歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

明智光秀 丹波の足跡を訪ねて(3) 丹波三大山城 八木城(2/2) 

こんにちわ、rekikakkunです。

 

前回の続き、丹波八木城を探訪します。

 

(2)丹波八木城 探訪(丹波国三大城郭)

  4)丹波八木城  探訪

   下図の黒矢印付近から再START致します。

JR八木駅から丹波八木城へ至る地図
山に縄張りを貼り付けている地図って分かり易いですね~👍

 

七合目

山道を進む

かえる岩
道を遮ってますが・・・
そういうものでしょうか?

八合目に来ました。

九合目

下を見ると、急斜面に石がゴロゴロありますね~。

見上げると、あ、石垣が残っています👍

貴重な石垣拡大

尾根に到着しました

二の丸跡と書いてあります。ほんとかな~?
ここが二の丸だとちょっと分からない感じです。😥

 理由は下記、下図です。

現地縄張図で見ますと、赤四角の登り口から赤矢印方向に登り、
赤丸の尾根上に到着しました。ここは馬屋跡となってます。
二の丸は、図で見ると赤丸からだいぶ右側にある黒丸の所で、
明らかに離れています。

 

 上記により、尾根上に到着した場所を

 馬屋跡として話を進めます。

 この馬屋跡を左手に進みます。

馬屋跡から左手に進む

 

 ~本丸跡~

馬屋跡から直ぐに本丸跡に到着しました

本丸跡の看板

八木城 縄張図

八木城本丸跡からの眺望1

八木城本丸跡からの眺望2

八木城本丸跡からの眺望3


 ~金の間~

  本丸の南西側に金の間がありました。

金の間跡1

金の間跡2

金の間跡3

金の間から内藤土佐の曲輪方面

 

 ~光秀勝どき岩~

  本丸跡の北東側(八木駅方向)に降りる道があり、

  その先に光秀勝どき岩と、のぼりがありました。

光秀勝どき岩1 本丸から少し降りる

光秀勝どき岩2 階段を降ります

光秀勝どき岩3
本丸から2分弱で到着しました。

光秀勝どき岩4 脇に設置されたのぼり(目印)
こののぼりが八木駅からずっと見えます。(拡大すれば)
そして写真中央少し右が八木駅です。
見事な眺望ですね~👍

 

 ~二の丸方向に進む~

馬屋跡から西へ進むと、分岐点になりました。
城跡の案内が無くて、適当に左方向に進みました。

縄張り図で見るとここは馬屋跡二の丸間の曲輪
(カラーの図ですと小姓屋敷とかいてあります)

小姓屋敷の曲輪 土塁

小姓屋敷から二の丸へ進む間にある堀切
小姓屋敷の曲輪端から見下ろしてます)

堀切(堀切内に降りて横から撮影)

二の丸側に上がって堀切を見下ろす

 

二の丸

二の丸土塁

二の丸 土塁跡

二の丸 土塁と尾根斜面

 二の丸から分岐点に戻ってきました。

 

 ~西回りコース~

  分岐点から、西回りコース(妙味宮跡)に行きました。

妙見宮へ進む道1

妙見宮へ進む道2

妙見宮へ進む道3

 ここで探訪は終了し、来た道を戻って降りました。

 多分城跡は半分位しか見てないです。

 

 もう少ししっかり下調べしてから行けばよかった_| ̄|○

 それでも、結構大きな山城だったのは分かりますねー。

 

 春日神社~

 麓にある春日神に参拝して、福知山に戻ります。

春日神

春日神社本殿

春日神社と八木城

 

 5)内藤氏と内藤如安の足跡(概要)

  ここで丹波八木城の城主、領主である内藤氏

  敬虔なキリシタンで内藤氏の中でも著名な

  内藤如安について少し調べてみます。

  (調べる前は名前だけなんとなく知ってる感じでした)

 

  ①内藤国貞

   内藤氏南北朝時代足利氏に味方して、

   その重臣細川家の家臣となり、八木城を拠点

   として、丹波国守護代を務めてきました。

 

   戦国時代の前半、内藤国貞が当主で八木城

   拠点に活躍していましたが、1538年

   細川晴元方により八木城を追われました。

 

