歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その7)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(2)

こんにちは。rekikakkunです。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

前回は山中城を探訪して、岱崎出丸、三の丸、

西櫓をご紹介致しました。

今回もその続きになります。

 

5.山中城攻防戦

 1)山中城 縄張図

 2)攻城戦の概要

 3)山中城アクセス

 4)山中城探訪

  ①岱崎出丸

  ②三の丸

  ③西櫓

  ④畝三昧

  ⑤西の丸 ⇐ 今回はここからです。

 

  山中城の西側は、西櫓を越えると西の丸になります。

  西櫓は西の丸虎口の馬出しの役割として説明されてます。

西櫓と西の丸 角馬出の説明板

 

  ただし西櫓は捨曲輪みたいな扱いで、木橋も無く、

  西の丸への直接射撃を遠くする為のスペース

  として使ったのかも、という記事も見ました。

  西櫓へ攻撃する敵に対し、西の丸はサポート

  し難そうなので、なるほどな~と思います。

 

 (西櫓、西の丸は下の縄張図の右上です)

山中城 縄張図

 

  

西の丸全景
(奥に西の丸西端の見張台があります)

西の丸見張台

西の丸見張台の中

西の丸見張台の説明板

西の丸見張り台から、西櫓と障子堀を望む
西の丸側には西櫓の土塁が無いですね~。
ここからの眺めも四方圧巻です👍。

西の丸見張台から、西の丸本体を介して本丸方向を望む

西の丸見張台から本丸方向拡大
(手前から、西の丸⇒元西櫓⇒
二の丸の桝形虎口⇒二の丸見張台 の感じ)

  

西の丸から本丸方向へ向かう道

西の丸と元西櫓間の谷

 

 ⑥元西櫓

  西の丸と二の丸の間は、堀を介した小さな曲輪で

  区切られており、昔は無名曲輪と呼称してたそうですが、

  現在は調査の結果、元西櫓の名称となってるそうです。

 

  秀吉対策前はここが一番西の曲輪だったとか?

  (なんでかは❓でした)

  その割になかなか特徴的な曲輪なんですよね~。

西の丸から元西櫓拡大(手前の曲輪。奥は二の丸)

 

西の丸と元西櫓の分岐

西の丸と元西櫓間の堀と各曲輪の切岸
(左側西の丸、右側が元西櫓)

元西櫓へ登る道

元西櫓虎口から西の丸を望む

元西櫓 説明板

元西櫓

  実は・・・元西櫓って自分何度か行ってますが、

  何故か説明板が全てピンボケしてて、

  曲輪内でも写真を撮ったつもりなのに

  何故か無いんです。

 (唯一ちょっと今一な上の写真だけ)

 

  周辺は撮れてるんですけど・・・(・・?

  なにかここで激戦、亡霊的な⁈ (*_*;

 

  なんて、山中城は全部激戦場所ですよねー。

 

  実は西の丸方面の北条方はどなたが守っていたのか、

  ちょっと調べましたが分からなかったです。

  攻撃側は、徳川家康軍が3万程の大軍で攻めてきました。

 

  現在は見えませんが、戦闘時西の丸から

  岱崎出丸が敵軍に占領されてしまった

  のは見えたと思われます。

  (もしかしたら時系列が逆かもしれません)

 

  士気が下がり、戦力差もあって、自慢の畝堀

  3方向から西の丸は攻撃されたと思われます。

  支えきれずに二の丸へ退却していきました。

 

 ⑦二の丸

  二の丸は山中城の指揮所とも言うべきで、

  最も重要な曲輪だったのでは、と思います。

 

  と言うのもここからは、西の丸方面、三の丸方面、

  本丸へと繋がっており、状況に応じて指示や

  援軍を出せます。

  下の縄張図を見ても、城のほぼ中心ですよね。

山中城 縄張図

元西櫓から二の丸への木橋と桝形虎口

二の丸桝形虎口

二の丸桝形虎口 説明板

二の丸

 二の丸には西側と東側にそれぞれ櫓台があります。

 それぞれ見所がありますので登ってみて下さい。

二の丸の西側櫓台から二の丸内を見る

二の丸西側櫓台から元西櫓、西の丸を望む1
(一番奥に西の丸の見張台が見えます)

二の丸西側櫓台から元西櫓、西の丸を望む2
(真ん中が元西櫓、その両側(南北)の堀も見える。
凄いアングル😊)

二の丸の東側の櫓台

二の丸東側の櫓台から岱崎出丸方面を望む

上写真の拡大、岱崎出丸が見える(写真中央付近)

