歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その13)>豊臣北方軍による北関東拠点の攻略(松井田城、箕輪城、厩橋城、金山城))

こんにちわ、rekikakkunです。

 

1590年に行われた、小田原北条氏の防衛戦

を綴り始めて、かれこれ13回目(@_@;)・・・です。

 

これまで小田原城の防衛強化、総構え、

豊臣秀吉本軍の箱根周辺の城攻略から、

小田原城包囲辺りまで進めてきました。

 

実は上記の動きとほぼ平行して北条領の北方、

北関東から北条領を攻略する軍団が、

ありました。

 

前田利家を主将とし、上杉景勝真田昌幸

といったスター達で構成された北方軍です。

 

彼らは碓氷峠(うすいとおげ)経由で

信州(長野県)から上州(群馬県に入り、

まず北西境目の重要防衛拠点である

松井田城に殺到しました。

 

今回松井田城は探訪しませんでしたが、

その攻略は重要と思われるので、少し記載します。

 

あと過去探訪報告済ですが箕輪城厩橋城、

金山城も、北方軍の序盤戦で攻略しているので、

簡単にご紹介致します。

 

11.松井田城の戦い(市指定史跡)

 1)松井田城の立地

   松井田城は上州のほぼ西端に位置し、

   信州の国境及び当時の幹線である東山道

   に接する重要拠点でした。

   

   下のグーグルマップ⑤が松井田城です。 

   現在のイメージですと、長野県軽井沢から

   碓氷峠を越え、群馬県高崎へ進む中間の位置です。 

 

 2)北条家の松井田城制圧

   北条氏は織田信長の死去直後、天正10年、

   1582年神流川の戦い織田家の関東司令官

   滝川一益を敗走させると、そのまま上州(群馬県

   を制圧し、その西の要である松井田城は、創業以来

   重臣の家柄の大道寺政繁を城代としました。

 

 3)北方軍の出陣

   天正18年、1590年2月から3月、

   豊臣方の北方軍が関東に向けて出陣しました。

 

   前田利家金沢城上杉景勝春日山城からの

   出陣なので、真田昌幸の拠点上田城で集合した

   可能性もありますよね。

   

   そして、上田城の東、小諸城徳川家康から

   与えられ、周辺の佐久地方(上州との境、

   軽井沢も含む)を治めていたのが松平康国です。

 

   彼は本能寺の変の後、旧武田領(甲斐、信濃

   めぐって北条徳川上杉真田氏の争奪戦と

   なった通称天正壬午の乱で、徳川方として活躍した

   旧武田家臣依田玄番(よだのぶしげ)の次男です。

   (天正壬午の乱の探訪もなかなか良いな~😁)

 

   彼は父の功績を高く評価した徳川家康によって、

   小諸城6万石の待遇を得ていました。

 

   その佐久地方の東端に碓氷峠があり、

   信州(長野県)から関東、上州(群馬県

   に入れます。

 

   北方軍小諸城に集結し、情勢確認、

   軍議を行ったと推定されます。

   

 4)碓氷峠の戦い

   北条方は北方軍の関東進出を阻止する為、

   国境の碓氷峠に、与良与左衛門約800名を

   配置したとのことです。

 

   ここで、北方軍の北関東制圧の進行ルートに

   特化した地図を、作成したいと思います。

   (おおよそです)

 

   (下の地図の左=西から、右=東へ進みます)

   上田城⇒②小諸城⇒③碓氷峠⇒④松井田城

   ⇒⑤箕輪城⇒⑥厩橋城⇒⑦金山城⇒⑧唐沢山城   

   お、なんか上手く横一列になりましたね~😁

 

   天正18年1590年3月8日、真田昌幸

   3,000人は、上の地図の③、碓氷峠

   布陣している北条軍に攻め寄せました。

 

   記録によると真田信幸真田信繁達が奮戦し、

   真田軍が占拠した模様です。

 