   その後細川晴元から離反した三好長慶に味方し、

   1548年頃丹波守護代に復帰しましたが、

   1553年三好長慶重臣である松永久秀

   と共に丹波国の平定戦の最中に戦死しました。

 

  ②松永長頼(内藤宗勝)

   内藤国貞の死後は、内藤国貞の娘を娶って

   いた、松永久秀の弟、松永長頼が実質の当主

   となり、内藤宗勝とも名乗ってたそうです。

 

   彼は1559年、波多野氏八上城

   赤井直正黒井城を攻略し、丹波国

   平定したそうです。

   光秀の平定前ですね。

   なかなか凄いと思います!

 

   ところが、その後1565年に赤井直正

   に反撃され、討たれてしまいました。

 

   光秀が苦心した波多野赤井氏を一時攻略

   した松永長頼は只者じゃないし、その長頼

   討ち取った黒井城主赤井直正は、光秀をも

   敗走させているし、当時は強い武将が

   沢山居たんですね~(*_*;)

 

  内藤如安

   内藤如安はその松永長頼の息子です。

   つまり松永久秀如安の叔父さん

   という事なんですね~。

  

   1568年、織田信長足利義昭を奉じて

   上洛すると、如安織田家に味方し、

   丹波国内で所領を与えられました。

   1574年(天正2年)には、ルイスフロイス

   を丹波に招き、八木城に居たそうです。

 

   1575年(天正3年)の明智光秀による

   丹波攻略の際、内藤氏(八木城)

   何らかの理由で攻略対象になっていたとの事です。

   この時如安八木城に居たのか?

   何をしていたのか? は不明だそうです。

   

   そもそも家督や城主とかも不明な点が多い様です。

   (なので私もなかなかはっきり書けないです。)

   

   と言うのも、その後の権力側(秀吉、家康、幕府)

   がキリシタン禁教を強烈に進めている為、資料、

   証拠が消されている事もある様なんです。

 

   歴史的に不明点が多いので、なかなか史跡等に

   ならないのかな~?

 

   1590年頃は小西行長の家臣となっており、

   朝鮮の役で彼は、明との和睦交渉で中国皇帝

   に謁見してるそうです。

   ・・・となかなか凄い話もありますね~。

   

   1600年関ケ原の戦い小西家が滅亡すると、

   その後、高山右近身を寄せていた加賀前田家

   客将となりました。

 

   1613年、江戸幕府伴天連追放令により、

   高山右近や、家族と共にルソン島マニラ

   追放されました。(現在のフィリピンの首都です)

 

   マニラでは手厚い歓迎を受けましたが、

   如安は1626年に死去したそうです。

 

   バテレンを信じてキリシタンとなり、

   救いを求め、救いを与えようとした正直な人々。

   そしてバテレンを追放しなければ日本が滅亡

   する現実を理解した時の権力者。

   戦国時代は世界史も大きく絡んでくるので

   幅が広いですし、この時代を懸命に生きた

   人達の息遣いが感じられました。

 

   因みに小西行長の父は、私が小学生の時、

   大河ドラマ「黄金の日々」宇野重吉さんが

   演じられた小西隆佐で、今でも印象に残っています。

   ルソン島でもロケをしていて一番好きな大河です。

 

   彼はの有力商人でしたが、キリスト教布教の中心的

   な人物で、秀吉の時代には一時堺奉行も務めました。

 

   その隆佐の父西行は、実は丹波内藤氏の一族

   の出身だそうです。

   如安小西行長に身を寄せたのも色々な

   縁がありそうですし、少し本流とは離れている

   歴史も相当深いですよね~。

   知らない事だらけです。😅

 

   以上で八木城を終わります。

 

   次回はいよいよ強すぎ赤井直正

   居城黒井城。😃

   (文章が続いたので、次回の写真を少し掲載)

黒井城遠望
(山頂の平らな所が本丸跡。凄くはっきり分かりますよねー)

黒井城本丸からの凄い眺望

 

   城跡と眺望は歴史ファンでなくても必見です。

 

   ご高覧ありがとうございました。_(._.)_