歴史ぶらり1人旅

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<小田原北条氏の防衛戦(その9)> 豊臣軍による箱根守備網の攻略と突破

こんにちは。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

豊臣軍による北条領への攻撃が開始されて、

まず1590年(天正18年)3月29日に、

箱根東海道筋の最重要防衛拠点である

山中城が落城しました。

 

4月1日前後には山中城の隣、

足柄街道筋の足柄城も攻略。

 

ここまで前回ご紹介致しましたが、

その他の小田原城西側の拠点について

簡単にまとめてみます。

 

7.小田原城以西のその他拠点の攻略 

 小田原城以西の城の配置図

 山中城、②足柄城、③河村城、④韮山城、⑤小田原城 

 (ほんとはもっとあります(__))

 

 

 1)河村城(配置図の③)

  神奈川県山北町小田原城がある足柄平野

  北端を守る位置に河村城が配置されています。

 

  実はほとんど知らなかったのですが、

  保存整備がしっかりなされてる様で、

  遺構も良く残っていました。

  早速行ってみます。

河村城駐車場に到着しました。
 (5,6台停められます)
登城入口にトイレもあります。

 

河村城 案内図
上記の入口は、案内図の現在地(赤字)の位置です。

  

河村城縄張図
(上図の拡大版、この図は下が北です。)

 上図の現在地から登って行きます。

 (河村城の北側から登ってます)

緩やかな坂を歩く

急な坂になった(~ ̄▽ ̄)~

最初の遺構、畝堀。だが畝は見えない。

山頂部に到着。(10分程登って到着)

本城郭

本城郭の北側にある社

 社の脇道に入って進むと、 

先程の畝堀を本城郭から見ています。
その先が縄張図の小郭ですかね。

本城郭の南、馬出郭の方へ行ってみます。

馬出郭1

馬出郭2

馬出郭の道を少し降ります。

西郭(左手が西郭ですね)

 もう少し進んでみます。

西郭から進んでいます

北郭に到着しました。(⌒∇⌒)

北郭と西郭間の堀切かな?

たぶん、自然地形の谷

本城郭に戻った

 馬出郭から北郭までの区間

 自然な遺構が残っていました。😊

 

 今度は本城郭の東側へ行きます。

 そうすると、本城郭と蔵郭の間に、

 整備された堀切と木橋がありました。

堀切と木橋

堀切と木橋

堀切と木橋の説明板

木橋を渡ります

蔵郭

蔵郭にあった縄張図
(これは分かり易いです)

蔵郭の案内板

近藤郭への橋

近藤郭と蔵郭間の堀切は
コンクリ-トの橋でした。
(橋とその脇道の両方共通れます)

堀切を見下ろす。(畝になってますね)

 

発掘調査の説明板

近藤郭

大庭郭からは南方の足柄平野全体が一望できます

 ただし小田原城は写真右手、

 箱根外輪山の裏で見えないです。

 

展望説明板

河村城から見る箱根の山並み

河村城遠望と富士山(雪がまだ無い頃)

 河村城の立地は足柄平野北の頂点を占める

 浅間山の丘陵に築かれ、規模も大きく

 見所いっぱいでした。

 

  ただ豊臣軍との戦いにおいては、東海道

  足柄街道を攻略されてしまっては、

  ここを守っても小田原城を支えられないので、

  すぐに攻略されてしまったのかなと思われます。

 

 2)韮山城(配置図の④)

  韮山城は北条家にとっては初代早雲の

  本拠地となり、最後を迎えた城。

  そして北条家最初の領国伊豆国の玄関口です。

  

  豊臣方は、織田信雄を主力として、蒲生氏郷

  福島正則細川忠興ら有名人達が40,000を

  超える軍勢で包囲しました。

 

  対する北条軍は4代氏政の弟北条氏邦を城将とし、

  3千数百人で守備。

  彼は一度京都に上洛しており、また北条家の交渉役

  として徳川家康達とも交渉をしていて、非戦論者

  だったとされています。

 

  だからでしょうか、山中城とは異なり、

  一気には攻めず、降伏勧告後、包囲戦となりました。

韮山城 本丸付近

だいぶ見難いですが中央右下の韮山城(現在地)
に対して、写真左の山に包囲軍の陣地があります

韮山城正面と城池。実はそれほど高くないのに、
激しく攻撃されていない。
周辺が池や沼地だったのかな?

