歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その15)>豊臣北方軍による北関東拠点の攻略(唐沢山城 2/2)

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

今回は唐沢山城の2回目(後半)です。

 

唐沢山城 縄張図

13.唐沢山城(続日本100名城)

 4)唐沢山城探訪

  前回は本丸から南へ山道を下って、

  下の写真の土橋跡へ行きました。

 

~土橋と堀~

本丸から南へ下った所の土橋

 土橋から堀跡へ戻ります。

堀跡1

堀跡2

  新めて、堀と土塁の遺構が凄いです。

  (上の縄張図ですと、一番下の「クランク状の堀切」 です)

 

  あ?堀じゃなくて堀切か~。

  縄張図をしっかり見ると、確かに尾根を切ってますね。

  土橋行くのに道迷ってたので、ここはあまり確認しておらず、

  次機会ありましたら、この周辺をしっかり見たいですね~。

 さて本丸に戻ります。

土橋から本丸へ戻る

~高石垣~

  土橋まで行くために、前編ではほぼ素通りでしたが、

  帰りは唐沢山城一番の見所、本丸の高石垣

  じっくり撮っていきます。👍

高石垣1

高石垣2

高石垣3
(有名なのはこのアングルかな?)

高石垣4(上が本丸です)

高石垣5

  山城本丸の高石垣、

  見事の一言でした。😃

 

~本丸から東側の遺構を探訪します~

二の丸から北側の虎口を出る

本丸の北側から、東方向へ歩く
(名前が無いが大きな帯曲輪)

本丸北の帯曲輪の土塁

本丸北側の切岸と石垣

  上の写真は本丸の裏手の石垣で、太田金山城

  本丸裏手の石垣とシブい感じが似てるな~と思いました。

  前回、唐沢山城の井戸が金山城に似てるとありがたい

  コメントを頂いたのですが、まさに同じことを思いながら

  歩いてました。(*^_^*)

  金山城と唐沢山城が隣近所だからですかね❓

 

本丸の東隣の長門(花畑)

長門金の丸の間のクランク道を通る
(尾根上なので、ある意味堀切ですね)

杉曲輪

杉曲輪 説明板

 どこだか分からなくなってしまうので、

 縄張図で経路を青線で示します。

 赤丸で囲っているのが杉曲輪です。

高石垣から本丸東側へ進んだ経路

杉曲輪の北側を歩いてます。

 説明板の通り、杉曲輪の東に堀切が観れます。

杉曲輪東側の堀切

平とや丸の東(主郭部の最東端)

二重堀切の一つ

もう一つの二重堀切

帰りは曲輪の南側の道を通って本丸へ戻ります

本丸の南側、神社の社務所が見えてきました

~神社から降りる~

神社から表道で帰ります

結構華やかな参道ですね~

参道の山側に竪堀かな?

入口の、くい違い虎口まで戻ってきました

~天狗岩~

 最後にもう一回天狗岩に行きます。

少し奥に見渡す為の様な石がありました

この岩に立ってみると爽快でした😃

天狗岩から西の方向

西から南の方向の案内図

西側拡大
奥の薄い山並みが赤城山かも

最後も、城主様に引率してもらいながら帰る(笑)

 

~佐野ラーメン~

 さて、唐沢山城を降りて、昼食は当然、

 佐野ラーメン行きですよね~(^▽^)/

 

 事前に少し調べていて、ようすけ本店に行きましたが、

 劇混み(駐車場に入れない)で入れませんでした。

 なのでUターンして、途中に見つけていた

 近くのゆたかやさんに行きました。

ゆたかやさんに行きました。
ぎり駐車出来ました。

 

佐野ラーメン

 はっきり言ってめちゃ美味しかったです。👍👍👍

 たぶん皆さんこの写真で分かりますよね・・・( ^ω^)

 

 後で口コミ見たら、同じ様に有名店に行けずに行ったら

 激ウマだったとのコメントが多かったです。

 

 佐野ラーメン、1軒位地元に作ってよと思いました。

 

 以上で唐沢山城を終わります。

 

 これで豊臣北方軍は関東の北側をほぼ制圧したことになります。

 

~小田原防衛戦の全体整理~

 ここで自分なりに小田原防衛戦を整理してみますと、

 下表の様になりました。

 (自分が行けた所を中心にピックアップしてます)

小田原防衛戦の攻略日 (No,はマップNo.)
(本ブログで登場するお城のみです)

 今回⑥がやっと終わりました(@_@;)、まだそこφ(* ̄0 ̄)

 

 <序盤戦(4月)>マップNo.①~⑥

   東海道筋は箱根を制圧し小田原城包囲、

   北方軍は関東の北側を制圧しました。

   これから北条領内部への侵攻を開始します。

 

 <中盤戦(5月)>マップNo.⑦~⑩

   中盤戦、5月になると関東の中心、

   武蔵の国の主要拠点まで進みます。

 

 <終盤戦(6月、7月)>マップNo.⑪~⑯

   終盤戦は北条氏康の次男氏照八王子城

   三男氏邦鉢形城、四男氏規韮山城

   長男氏政の弟達が守る重要拠点が落ち、

   豊臣方の石垣山城完成により終戦に至る。

 

 表のマップ No.は下図(グーグルマップ)

 の番号と同じになります。

 番号をクリックすると説明が出てきます。 

 

 千葉県等の拠点、佐竹氏等の在関東諸大名の動きは

 省いてしまったので、ざっくり見でお願いします_(._.)_

 

 実は最初からこの表をベースに進めています。

 今回で序盤戦が終わり、次回より中盤戦に突入します。

 次回はいよいい武蔵松山城、杉山城かな~? 

 

 そして、中盤戦以降は早く進むのかは・・・(・・?

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

<小田原北条氏の防衛戦(その14)>豊臣北方軍による北関東拠点の攻略(唐沢山城 1/2)

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

今回14回目、まだ終わりませんφ(* ̄0 ̄)

 

豊臣主力軍は箱根を越え、小田原城

包囲しました。

 

前田利家を主将とした豊臣北方軍は、

碓氷峠を越え、まず北関東の諸城を

攻略していきます。

 

前回、下の北関東のマップで上田城から

金山城までさらっとご紹介しました。

 

今回は、北関東最後の拠点として、

唐沢山城を探訪いたします。 

(マップの番号を押すと案内が出てきます)

 

13.唐沢山城(続日本100名城)

 1)唐沢山城の立地 

   唐沢山城は現在の栃木県佐野市にあります。

   ここは栃木県の南部、関東平野の東端の要衝です。

   

   そしてみなさんご存じ、佐野ラーメン屋さんが

   沢山あります。こちらも重要拠点ですね(⌒∇⌒)

 

   下の北条領全体探訪マップでは、唐沢山城です。 

   こう見ると、まだ関東平野の端ですね~。

 

  唐沢山城から見た関東平野です。

  ほぼほぼ都心の方向を撮ってますが、

  遮るものがありません。

唐沢山城から関東平野を観る

 

 2)唐沢山城の歴史

  平将門の乱鎮圧に活躍した藤原秀郷の築城との

  伝承もありますが、その子孫である佐野氏

  戦国期まで城主だったようです。

 

  有名なのは佐野氏15代城主佐野昌綱で、

  彼は永禄2年、1559年家督を継いでから、

  約10回上杉謙信に攻撃されたが、一度も

  攻城による落城はなかったと言われてます。

  (和睦、一時的降伏はあったが、上手に処世した。)

 

  この事から関東一の山城と称されてます。

 

  1574年昌綱、その後の嫡男宗綱の死後、

  1586年、家督争いに乗じて北条氏が

  唐沢山城を占拠し、氏政の弟北条氏忠

  養子として佐野家を継ぎ唐沢山城に入りました。

 

  しかし4年後の1590年、豊臣軍による

  北条家攻撃が開始。

 

