歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その10)>いよいよ 豊臣軍による小田原城包囲(1/2)

こんにちわ。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

やっと小田原城包囲戦の布陣巡り

まで辿り着きました。🤣

(まだそこかい(@_@;))

 

今回のシリーズは、これ(布陣巡り)

が目的だったと言っても過言ではありません。👍

 

小か中学生の頃、家族と猫も一緒に小田原城

連れて行ってもらい、布陣図を見て感動

したのを覚えています。

 

今回は、何度か小田原に行って、布陣図

とグーグルマップを見比べて、ここかな?

と探訪してきました。

 

間違いもありそうですが、

おおよそで見て下さいね。_(._.)_

 

9.小田原城の包囲

 1)小田原城包囲までの流れ

  1590年(天正18年)、

   3月29日 山中城落城及び周辺の城攻略。

   4月4日  徳川家康ら諸将の小田原城包囲が完了。

   4月5日  豊臣秀吉早雲寺を本陣とする。

   4月8日  織田信雄蒲生氏郷韮山城包囲軍

         一部を残して小田原城包囲に参加。

 

  山中城を攻略してからほぼ1週間足らずで、

  約18万もの大軍が小田原城を包囲しました。

 

 2)小田原城包囲戦 布陣図

   現地の公式案内板であると共に、

  背景に現在の道が薄く載っているので、

  この布陣図で布陣位置を推定してみます。

小田原城包囲戦 布陣図小田原城史跡の説明板)

 

  上記小田原城包囲戦 布陣図を基に、下のグーグルマップに

  豊臣方の陣地と小田原城の遺構を表示しました。

 (ただし、陣地跡が無い所は近くの施設で位置表示)

 

 グーグルマップは番号クリックしますと案内が出てきます。

 作ってみましたが、なんだか分からないですね~😓

 

 色別標高図に小田原城輪郭に載せると、

 少し見えてきました。😃

 (上と下のマップの〇番号は合わせています)

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

  ※すいません、水軍は無しです。_(._.)_

 

 3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類

  こうして布陣図や地形を見て自分なりに

  整理しますと、小田原城包囲戦の布陣

  探訪するのに、下記の4つに分類されました。

 

  (★1)まず、①~⑤小田原城南西方向、

      箱根、東海道方面です。

      包囲軍は秀吉の本陣とその手前の

      石垣山周辺の陣地となります。

      ここは小田原城三の丸から良く見えます。

 

  (★2)⑥~⑨は、小田原城唯一の尾根筋侵入ルート

      に対し、城側は3つの大堀切及び水之尾口櫓台

      が構えられています。

      その尾根筋を囲むように豊臣軍が布陣してます。

      そして標高図を見ると⑥水之尾櫓台は、小田原城

      で最も高く、ほぼ全方位が望めたかもしれません。      

 

  (★3)⑩~⑬小田原城北西面の谷津丘陵

      その正面の丘陵に、北条軍と豊臣軍が

      対峙しており、相手の丘陵を見渡せるので、

      当時の雰囲気が最も感じられます。

 

  (★4)小田原城の東側、足柄平野⑭、⑮には、

      秀吉に次ぐ大名No.2の徳川家康軍と、

      No.3織田信雄軍が大軍で展開してます。

     (ここはもう市街地化してて全く分からなかったです。)

 

 4)小田原城包囲戦 陣地探訪

  それでは、陣地探訪に向かいます。

  既に紹介済や後述予定の場所は、

  さらっと掲載します。

  (マップと下の〇番号も合わせています)

 

  (★1)東海道方面

   豊臣秀吉本陣(開戦時)

    開戦当初の大将秀吉の本陣は、

    現在の箱根湯本駅の近くにある

    早雲寺でした。(前回ご紹介済)

早雲寺境内


  ②石垣山城 

   いずれ後述予定の石垣山城の位置です。

   6月に入り、早雲寺から本陣を移しました。   

石垣山城雄大な石垣

石垣山城から小田原城を見る
(鉄塔の左側に小田原城天守が見えます。
見えている街並の8割位が当時の城域でしょうか。
凄い(@_@;))

 

  堀秀政陣所

   石垣山の東麓、海蔵寺堀秀政

   布陣したとの事です。

   丁度上の写真の麓位の位置です。

   (お寺とお墓があるのでグーグルマップ

    に載っています。)

 

