こんにちわ。rekikakkunです。
Windows11に対応する為、7年ぶりに
パソコンを買い換えました。
コスト削減の為、1年前のバージョンにしま
したが、さくさく動くようになりました。😊
そして・・・、
八王子城攻防戦を綴って、6回目となりました。😂
そろそろ終わらせないと、次のフェーズに
進めないので、今回で終わるつもりで、
書き始めます。😅
前回まで、下図の八王子城攻防戦図の、
①から⑧柵門まで話を進めました。

(⑨以降訂正してます)
今回は⑨高丸からとなりますが、
昨年の、3回目の訪問が主となりそうなので、
その日のスタートから進めてみます。

凄い良い天気でした👍

中央の山頂が、今回の八王子城本丸周辺です。


この日はまだ歩いていなかった旧道を進みます。
旧道は新道の北側を進むルートで、⑧柵門で
新道と合流します。
下図に新旧の道を荒く示します。

黄色線が旧道、黒線が新道

新道程は整備されてませんが、危険少なく歩けます。

この写真の左上は新道の尾根です。




~新道からは普通に歩いても石垣は見えないので、
予測して覗き込みましょう~
おおよそ金子曲輪と柵門の間に石垣が
残っていて、旧道側から良く見れました。
(紹介したのは一番大きな石垣ですが、
ほんとは何箇所かあります)


前回ご紹介しました搦め手方面になります

個人的には、なだらかな旧道の方が、
階段が多い新道より疲れない感じです。
⑨高丸
さて、⑧柵門で合流した大手軍と搦め手軍
(まあざっくり3万人位?)は、
城中心部に向けて登ります。
⑧柵門の先は、屈曲したくねくね山道になります。


右手に別の尾根が見えます


でもこの先危険って書いてあるので少しだけ。


(写真中央)

横矢を掛けられるかな?
スミマセン。
たまたま居た、後ろ姿の知らない方を
攻撃軍とみたてました。m(__)m
次に来た方にも豊臣軍になってもらいます。
ですが顔が見えるので隠します。


ここが高丸なのか?、記憶が定かでない
~八王子城ビューポイント~
⑧柵門から山頂へ進むと、途中に
ビューポイントがあります。


前の氏照の拠点、滝山城があるかも

(中央下にガイダンス施設)
ビューポイントからほどなく、八王子神社がある
曲輪?に到着します。


後世整地したのかな?
上の説明板地図の通り、八王子神社があるこの曲輪の
右側(北側)に⑩小宮曲輪、神社の裏手(西側)が
⑫本丸、左手(南側)が⑪松木曲輪に通じています。
⑩小宮曲輪
三の丸が⑩小宮曲輪とされており、
山を駆け上がった豊臣軍は、まず三の丸相当の
⑩小宮曲輪に攻撃を仕掛けました。
下の攻防戦図で見ても⑩小宮曲輪に攻撃が集中される。

⑩小宮曲輪の主将は狩野一庵。
彼が伊豆の狩野氏の一族であれば、
先祖が繫がってるかもですね。
⑩小宮曲輪では激戦となり、優勢な攻城側も
多数の死傷者が出た様です。


しかし、攻め口や土塁等しっかり見ていなかった😥

説明板に上杉景勝の軍勢の奇襲により落とされたと
書いてあります。
これは上の攻防戦図の左上部、直江兼続と藤田信吉
の迂回奇襲部隊と思われます。
藤田信吉は北条、武田、上杉、徳川に仕え、
地縁が多い事等により、八王子城に詳しい
平井無辺を調略し、棚沢(八王子城本丸の西側、
攻防戦図参照)から本丸中枢部に直攻しました。
この奇襲により、統制を失った⑩小宮曲輪は落ち、
主将狩野一庵は自害したとの事です。
ただし、この部隊の奇襲対象が小宮曲輪なのか、
本丸なのかは、議論の余地があると伺いました。
そして、一緒に奇襲を成功させた直江兼続と
藤田信吉は、10年後、関ケ原の戦い前の
上杉家の立ち位置で争い、家康への非戦を
主張していた藤田信吉等が上杉家を出奔しました。
(しかし歴史的には人気のある直江兼続の方が
失策だったという無常が・・・😖)
また、藤田信吉はその昔北条家に属した沼田城代
でしたが、1580年、理由があって武田方に転じ、
真田昌幸に引き渡しています。
そもそもこれがこの攻防戦に繫がってる
気もしますよね。(それまくってます(__))
⑪松木曲輪
⑩小宮曲輪が落ち、攻防の激戦は、⑪松木曲輪
に移りました。
(⑪松木曲輪への尾根及び、④御主殿から⑥山王台を
超えると、⑩小宮曲輪を介さずに⑪松木曲輪に
行けそうなので、時系列的には同時に近いかも)

⑪松木曲輪の主将は、中山家範。
彼は槍、馬の名手であり、最後の1兵に
降伏勧告を退け、妻と共に自害したとの事です。
(たぶん、敵の目の前でかも)
その壮絶な話を利家から聞いた徳川家康は、
息子達を引立て、息子達も後世大坂の陣等で
名を残したとの事です。
嫡男照守は将軍秀忠、家光に仕え大身旗本、
次男の信吉は水戸藩家老になりました。


水戸藩家老中山信治が建てたと書いてます。
信治は信吉の子ですので、戦死した照守
(勘解由)の孫になりますね。

こちらも中山信治等が寄贈したと紹介されています。

(案内図の右側にあります)
最初に八王子城を訪問した時、上の案内図を元に
宋閑寺と供養塔に行きましたが、当初氏照以外は
知らないので、ふ~んって感じでした。
しかしブログを作っていくうちに、
曲輪の守将達は誰?→中山家範→壮絶な討ち死
→息子たちが徳川家康に召し抱えられる
→孫の中山信治が供養塔、梵鐘に名を刻み、
自分が直接見ていた。
と歴史の深さ、繋がりに今更ながら
感じることが出来ました。😊
ところが!
書きながら調べている内に、間違ってる事に
気付きました(*_*;
中山家範は最初の攻防戦図では、高丸を守備していて、
途中で中の曲輪に移動し、戦死したと思っていました。
中の曲輪は八王子神社の所と思ってましたが、
どうも松木曲輪の別名称の様です。
(中の曲輪と中の丸が、色々な縄張図や記事で
混在してて、ちょっと混乱してた様です。)
あとそもそも高丸から、敵が攻撃している
小宮曲輪を飛び越えて中の曲輪に移動
出来るのかな?とも思ってました。

基本、現地説明版を正に考えますので、
松木曲輪=二の丸=中の丸=中山家範が
松木曲輪を守備 と訂正しました。
それが八王子城攻防戦図改定1 です。
ここで私の1記事目安の3,000文字に
なりましたので、終わります。
次回、本丸及び詰城方面の探訪で、
ほんとに締めになるでしょう(´;ω;`)
ご高覧ありがとうございました。m(__)m