  下の小田原城陣立図を見ると、小峰御鐘ノ台大堀切

  付近に北条氏忠の名があります。

  大事な所の守将ですね。

  (下の図、緑色の北条軍の一番左。)

小田原城 現地の説明板による小田原合戦陣立図

 

  また、上記陣立図のベースであろう、下の毛利家文書

  の陣取図でも、赤丸部に佐野衆北条左衛門尉

 (北条氏忠の官位)と明記されています。

毛利家文書の小田原仕寄陣取図の現代語版

 

  よって佐野家の主力、城主は小田原城

  籠城していたようです。

 

  そして間もなく豊臣北方軍が攻め寄せてきました。

  

  豊臣方には、先々代昌綱の弟房綱が属しており、

  かつ唐沢山城佐野家は北条家に乗っ取られた

  経緯もあったので、大きな抵抗無く4月28日頃

  開城したようです。

 

  その後房綱、そしてその養子で秀吉家臣、

  富田一白の5男信吉佐野家を継ぎ、江戸時代は

  佐野藩主となりますが、1602年唐沢山城は廃城、

  佐野藩も1611年改易となりました。

  (唐沢山城が堅城であることと、佐野藩主(富田氏)

   が豊臣家に近かったからとも言われています。)

 

 3)唐沢山城の縄張図

 <中心部>

唐沢山城 縄張図

 <案内板(全体図)>

唐沢山城 案内板
(中央最下部の⑥土橋跡を見るのが目標だったので、
その為に掲載。それ以外は中心部の縄張図内の探訪です。)

 

 4)唐沢山城探訪

  それでは早速唐沢山城へ行ってみましょう👍。

唐沢山城の南側の道から車で向かっています。
実はどれが城山かよく分からない😓

  下の綺麗な円錐状の山だと思って、車を降りて

  撮りましたが、後で調べると、どうも違うみたい😓😓

唐沢山城へ向かう途中。

山を車で登っていき、唐沢山城の駐車場に着きました。
自分はここの少し下に駐車。

  駐車場に着いたら、20人位の人が居ました。

  この日の探訪で、結果約100人位の方と会い、

  ここが人気のハイキングコースだと分かりました。

  行ったのは昨年秋で、獣被害が多発していた頃。

  一人山城と思ってたので、結構安心しました。

 

駐車場の目の前がもう唐沢山城虎口です

唐沢山城 説明板

くい違い虎口

桝形虎口

くい違い虎口 説明板

  しょっぱなから食い違ってからの桝形(ますがた)虎口

  が山城にあるという説明に、唖然としてます。φ(゜▽゜*)♪

 

  そして桝形の中から天狗岩への登り口がありました。

天狗岩登り口

天狗岩説明板 眺望が良く見張り場所とのこと

ちょろっと登ります

何故か平気で自分とすれ違う猫に、この時は違和感が❓
(後で分かりましたが😃)

天狗岩 お、誰か遠くを見ているね~

天狗岩 お、ここか~👍

天狗岩 なんだここ凄いな~╰(*°▽°*)╯
(来た道の方向=関東平野の方向)

天狗岩 ただ遠くはガスってますね~

 

天狗岩を降りて、城中央部へ進みます。

ここは、地図の真ん中左に書いてある「現在地」の所です。

本丸方向へ進みます

大炊の井

大炊の井 説明板
この井戸があったのも大きいのかもね~

神橋

神橋及び四つ目堀 説明板

四つ目堀

四つ目堀 2 しっかりと堀ですね~

神橋を渡って石段を進みます

神社(中心部)と帯曲輪(三の丸)の分岐点

帯曲輪(三の丸)の下の堀と土塁

帯曲輪へ登っている
あ、昔の石垣かも😀

帯曲輪(三の丸)

帯曲輪から進み、唐沢山城で一番紹介される高石垣を発見😃

左に曲がって進みます

二の丸の入口から高石垣を見る

二の丸

二の丸から本丸を見る

石垣の保護

説明板

石垣の保護

本丸に入りました。

本丸跡 説明板

唐沢山神社 社殿
(明治16年創建だそうな)

本丸(上から)高石垣沿いに、来た道を見る

本丸から降りた所、ここが正規の入口かな?

 

本丸から石段を下っていきます

唐沢山神社社務所

南城跡

南城跡 説明板

南城跡からの眺望1
(多分ここが城一番の展望場所みたいです)

南城跡からの眺望2 これは凄い眺望です~😀
天狗岩と同じ方向ですね。

写真拡大、やっぱり遠くは霞んでて見えない

さて後ろを振り返ると・・・、
あ、私の後ろで猫がたむろってる(*^_^*)

のんびり寝てるじゃないか!

あ、膝の上に載って来たφ(゜▽゜*)♪

あまりに平和に寝てるので、もう1枚(❁´◡`❁)
今回のサムネに使ってしまおう😊。
(小学生の頃猫飼ってましたが、これはのらじゃないですね~)

 

南城の下を行ってみます

お、山城らしい雰囲気が😍

石垣

石垣

南城を2つに分けている堀切

南城の堀切
(左側の石垣が本丸側ですね)

右側の曲輪

右側の曲輪から堀切を介して石垣を見る

ここから下へ進む山道がありますので、進んでみます

南城堀切から南へ下って土橋を目指します
youtubeで土橋がかっこよかったので、ここが今日の目標地です)
(青線を進んだと思います)

 

山道を降る

分かれ道。階段を上に行ってみます

何かの曲輪かも

分岐道。案内板があって少しほっとする

 

南の方向の山道を進みます

ん?だいぶ藪道になってきた

携帯の位置情報ですと、もう土橋より南に
来ているので道が違うと判断し引き返します
(山道を真っすぐ降ると土橋に着かない)

分岐道に戻ってきました

さっきと違う道に進む

ん?これは堀ですね~

堀跡

お、だいぶ凄い堀跡ですね~ クランク状の堀かな?
(ここから土橋方向へ進んでみます)

堀跡

 

堀跡を抜けると・・・お、土橋かも😃

土橋 コの字になってるのでここですね

土橋

上の土橋の写真の説明

案内板に載っている土橋の写真
なんか雰囲気違う気が・・・(・・?

土橋を歩きたかったのですが、
ちょっと行けないですね~残念

土橋の先側

 少し道に迷いましたが、目的地の土橋

 観れたので、今回の目的は果たしました👍

 

 今回は半分、ここまでとします。

 次回は本丸の東側の曲輪を行ってから、

 高石垣等を再確認しながら戻ります。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

<小田原北条氏の防衛戦(その13)>豊臣北方軍による北関東拠点の攻略(松井田城、箕輪城、厩橋城、金山城))

こんにちわ、rekikakkunです。

 

1590年に行われた、小田原北条氏の防衛戦

を綴り始めて、かれこれ13回目(@_@;)・・・です。

 

これまで小田原城の防衛強化、総構え、

豊臣秀吉本軍の箱根周辺の城攻略から、

小田原城包囲辺りまで進めてきました。

 

実は上記の動きとほぼ平行して北条領の北方、

北関東から北条領を攻略する軍団が、

ありました。

 

前田利家を主将とし、上杉景勝真田昌幸

といったスター達で構成された北方軍です。

 

彼らは碓氷峠(うすいとおげ)経由で

信州(長野県)から上州(群馬県に入り、

まず北西境目の重要防衛拠点である

松井田城に殺到しました。

 

今回松井田城は探訪しませんでしたが、

その攻略は重要と思われるので、少し記載します。

 

あと過去探訪報告済ですが箕輪城厩橋城、

金山城も、北方軍の序盤戦で攻略しているので、

簡単にご紹介致します。

 

11.松井田城の戦い(市指定史跡)

 1)松井田城の立地

   松井田城は上州のほぼ西端に位置し、

   信州の国境及び当時の幹線である東山道

   に接する重要拠点でした。

   

