こんにちわ、rekikakkunです。
現在、武田信玄ゆかり探訪記事を進めています。
ほぼ時系列で進んでおり、現在は小県侵攻、
上田原の戦い関連の史跡探訪となってます。
8.小県侵攻、上田原の戦い
⑳上田原古戦場
いよいよ古戦場を巡ります。
と言っても二箇所ですが・・・。
・石久磨神社(上田原古戦場石碑)
上田原古戦場で、まず最初にどこに行こうか
確認しましたら、古戦場の中心付近の石久磨神社
に古戦場の石碑があるとの事で行ってみます。



分かり難いですが、地図の上方向(北方向)が板垣が
戦死した激戦地があり、その先に千曲川があります。
村上軍は左上(北西)です。


読んでみると、とても分かり易いです。
天文17年2月14日、上田原の戦いがあったと書いてます。

武田軍は宿老筆頭の板垣信方を先陣に飯富兵部、
小山田信有、典厩信繁等主力が村上軍に突入し、
当初優勢であったが、敵陣深くまで突き破った
板垣信方が、首実検をしていた所に村上軍が反撃し、
板垣信方は討ち死にしたそうです。
・板垣神社
その板垣信方のお墓が神社になってる
そうなので行ってみます。




お賽銭を入れてお祈りしました。

さて、皆さんも疑問に思いますよね。
戦上手の武田軍宿老たる板垣が敵陣深くで
首実検してたってほんと?って。
説明板写真の上側に板垣神社があります。
その左側に下之条って地名があります。
ここが板垣討ち死の場所だそうです。
その左側直ぐ近くに清野川が流れています。
この左側(西側)は村上義清本軍の領域と思います。
やっぱり分かり難いのでグーグルマップで
位置を確認してみます。

写真の左上に須々貴城(村上義清本陣)があり、
黄色の四角エリアは村上軍の主力が配置されて
いたと思われます。
一方武田本陣は写真から外れた下の方向です。
(開戦時は前進していたかもですが)
武田軍の想定進路から村上本陣を見ると、
板垣が戦死した場所(首実検した場所)は、
敵の本陣目の前だった事が地図から伺えます。
また現地で板垣神社から村上義清の本陣、
天白山須々貴城方向を見てみます。

う~ん、下之条は板垣神社と須々貴城の間とはいえ、
平地での撮影だと、今一距離感が分からないですね。
ただし、この写真の所で激戦となり、城からは
下之条は完全に丸見えで、近い事は分かりますね。
ともあれ首実検中又は深追い中に村上軍の逆襲を受け、
板垣信方及び同じく宿老の甘利虎泰が戦死し、
武田軍は後退しました。
ここで冒頭の石久摩神社に戻ります。
ここの裏手には武田軍が退却したとされている、
信玄道なるものが残されています。




ここ一帯が上田原古戦場と言えそうですね。

山間に千曲川が流れてます。
本当に川が山を突き破った様に見えます。(多分ほんとですが)

さて、先陣崩壊後、後退した武田軍は村上軍の
追撃を受け、晴信自身も傷を負ったと伝えられ
ています。
武田軍を合戦で打ち破った村上義清の武名は
高まり、後世まで名を残りました。
というのも戦国屈指の名将で間違いない、
近隣の上杉謙信や北条氏康には、一度も
これほどの大敗はしてないですよね。
一方初陣とされる海ノ口城の戦いから約12年。
大きな敗戦を初めて喫した晴信は、20日程
戦場に留まった後、諏訪の上原城に退却しました。
甲府に戻った晴信は温泉で傷の治療を
したとされています。
それが武田家本拠の躑躅が﨑館から西へ
約2km弱の湯村温泉です。
湯村温泉は湯村山の麓にあり、実はこの山には
湯村山城という山城がある事を知りました。
次回そのご紹介を予定します。
ご高覧ありがとうございましたm(__)m。


























































































































































































