歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

武田信玄ゆかり探訪(その17) 小県侵攻 上田原の戦い(3) 激戦の地、石久摩神社と板垣神社

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

 

ほぼ時系列で進んでおり、現在は小県侵攻、

上田原の戦い関連の史跡探訪となってます。

 

8.小県侵攻、上田原の戦い

 ⑳上田原古戦場

  いよいよ古戦場を巡ります。

  と言っても二箇所ですが・・・。

 

  ・石久磨神社(上田原古戦場石碑)

   上田原古戦場で、まず最初にどこに行こうか

   確認しましたら、古戦場の中心付近の石久磨神社

   に古戦場の石碑があるとの事で行ってみます。

石久磨神社入口

上田原の戦いの説明板がありました

地図を拡大します。
分かり難いですが、地図の上方向(北方向)が板垣が
戦死した激戦地があり、その先に千曲川があります。
村上軍は左上(北西)です。

 

境内に入ります

「上田原合戦前後」と題した説明がありました。
読んでみると、とても分かり易いです。

 天文17年2月14日、上田原の戦いがあったと書いてます。

 

境内には上田原古戦場の石碑があります

 武田軍は宿老筆頭の板垣信方を先陣に飯富兵部、

 小山田信有、典厩信繁等主力が村上軍に突入し、

 当初優勢であったが、敵陣深くまで突き破った

 板垣信方が、首実検をしていた所に村上軍が反撃し、

 板垣信方は討ち死にしたそうです。

 

 ・板垣神社

  その板垣信方のお墓が神社になってる

  そうなので行ってみます。

板垣神社へ至る道 左手が千曲川です。

板垣神社入口 塗装がはげた木の鳥居が雰囲気を醸し出しています

もう一つ木の鳥居があります

五輪塔がお墓だとされています。
お賽銭を入れてお祈りしました。

 

説明板も設置されています

 

 さて、皆さんも疑問に思いますよね。

 戦上手の武田軍宿老たる板垣が敵陣深くで

 首実検してたってほんと?って。

 

 説明板写真の上側に板垣神社があります。

 その左側に下之条って地名があります。

 ここが板垣討ち死の場所だそうです。

 

 その左側直ぐ近くに清野川が流れています。

 この左側(西側)は村上義清本軍の領域と思います。

 

 やっぱり分かり難いのでグーグルマップで

 位置を確認してみます。

板垣信方討死場所の確認

 写真の左上に須々貴城(村上義清本陣)があり、

 黄色の四角エリアは村上軍の主力が配置されて

 いたと思われます。

 

 一方武田本陣は写真から外れた下の方向です。

 (開戦時は前進していたかもですが)

 

 武田軍の想定進路から村上本陣を見ると、

 板垣が戦死した場所(首実検した場所)は、

 敵の本陣目の前だった事が地図から伺えます。

 

 また現地で板垣神社から村上義清の本陣、

 天白山須々貴城方向を見てみます。 

板垣神社付近から天白山(村上義清本陣、写真中央)を見る

 う~ん、下之条は板垣神社と須々貴城の間とはいえ、

 平地での撮影だと、今一距離感が分からないですね。

 

 ただし、この写真の所で激戦となり、城からは

 下之条は完全に丸見えで、近い事は分かりますね。 


 ともあれ首実検中又は深追い中に村上軍の逆襲を受け、

 板垣信方及び同じく宿老の甘利虎泰が戦死し、

 武田軍は後退しました。

 

 ここで冒頭の石久摩神社に戻ります。

 ここの裏手には武田軍が退却したとされている、

 信玄道なるものが残されています。

信玄道の石碑

少しだけ散歩できます

先方が開けてきました

 

天白山(中央左)と岩鼻(中央右)が見えます。
ここ一帯が上田原古戦場と言えそうですね。

石久摩神社から岩鼻を拡大すると凄い迫力です。
山間に千曲川が流れてます。
本当に川が山を突き破った様に見えます。(多分ほんとですが)

神社と一緒に岩鼻を撮ると、少し距離感が分かるかも

 

 さて、先陣崩壊後、後退した武田軍は村上軍の

 追撃を受け、晴信自身も傷を負ったと伝えられ

 ています。

 

 武田軍を合戦で打ち破った村上義清の武名は

 高まり、後世まで名を残りました。

 