   下のグーグルマップ⑤が松井田城です。 

   現在のイメージですと、長野県軽井沢から

   碓氷峠を越え、群馬県高崎へ進む中間の位置です。 

 

 2)北条家の松井田城制圧

   北条氏は織田信長の死去直後、天正10年、

   1582年神流川の戦い織田家の関東司令官

   滝川一益を敗走させると、そのまま上州(群馬県

   を制圧し、その西の要である松井田城は、創業以来

   重臣の家柄の大道寺政繁を城代としました。

 

 3)北方軍の出陣

   天正18年、1590年2月から3月、

   豊臣方の北方軍が関東に向けて出陣しました。

 

   前田利家金沢城上杉景勝春日山城からの

   出陣なので、真田昌幸の拠点上田城で集合した

   可能性もありますよね。

   

   そして、上田城の東、小諸城徳川家康から

   与えられ、周辺の佐久地方(上州との境、

   軽井沢も含む)を治めていたのが松平康国です。

 

   彼は本能寺の変の後、旧武田領(甲斐、信濃

   めぐって北条徳川上杉真田氏の争奪戦と

   なった通称天正壬午の乱で、徳川方として活躍した

   旧武田家臣依田玄番(よだのぶしげ)の次男です。

   (天正壬午の乱の探訪もなかなか良いな~😁)

 

   彼は父の功績を高く評価した徳川家康によって、

   小諸城6万石の待遇を得ていました。

 

   その佐久地方の東端に碓氷峠があり、

   信州(長野県)から関東、上州(群馬県

   に入れます。

 

   北方軍小諸城に集結し、情勢確認、

   軍議を行ったと推定されます。

   

 4)碓氷峠の戦い

   北条方は北方軍の関東進出を阻止する為、

   国境の碓氷峠に、与良与左衛門約800名を

   配置したとのことです。

 

   ここで、北方軍の北関東制圧の進行ルートに

   特化した地図を、作成したいと思います。

   (おおよそです)

 

   (下の地図の左=西から、右=東へ進みます)

   上田城⇒②小諸城⇒③碓氷峠⇒④松井田城

   ⇒⑤箕輪城⇒⑥厩橋城⇒⑦金山城⇒⑧唐沢山城   

   お、なんか上手く横一列になりましたね~😁

 

   天正18年1590年3月8日、真田昌幸

   3,000人は、上の地図の③、碓氷峠

   布陣している北条軍に攻め寄せました。

 

   記録によると真田信幸真田信繁達が奮戦し、

   真田軍が占拠した模様です。

 

   大道寺勢は松井田城に退却。

   北方軍碓氷峠を突破し、

   関東へ進入、松井田城を包囲しました。

 

 5)松井田城の戦い

   松井田城は今回行ってないので、

   探訪写真はありません。

   いつか探訪したいと思ってます。

 

   ①開戦日天正18年(1590年)3月10日

   ②落城日天正18年(1590年)4月22日

   ③攻撃側陣容前田利家軍:1万8千人

          上杉景勝軍:1万人

          松平康勝軍:4千人

          真田昌幸軍:3千人

         (豊臣方総勢:3万5千人

   ④守備側陣容北条方総勢:2千人

             城主:大道寺政繁

 

    重臣の城主をそのまま防衛にあたらせてるので、

    重要防衛拠点となりますね~。

  

   ⑤攻城戦経過

    東海道主力軍より2週間以上早い3月10日に、

    攻城を開始した北方軍でしたが、

    松井田城の堅守により攻めあぐねました。

 

    そのうち東海道の主力軍が3月29日山中城

    1日で攻略、4月6日頃には小田原城包囲完了

    との報告により、北方軍の攻城戦が激化し、

    1カ月以上持ちこたえた松井田城は4月22日

    ついに開城となりました。

 

    大道寺政繁はその後、豊臣軍の道案内役と

    なった後、戦争責任により切腹しました。

    なかなか厳しい~(@_@;)

  

    ただし、子孫は江戸時代を生き残り、

    尾張藩城代家老津軽藩家老、明治時代には

    県議長、なんか青森銀行の前身の創設者だった

    とも書かれていますよ👍。

 

 

12.その他北関東諸城   

 北方軍は、なかなか落ちない松井田城攻略に

 並行して北関東の拠点攻略を開始しました。

 

 箕輪城(日本100名城)

  北関東マップの⑤が箕輪城です。

  

  現在日本100名城に数えられている通り、

  箕輪城は、勇将の長野業政が、武田信玄の攻撃を

  幾度も撃退した等、戦国期を彩る有名な舞台であり、

  また井伊直政も城主、改築を行った要害の大拠点です。

 

  現在も遺構が整備され、見所満載なお城です。

  

  城主力軍は小田原城等に出払っていたと思われ、

  4月24日戦わずに開城とのことです。

 

箕輪城 復元 郭馬出西虎口門

箕輪城 大堀切 下までずっと歩けます(⌒∇⌒)

箕輪城 三の丸石垣跡

 

 2)厩橋城(市指定史跡)

  厩橋城はマップ⑥の位置で、

  現在の群馬県庁所在地である前橋です。

  

  厩橋上杉謙信滝川一益の関東支配の

  本拠地として、関東平野内の北の要に位置

  する重要拠点でした。

 

  江戸期は利根川氾濫による珍しい城破壊、

  近代の市街地化等により、遺構もわずかですが、

  城跡に建つ県庁の展望台からの眺望を見ると、

  ここが、上州、北関東の中心と思えます。

  

  多分兵少なく、抵抗ほぼなかったと思われ、

  4月19日落城との事です。 

 

群馬県庁展望台から北側を見る

群馬県庁展望台から南側、関東平野を見る

前橋城 車橋門跡の石垣

前橋城 堀、土塁の痕跡

 

 3)金山城 (日本100名城)

  金山城はマップ⑦の位置です。

  戦国期は、新田氏の家系岩松家から、

  実権を奪った由良氏の居城。

 

  現在石垣等の遺構や眺望がとても凄くて、

  日本100名城、お薦めのお城です。

 

  4月29日前後、こちらも兵少なく開城の模様です。

金山城 物見台虎口。橋の先が見えない様になっている。

金山城 大手虎口。一番の見所。

金山城都心方向眺望 拡大写真で都心ビル群が見えます 



 以上で終わります。

 

 思いの外、松井田城にかかってしまいました。

 北関東地図の⑧、唐沢山城は探訪して来ましたので、

 次回単独報告の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その12)>後北条氏の重要拠点 玉縄城

こんにちわ。rekikakkunです。

 

前回は小田原城の包囲陣地探訪について、

長々とお付き合いありがとうございました。(__)

 

ここから再度、お城探訪になります。。。

 

下図のマップは昨年秋探訪しました小田原北条氏

関連のお城等を再表示しています。

 

今回は下図の玉縄城をご紹介致します。

 

実は、④の玉縄城はマップの中では最後に探訪しました。

何も分かっていませんが、何か玉縄城を外してはいけない

と感じ、追加で探訪してきた次第です。

(と言うか山中城の次はここでしょうと気が付いた(@_@;))

 

さて、天正18年1590年4月6日頃、

箱根を突破し、小田原城を包囲した豊臣本軍ですが、

流石に直ぐには小田原城を攻略できないので、

浅野長政を主将とした別動隊を編成し、

約2万の軍勢で相模、武蔵、下総方面の

北条方支城攻略を進めました。

 

その攻略対象、最初の有力な城が、

玉縄城と言えそうです。

 

10.玉縄城

 1)築城経緯

  後北条氏初代北条早雲は、1479年今川範満

  駿府静岡市)で襲撃し、自身の妹北側殿の子

  氏親を今川家当主に据えました。

  その功績により、早雲は興国寺城を与えられ、

  その後の領土拡張の起点となりました。

  (これも諸説色々ある様ですね~。)

 

  その後のざっくりな経歴を列記しますと。

 