   堀秀政の名前は耳にしますよね~。

   美濃出身で13歳にして信長の小姓から始まり、

   信長、秀吉に使え、北の庄、長久手、九州、

   小田原等の数多くの天下統一戦に参加しました。

 

   有能と謳われた秀政でしたが、

   小田原参陣中の5月27日、病により

   38歳の若さで陣没しました。

  

   蒲生氏郷と共にとても残念`(*>﹏<*)′

 

海蔵寺入口
石垣山城へ向かう山道の途中です)

 

堀秀政の墓

海蔵寺堀秀政の墓 説明板

  海蔵寺堀秀政陣所)から小田原城を見てみます。

堀秀政陣所から小田原城を見る
(中央右寄りに小田原城天守が見えます。写真右手が相模湾

  上写真正面の丘陵は全部小田原城です。

  こう見ると小田原城も広大で威圧的に言えますね。

  普通なら落ちそうに見えない。

 

  布陣図を見ると、堀秀政の周辺(石垣山の麓)

  には池田輝政小早川隆景吉川広家らが

  布陣していた様です。

 

 ④富士山砦

  上の写真の北西側(左側)を見てみます。

小田原城北西側と細川忠興の陣所

  写真の右半分の丘陵は小田原城です。

  左手の少し丸くこんもりした丘陵が、

  富士山砦細川忠興の陣所です。

 

  細川忠興は当初韮山城包囲軍に居ましたよね。

  てことは、4月8日頃、他の諸将より

  遅れて小田原城包囲に参加したと思われますが、

 

  空いてる所が無いからこちらへどうぞ、

  って一番小田原城に近い前線じゃない?

富士山砦拡大(海蔵寺から見る)

 でも陣地としては結構良い具合の立地に見えますよね~。

 いつ決まったのかな? 

 さて、富士山砦に向かいます。

 

 上の写真で遠くから見ていた様に、砦の丘陵は

 住宅地化されてまして、車で細道を進みました。

 

 そしたら行き止まりになって、入口を見ると・・・、 

富士山砦の入口(中央下)

  どう考えても意図的に枝で道をふさいでます。

  ここも私有地と思うので、所有者が入るな

  と伝えてますね。

  ただ口コミ確認で事前に想定はしていました。

  (途中、道案内の看板は残ってます。)

 

 小田原城 三の丸外郭新堀土塁

  ①~④小田原城南西、箱根方面の

  豊臣軍包囲陣地です。

  これを小田原城側から見るには、

  三の丸外郭新堀土塁から良く見えます。

小田原城 三の丸外郭新堀土塁
(以後三の丸と表記します)

  ここから箱根口を中心に撮ると。

小田原城三の丸から箱根方面を見る

 

 上の写真とちょっとズレてるだけですが、

 石垣山をメインに撮ると。

小田原城三の丸から堀秀政陣所、石垣山方面を見る

  つまり三の丸は、現在でも箱根方面や

  相模湾が一望できる名所ですね。👍

 

 (★2)尾根筋、大堀切ルート

   上記の⑤三の丸からは、3つの大堀切を

   通りながら、⑥水之尾口櫓台まで歩いて

   探訪出来ます。

   (小田原城一番のお薦めルート)

 

   大堀切が3つも有るのは、以前ご紹介

   致しましたが、水之尾口の尾根筋が

   箱根から小田原城に向かって通っており、

   高さによる防御の優位性が保てない為、

   堀切で防御力を上げてるからです。

 

 再度標高図を掲載致します。

小田原城包囲戦 布陣図(色別標高図)

  標高図で⑥と⑦の間が尾根で繋がっている様に

  見えると思います。

  

  実際行ってみますと、⑥と⑦の間は、

  少しへこんではいましたが、

  ほぼ東西に尾根筋が通っており、

  その南北方向はだいぶ下っていました。

 

 ⑥水之尾口櫓台

  三の丸から大堀切を通って水之尾口櫓台

  へ向かいます。

3つの大堀切の一つ、東堀
(三の丸のすぐ目の前から進みます)

大堀切から北西へ進む一本道

水之尾口櫓台跡地
小田原城最高点に到着。もうかれこれ4回目位。)

  ここからの眺望が今も良いんです。😉

 