 というのも戦国屈指の名将で間違いない、

 近隣の上杉謙信や北条氏康には、一度も

 これほどの大敗はしてないですよね。

 

 一方初陣とされる海ノ口城の戦いから約12年。

 大きな敗戦を初めて喫した晴信は、20日程

 戦場に留まった後、諏訪の上原城に退却しました。

 

 甲府に戻った晴信は温泉で傷の治療を

 したとされています。

 

 それが武田家本拠の躑躅が﨑館から西へ

 約2km弱の湯村温泉です。

 

 湯村温泉は湯村山の麓にあり、実はこの山には

 湯村山城という山城がある事を知りました。

 

 次回そのご紹介を予定します。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m。

 

武田信玄ゆかり探訪(その16) 小県侵攻 上田原の戦い(2) 村上義清参上、岩鼻と須々貴城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

 

ほぼ時系列で進んでおり、前回から小県侵攻、

上田原の戦い関連の史跡探訪となってます。

 

天文16年(1547年)8月に信濃国佐久郡を

攻略した武田晴信は、北信濃の最大勢力であった

村上義清の勢力圏、小県郡と完全に隣接しました。

(ざっくり佐久郡は佐久市、小県郡は上田市です。)

 

8.小県侵攻、上田原の戦い

 ⑱長窪城(前回投稿) 

  翌天文17年2月、武田晴信は早くも小県郡

  への侵攻を開始し、諏訪から前線基地の長窪城

  に到着。その後上田原に進出し、その南東に位置

  する、小牧山の倉升付近を本陣としたそうです。

 

 ⑲岩鼻、須々貴城

  一方、武田家の信濃侵略に抗する国衆達の

  期待を集めた村上義清は、武田軍迎撃の為、

  坂城の居城葛尾城から千曲川沿いに南進。

 

  岩鼻まで進軍後、葛尾城から南10km弱の

  天白山、須々貴城を本陣として、産川を挟んで

  上田原の北西に布陣し、武田軍と対峙しました。

 

  これらを地図で示したのが下図です。

上田原の戦い 武田村上両軍の進路、本陣関連
(右上の砥石城から見ると、後年築城された上田城の先が上田原となります)

 

 それでは今回は、村上義清ゆかりの岩鼻と須々貴城

 に行ってみます。

 

 まず上図の南から岩鼻方面へ車で北進しまし

 たが、途中生島足島神社の脇を通りました。

 信濃国屈指の古社です。

生島足島神社の北東から、南西方向を見る
鳥居の先が生島足島神社

中拡大

鳥居の先が独鈷山、弘法山付近かな?
そして山の麓に塩田城が見えてるのかも。

 

 そして岩鼻のすぐ脇にある、道の駅上田 道と

 川の駅おとぎの里という、ちょっと長い名前

 の道の駅に駐車しました。

道の駅から見た、岩鼻

岩鼻の景観、長野県天然記念物指定

岩鼻の先、北西方向は坂城、村上義清の本拠葛尾城の方向です。
村上義清は、ここを通って岩鼻に来たということですね。

 この山間に千曲川が流れていて、元々陸続きだった

 両岸が千曲川によって浸食されたんだそうです。

岩鼻の右手、北側の千曲川を越えた山並みには、
虚空蔵山城や燕城等、複数の山城がある様です。

そのもっと東側には砥石城があると思います
(写真中央の右側の低い稜線付近かな?)

 という事は砥石城より北西で合戦となっているので、

 晴信は結構、小県中央部まで進出したなと思います。

 

 逆にここを破られると、村上義清の本拠葛尾城

 まであとわずかになってしまいますから、村上側

 の気合は相当だったと思われます。

 

岩鼻から須々貴城へ歩いて向かいます。

 携帯のグーグルマップを頼りに、村上義清が岩鼻を

 進み、本陣を置いたという須々貴城を目指して歩きます。

岩鼻からゆっくり20分程南へ歩いた所に入口らしい所がありました

須々貴山神社と書いてありますので間違いないです

石段が長いですね

この山は天白山と言う様です

右脇の登山道を進みます

歩きやすい道です

竪堀かな?と思いながら登ります

この平坦地は曲輪かもですね

ちょっと急な所があります。でもそんなに多くはありません。

本郭なのかな?到着しました

もう一段上の所に来ました

須々貴城から北の方向、岩鼻、千曲川方面です。

須々貴城の背後側、西方向の山並みですが、あまり見えません

 