  1493年 堀越公方を追放し、伊豆国を入手。 

  1495年 大森氏小田原城を攻略。

  1516年 三浦氏を滅亡させ、相模国を入手。

  1519年 韮山城で死去。

 

  このうち、小田原城攻略後、相模国平定の為、

  その有力国人で三浦半島を中心に勢力があった

  三浦氏攻略の為、三浦半島の入口の位置に

  築いたのが玉縄城となります。

  (現在の鎌倉市大船駅の近くです。)

 

  因みに三浦氏は、前々回の大河ドラマ

  「鎌倉殿の13人」で主力級の御家人だった

  三浦氏の傍流との事です。

 

  鎌倉時代の1247年、宝治合戦北条家の計略

  により三浦本家は滅亡しましたが、その後傍流の

  三浦氏が頑張って、三浦半島を含めた相模の一部

  を治めてた様です。

 

  しかし玉縄城を拠点とした北条早雲により、

  最後の実質的当主、三浦義同(道寸)は、

  1516年、三浦半島の先端付近の新井城

  に追い詰められ、抵抗むなしく壮絶な最後

  を遂げて、三浦氏は滅亡しました。

  この物語は別途取り上げたい位です。

 

  ・・・と個人的想いでだいぶ脱線してます(-_-;)

 

  ただ、今まで小田原北条氏をタイトルに使ってたのに、

  何故後北条氏と無意識に書いたのか今分かりました。

 (玉縄城鎌倉時代北条氏三浦氏と深く関係して

  くるから、そことの区別が必要ですね。(~ ̄▽ ̄)~)

 

  終わらないので、時代を戻します。(__)

 

 2)後北条氏玉縄

  時は戦国時代、永正9年1512年、北条早雲

  玉縄城を築城し、次男の氏時を城主に据えました。

  そして1516年三浦氏攻略後、氏時玉縄

  として本家を支えました。

 

  有名なのが2代為昌の養子となった、3代綱成です。

  彼は、日本3大夜戦とされる、1546年の川越合戦

  において、川越城主として主役となり、その後も北条

  随一とされる武略により北条家を支えました。

  そして玉縄衆最後の当主が6代氏勝です。

 

 3)小田原防衛戦

  その北条氏勝は、1590年の小田原防衛戦時の

  玉縄城でした。

  彼は開戦当初、幣ブログに出てきましたね。

  そう、3月29日山中城の壮絶な攻防戦で援軍の

  大将として入城し、落城前に退去しています。

 

  その後、多分面目が無いので小田原城には

  立ち寄らず、自身の居城玉縄城に戻り、

  4月21日降伏開城しました。

 

  後北条氏滅亡後、彼は徳川家康の家臣となり、

  下総1万石の大名となったそうです。

 

  玉縄城はその後も統治の拠点となっていましたが、

  一国一城令により、1619年廃城となったそうです。

 

 4)玉縄城探訪

  下のグーグルマップの玉縄城です。

  参考に、鶴岡八幡宮(鎌倉)小田原城④新井城です。 

 立地として三浦半島②鎌倉を抑える位置なのが分かります。

 

 さて玉縄城に向かいます。

 車で行きましたが、大船駅玉縄城の間に位置する

 龍宝寺に停めさせて頂きました。

 

 ~龍宝寺 と 歴史資料館~  

龍宝寺 入口

龍宝寺 説明板

龍宝寺境内
(この左手に駐車場がありました)

 

  そして龍宝寺境内には、玉縄民俗資料館旧石井家住宅もあります。

玉縄民俗資料館
玉縄歴史館、玉縄ふるさと館)

 資料館は玉縄地域の歴史的資料を展示している資料館です。

 無人資料館で拝観料200円。早速入ります(^▽^)/

 

 そしたら玉縄城に関する資料がわんさかありました。😀

玉縄城模型1

玉縄城模型2
(中央の火口みたいな所が本丸)

玉縄城鳥瞰図

玉縄城縄張り説明板

玉縄城古写真1(本丸部)
昭和35年撮影、これは、ド迫力な写真ですね~
なかなか見れない開発前の貴重な古写真ですね。

玉縄城古写真2
(本丸に清泉女学院高等学校が建設)

 

玉縄城遺構案内板:龍宝寺
(歴代玉縄城主の菩提寺

龍宝寺を出て玉縄城方向を見る
(正面の丘陵が玉縄城

龍宝寺から歩いて七曲坂へ向かってます

 

  ~七曲坂~

七曲坂入口に到着しました

玉縄城遺構案内板:七曲坂

七曲坂1

七曲坂2

七曲坂3

七曲坂4 武者だまり跡

七曲坂5 坂から南の方向を見る

七曲坂6 見事に曲がっています

 

 ~太鼓櫓址~

  七曲坂を登り切った山頂部は、住宅地になっています。

  すぐ近くに太鼓櫓址がありました。

太鼓櫓址入口

  玉縄城を残す為、市民団体が、市と協議の上、

  市民緑地として保存整備区域指定をしたとの事です。

植木1号市民緑地
(土地所有者は居ますが、緑地として公開、整備している)

太鼓櫓址1

玉縄城遺構案内板:太鼓櫓址

太鼓櫓址の位置写真

太鼓櫓址の場所が赤三角で示されています。
坂を登ってきて、今ここ、
とても分かり易いです👍(⌒∇⌒)

太鼓櫓址

太鼓櫓址の下1
周囲をのぞき込んでみますと、堀切の様な跡が見えました

太鼓櫓址の下2

堀切の先が焔硝蔵(えんしょうぐら、武器庫)

太鼓櫓址の下3
手摺の様な区画があります

太鼓櫓址の下4
少し道を辿っていくと、太鼓櫓下へ通じる入口がありましたが、
整備中の為関係者以外は入れませんでした。

住宅街に残っている緑地
玉縄城の遺構として整備中かも)

右手太鼓櫓址、正面左が本丸

玉縄城縄張図
七曲坂、太鼓櫓址、堀切、焔硝蔵
の位置が良く分かります。

 ~本丸跡入口~

  太鼓櫓址から住宅街を歩いて数分で、

  本丸の入口正面に辿り着きます。

本丸入口正面

玉縄城遺構案内板:本丸大手門跡
(現在女子高の門なので絶対入れません(@_@;))

不審者と思われたくないので、
そそくさと本丸正面の道を進みます😓

 

本丸付近から下る坂の様です

坂から見上げます

 

 ~池状遺跡(推定玉縄城主館跡)~

  ちょうど本丸の南を下っていくと、

  遺構案内板が見えました。

陣屋坂公園

  降りてきた道は陣屋坂と言うそうです。

玉縄城遺構案内板:池状遺構(城主館跡)


  玉縄城探訪の報告は以上となります。

  市街地化が進む中、玉縄城の遺構の見所は

  主に七曲坂太鼓櫓跡に見られました。

 

  また龍宝寺境内にある歴史資料館には、

  玉縄城の資料が多数展示されていました。

 

  実は、玉縄城から帰ってきた際、

  再度歴史資料館に入りましたら、

  10名程のボランテイアの方達が展示品の

  更新等を行っていました。

  その指導をしていた方が私に声をかけてくれ

  お話したり、掲示物を少し支える等手伝ったり

  しました。

 

  後で確認してみると、玉縄城址まちづくり会議」

  の方達だったと分かりました。

 

  資料館の展示、玉縄城遺構案内板、講演会等のイベント、

  そして何より市街地のど真ん中にある玉縄城の遺構保存

  に自ら計画整備し、そして市や企業、有識者と協議

  して進めている事が分かりました。

 

  最初に資料館に入った時、展示品の内容が、

  どうも他の城とは違う気迫を感じてました。

  (玉縄城北条家を知ってもらい、守り、伝承したい

   ・・・と個人的によく伝わりました)

 

  ちょっと一味違う玉縄城

  お近くに来たらお寄り下さいませ_(._.)_

 

  次回からは、今までほぼ触れてこなかった、

  前田利家上杉景勝真田昌幸ら超有名人軍団、

  北関東から南下してくる北方軍の展開に移ります。

  ようやく❓φ(* ̄0 ̄)

  ・・・次回は唐沢山城辺りかな?

