪領地は、宮川を境に北東は武田家、南西は高遠家

  に分割されました。  

武田家と高遠家による諏訪領の境、
現在の宮川(おおよそ黄色線)です。

  しかし高遠家の当主高遠頼継は、諏訪惣領家を継ぎ、

  諏訪全土の領有を欲していたため、同年9月に

  早くも両家は宮川付近で衝突しました。

  結果は高遠勢が敗北し諏訪領から撤退しました。

 

  天文12年(1543年)武田晴信は諏訪領統治

  を固める為、上原城を修築し、そこに諏訪郡代

  して重臣筆頭格の板垣信方を配置しました。

  (養子は入るが、明治の板垣退助の先祖)

 

  そして天文13年(1544年)、第一次上伊那

  侵攻を行いましたが、この時の武田軍は攻略を

  失敗し、撤退してます。

 

  翌天文14年(1545年)4月、武田晴信

  第2次上伊那侵攻を行います。

  諏訪上原城の南、杖突峠から南下して高遠城

  急襲し、高遠城は落城、高遠頼継は逃亡しました。

上原城から見た杖突峠。この峠を越えて南下すると高遠に至る

杖突峠を越えて高遠城へ至る地図(黄色矢印)

 

 それでは、高遠城に向かいましょう。

駐車場に到着しました。とても広いです。

ここは勘助曲輪と命名されている様です。
(ただし勘助とはほぼ関係なさそう)

高遠城下伊那の山並みが綺麗です
山並みの麓に伊那盆地があり、城下町はその段丘の上、
高遠城はそのまた上の河岸段丘を利用してる様です。

大手門跡

大手門跡 説明板
武田時代の大手門は東側にあり、この西側は断崖になっていたが、
平和になった江戸時代に、城下町発展と共に東側に築かれたそうです。

よってこの大手門脇の石垣は江戸時代当時の貴重な遺構だそうです。

大手門から入り、城内はさらにこの斜面を登ります

北側の入り口かな?

北側の空堀

この地図では左上の所が北側の入り口になります。
(大手門跡は左下の所です)

二の丸跡の散歩道

 この辺りから、どこの写真か分からなくなって

 きました・・・。なので適当になりますm(__)m

 

空堀跡

本丸に入る桜雲橋問屋門

問屋門は、城下からここに移築されたそうです。

本丸跡
二の丸も本丸も広くて、大きな城だったようです

神社があります

武田家滅亡時に最も頑張った仁科信盛と藤原氏を合祀した神社

どこかの断崖

本丸から伊那盆地方向を見る

南曲輪

南曲輪には会津藩祖保科正之が居たそうです。
彼は徳川秀忠の子ですが、ここに住んでいた云われや、
後に家光と対面し、実直な人柄で信頼を得て幕政参加等、
会津若松城に行く機会がありましたら語りたい方ですね~。

確か南側の空堀と思います。
堀底を歩けるなんて、とてもラッキーです😌

堀底と曲輪の斜面👍

綺麗な空堀。気分爽快とはこのこと・・・。

迫力のある空堀

 いや、ちょっと高遠城で堀底を散策できると

 思ってなかったので、嬉しいです。(⌒∇⌒)

 

 ただこれに満足してか、その後の写真が無かったです。

 

 高遠城は上田市から杖突峠青崩峠から浜松市に至り、

 日本の中央を南北に進む重要な街道(現在の県道152号線)

 に位置しており、武田信玄の西上作戦等、馴染み深いですね。

 

 高遠頼継はその後武田家に従属、離反を繰り返し、

 高遠城落城の7年程後に自害させられたそうです。

 

 その後高遠は、頼継の家臣保科氏が治め、

 前述の保科正之へと繋がっていきます。

 

 また彼の系譜は会津松平家となり、保科家自体は

 上総の国で大名として江戸時代を生き抜いてました。

 

 この様に高遠城は数々の歴史ドラマが刻み込ま

 れていて、とても語り尽くせません。

 

 以上で終わります。

 次回は同じく諏訪氏の分流である

 藤沢頼親福与城です。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その9) 諏訪侵攻(番外編) 高島城と諏訪氏のその後