 そして東の方向は、上田原合戦の場所及び武田軍側です。

登城途中ですが正面右側の山が最初の武田本陣の小牧山、倉升です。

 距離感としては遠い感じです。

 関ヶ原の笹尾山(石田本陣)と桃配山(徳川本陣)

 の距離よりも1.5倍位遠いです。

 なので決戦時は両者は結構前進したんだと思います。

もう一つ、須々貴城本郭から東の方向、上田原方面を見ます。
手前の平地に村上軍が布陣したのかな?

追記すると、ざっくりですが、こんな感じと思います
(写真の下半分は村上軍の布陣と思います)

 上田原古戦場、黄色楕円の左下から右上方向に

 産川が流れていて、両軍が対峙していた様です。

 本陣から見ると斜めに対峙してる感じですかね?

 

 なので楕円の左、千曲川方面の文字辺りが最初の

 前線となり、先陣の板垣信方が深入りした付近

 となりそうです。

 (板垣信方戦死場所とされる下之条及び墓がある所)

 

 そこを村上軍が突き崩し、武田軍は楕円の

 右上方向に押し下げられて、村上軍を防ぐ

 形勢になっていったと推定します。

  

 上田原古戦場を見渡せる良い場所に来れました😊。

 合戦前の布陣や緊張感が感じられます。

 

帰りは神社の石段から降ります
結構高い(*_*;

降りてる途中で見上げてます

鳥居まで降りてきました

 

 以上で今回は終わります。

 

 次回はいよいよ合戦となります。

 上田原古戦場を巡り、石久磨神社、

 板垣信方の墓等を訪れます。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その15) 小県侵攻(1) 武田家の前線基地、長窪城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

 

諏訪、伊那北部、及び佐久郡を攻略した

武田家は、北信濃最強の領主村上義清との

初対決、上田原の戦いへと進みます。

 

8.小県侵攻

 天文16年8月志賀城を攻略し、佐久郡を手中に

 収めた武田家は、翌天文17年(1548年)2月、

 早くも北信濃小県郡へ進軍を開始しました。

 

 甲府を出発し、諏訪上原城で宿老筆頭格の諏訪郡代

 板垣信方と合流した武田晴信本隊は、大門峠を越えて

 北進し、小県郡南部の長窪城に着陣しました。

 (大門峠は現国道152号線の白樺湖の北で、

   近くに霧ヶ峰、車山等があります)

 

甲府、諏訪、佐久、長窪城(マーク地点)と上田原の位置関係です。
当時上田地域はほぼ村上方の領地でしたので、武田所有の長窪城が
結構前線にあった事が伺えます。(黄色矢印が武田軍進路)

 

 ⑱長窪城

  長窪城は小県郡南部に位置し、諏訪家の所有で

  したが、天文12年の諏訪侵攻時に武田家が

  大井貞隆から奪取していました。

 

  天文17年2月武田軍は北信濃攻略(まずは

  武田家領地と隣接する小県郡攻略)の為、

  長窪城を度々前線基地に使ったとの事です。

 

 それでは、その長窪城に向かいます。

 国道152号線を北進し、名和町の国道254号線

 へ右折東進。1km強進むと山道のカーブに長窪城

 に通じる林道への案内看板がありました。 

 ここは搦手に通じる道で、大手側は別にある様です。

国道254号線の長窪城案内看板
(ここを右折して林道に入る)

長窪城の入口に到着しました。
小さな駐車スペースがあります。

写真案内図の下側が現在地です。
とても分かり易いです。

長窪城 説明板

 説明板の年代から、1548年上田原の戦い、

 1550年砥石崩れ、1553年第一次川中島

 の戦いで、前線基地として使われてた様です。

 