 

  ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

  

 

 

 

  






















 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その11)>いよいよ 豊臣軍による小田原城包囲(2/2)

こんにちわ。rekikakkunです。

小田原北条氏の防衛戦を綴っていまして、

前回は、下記の9.4).⑦まで進んでいます。

 

9.小田原城の包囲

 1)小田原城包囲までの流れ

 2)小田原城包囲戦 布陣図

 3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類

 4)小田原城包囲戦 陣地探訪

  (★1)東海道方面

    ①豊臣秀吉本陣

    ②石垣山城 

    ③堀秀政陣所

    ④富士山砦

    ⑤小田原城 三の丸外郭新堀土塁

  (★2)尾根筋、大堀切ルート

    ⑥水之尾口櫓台

    ⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣 

 

 今回、4)小田原城包囲戦陣地探訪

 続きでからとなります。

 

 下の布陣図の〇番号と、記事の番号を同じにしてます。 

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

 

  山内一豊、⑨羽柴秀次陣所

   では、⑧、⑨を探していきます。

   まず起点は小田原城の西端、水之尾口櫓台です。

   (上の布陣図では⑥の所です。)

⑥水之尾口櫓台

 

  上の写真水之尾口櫓台から西側の尾根筋を進みます。

  (下の拡大図で見ると、黄色線が尾根筋で、

   左方向に進みます)

<水之尾口櫓台西側の布陣図拡大>

 

  そうすると水之尾バス停がありました。

  上の図では緑〇印の場所です。

ここが水之尾バス停
(この道が尾根筋)

 バス停付近から北側を見ますと、

 丘陵が見えます。

水の尾バス停付近から北側を見る

 布陣図の位置を確認し、

 その丘陵辺りが山内一豊と⑨羽柴秀次の陣所と

 推定しました。

山内一豊羽柴秀次陣所

 

  そこから少し西に進むと、その丘陵方向(北側)

  へ通じる道がありました。

山内一豊陣所 と 青線の道

  <水之尾口櫓台西側の布陣図拡大>青線です。

 

  この布陣図とグーグルマップ、小田原厚木道路

  現地で見た道の4つが、青線の道で合致したので、

  道の方向、角度から山内一豊の陣所と感じました。

 

  まあ少なくとも、この写真の丘陵周辺に、

  堀尾吉晴中村一氏を含めた豊臣軍が

  多数布陣していたのだと思います。

 

 (★3)小田原城北西面の谷津丘陵と相対峙する豊臣軍

  黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷 陣所

   さて、今度は(★3)の小田原城の北西側を

   探します。下の布陣図で、青で囲んだ所です。

小田原城 北西側

 

   その小田原城の北西側は、谷津丘陵の外側に

   総構え(堀とかき揚げ土塁等)を構築し、

   勘弁してくれよ~っていう位の強い防御力に

   なっていた様です。

(参考)谷津丘陵側の総構え遺構の一部(稲荷盛)
これがもっと深く、高くなっていたのでしょう。

 参考に、小田原城西端の水之尾口櫓台から見ると、

 下の図と写真になります。(前回の投稿でご紹介)

黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷 他 の陣所 布陣図

黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷 他 の陣所遠望👍

 

  小田原城大堀切西堀から豊臣陣地を見る

   さて、ここから水之尾口櫓台から離れ、

   近くの大堀切西堀を再探訪致します。

 

   大堀切西堀は下の布陣図の青丸部です。

   青丸周辺から、黄色丸の豊臣軍を

           見渡せる所を探します。

大堀切西堀付近から豊臣陣地を見る

 

    大堀切西堀の部分を拡大すると、下図になります。

大堀切西堀 拡大図
(赤線の西堀と、緑線の総構えの堀の合流点が青丸です)

  上地図の赤線(西堀)を通って、

  青丸の合流点に向かいます。

大堀切西堀を進む
(この堀底を先へ進みます)

 

上の写真(堀底)を進むと、前方が開けてきました

2023年10月の西堀と総構えの合流点

  ここ大堀切西堀を進むと、総構えの堀と合流する

  珍しい場所と現地の説明に書いてあったので、

  昨年10月に行ってみましたが、上の写真の通り

  だったので、前回はここから先には行きませんでした。

  (以前投稿済の写真です)

  

  今年1月再訪時、まあもう1回行ってみるか程度で

  行ってみると・・・、

  なんと!合流点が綺麗に整備されてました。😀😀😀

  (四角いコンクリートで見比べると明らかです) 

大堀切西堀総構えの堀の合流点
(右下の方向に西堀。中央斜めが総構えの堀。)

  

上の写真の左側は、こんなに総構えの堀が
はっきり残っていました。

総構えの堀を進む

総構えの堀を西へ進んでいくと、堀跡が見え難くなってきました。
写真の左上が水之尾口櫓台付近だと思います。

  さて、西堀から総構えの堀まで来ることが出来、

  かつ北方の見晴らしがよいので、豊臣軍を見渡します。

西堀と総構えの合流点から豊臣軍を見る 1

西堀と総構えの合流点から豊臣軍を見る 2

黒田官兵衛陣所 拡大(右側の丘陵)

少し別の場所から豊臣陣地を見渡す

   大堀切西堀総構えは圧巻でした。

   また、豊臣軍も良く見渡せます。

   対峙している緊張感を感じながら、

   のんびり見てました。😊

 

  小田原城 山の神堀切から豊臣陣地を見る

   今度は少し東に進んで山の神堀切から

   豊臣方の陣地を探してみます。

青丸の山の神堀切から黄色丸の豊臣軍を見ます。

山の神堀切 入口

  山の神堀切谷津丘陵を二分する堀切です。

  実はここも総構えと繋がっています。

 

山の神堀切の中を進みます

突き当たると、総構えが正面を横切っています
(山の神堀切の堀底北端から、正面の総構えの堀を見てます)

 

  さて、山の神堀切から豊臣軍を見てみます。

山の神堀切から豊臣軍を見る 1

山の神堀切から豊臣軍を見る 2

  小田原城の一辺、北西面の正面には、対峙する

  豊臣軍の丘陵があり、ほぼほぼ黒田官兵衛の陣所が

  どこからも見えますね~。

  (違ってたら、え~ってなっちゃいますが(@_@;))

 

  ~今度は逆に黒田官兵衛達、豊臣軍が在陣していた

   丘陵から小田原城を見てみます。~

 

  しかしその丘陵に行ってみると車を停める所が

  無いのと、道から小田原城側はほぼ全て農園の

  木々や住宅で見えなかったので、隙間を見つけて

  道路から少しだけ撮ってきました。

  (小田原城を見る為の場所が欲しい😢)

 

 黒田官兵衛陣所付近から小田原城を見る~

黒田官兵衛陣所から小田原城を見た方向

黒田官兵衛の陣付近の隙間から、小田原城を撮影

上の写真を拡大。
写真中央左上辺りが山の神堀切

 

 蒲生氏郷陣所付近から小田原城を見る~

蒲生氏郷陣所付近から小田原城を見る
(見た方向をA,B,Cで表示)

  (方向A)

蒲生氏郷の陣付近から小田原城を撮影 (方向A)
小田原城の北端、城下張出付近)

  (方向B)

蒲生氏郷の陣付近から小田原城を撮影(方向B)
山の神堀切付近)

  (方向C)

蒲生氏郷の陣付近から小田原城を撮影(方向C)
小田原城の西端、水之尾口櫓台付近)

  やっぱり小田原城谷津丘陵と、それに相対峙する

  黒田官兵衛蒲生氏郷ら人気武将の布陣場所から見る、

  小田原城が当時の雰囲気を最も感じられる気がします。

 