二の丸から三の丸へ通じる道1

二の丸から三の丸へ通じる道2

二の丸から三の丸へ通じる道3
(傾斜+曲がり+土塁隠し)

二の丸から三の丸へ通じる道を下って、正面が三の丸

 さて山中城の喉元とも言える二の丸ですが、

 ここの守将は玉縄城主であり、一門衆でもある

 北条氏勝と言われています。

 

 彼は川越夜戦等で勇名をはせた、

 北条綱成の孫です。

 

 その彼が山中城に援軍として派遣されたという事は、

 山中城防衛に北条氏は本気だったと言えます。

 

 しかしあまりの大軍、そして上方のプロ兵士相手に

 押された北条軍は、岱崎出丸、三の丸、西の丸を

 落とされ、残るは二の丸と本丸のみとなり、

 落城までの時間もわずかとなりました。

 

 二の丸で指揮していた北条氏勝は、

 城主の松田康長や弟達の説得により、

 城を脱出し、玉縄城へ逃げ落ちました。 

 

 ⑧本丸

二の丸から本丸へ通じる木橋

二の丸と本丸間の堀

本丸跡
(奥が二の丸。徳川勢が迫って来る)

本丸跡2
(三の丸側から見る。豊臣兵が攻め上がっていった)

 二の丸、三の丸両面から豊臣軍は本丸をめがけて

 突進しました。

 城主松田康長は、本丸天守櫓で自刃。

 北の丸に追い詰められた北条兵も玉砕しました。

 

本丸跡3 正面右の高台が天守櫓跡
そこで城主松田康長が自刃したとの事です

本丸の天守櫓跡 説明板

 

 ⑨北の丸

本丸から北の丸へ通じる木橋

本丸と北の丸間の空堀

北の丸
(この奥に曲輪はもう無い。ここで追い詰められて
最後に戦死した兵士が沢山いたと思われます)

 

北の丸堀 説明板

説明板の空堀(右側は本丸)

 岱崎出丸、大手口攻撃を担当した中村一氏の家臣、

 槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛は、この山中城攻めでの

 自身の武功をまとめた有名な覚書を残しています。

 その内容は、

 ・(大手門付近では)敵の射撃が厳しくて

   身動きが出来なかった。

 ・射撃が弱まったので(岱崎出丸の)堀を

  よじ登って一番乗りを挙げた。

 ・そのまま(三の丸方向へ進み)敵の退却を

  追いかけて(二の丸)に侵入した。

 ・(二の丸では)本丸がどこか分からなくなった。

  

 等、戦場の生の声を表現していることで有名な様です。

 

 勘兵衛覚書によると、本丸には攻撃方が多数押し寄せた為、

 本丸の塀が倒れて敵味方が団子の様に堀に重なり落ちたと

 書かれてるとの事で、上の写真はまさにその堀

 かもしれません。

 

 本当は彼の覚書のストーリーに沿って進めたかった

 のですが、曲輪の位置等が今一不明瞭だった等、

 理解不足であきらめました。😂

北の丸から本丸の裏手(東側)へ降りる道がありました
ここを降りると、旧国一から堀跡の入口になります。

 

 山中城北側外周の空堀

  北の丸と本丸間の空堀は、説明板の通り、

  本丸をぐるっと囲んでいますので、

  上の写真の土塁階段を降りて、

  下から空堀を再度登りたいと思います。

<縄張図の★1>
本丸の東側の空堀入口(左が本丸)

 上の写真の堀底を登ると、先程の本丸北の丸間木橋

 二の丸まで堀が通じているので、進みましたが、

 丁度上の方で業者さんが草刈りをしてたので

 行けませんでした。(写真に小さく映ってる)

 

 ちょっと残念だな~と周辺を見ると、

 先程の空堀の外側にも空堀があったので、

 そこを進んでみました。

<縄張図の★2>
北の丸の外側に延びる、山中城の一番外周の空堀の入口
(上の写真の右側の土塁の更に右側。
そしてこの写真の右は旧国一。もはや意味不明か(*_*;)

 分かり難いので縄張図で示します。

山中城空堀散策
(赤★1の堀は草刈り作業で行けなかったのですが、
黄★2の堀を見つけたので、そこを進みました)

 

★2の黄色線を北方向に進んでます。
だいぶ大きな堀ですね~

小田原城の堀切みたいな空堀
この内側に本丸の空堀があるので、
本丸は2重の堀に囲われているのを知りました。

ここで西方向に曲がってます

曲がった方向を見る

 この時は、ここがどこだか分からなかったので、

 堀底から外側の土塁に登って確認してみます。

 