 これ以降は村上氏が駆逐されてるので、

 戦線が北上し、前線基地としての役割が

 終わったと思われます。

それでは歩いて長窪城跡へ進みます
もうほぼ山頂付近なので登りは少ないです。

少しだけ登りますが、とても歩き易いです。

堀切がありました

堀切拡大

2つ目の堀切

2つ目の堀切拡大

その先にまた3つ目の堀切があります

3つ目の堀切拡大
縄張図を見るとまだありそうです。

3つ目の堀切の先から来た道、搦手側を見ます。
尾根の両側は急斜面で、痩せ尾根に堀切を
施しているのが分かります。

3つの堀切を超えると二の郭に到着しました。
その先、一段上が本郭です。

本郭に到着しました

長窪城址石碑

長窪城から西側の名和町街並み

長窪城から北西側
この先が上田市です。上田原に通じますので、
武田軍もこの方向へ進軍したと思われます。

北西側拡大

南西側

本郭から西側の真下、急斜面と共に、依田川が見えます。

 天気も良く、長窪城からの眺望はとても綺麗でした。

 東屋でのんびりしたい所でした。

 

本郭の先は大手口等に続きます

元来た道を戻ります。

 

 前回触れましたが、この日は、

 長窪城→志賀城→内山城の計画でしたので、

 長く滞在せず、大手側へは行きませんでした。

 

 甲斐武田家の歴史に出てくる長窪城。

 この北はすぐ上田市で、村上義清の居城葛尾城

 も20km程の距離です。

 

 佐久郡を奪い、東からも武田家が小県郡の

 村上領に侵攻出来る様になりました。

 村上家は相当警戒していたでしょう。

 

 いよいよ武田vs村上の決戦です。

 と進めたい所ですが、長すぎない様、

 ここで終わります。

 

 次こそは上田原に到達するはずです。多分。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その14) 佐久侵攻(2) 志賀城攻略と悲哀

こんにちわ、rekikakkunです。

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

 

諏訪、伊那北部を手中にした武田家は佐久地方の

攻略へと進みます。

 

7.佐久侵攻

 ⑰志賀城

  志賀城は長野県佐久市に存在した山城です。

 

  天文16年(1546年)武田晴信は佐久郡制覇

  の為、内山城に続きその北方に位置する志賀城の

  攻略に動きました。

 

  当時の城主は笠原清繁でした。

  彼は単独では武田家に敵わないので、佐久郡の東、

  碓氷峠を超えた先の一大勢力だった関東管領

  上杉憲政に援軍を求めました。

 

  彼こそは後に、長尾景虎に関東管領上杉家の

  家督を譲った人です。 

 

  武田家が志賀城を包囲した後、上杉家の援軍

  は碓氷峠を越えましたが、同年8月武田軍は

  志賀城北方の小田井原で迎撃し、武田軍が

  大勝したとの事です。(小田井原の戦い)

 

  話をここで一旦止めて、志賀城に行ってみます。

佐久平の東側、長野県道44号線を東進

その先を拡大すると、中央の山が志賀城となります。
山城の雰囲気がびしばしです(笑)

志賀城の南麓、雲興寺さんの駐車場をお借りしました。

その脇から登城します。正面が志賀城本丸だと思います

分かれ道を左へ進みます

竹林に入りましたが、内山城より行き易いです

大きな志賀城趾の石碑がありました

この近く、山道に入る前で軽食を食べました。
おにぎりとアクエリアスです。ゴミではありません!

山麓の樹木群を超えると、山肌が見えてきました

かすかに分かる山道を登ります

振り返るとこんな感じ

 前項の内山城と同じ構図です。

倒木の下を潜り抜けます

登ってる時は山道に見えますが

振り返ると、どこが道なのか分かり難いです

それでも目線の先に稜線の雰囲気が出てきました

稜線にたどり着きました。人工的っぽい高低差があります。

縄張図が無いのですが、堀切の遺構があります

木々の間に南麓が見れます

曲輪ですね

虎口かな?

石積みがはっきり残っています。
これを見に来た感じです。

本丸あたりから下を見ると急峻な要害の様です

 

 今見ると本丸はどこだ?と思いましたが、

麓まで降りてきました

麓から再度志賀城趾を見ます

拡大すると右側が本丸かな?