  小田原城側から見ると、包囲する豊臣軍の圧を

  感じますが、逆の豊臣軍側から見ると、小田原城

  その威容を相当保持していた事を感じます。

  

  つまり上の3つの写真に写っている小田原城

  谷津丘陵は、豊臣軍側から見ると、丘陵全てが

  総構えの堀、土塁、斜面等の防御施設として

  見えてたと思うので(@_@;)

 

  なので北条氏も籠城したくなる気も分かる様な・・・。

 

  個人的にはそれが感じられて大満足しました。😓

 

 (★4)小田原城の東側、足柄平野方面に布陣する

     織田信雄徳川家康の大軍

 

  ここはあまり雰囲気が無いのでさらっと書きます。

 

  当時、徳川家康は150万石弱、織田信雄は100万石弱位

  だった様で、小田原参陣武将の中でも、秀吉の次の

  No.2、3の実力を占めました。

  なのでこの2大名で東側大部分の包囲を任せられてた様です。 

  (ただちょっと思ったのは、後に秀吉はその2大名分の

   戦力を家康一人に渡しちゃったんだよな~。なんで?)

織田信雄軍 と ⑮徳川家康軍 の布陣場

  織田信雄陣所

   そもそも陣所は分からなくて、行ってないので、

   先に使った写真を載せます。

織田信雄が展開していた場所と推定

 

  徳川家康陣所

   ここには陣所の記念碑があります。

   グーグルマップに載ってますので、

   ちょっと狭い道ですが、少しだけ

   訪問出来ると思います。 

徳川家康陣地跡1

徳川家康陣地跡2

徳川家康陣地跡3

徳川家康陣地跡4
(上の記念碑の反対側。なんとなく四角い区画。)

  まあ小田原城が見えないので記念碑が建ってる

  としか感じないんですが・・・。

 

  以上で小田原城包囲編を終わります。

  長々お付き合いありがとうございました。_(._.)_

 

  次回からいよいよ(やっと)、関東のお城の

  探訪になります。

  多分、時系列的に玉縄城かな?

  

  ご高覧ありがとうございました。

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その10)>いよいよ 豊臣軍による小田原城包囲(1/2)

こんにちわ。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

やっと小田原城包囲戦の布陣巡り

まで辿り着きました。🤣

(まだそこかい(@_@;))

 

今回のシリーズは、これ(布陣巡り)

が目的だったと言っても過言ではありません。👍

 

小か中学生の頃、家族と猫も一緒に小田原城

連れて行ってもらい、布陣図を見て感動

したのを覚えています。

 

今回は、何度か小田原に行って、布陣図

とグーグルマップを見比べて、ここかな?

と探訪してきました。

 

間違いもありそうですが、

おおよそで見て下さいね。_(._.)_

 

9.小田原城の包囲

 1)小田原城包囲までの流れ

  1590年(天正18年)、

   3月29日 山中城落城及び周辺の城攻略。

   4月4日  徳川家康ら諸将の小田原城包囲が完了。

   4月5日  豊臣秀吉早雲寺を本陣とする。

   4月8日  織田信雄蒲生氏郷韮山城包囲軍

         一部を残して小田原城包囲に参加。

 

  山中城を攻略してからほぼ1週間足らずで、

  約18万もの大軍が小田原城を包囲しました。

 

 2)小田原城包囲戦 布陣図

   現地の公式案内板であると共に、

  背景に現在の道が薄く載っているので、

  この布陣図で布陣位置を推定してみます。

小田原城包囲戦 布陣図小田原城史跡の説明板)

 

  上記小田原城包囲戦 布陣図を基に、下のグーグルマップに

  豊臣方の陣地と小田原城の遺構を表示しました。

 (ただし、陣地跡が無い所は近くの施設で位置表示)

 

 グーグルマップは番号クリックしますと案内が出てきます。

 作ってみましたが、なんだか分からないですね~😓

 

 色別標高図に小田原城輪郭に載せると、

 少し見えてきました。😃

 (上と下のマップの〇番号は合わせています)

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

  ※すいません、水軍は無しです。_(._.)_

 

 3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類

  こうして布陣図や地形を見て自分なりに

  整理しますと、小田原城包囲戦の布陣

  探訪するのに、下記の4つに分類されました。

 

  (★1)まず、①~⑤小田原城南西方向、

      箱根、東海道方面です。

      包囲軍は秀吉の本陣とその手前の

      石垣山周辺の陣地となります。

      ここは小田原城三の丸から良く見えます。

 

  (★2)⑥~⑨は、小田原城唯一の尾根筋侵入ルート

      に対し、城側は3つの大堀切及び水之尾口櫓台

      が構えられています。

      その尾根筋を囲むように豊臣軍が布陣してます。

      そして標高図を見ると⑥水之尾櫓台は、小田原城

      で最も高く、ほぼ全方位が望めたかもしれません。      

 

  (★3)⑩~⑬小田原城北西面の谷津丘陵

      その正面の丘陵に、北条軍と豊臣軍が

      対峙しており、相手の丘陵を見渡せるので、

      当時の雰囲気が最も感じられます。

 

  (★4)小田原城の東側、足柄平野⑭、⑮には、

      秀吉に次ぐ大名No.2の徳川家康軍と、

      No.3織田信雄軍が大軍で展開してます。

     (ここはもう市街地化してて全く分からなかったです。)

 

 4)小田原城包囲戦 陣地探訪

  それでは、陣地探訪に向かいます。

  既に紹介済や後述予定の場所は、

  さらっと掲載します。

  (マップと下の〇番号も合わせています)

 

  (★1)東海道方面

   豊臣秀吉本陣(開戦時)

    開戦当初の大将秀吉の本陣は、

    現在の箱根湯本駅の近くにある

    早雲寺でした。(前回ご紹介済)

早雲寺境内


  ②石垣山城 

   いずれ後述予定の石垣山城の位置です。

   6月に入り、早雲寺から本陣を移しました。   

石垣山城雄大な石垣

石垣山城から小田原城を見る
(鉄塔の左側に小田原城天守が見えます。
見えている街並の8割位が当時の城域でしょうか。
凄い(@_@;))

 

  堀秀政陣所

   石垣山の東麓、海蔵寺堀秀政

   布陣したとの事です。

   丁度上の写真の麓位の位置です。

   (お寺とお墓があるのでグーグルマップ

    に載っています。)

 

   堀秀政の名前は耳にしますよね~。

   美濃出身で13歳にして信長の小姓から始まり、

   信長、秀吉に使え、北の庄、長久手、九州、

   小田原等の数多くの天下統一戦に参加しました。

 

   有能と謳われた秀政でしたが、

   小田原参陣中の5月27日、病により

   38歳の若さで陣没しました。

  

   蒲生氏郷と共にとても残念`(*>﹏<*)′

 

海蔵寺入口
石垣山城へ向かう山道の途中です)

 

堀秀政の墓

海蔵寺堀秀政の墓 説明板

  海蔵寺堀秀政陣所)から小田原城を見てみます。

堀秀政陣所から小田原城を見る
(中央右寄りに小田原城天守が見えます。写真右手が相模湾

  上写真正面の丘陵は全部小田原城です。

  こう見ると小田原城も広大で威圧的に言えますね。

  普通なら落ちそうに見えない。

 

  布陣図を見ると、堀秀政の周辺(石垣山の麓)

  には池田輝政小早川隆景吉川広家らが

  布陣していた様です。

 

 ④富士山砦

  上の写真の北西側(左側)を見てみます。

小田原城北西側と細川忠興の陣所

  写真の右半分の丘陵は小田原城です。

  左手の少し丸くこんもりした丘陵が、

  富士山砦細川忠興の陣所です。

 

  細川忠興は当初韮山城包囲軍に居ましたよね。

  てことは、4月8日頃、他の諸将より

  遅れて小田原城包囲に参加したと思われますが、

 

  空いてる所が無いからこちらへどうぞ、

  って一番小田原城に近い前線じゃない?

