こんにちわ。rekikakkunです。
前回は小田原城の包囲陣地探訪について、
長々とお付き合いありがとうございました。(__)
ここから再度、お城探訪になります。。。
下図のマップは昨年秋探訪しました小田原北条氏
関連のお城等を再表示しています。
今回は下図の④玉縄城をご紹介致します。
実は、④の玉縄城はマップの中では最後に探訪しました。
何も分かっていませんが、何か玉縄城を外してはいけない
と感じ、追加で探訪してきた次第です。
(と言うか山中城の次はここでしょうと気が付いた(@_@;))
さて、天正18年1590年4月6日頃、
箱根を突破し、小田原城を包囲した豊臣本軍ですが、
流石に直ぐには小田原城を攻略できないので、
浅野長政を主将とした別動隊を編成し、
約2万の軍勢で相模、武蔵、下総方面の
北条方支城攻略を進めました。
その攻略対象、最初の有力な城が、
玉縄城と言えそうです。
10.玉縄城
1)築城経緯
後北条氏初代北条早雲は、1479年今川範満を
駿府(静岡市)で襲撃し、自身の妹北側殿の子
氏親を今川家当主に据えました。
その功績により、早雲は興国寺城を与えられ、
その後の領土拡張の起点となりました。
(これも諸説色々ある様ですね~。)
その後のざっくりな経歴を列記しますと。
1493年 堀越公方を追放し、伊豆国を入手。
1495年 大森氏の小田原城を攻略。
1516年 三浦氏を滅亡させ、相模国を入手。
1519年 韮山城で死去。
このうち、小田原城攻略後、相模国平定の為、
その有力国人で三浦半島を中心に勢力があった
三浦氏攻略の為、三浦半島の入口の位置に
築いたのが玉縄城となります。
(現在の鎌倉市、大船駅の近くです。)
因みに三浦氏は、前々回の大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」で主力級の御家人だった
三浦氏の傍流との事です。
鎌倉時代の1247年、宝治合戦で北条家の計略
により三浦本家は滅亡しましたが、その後傍流の
三浦氏が頑張って、三浦半島を含めた相模の一部
を治めてた様です。
しかし玉縄城を拠点とした北条早雲により、
最後の実質的当主、三浦義同(道寸)は、
1516年、三浦半島の先端付近の新井城
に追い詰められ、抵抗むなしく壮絶な最後
を遂げて、三浦氏は滅亡しました。
この物語は別途取り上げたい位です。
・・・と個人的想いでだいぶ脱線してます(-_-;)
ただ、今まで小田原北条氏をタイトルに使ってたのに、
何故後北条氏と無意識に書いたのか今分かりました。
(玉縄城が鎌倉時代の北条氏、三浦氏と深く関係して
くるから、そことの区別が必要ですね。(~ ̄▽ ̄)~)
終わらないので、時代を戻します。(__)
2)後北条氏の玉縄衆
時は戦国時代、永正9年1512年、北条早雲は
玉縄城を築城し、次男の氏時を城主に据えました。
そして1516年三浦氏攻略後、氏時は玉縄衆
として本家を支えました。
有名なのが2代為昌の養子となった、3代綱成です。
彼は、日本3大夜戦とされる、1546年の川越合戦
において、川越城主として主役となり、その後も北条
随一とされる武略により北条家を支えました。
そして玉縄衆最後の当主が6代氏勝です。
3)小田原防衛戦
その北条氏勝は、1590年の小田原防衛戦時の
玉縄城主でした。
彼は開戦当初、幣ブログに出てきましたね。
そう、3月29日山中城の壮絶な攻防戦で援軍の
大将として入城し、落城前に退去しています。
その後、多分面目が無いので小田原城には
立ち寄らず、自身の居城玉縄城に戻り、
4月21日降伏開城しました。
後北条氏滅亡後、彼は徳川家康の家臣となり、
下総1万石の大名となったそうです。
玉縄城はその後も統治の拠点となっていましたが、
一国一城令により、1619年廃城となったそうです。
4)玉縄城探訪
下のグーグルマップの①が玉縄城です。
参考に、②鶴岡八幡宮(鎌倉)、③小田原城、④新井城です。
立地として三浦半島と②鎌倉を抑える位置なのが分かります。
さて玉縄城に向かいます。
車で行きましたが、大船駅と玉縄城址の間に位置する
龍宝寺に停めさせて頂きました。
~龍宝寺 と 歴史資料館~
そして龍宝寺境内には、玉縄民俗資料館や旧石井家住宅もあります。
資料館は玉縄地域の歴史的資料を展示している資料館です。
無人資料館で拝観料200円。早速入ります(^▽^)/
そしたら玉縄城に関する資料がわんさかありました。😀
~七曲坂~
~太鼓櫓址~
七曲坂を登り切った山頂部は、住宅地になっています。
すぐ近くに太鼓櫓址がありました。
玉縄城を残す為、市民団体が、市と協議の上、
市民緑地として保存整備区域指定をしたとの事です。
~本丸跡入口~
太鼓櫓址から住宅街を歩いて数分で、
本丸の入口正面に辿り着きます。
~池状遺跡(推定玉縄城主館跡)~
ちょうど本丸の南を下っていくと、
遺構案内板が見えました。
降りてきた道は陣屋坂と言うそうです。
玉縄城探訪の報告は以上となります。
市街地化が進む中、玉縄城の遺構の見所は
主に七曲坂と太鼓櫓跡に見られました。
また龍宝寺境内にある歴史資料館には、
玉縄城の資料が多数展示されていました。
実は、玉縄城から帰ってきた際、
再度歴史資料館に入りましたら、
10名程のボランテイアの方達が展示品の
更新等を行っていました。
その指導をしていた方が私に声をかけてくれ
お話したり、掲示物を少し支える等手伝ったり
しました。
後で確認してみると、「玉縄城址まちづくり会議」
の方達だったと分かりました。
資料館の展示、玉縄城遺構案内板、講演会等のイベント、
そして何より市街地のど真ん中にある玉縄城の遺構保存
に自ら計画整備し、そして市や企業、有識者と協議
して進めている事が分かりました。
最初に資料館に入った時、展示品の内容が、
どうも他の城とは違う気迫を感じてました。
(玉縄城、北条家を知ってもらい、守り、伝承したい
・・・と個人的によく伝わりました)
ちょっと一味違う玉縄城、
お近くに来たらお寄り下さいませ_(._.)_
次回からは、今までほぼ触れてこなかった、
前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら超有名人軍団、
北関東から南下してくる北方軍の展開に移ります。
ようやく❓φ(* ̄0 ̄)
・・・次回は唐沢山城辺りかな?
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_