 ~水之尾口櫓台から、谷津丘陵と⑮徳川家康軍を望む~

赤丸の「現在地」⑥水之尾櫓台から、青矢印方向を撮ります

⑥水之尾口櫓台から東の方向を見る

⑥水の尾櫓台から東の方向を見る2

 

 ~⑩黒田官兵衛、⑪蒲生氏郷、⑭織田信雄軍を望む~

⑥水之尾櫓台から北方向を望む。
私的には官兵衛と氏郷が居た場所が
分かったこの写真が一番なのです😓
(位置はおおよそです)

 

蒲生氏郷軍の布陣場所拡大
(中央下を横切っている道が、
小田原厚木道路

黒田官兵衛羽柴秀勝軍布陣場所拡大

  布陣図とマップ、現地と確認して、ここが

  黒田官兵衛達が布陣していた丘陵で間違い無い

  と分かりました。😊

  ボランテイアの方と一緒ならすぐ分かるのにね~。

 

 ⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣 

  小田原城西端の⑥水之尾口櫓台から

  西方向へ進んでみます。

⑥水之尾口櫓台跡地
(この先へ進みます。城外になります。)

薄暗い道を歩く
(どこかに堀切があったのかもね)

水之尾口櫓台方向へ振り返る

先に進む。ちょっと明るくなってきました。

農道から一般道路に出ると、水之尾のバス停がありました

  このバス停付近は⑥櫓台から西へ続く尾根筋です。

  と言うのもこの道の直交方向を見ると、

南の方向は相模湾ですが、直下が崖ですね。
遠い街がだいぶ下ですよね。

北の方向も大きく下ってます。

 こう見ると、先程の尾根筋が攻略ルート

 として見えてきました(⌒∇⌒)

 

 尾根筋を布陣図に載せてみます。

 だいぶざっくりですが、

 黄色線が小田原城周辺の尾根筋で高所です。

布陣図に黄色線で尾根を追記
(左下は尾根と言うよりか石垣山です)

 

  小田原城の西側半分はほぼ尾根筋を防御(総構え)に

  使ってますから、黄色線に沿っています。

 

  豊臣包囲側も高所に布陣したいので、

  尾根筋に沿っていますね~。

 

  上図の赤丸の現在地の右手には小田原城内の

  尾根が続いており、先程申しました3つの

  大堀切で守っています。

  左手は当然豊臣軍が布陣してますね~。

 

  ただ、ちょっと疑問点が2つ湧いてきました。

 

  上布陣図の現在地(水之尾口櫓台)から

  水之尾バス停を経由して尾根上を西へ進むと、

  青丸の宇喜多先衆軍と織田信包軍が布陣してます。

 

  このルートは小田原城へ高低差少なくアクセスできる

  重要なルートだと思うのですが、そこの担当が

  ⑦織田信包って、ピンとこないです。

 

  織田信包織田信秀の子です。

  信長の弟であり、かつ織田有楽斎信益の

  兄さんの位置です。

  本能寺の変後も生き延びて秀吉に従ったのに、

  この小田原の陣後、秀吉によりあっさり改易

  されてしまいます。

 

  つまりここを北条軍が抜けて奇襲等させない様に

  しっかり守れる人、又は功を立てさせたい人、

  では無さそうです。

  なので何で彼がここに布陣なのか(・・?です。

 

  そして、織田信包軍の手前(城側)に

  宇喜多先衆が居ますね。

  宇喜多秀家が守ってるなら分かります。

  ただこの布陣図の宇喜多秀家本隊は布陣図を

  見ると先衆の左上にあり、異なる尾根筋です。

  なので先衆との間には谷があって、

  すぐに援助できず離れすぎです。

 

  まあちょっとそこら辺り不明点が残っています。

  (ただ布陣図も色々ありますし)

 

  もう一つ言ってしまうと、山中城で戦死したはずの

  一柳直末の名前が布陣図に載っていますね~。

 

  さて、残りは下記⑧~⑮です。

  行ってない所もあり、写真も残り

  少しですが、次回に致します。

小田原城包囲戦布陣図(色別標高図)

 (次回)

  山内一豊堀尾吉晴陣所

  羽柴秀次陣所

  ⑩黒田官兵衛陣所

  ⑪蒲生氏郷陣所

  ⑫小田原城大堀切西堀から豊臣陣地を見る

  ⑬小田原城山の神堀切から豊臣陣地を見る

  ⑭織田信雄陣所

  ⑮徳川家康陣所

  

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m