こんにちわ。rekikakkunです。
現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。
やっと小田原城包囲戦の布陣巡り
まで辿り着きました。🤣
(まだそこかい(@_@;))
今回のシリーズは、これ(布陣巡り)
が目的だったと言っても過言ではありません。👍
小か中学生の頃、家族と猫も一緒に小田原城に
連れて行ってもらい、布陣図を見て感動
したのを覚えています。
今回は、何度か小田原に行って、布陣図
とグーグルマップを見比べて、ここかな?
と探訪してきました。
間違いもありそうですが、
おおよそで見て下さいね。_(._.)_
9.小田原城の包囲
1)小田原城包囲までの流れ
1590年(天正18年)、
3月29日 山中城落城及び周辺の城攻略。
4月5日 豊臣秀吉が早雲寺を本陣とする。
一部を残して小田原城包囲に参加。
山中城を攻略してからほぼ1週間足らずで、
約18万もの大軍が小田原城を包囲しました。
2)小田原城包囲戦 布陣図
現地の公式案内板であると共に、
背景に現在の道が薄く載っているので、
この布陣図で布陣位置を推定してみます。
上記小田原城包囲戦 布陣図を基に、下のグーグルマップに
豊臣方の陣地と小田原城の遺構を表示しました。
(ただし、陣地跡が無い所は近くの施設で位置表示)
グーグルマップは番号クリックしますと案内が出てきます。
作ってみましたが、なんだか分からないですね~😓
色別標高図に小田原城輪郭に載せると、
少し見えてきました。😃
(上と下のマップの〇番号は合わせています)
※すいません、水軍は無しです。_(._.)_
3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類
こうして布陣図や地形を見て自分なりに
整理しますと、小田原城包囲戦の布陣を
探訪するのに、下記の4つに分類されました。
(★1)まず、①~⑤、小田原城南西方向、
箱根、東海道方面です。
包囲軍は秀吉の本陣とその手前の
石垣山周辺の陣地となります。
ここは小田原城三の丸から良く見えます。
(★2)⑥~⑨は、小田原城唯一の尾根筋侵入ルート
に対し、城側は3つの大堀切及び水之尾口櫓台
が構えられています。
その尾根筋を囲むように豊臣軍が布陣してます。
そして標高図を見ると⑥水之尾櫓台は、小田原城
で最も高く、ほぼ全方位が望めたかもしれません。
(★3)⑩~⑬は小田原城北西面の谷津丘陵と
その正面の丘陵に、北条軍と豊臣軍が
対峙しており、相手の丘陵を見渡せるので、
当時の雰囲気が最も感じられます。
秀吉に次ぐ大名No.2の徳川家康軍と、
No.3織田信雄軍が大軍で展開してます。
(ここはもう市街地化してて全く分からなかったです。)
4)小田原城包囲戦 陣地探訪
それでは、陣地探訪に向かいます。
既に紹介済や後述予定の場所は、
さらっと掲載します。
(マップと下の〇番号も合わせています)
(★1)東海道方面
①豊臣秀吉本陣(開戦時)
開戦当初の大将秀吉の本陣は、
現在の箱根湯本駅の近くにある
早雲寺でした。(前回ご紹介済)
②石垣山城
いずれ後述予定の石垣山城の位置です。
6月に入り、早雲寺から本陣を移しました。
③堀秀政陣所
布陣したとの事です。
丁度上の写真の麓位の位置です。
(お寺とお墓があるのでグーグルマップ
に載っています。)
堀秀政の名前は耳にしますよね~。
美濃出身で13歳にして信長の小姓から始まり、
信長、秀吉に使え、北の庄、長久手、九州、
小田原等の数多くの天下統一戦に参加しました。
有能と謳われた秀政でしたが、
小田原参陣中の5月27日、病により
38歳の若さで陣没しました。
蒲生氏郷と共にとても残念`(*>﹏<*)′
上写真正面の丘陵は全部小田原城です。
こう見ると小田原城も広大で威圧的に言えますね。
普通なら落ちそうに見えない。
布陣図を見ると、堀秀政の周辺(石垣山の麓)
布陣していた様です。
④富士山砦
上の写真の北西側(左側)を見てみます。
写真の右半分の丘陵は小田原城です。
左手の少し丸くこんもりした丘陵が、
富士山砦で細川忠興の陣所です。
てことは、4月8日頃、他の諸将より
遅れて小田原城包囲に参加したと思われますが、
空いてる所が無いからこちらへどうぞ、
って一番小田原城に近い前線じゃない?
でも陣地としては結構良い具合の立地に見えますよね~。
いつ決まったのかな?