 

 志賀城から車で少しだけ奥に進みます。

田畑の中に、史跡があります

看板が色あせていますが、志賀城主
笠原清繁の首塚と言われています

このぽっつり感が妙に悲哀を感じます

首塚拡大

 

 首塚を後にして、内山城へ向かいます。

志賀城から内山城に向かう途中

北側に浅間山の絶景です

 実はこの日は、長窪城→志賀城→内山城の順に

 巡って、佐久市で一泊しています。

 投稿は、歴史の時系列に沿って、逆になってます。 

 

内山城に行く途中、食堂を見つけました

フライの定食、めちゃ美味しかったです

夜は佐久平駅近くのビジホに泊まり

佐久での夕食は、確か夢庵の鍋料理です

 

 さて話を戻して、小田井原の戦い、志賀城攻略

 で大勝した武田軍ですが、

 

 ①討ち取った上杉兵3,000人の首を志賀城前に

  晒して威嚇しました。(数は誇張ですね)

 

 ②上杉の援軍の見込みがない事を知った志賀城兵は

  士気が低下し、その数日後に落城。

  城主笠原清繁以下300名程が討ち取られました。

 

 ③彼の後室は武田家臣の小山田信有の側室と

  なったそうです。(岩殿城主)

  諸説ある様ですが、信有が恩賞としてもらった

  とする説があります。

 

 ④また捕らえられた城兵や家族は人身売買に出され、

  奴隷にされた人も居たそうです。

 

 これら①から④等の過酷な処置は、信濃国人衆の恨み、

 反発を強め、佐久と領地を接する北信濃の有力領主

 で信濃国衆の期待を集めた、村上義清との対決へと

 展開していきます。

 

 次回はいよいよ猛将村上義清との初対決、

 上田原の合戦の史跡巡りをご紹介致します。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その13) 佐久侵攻(1) 内山城攻略

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

 

今回は、下表の7佐久侵攻、⑯内山城となります。


7.佐久侵攻

 ⑯内山城

  内山城は長野県佐久市に存在した山城です。

 

     場所は有名処として、軽井沢がある地域です。

 

  甲斐武田家としては、信濃北半分の攻略

  として、佐久から小諸、上田、長野へ抜ける

  進路と、諏訪から松本、安曇野、白馬に

  進む進路があります。

 

  信濃の諏訪地方と伊那の半分を攻略した

  武田晴信は、上記の中で、佐久攻略を

  次のターゲットに選びました。

 

  佐久平駅の南東5km位に、内山城が

  ありますので、行ってみます。

 

内山城遠望、中央が内山城本丸です。

中央が本丸です。拡大すると山城の雰囲気がありますね~

  

内山城へは、南麓の園城寺さんにお参り奉納後、
駐車させていただきました。

内山城への案内板がありますので、その通りに歩きます

振り返ると山並みの間に佐久盆地の南側が見えます

衣笠神社の鳥居に来ました。

社殿に来ましたが、ここは城への道では無いようで引き返します。

ちょっと分からなくなり、鳥居まで降りて神社を通り過ぎます

その先に内山城の案内板がありました

 

藪の中を突っ切ります

案内板がありました

また藪の中に入ります

リボンがあるので間違いなさそうです。
とわ言えこんな藪道は初めてです。

藪を通り過ぎ、山肌が開けてきました。

内山城跡の案内板もありました

視界は開けてるのですが、道が分かり難くなります

枯草に足を滑らせると落ちてしまいます
絶対に山用の靴が必要です。

稜線が見えてきました

岩肌が露出しています

稜線にたどり着き、案内板もありました

 

遠くに綺麗な山が見えます

軽井沢の近く、噴火で有名な浅間山だと思います。

と言ってるまに、切岸と腰曲輪の遺構に来ました

 

多分本丸に向かう最後の登りです

本丸の平削地に着きました

本丸跡に建つ内山城跡の石碑です

本丸の奥に進んでみます

落ちたら大分やばいです

麓が見える所に来ました

内山峠・江戸方面の看板があります

そこには麓を含む絶景が見れました

内山峠に向かう谷

内山峠方面拡大

 内山峠は国道254号線で結ばれるている、

 長野県と群馬県の県境の峠です。

 地図で確認しますと、この先を東へ進むと

 群馬県に入り、富岡、高崎へと繫がります。

 この内山城より北側の県境の道は、軽井沢から

 碓氷峠を超え、松井田、高崎へと繋がります。

 内山城は信濃佐久と上野の境を見据える事が

 出来る城だった様です。

 看板がある所はその見張り台の様です。

見張り台から本丸へ戻ります。

本丸を降りて腰曲輪を歩くと、三の丸の看板がありました

 