 上から見ると北の丸の北側の空堀でした。

 たぶん山中城の最外周の堀の様です。

 (縄張図に載ってないので?ですが・・・)

堀の外側を登って見てみると、
正面は見覚えのある北の丸です。

 

北の丸の北側の土塁道をそのまま進む
(結構整備されていますが、案内板等は無いです)

北の丸の外側の堀1
(普通の山城風の光景。なんか山中城らしくない
感じですが、妙に親近感があって嬉しかったです)

北の丸の外側の堀2

北の丸の北側の堀を西側から見る
(右上が北の丸。左上から降りてきた。)

上の写真の反対側を見る。
たぶん二の丸の北側の堀の、もうひとつ外側の空堀

階段を登って本丸の北側の道(土塁)
に出ましたが・・・ん?ロープがあります。
(いつからか正規の道では無くなってた様です)

 この最外周の空堀は、小田原城の総構えに似ていますね~。

 秀吉との戦い直前に追加したものかもしれません。

 ただそう考えると、相当の規模ですね~。

 

 ⑪宗閑寺

  旧国一沿い、三の丸跡地には宗閑寺があります。

  (同じ敷地に山中公民館です)

  戦国時代でも有数の激戦だった山中城攻防戦で、

  戦死者を弔ってますので、是非寄ってみて下さい。

右手が宗閑寺入口

 宗閑寺は、岱崎出丸の守将で壮絶な戦死をとげた

 間宮康俊の娘お久(普照院)が、江戸時代に入り

 父の供養の為に尽力し、建立しました。

 なんと彼女は徳川家康の侍女、側室となり、

 家康の四女松姫の母だったとの話もあります。

 へえ~そうだったのか~、真面目に確認すると

 新たな歴史が見られますねー😓

宗閑寺 説明板

山中城攻防戦での武将達のお墓
(お墓を矢印してすいません。
知ってもらえたらと思ってますm(__)m)

山中城の戦い 武将のお墓1
(右が城主松田康長、左の3つが間宮康俊とその一族のお墓)

山中城の戦い 武将のお墓2
(豊臣方の大名で戦死した一柳直末のお墓)

 

 山中城攻防関連で攻撃側の一柳直末のお墓が

 一番立派なのに少し違和感があったのですが、

 調べて見ますと、長い年月によりお寺が荒廃し、

 明治以降に一柳家が整備し直したとのことです。

 

 武将たちの略歴も少し調べて見ると・・・。

 ~城主 松田康長~

   彼は北条氏の筆頭家老松田憲秀の親戚です。

   松田憲秀は戦いの後、内通の嫌疑等で

   自害しています。

   そして憲秀の長男は、以前私のブログで

   ご紹介しました泉頭城で、柿田川の向こう岸

   にある戸倉城主だった笠原政晴なのですが、

   実は彼も内通の嫌疑で籠城中に処刑されています。

   

   ちなみにその笠原政晴は、「ステキな金縛り」で

   西田敏行さんが演じた、主人公の更科六兵衛の

   モデルとなった人と言われています。

   

 ~岱崎出丸守将 間宮康俊~

   援軍として山中城に入り、岱崎出丸の守将で

   壮絶な戦死をしました。

   戦死を覚悟した彼は70を越える高齢の為、

   白髪に墨汁を塗って戦った気迫の方とのことです。

   そして樺太を島と実地確認し、北海道との間の

   間宮海峡の名前でも有名な間宮林蔵は・・・、

   実は康俊の子孫との事です。

   びっくり(@_@;)。

   調べると色々と繋がってますね~😍

 

 ~二の丸守将 北条氏勝~

   彼は玉縄城主なのでその時に調べてみます。

   結構大変な立場だった気がします。

 

 箕輪城代 多米長定~

   宗閑寺にお墓があるとの事で少し確認しましたら

   初代北条早雲からの古参家臣多目氏の一族

   とのことで、信長の野望にも出てきますし、

   みんなそれぞれ歴史がありそうですよね~。

 

 さて、今回のお話、もう4,000字を

 越えましたのでお開きにしたいと思います。

 なんか話の纏まりが無かったですね_(._.)_  

 

 しかし開戦最初の山中城で(その7)って、

 一体いつまで続けるつもりなんだ⁈

 という声が(@_@;)

 ・・・今私もそう思ってます

 心の中で。

 

 次回は、箱根守備網の位置付けとして

 足柄城と河村城の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m