こんにちわ、rekikakkunです。
前回の続き、丹波八木城を探訪します。
4)丹波八木城 探訪
下図の黒矢印付近から再START致します。
理由は下記、下図です。
上記により、尾根上に到着した場所を
馬屋跡として話を進めます。
この馬屋跡を左手に進みます。
~本丸跡~
~金の間~
本丸の南西側に金の間がありました。
~光秀勝どき岩~
本丸跡の北東側(八木駅方向)に降りる道があり、
その先に光秀勝どき岩と、のぼりがありました。
~二の丸方向に進む~
二の丸から分岐点に戻ってきました。
~西回りコース~
分岐点から、西回りコース(妙味宮跡)に行きました。
ここで探訪は終了し、来た道を戻って降りました。
多分城跡は半分位しか見てないです。
もう少ししっかり下調べしてから行けばよかった_| ̄|○
それでも、結構大きな山城だったのは分かりますねー。
~春日神社~
麓にある春日神社に参拝して、福知山に戻ります。
5)内藤氏と内藤如安の足跡(概要)
ここで丹波八木城の城主、領主である内藤氏と
敬虔なキリシタンで内藤氏の中でも著名な
内藤如安について少し調べてみます。
(調べる前は名前だけなんとなく知ってる感じでした)
①内藤国貞
内藤氏は南北朝時代に足利氏に味方して、
その重臣細川家の家臣となり、八木城を拠点
戦国時代の前半、内藤国貞が当主で八木城を
拠点に活躍していましたが、1538年
細川晴元方により八木城を追われました。
と共に丹波国の平定戦の最中に戦死しました。
②松永長頼(内藤宗勝)
内藤国貞の死後は、内藤国貞の娘を娶って
いた、松永久秀の弟、松永長頼が実質の当主
となり、内藤宗勝とも名乗ってたそうです。
彼は1559年、波多野氏の八上城、
平定したそうです。
光秀の平定前ですね。
なかなか凄いと思います!
ところが、その後1565年に赤井直正
に反撃され、討たれてしまいました。
光秀が苦心した波多野、赤井氏を一時攻略
した松永長頼は只者じゃないし、その長頼を
討ち取った黒井城主赤井直正は、光秀をも
敗走させているし、当時は強い武将が
沢山居たんですね~(*_*;)
③内藤如安
内藤如安はその松永長頼の息子です。
つまり松永久秀は如安の叔父さん
という事なんですね~。
上洛すると、如安は織田家に味方し、
丹波国内で所領を与えられました。
を丹波に招き、八木城に居たそうです。
丹波攻略の際、内藤氏(八木城)は
何らかの理由で攻略対象になっていたとの事です。
この時如安が八木城に居たのか?
何をしていたのか? は不明だそうです。
そもそも家督や城主とかも不明な点が多い様です。
(なので私もなかなかはっきり書けないです。)
と言うのも、その後の権力側(秀吉、家康、幕府)
がキリシタン禁教を強烈に進めている為、資料、
証拠が消されている事もある様なんです。
歴史的に不明点が多いので、なかなか史跡等に
ならないのかな~?
1590年頃は小西行長の家臣となっており、
朝鮮の役で彼は、明との和睦交渉で中国皇帝
に謁見してるそうです。
・・・となかなか凄い話もありますね~。
1600年関ケ原の戦いで小西家が滅亡すると、
その後、高山右近も身を寄せていた加賀前田家の
客将となりました。
追放されました。(現在のフィリピンの首都です)
マニラでは手厚い歓迎を受けましたが、
如安は1626年に死去したそうです。
救いを求め、救いを与えようとした正直な人々。
そしてバテレンを追放しなければ日本が滅亡
する現実を理解した時の権力者。
戦国時代は世界史も大きく絡んでくるので
幅が広いですし、この時代を懸命に生きた
人達の息遣いが感じられました。
因みに小西行長の父は、私が小学生の時、
演じられた小西隆佐で、今でも印象に残っています。
ルソン島でもロケをしていて一番好きな大河です。
彼は堺の有力商人でしたが、キリスト教布教の中心的
な人物で、秀吉の時代には一時堺奉行も務めました。
の出身だそうです。
如安が小西行長に身を寄せたのも色々な
縁がありそうですし、少し本流とは離れている
歴史も相当深いですよね~。
知らない事だらけです。😅
以上で八木城を終わります。
次回はいよいよ強すぎ赤井直正の
居城黒井城。😃
(文章が続いたので、次回の写真を少し掲載)
城跡と眺望は歴史ファンでなくても必見です。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_