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪シリーズを、おおよその

時系列に沿って進めています。

前回まで上原城桑原城諏訪大社上社等を探訪し、

武田晴信による諏訪制圧までのお話をしました。

 

天文11年(1542年)7月、諏訪家の当主

諏訪頼重が甲斐で自刃に追い込まれ、諏訪郡を

統治していた諏訪惣領家は事実上滅亡しました。

 

その後、頼重の叔父満隣(みつちか)の系譜が

戦国後半を生き抜き、江戸時代を大名として

諏訪領を治めた事が、諏訪湖の南に位置する

高島城を訪問して分かりました。

 

武田信玄との直接の繋がりでは有りませんが、

諏訪領、諏訪家の後日譚を高島城で確認して

みましょう。

 

5.諏訪侵攻(番外編)

 ⑪高島城と諏訪家再興の成功

  桑原城から諏訪湖方向へ3km弱進んだ所に、

  高島城があります。

  無料駐車場に車を駐車すると、もう目の前に

  立派な天守があります。

高島城天守

天守石垣は丸っこいですね。色が変わってますが、算木にはなってます

直ぐに本丸内に入れます

天守内に入ってみます

 受付で入場料を払って、写真OKを確認出来ました。

まず高島城復元想像図があってイメージがし易いですね(⌒∇⌒)

かっこいいです。周りは水田や湿地ですね。
家康の子松平忠輝や吉良上野介の養子吉良義周
配流により、高島城に居た様ですね。

 

 そして高島藩の起源と歴史の概要が下記に説明ありました。

高島藩の起こりとあらまし(1/2)

高島藩の起こりとあらまし(2/2)

 天文11年(1542年)、戦国の領主としての諏訪家は

 武田家により滅びましたが、ちょうど40年後ですかね?

 

 天正10年(1582年)に武田家が織田家に滅ぼされ、

 織田家川尻秀隆の家臣が諏訪を治めましたが、同年の

 本能寺の変や天正壬後の乱等により、徳川家が支配

 することになり、諏訪頼忠が諏訪領主となったそうです。

 

 諏訪頼忠は、冒頭の満隣の子で、桑原城

 武田晴信に投降した諏訪頼重のいとこですね。

 

 その息子諏訪頼水初代高島藩主となったそうです。

 その後3万石前後で推移し、10代藩主忠礼の時に

 幕末を迎えました。

 

 片や、甲斐武田家の江戸時代の身代は高家

 500石だった様です。

 

 諏訪家は、一度滅ぼされた武田家の60倍もの

 身代で復活し、江戸時代270年間、諏訪の藩主

 として生き延びた事になります。

 

 その辺りはあまり知ってなかったので、

 今回高島城を訪問して、とても良かったです。

 実際の資料展示はもっと沢山ありました。

 

 高島城天守閣からの眺望です。

南、甲斐、富士山の方向

上の写真を拡大すると、富士山の頭が見えました。
実際目視でも分かりました。

富士山と逆の、諏訪湖方向

諏訪湖方向

 

 石垣の説明です。 

石垣の説明1

石垣の説明2
野面積みで、稜線のみ加工石だそうです。

 

 写真スポット

かっこいい高島城

水堀、御門、石垣、橋と天守の融合が良い感じです

 

 ⑫長窪城(ながくぼじょう)

  諏訪頼重は、実は諏訪領のみでは無く、信濃小県郡

  (諏訪領の北)の長窪城等も所有していました。

  その長窪城は、武田家の諏訪侵攻後、元城主の

  大井貞隆が奪回しました。

 

  しかし翌天文12年(1543年)武田晴信

  攻め取られたそうです。

 

  突然登場した長窪城ですが、ここは後に武田晴信

  村上義清による上田原の合戦や、砥石城の戦い等、

  武田信玄本軍の北信濃侵攻拠点となっています。

 

  歴史に繋がりがあるので、有名な上田原の合戦

  の時にご紹介したいと思います。

長窪城本丸より

 

  そして諏訪攻略を果たした武田晴信は、

  次の攻略目標を伊那郡に定めました。

 

  よって次回より伊那侵攻編となり、高遠城

  福与城飯田城大島城あたりの探訪ご紹介

  を予定してます。

 

  以上で諏訪侵攻編を終わります。

  ご高覧ありがとうございましたm(__)m