   大道寺勢は松井田城に退却。

   北方軍碓氷峠を突破し、

   関東へ進入、松井田城を包囲しました。

 

 5)松井田城の戦い

   松井田城は今回行ってないので、

   探訪写真はありません。

   いつか探訪したいと思ってます。

 

   ①開戦日天正18年(1590年)3月10日

   ②落城日天正18年(1590年)4月22日

   ③攻撃側陣容前田利家軍:1万8千人

          上杉景勝軍:1万人

          松平康勝軍:4千人

          真田昌幸軍:3千人

         (豊臣方総勢:3万5千人

   ④守備側陣容北条方総勢:2千人

             城主:大道寺政繁

 

    重臣の城主をそのまま防衛にあたらせてるので、

    重要防衛拠点となりますね~。

  

   ⑤攻城戦経過

    東海道主力軍より2週間以上早い3月10日に、

    攻城を開始した北方軍でしたが、

    松井田城の堅守により攻めあぐねました。

 

    そのうち東海道の主力軍が3月29日山中城

    1日で攻略、4月6日頃には小田原城包囲完了

    との報告により、北方軍の攻城戦が激化し、

    1カ月以上持ちこたえた松井田城は4月22日

    ついに開城となりました。

 

    大道寺政繁はその後、豊臣軍の道案内役と

    なった後、戦争責任により切腹しました。

    なかなか厳しい~(@_@;)

  

    ただし、子孫は江戸時代を生き残り、

    尾張藩城代家老津軽藩家老、明治時代には

    県議長、なんか青森銀行の前身の創設者だった

    とも書かれていますよ👍。

 

 

12.その他北関東諸城   

 北方軍は、なかなか落ちない松井田城攻略に

 並行して北関東の拠点攻略を開始しました。

 

 箕輪城(日本100名城)

  北関東マップの⑤が箕輪城です。

  

  現在日本100名城に数えられている通り、

  箕輪城は、勇将の長野業政が、武田信玄の攻撃を

  幾度も撃退した等、戦国期を彩る有名な舞台であり、

  また井伊直政も城主、改築を行った要害の大拠点です。

 

  現在も遺構が整備され、見所満載なお城です。

  

  城主力軍は小田原城等に出払っていたと思われ、

  4月24日戦わずに開城とのことです。

 

箕輪城 復元 郭馬出西虎口門

箕輪城 大堀切 下までずっと歩けます(⌒∇⌒)

箕輪城 三の丸石垣跡

 

 2)厩橋城(市指定史跡)

  厩橋城はマップ⑥の位置で、

  現在の群馬県庁所在地である前橋です。

  

  厩橋上杉謙信滝川一益の関東支配の

  本拠地として、関東平野内の北の要に位置

  する重要拠点でした。

 

  江戸期は利根川氾濫による珍しい城破壊、

  近代の市街地化等により、遺構もわずかですが、

  城跡に建つ県庁の展望台からの眺望を見ると、

  ここが、上州、北関東の中心と思えます。

  

  多分兵少なく、抵抗ほぼなかったと思われ、

  4月19日落城との事です。 

 

群馬県庁展望台から北側を見る

群馬県庁展望台から南側、関東平野を見る

前橋城 車橋門跡の石垣

前橋城 堀、土塁の痕跡

 

 3)金山城 (日本100名城)

  金山城はマップ⑦の位置です。

  戦国期は、新田氏の家系岩松家から、

  実権を奪った由良氏の居城。

 

  現在石垣等の遺構や眺望がとても凄くて、

  日本100名城、お薦めのお城です。

 

  4月29日前後、こちらも兵少なく開城の模様です。

金山城 物見台虎口。橋の先が見えない様になっている。

金山城 大手虎口。一番の見所。

金山城都心方向眺望 拡大写真で都心ビル群が見えます 



 以上で終わります。

 

 思いの外、松井田城にかかってしまいました。

 北関東地図の⑧、唐沢山城は探訪して来ましたので、

 次回単独報告の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_