 実はこの後の写真が無いのですが、半分以上降りた

 所で道を間違えて、藪の中に入ってしまいました。

登りの時に撮った、正しい竹藪の中の道

 この藪に全然違う所から入ってしまい、迷って

 しまったので、迷ったときは上に行くの鉄則で、

 登って道を再確認出来ました。

 

 山道は途中枯葉で隠れ、斜面と同化してる

 箇所も多く、見通しは良いものの、その注意は

 必要と経験しました。

迷ったところは、多分こんなところ。
リボンが無いと、道が枯葉で隠れ全部斜面に見える

 

 さて、天文15年、1546年5月大井貞清

 が籠る内山城を落とした武田晴信は、

 次に笠原清繁の志賀城攻めに入ります。

 

 この志賀城攻めは、晴信にとって重要な

 合戦や悲劇の伝承が残る戦いとなります。

 

 次回その志賀城をご紹介したいと思います。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















 

  

 

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その12) 伊那侵攻(3) 甲州流三日月堀が残る伊那大島城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を時系列で進めています。

前回は福与城、今回は大島城のご紹介になります。

 

6.伊那侵攻

 ⑮大島城(伊那大島城)

  大島城は長野県松川町に存在し、伊那盆地の

  中央駒ヶ根と南部の飯田の中間位の位置です。

 

  大島城は天文23年(1554年)、

  領主の大島氏から武田氏が接収しました。

 

  1540年代の高遠城や福与城等の上伊那侵攻

  とは時期が異なり、1550年代に伊那盆地

  南部を攻略した、下伊那侵攻に分類されます。

  今回私は伊那侵攻として、まとめてしまってます。

 

  さて、国道153号線から東へ入り、

  天竜川沿いの大島城に到着しました。

大島城は別名台城と言われ、現在台城公園となっています
(右側はもう三日月堀)

大島城(台城公園)駐車場

大島城 説明板

大島城 想定図

大島城 縄張図

 これらの資料からも見える通り、天竜川を天然

 の堀に使って本丸を配置し、敵が攻撃してくる

 反対の台地側に、人工の防御施設を設置した

 後ろ堅固の城になっています。

 

 そして敵が最初に攻めかかる箇所に、二重の三日月堀

 と馬出、枡形虎口で防御力を高めているのが特徴的で、

 甲州流築城術と素人ながら思ってしまいます。

二重の三日月堀
真ん中左を見ますと、2つに区切っている土手が見られますね

三日月堀

三日月堀と表示版

 

 静岡県の諏訪原城も、武田勝頼と徳川家康ゆかりの城で、

 巨大な三日月堀、馬出と大井川の後ろ堅固等が似ています。

諏訪原城の馬出と三日月堀

 

 大島城に戻ります。

三日月堀と枡形虎口の間にある外堀

三日月堀の内側は馬出になってるのですが、
馬出に民家があるので、入れません。

そして馬出の内側には桝形虎口

桝形虎口と外堀に連なる土塁

この縄張図の赤丸で囲った三日月堀、馬出、外堀、
土塁、
枡形虎口が見所だと思いますので、行ったり
来たりしましたが、上手に撮れませんでした。T_T

 ただこの甲州流築城術の遺構が現ナマで

 残されていて見れるのは、たまらないです。

 なにが?と言われても╮(╯▽╰)╭。

整備されている三の丸

枡形虎口の土塁を撮ろうと努力しているが・・・

こちらは北側の馬出し、土塁、堀

二の丸、本丸へ延びる道

二の丸に入っていきます

二の丸の土塁

二の丸 広いですね

この先が本丸

本丸手前の巨大な堀

堀底から井戸跡に行ってみます

井戸がありました

井戸の説明板の通り、周囲から見えない低い位置にあります

井戸跡から本丸へ進みます

天竜川が見えました。後ろ堅固なので、もうすぐ本丸

本丸に到着しました

こう見ると、天竜川と本丸の高低差が結構あります

本丸から戻る道

ここも大きく掘られています

 

 その後、どうしても天竜川側から大島城を撮りたくて、

 駐車スペースを探し、走って撮りに行きました。

大島城眺望1

大島城眺望2

大島城眺望3

大島城眺望4

 

 大島城から離れ、飯田方面に南下します。

飯田市のイオンでラーメン食べました。美味しかったです😌

 ・・・が力尽きて、予定していた飯田城には行かず、

 静岡の自宅へ向かいます。

 