富士山砦拡大(海蔵寺から見る)

 でも陣地としては結構良い具合の立地に見えますよね~。

 いつ決まったのかな? 

 さて、富士山砦に向かいます。

 

 上の写真で遠くから見ていた様に、砦の丘陵は

 住宅地化されてまして、車で細道を進みました。

 

 そしたら行き止まりになって、入口を見ると・・・、 

富士山砦の入口(中央下)

  どう考えても意図的に枝で道をふさいでます。

  ここも私有地と思うので、所有者が入るな

  と伝えてますね。

  ただ口コミ確認で事前に想定はしていました。

  (途中、道案内の看板は残ってます。)

 

 小田原城 三の丸外郭新堀土塁

  ①~④小田原城南西、箱根方面の

  豊臣軍包囲陣地です。

  これを小田原城側から見るには、

  三の丸外郭新堀土塁から良く見えます。

小田原城 三の丸外郭新堀土塁
(以後三の丸と表記します)

  ここから箱根口を中心に撮ると。

小田原城三の丸から箱根方面を見る

 

 上の写真とちょっとズレてるだけですが、

 石垣山をメインに撮ると。

小田原城三の丸から堀秀政陣所、石垣山方面を見る

  つまり三の丸は、現在でも箱根方面や

  相模湾が一望できる名所ですね。👍

 

 (★2)尾根筋、大堀切ルート

   上記の⑤三の丸からは、3つの大堀切を

   通りながら、⑥水之尾口櫓台まで歩いて

   探訪出来ます。

   (小田原城一番のお薦めルート)

 

   大堀切が3つも有るのは、以前ご紹介

   致しましたが、水之尾口の尾根筋が

   箱根から小田原城に向かって通っており、

   高さによる防御の優位性が保てない為、

   堀切で防御力を上げてるからです。

 

 再度標高図を掲載致します。

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

  標高図で⑥と⑦の間が尾根で繋がっている様に

  見えると思います。

  

  実際行ってみますと、⑥と⑦の間は、

  少しへこんではいましたが、

  ほぼ東西に尾根筋が通っており、

  その南北方向はだいぶ下っていました。

 

 ⑥水之尾口櫓台

  三の丸から大堀切を通って水之尾口櫓台

  へ向かいます。

3つの大堀切の一つ、東堀
(三の丸のすぐ目の前から進みます)

大堀切から北西へ進む一本道

水之尾口櫓台跡地
小田原城最高点に到着。もうかれこれ4回目位。)

  ここからの眺望が今も良いんです。😉

 

 ~水之尾口櫓台から、谷津丘陵と⑮徳川家康軍を望む~

赤丸の「現在地」⑥水之尾櫓台から、青矢印方向を撮ります

⑥水之尾口櫓台から東の方向を見る

⑥水の尾櫓台から東の方向を見る2

 

 ~⑩黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷、⑭織田信雄軍を望む~

⑥水之尾櫓台から北方向を望む。
私的には官兵衛と氏郷が居た場所が
分かったこの写真が一番なのです😓
(位置はおおよそです)

 

蒲生氏郷軍の布陣場所拡大
(中央下を横切っている道が、
小田原厚木道路

黒田官兵衛羽柴秀勝軍布陣場所拡大

  布陣図とマップ、現地と確認して、ここが

  黒田官兵衛達が布陣していた丘陵で間違い無い

  と分かりました。😊

  ボランテイアの方と一緒ならすぐ分かるのにね~。

 

 ⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣 

  小田原城西端の⑥水之尾口櫓台から

  西方向へ進んでみます。

⑥水之尾口櫓台跡地
(この先へ進みます。城外になります。)

薄暗い道を歩く
(どこかに堀切があったのかもね)

水之尾口櫓台方向へ振り返る

先に進む。ちょっと明るくなってきました。

農道から一般道路に出ると、水之尾のバス停がありました

  このバス停付近は⑥櫓台から西へ続く尾根筋です。

  と言うのもこの道の直交方向を見ると、

南の方向は相模湾ですが、直下が崖ですね。
遠い街がだいぶ下ですよね。

北の方向も大きく下ってます。

 こう見ると、先程の尾根筋が攻略ルート

 として見えてきました(⌒∇⌒)

 

 尾根筋を布陣図に載せてみます。

 だいぶざっくりですが、

 黄色線が小田原城周辺の尾根筋で高所です。

布陣図に黄色線で尾根を追記
(左下は尾根と言うよりか石垣山です)

 

  小田原城の西側半分はほぼ尾根筋を防御(総構え)に

  使ってますから、黄色線に沿っています。

 

  豊臣包囲側も高所に布陣したいので、

  尾根筋に沿っていますね~。

 

  上図の赤丸の現在地の右手には小田原城内の

  尾根が続いており、先程申しました3つの

  大堀切で守っています。

  左手は当然豊臣軍が布陣してますね~。

 

  ただ、ちょっと疑問点が2つ湧いてきました。

 

  上布陣図の現在地(水之尾口櫓台)から

  水之尾バス停を経由して尾根上を西へ進むと、

  青丸の宇喜多先衆軍と織田信包軍が布陣してます。

 

  このルートは小田原城へ高低差少なくアクセスできる

  重要なルートだと思うのですが、そこの担当が

  ⑦織田信包って、ピンとこないです。

 

  織田信包織田信秀の子です。

  信長の弟であり、かつ織田有楽斎信益の

  兄さんの位置です。

  本能寺の変後も生き延びて秀吉に従ったのに、

  この小田原の陣後、秀吉によりあっさり改易

  されてしまいます。

 

  つまりここを北条軍が抜けて奇襲等させない様に

  しっかり守れる人、又は功を立てさせたい人、

  では無さそうです。

  なので何で彼がここに布陣なのか(・・?です。

 

  そして、織田信包軍の手前(城側)に

  宇喜多先衆が居ますね。

  宇喜多秀家が守ってるなら分かります。

  ただこの布陣図の宇喜多秀家本隊は布陣図を

  見ると先衆の左上にあり、異なる尾根筋です。

  なので先衆との間には谷があって、

  すぐに援助できず離れすぎです。

 

  まあちょっとそこら辺り不明点が残っています。

  (ただ布陣図も色々ありますし)

 

  もう一つ言ってしまうと、山中城で戦死したはずの

  一柳直末の名前が布陣図に載っていますね~。

 

  さて、残りは下記⑧~⑮です。

  行ってない所もあり、写真も残り

  少しですが、次回に致します。

小田原城包囲戦布陣図(色別標高図)

 (次回)

  山内一豊堀尾吉晴陣所

  羽柴秀次陣所

  ⑩黒田官兵衛陣所

  ⑪蒲生氏郷陣所

  ⑫小田原城大堀切西堀から豊臣陣地を見る

  ⑬小田原城山の神堀切から豊臣陣地を見る

  ⑭織田信雄陣所

  ⑮徳川家康陣所

  

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

<小田原北条氏の防衛戦(その9)> 豊臣軍による箱根守備網の攻略と突破

こんにちは。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

豊臣軍による北条領への攻撃が開始されて、

まず1590年(天正18年)3月29日に、

箱根東海道筋の最重要防衛拠点である

山中城が落城しました。

 

4月1日前後には山中城の隣、

足柄街道筋の足柄城も攻略。

 

ここまで前回ご紹介致しましたが、

その他の小田原城西側の拠点について

簡単にまとめてみます。

 

7.小田原城以西のその他拠点の攻略 

 小田原城以西の城の配置図

 山中城、②足柄城、③河村城、④韮山城、⑤小田原城 

 (ほんとはもっとあります(__))

 

 

 1)河村城(配置図の③)