さて、富士山砦に向かいます。
上の写真で遠くから見ていた様に、砦の丘陵は
住宅地化されてまして、車で細道を進みました。
そしたら行き止まりになって、入口を見ると・・・、
どう考えても意図的に枝で道をふさいでます。
ここも私有地と思うので、所有者が入るな
と伝えてますね。
ただ口コミ確認で事前に想定はしていました。
(途中、道案内の看板は残ってます。)
⑤小田原城 三の丸外郭新堀土塁
①~④は小田原城南西、箱根方面の
豊臣軍包囲陣地です。
これを小田原城側から見るには、
⑤の三の丸外郭新堀土塁から良く見えます。
ここから箱根口を中心に撮ると。
上の写真とちょっとズレてるだけですが、
石垣山をメインに撮ると。
つまり三の丸は、現在でも箱根方面や
相模湾が一望できる名所ですね。👍
(★2)尾根筋、大堀切ルート
上記の⑤三の丸からは、3つの大堀切を
通りながら、⑥水之尾口櫓台まで歩いて
探訪出来ます。
(小田原城一番のお薦めルート)
大堀切が3つも有るのは、以前ご紹介
致しましたが、水之尾口の尾根筋が
箱根から小田原城に向かって通っており、
高さによる防御の優位性が保てない為、
堀切で防御力を上げてるからです。
再度標高図を掲載致します。
標高図で⑥と⑦の間が尾根で繋がっている様に
見えると思います。
実際行ってみますと、⑥と⑦の間は、
少しへこんではいましたが、
ほぼ東西に尾根筋が通っており、
その南北方向はだいぶ下っていました。
⑥水之尾口櫓台
三の丸から大堀切を通って水之尾口櫓台
へ向かいます。
ここからの眺望が今も良いんです。😉
~水之尾口櫓台から、谷津丘陵と⑮徳川家康軍を望む~
布陣図とマップ、現地と確認して、ここが
黒田官兵衛達が布陣していた丘陵で間違い無い
と分かりました。😊
ボランテイアの方と一緒ならすぐ分かるのにね~。
⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣
小田原城西端の⑥水之尾口櫓台から
西方向へ進んでみます。
このバス停付近は⑥櫓台から西へ続く尾根筋です。
と言うのもこの道の直交方向を見ると、
こう見ると、先程の尾根筋が攻略ルート
として見えてきました(⌒∇⌒)
尾根筋を布陣図に載せてみます。
だいぶざっくりですが、
黄色線が小田原城周辺の尾根筋で高所です。
小田原城の西側半分はほぼ尾根筋を防御(総構え)に
使ってますから、黄色線に沿っています。
豊臣包囲側も高所に布陣したいので、
尾根筋に沿っていますね~。
上図の赤丸の現在地の右手には小田原城内の
尾根が続いており、先程申しました3つの
大堀切で守っています。
左手は当然豊臣軍が布陣してますね~。
ただ、ちょっと疑問点が2つ湧いてきました。
上布陣図の現在地(水之尾口櫓台)から
水之尾バス停を経由して尾根上を西へ進むと、
青丸の宇喜多先衆軍と織田信包軍が布陣してます。
このルートは小田原城へ高低差少なくアクセスできる
重要なルートだと思うのですが、そこの担当が
⑦織田信包って、ピンとこないです。
信長の弟であり、かつ織田有楽斎信益の
兄さんの位置です。
本能寺の変後も生き延びて秀吉に従ったのに、
この小田原の陣後、秀吉によりあっさり改易
されてしまいます。
つまりここを北条軍が抜けて奇襲等させない様に
しっかり守れる人、又は功を立てさせたい人、
では無さそうです。
なので何で彼がここに布陣なのか(・・?です。
そして、織田信包軍の手前(城側)に
宇喜多先衆が居ますね。
宇喜多秀家が守ってるなら分かります。
ただこの布陣図の宇喜多秀家本隊は布陣図を
見ると先衆の左上にあり、異なる尾根筋です。
なので先衆との間には谷があって、
すぐに援助できず離れすぎです。
まあちょっとそこら辺り不明点が残っています。
(ただ布陣図も色々ありますし)
もう一つ言ってしまうと、山中城で戦死したはずの
一柳直末の名前が布陣図に載っていますね~。
さて、残りは下記⑧~⑮です。
行ってない所もあり、写真も残り
少しですが、次回に致します。
(次回)
⑨羽柴秀次陣所
⑩黒田官兵衛陣所
⑪蒲生氏郷陣所
⑫小田原城大堀切西堀から豊臣陣地を見る
⑬小田原城山の神堀切から豊臣陣地を見る
⑭織田信雄陣所
⑮徳川家康陣所
ご高覧ありがとうございました。m(__)m