道の駅信州新野千国平
飯田から151号線で南下したところ

道の駅で何したか忘れる(@_@;)

 以上で大島城探訪、伊那侵攻編を終わります。

 

 大島氏から奪取した大島城ですが、その後の

 西上作戦や伊奈防衛の兵站、防衛拠点として

 大改修をしました。つまり後期の仕上がった

 甲州流築城術が残されてると言えます。

 

 天正10年(1582年)織田信長が

 甲州征伐に乗り出しました。

 

 この時、大島城には信玄の実弟武田信廉が入城

 していましたが、なんと城兵を置いて逃げて

 しまったと信長公記に記されてるそうです。

 

 そして上原城に駐留していた武田勝頼も無視

 して甲府へ帰り、勝頼が天目山で自害後、

 織田家に捕まって斬首されたそうです。

 

 高遠城で壮絶に玉砕した仁科信盛と

 比較されてしまいますね。

 

 ただ信廉は黒澤映画影武者の重要人物で

 信玄の影武者を務め、また実際でも絵画に

 長じ、父信虎の肖像画等が残されています。

 得手不得手がはっきりしている方だったのかも。

 

 さて、伊那地方(この時は上伊那)を治めた

 晴信は、次に佐久平(甲府の北、軽井沢の方面)

 の攻略へと駒を進めます。

 

 佐久のお隣には村上義清が居ますね。

 いよいよ小笠原、村上、長尾景虎達

 強豪との対決が近づいてきました。

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m

甲斐の虎 武田信玄ゆかり探訪(その11) 伊那侵攻(2) 藤沢頼親と福与城 

こんにちわ。rekikakkunです。

 

武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。

前回は高遠城、今回は福与城になります。

 

6.伊那侵攻

 ⑭藤沢頼親と福与城

  福与城は高遠城の北西約10km程に位置し、

  天竜川沿いの河岸段丘上に築かれています。

 

  藤沢氏は諏訪大社上社大祝諏訪家の分流と

  伝わり、鎌倉時代の吾妻鑑に弓の名人として

  藤沢清親の名が記されてるそうです。

 

  天文14年(1545年)4月、高遠頼継の

  高遠城を攻略した武田晴信は、高遠頼継に

  属していた藤沢頼親の福与城に攻め寄せました。

 

  その福与城を訪問しましょう。

福与城跡 (すぐ近くに広い駐車場があります)

福与城 説明板

福与城 縄張図(中央下の現在地から進みます)

駐車場から主郭へ進みます
(写真中央方向)

正面に主郭が見えてきました

斜面と堀で守られています

主郭へ進みます

主郭と表示板が見えます

 

福与城主郭に来ました

福与城 説明板

 武田軍の猛攻を50日耐えたが、落城し、

 藤沢頼親は流浪の身になったと記されています。

主郭から北城の方向
(北城は、北の曲輪の意味だと思います)

北城から主郭を見上げる

断崖、谷の地形

二の郭

主郭正面の方向に戻る道

トンネルがありました

 

 あらためて福与城からの眺めを見ます。

福与城から伊那盆地方向を見る

拡大1

拡大2

 福与城を後にし、南下してます。

福与城を出て、河岸段丘を南下中

伊那盆地風景(西側)

伊那盆地風景2

 約1時間程の福与城訪問でした。

 もう少し遺構がありましたが、景色が綺麗で

 そちらもお勧めです。

 

 そして、福与城を追われた藤沢頼親ですが、

 その後、高遠頼継と同様に武田家に帰順離反

 を繰り返す様なのですが、なんと

 福与城の戦いから10年後の1555年に、

 三好長慶に仕えたとされています。

 芥川山城に居たのかも?

 

 長慶没後に旧領付近に戻り、

 1582年本能寺の変で勃発した甲信地方の

 天正壬午の乱で再起を図りますが敗北し、

 自害したとの事です。

 

 戦国の国人、小領主の大変な生きざまを

 感じられます。

 

 以上で福与城を終わります。

 次回は同じ伊那地方の大島城をご紹介します。

天竜川を背に小高い台地に築かれた大島城
(武田信玄の実弟、武田信廉が守っていたが・・・)

 

 ご高覧ありがとうございましたm(__)m