  神奈川県山北町小田原城がある足柄平野

  北端を守る位置に河村城が配置されています。

 

  実はほとんど知らなかったのですが、

  保存整備がしっかりなされてる様で、

  遺構も良く残っていました。

  早速行ってみます。

河村城駐車場に到着しました。
 (5,6台停められます)
登城入口にトイレもあります。

 

河村城 案内図
上記の入口は、案内図の現在地(赤字)の位置です。

  

河村城縄張図
(上図の拡大版、この図は下が北です。)

 上図の現在地から登って行きます。

 (河村城の北側から登ってます)

緩やかな坂を歩く

急な坂になった(~ ̄▽ ̄)~

最初の遺構、畝堀。だが畝は見えない。

山頂部に到着。(10分程登って到着)

本城郭

本城郭の北側にある社

 社の脇道に入って進むと、 

先程の畝堀を本城郭から見ています。
その先が縄張図の小郭ですかね。

本城郭の南、馬出郭の方へ行ってみます。

馬出郭1

馬出郭2

馬出郭の道を少し降ります。

西郭(左手が西郭ですね)

 もう少し進んでみます。

西郭から進んでいます

北郭に到着しました。(⌒∇⌒)

北郭と西郭間の堀切かな?

たぶん、自然地形の谷

本城郭に戻った

 馬出郭から北郭までの区間

 自然な遺構が残っていました。😊

 

 今度は本城郭の東側へ行きます。

 そうすると、本城郭と蔵郭の間に、

 整備された堀切と木橋がありました。

堀切と木橋

堀切と木橋

堀切と木橋の説明板

木橋を渡ります

蔵郭

蔵郭にあった縄張図
(これは分かり易いです)

蔵郭の案内板

近藤郭への橋

近藤郭と蔵郭間の堀切は
コンクリ-トの橋でした。
(橋とその脇道の両方共通れます)

堀切を見下ろす。(畝になってますね)

 

発掘調査の説明板

近藤郭

大庭郭からは南方の足柄平野全体が一望できます

 ただし小田原城は写真右手、

 箱根外輪山の裏で見えないです。

 

展望説明板

河村城から見る箱根の山並み

河村城遠望と富士山(雪がまだ無い頃)

 河村城の立地は足柄平野北の頂点を占める

 浅間山の丘陵に築かれ、規模も大きく

 見所いっぱいでした。

 

  ただ豊臣軍との戦いにおいては、東海道

  足柄街道を攻略されてしまっては、

  ここを守っても小田原城を支えられないので、

  すぐに攻略されてしまったのかなと思われます。

 

 2)韮山城(配置図の④)

  韮山城は北条家にとっては初代早雲の

  本拠地となり、最後を迎えた城。

  そして北条家最初の領国伊豆国の玄関口です。

  

  豊臣方は、織田信雄を主力として、蒲生氏郷

  福島正則細川忠興ら有名人達が40,000を

  超える軍勢で包囲しました。

 

  対する北条軍は4代氏政の弟北条氏邦を城将とし、

  3千数百人で守備。

  彼は一度京都に上洛しており、また北条家の交渉役

  として徳川家康達とも交渉をしていて、非戦論者

  だったとされています。

 

  だからでしょうか、山中城とは異なり、

  一気には攻めず、降伏勧告後、包囲戦となりました。

韮山城 本丸付近

だいぶ見難いですが中央右下の韮山城(現在地)
に対して、写真左の山に包囲軍の陣地があります

韮山城正面と城池。実はそれほど高くないのに、
激しく攻撃されていない。
周辺が池や沼地だったのかな?

  そして秀吉の命令で、韮山城には抑えの軍を残し、

  織田信雄達主力は小田原城包囲へ転進しました。

  その為3月29日から6月24日開城まで

  約3カ月持ちこたえています。

 

 3)下田城 (配置図無し)

  下田城は伊豆半島のほぼ南端に位置しており、

  北条水軍が対豊臣軍への本拠点としました。

  

  4月1日攻め寄せる豊臣水軍は、羽柴秀長

  長宗我部元親九鬼嘉隆等約20,000人。

 

  対する下田城守備は清水康英を城主として

  城兵たったの600人だったとも。( ;∀;)

 

  しかし粘って開城したのは4月23日でした。

  豊臣水軍の大部分は開戦後すぐに小田原城

  海上封鎖に転進してます。

 

  今回下田城、行って無いので写真が無しです。_(._.)_

  幕末当初の下田港は日本の玄関口の一つとして、

  ペリー、ハリス等の対応で活躍しました。

 

  以上、一部ですが小田原城西側を守っていた

  お城のご紹介でした。

 

8.豊臣軍の箱根越え

 1590年(天正18年)3月29日、

 山中城を落とし、勢いに乗った豊臣軍は、

 足柄城河村城等小田原以西をほぼ制圧し、

 4月1日頃より箱根を東進しました。

 

 4月5日には早くも秀吉が北条家の菩提寺

 である早雲寺を本陣として着陣した模様です。

 現在の箱根湯本駅のすぐ近くです。

 

 そして、その東にあたる笠懸山(かさがけやま)

 、現在の石垣山に城を築城し始めました。

 

 1)早雲寺

  初代北条早雲の息子氏綱により、1521年頃

  創建されたと伝えられています。

  北条家の菩提寺として栄えました。

 

早雲寺門前

早雲寺案内板

風情ある早雲寺境内

奥に北条幻庵作の枯山水庭園

早雲寺 庭園

北条氏5代の墓入口

北条氏5代の墓

北条氏5代の墓 説明板

  これを見て初めて知りましたが、

  1590年4月5日、秀吉が本陣として利用した

  早雲寺は、石垣山城が完成し、そこに本陣を移した後、

 (たぶん6月か?)焼却されてしまったとの事です。

 

  利用した後、お寺を燃やしちゃうんですね~。

  確か武田信玄駿府侵攻で、これまで同盟関係

  だったのに駿府の街や臨済寺等を燃やしてますね。

 

  戦国時代とはいえ、あまり抵抗してなさそうな

  お寺を燃やすのはちょっと悲しく感じます。

 

  後の江戸時代、小大名として残った北条2家の

  援助等により、復興された様で良かったです。😊

 

 2)底倉と太閤の湯

  ちょっと先の話ですが、伊達政宗が秀吉に投降した時、

  箱根の狭い場所に逗留されて恐れた。

  ・・・ような話を聞いた事ありませんか?

 

  その場所は底倉と言って、名前からしてらしいですが、

  ここには秀吉が(豊臣軍が)利用したと想定されている

  温泉が残っています。

 

  また、駅は早雲寺より少し箱根側の「宮ノ下」です。

  箱根駅伝で聞いたことあるかもしれません。

  駅伝の道や富士屋ホテルも近いですね~。

 

  箱根に残っている史跡なのでご紹介します。

太閤の湯 遊歩道入口
(宮ノ下、国道138号線から入る)

 

太閤石風呂通り 入口

遊歩道

太閤の湯 案内板

太閤の湯が見えてきました

太閤の湯 拡大1

太閤の湯 拡大2

  私有地であり下に降りれないそうですが、

  この辺りに豊臣軍が利用した温泉が

  あったかもとの話です。

 )箱根遠望

  北条氏側(小田原城)から箱根方面を見る。

小田原城三の丸土塁から箱根方面を見る。
山中城落城後数日で、小田原城のすぐ隣の
石垣山を守れなくなってしまった。

 

  上の写真を反対側(箱根側)から見ると。

  ざっくり豊臣軍が小田原方面へ進軍した際の

  箱根風景かな?

道の駅箱根峠」から二子山、芦ノ湖を見る
この先が箱根湯本、そして小田原城

  実は外国の方が沢山居たので、何かあるのかな?

  と寄り道したら絶景だったので撮っただけです_(._.)_

 

 以上でお終いです。

 次回はいよいよ小田原城の包囲です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_