  そして秀吉の命令で、韮山城には抑えの軍を残し、

  織田信雄達主力は小田原城包囲へ転進しました。

  その為3月29日から6月24日開城まで

  約3カ月持ちこたえています。

 

 3)下田城 (配置図無し)

  下田城は伊豆半島のほぼ南端に位置しており、

  北条水軍が対豊臣軍への本拠点としました。

  

  4月1日攻め寄せる豊臣水軍は、羽柴秀長

  長宗我部元親九鬼嘉隆等約20,000人。

 

  対する下田城守備は清水康英を城主として

  城兵たったの600人だったとも。( ;∀;)

 

  しかし粘って開城したのは4月23日でした。

  豊臣水軍の大部分は開戦後すぐに小田原城

  海上封鎖に転進してます。

 

  今回下田城、行って無いので写真が無しです。_(._.)_

  幕末当初の下田港は日本の玄関口の一つとして、

  ペリー、ハリス等の対応で活躍しました。

 

  以上、一部ですが小田原城西側を守っていた

  お城のご紹介でした。

 

8.豊臣軍の箱根越え

 1590年(天正18年)3月29日、

 山中城を落とし、勢いに乗った豊臣軍は、

 足柄城河村城等小田原以西をほぼ制圧し、

 4月1日頃より箱根を東進しました。

 

 4月5日には早くも秀吉が北条家の菩提寺

 である早雲寺を本陣として着陣した模様です。

 現在の箱根湯本駅のすぐ近くです。

 

 そして、その東にあたる笠懸山(かさがけやま)

 、現在の石垣山に城を築城し始めました。

 

 1)早雲寺

  初代北条早雲の息子氏綱により、1521年頃

  創建されたと伝えられています。

  北条家の菩提寺として栄えました。

 

早雲寺門前

早雲寺案内板

風情ある早雲寺境内

奥に北条幻庵作の枯山水庭園

早雲寺 庭園

北条氏5代の墓入口

北条氏5代の墓

北条氏5代の墓 説明板

  これを見て初めて知りましたが、

  1590年4月5日、秀吉が本陣として利用した

  早雲寺は、石垣山城が完成し、そこに本陣を移した後、

 (たぶん6月か?)焼却されてしまったとの事です。

 

  利用した後、お寺を燃やしちゃうんですね~。

  確か武田信玄駿府侵攻で、これまで同盟関係

  だったのに駿府の街や臨済寺等を燃やしてますね。

 

  戦国時代とはいえ、あまり抵抗してなさそうな

  お寺を燃やすのはちょっと悲しく感じます。

 

  後の江戸時代、小大名として残った北条2家の

  援助等により、復興された様で良かったです。😊

 

 2)底倉と太閤の湯

  ちょっと先の話ですが、伊達政宗が秀吉に投降した時、

  箱根の狭い場所に逗留されて恐れた。

  ・・・ような話を聞いた事ありませんか?

 

  その場所は底倉と言って、名前からしてらしいですが、

  ここには秀吉が(豊臣軍が)利用したと想定されている

  温泉が残っています。

 

  また、駅は早雲寺より少し箱根側の「宮ノ下」です。

  箱根駅伝で聞いたことあるかもしれません。

  駅伝の道や富士屋ホテルも近いですね~。

 

  箱根に残っている史跡なのでご紹介します。

太閤の湯 遊歩道入口
(宮ノ下、国道138号線から入る)

 

太閤石風呂通り 入口

遊歩道

太閤の湯 案内板

太閤の湯が見えてきました

太閤の湯 拡大1

太閤の湯 拡大2

  私有地であり下に降りれないそうですが、

  この辺りに豊臣軍が利用した温泉が

  あったかもとの話です。

 )箱根遠望

  北条氏側(小田原城)から箱根方面を見る。

小田原城三の丸土塁から箱根方面を見る。
山中城落城後数日で、小田原城のすぐ隣の
石垣山を守れなくなってしまった。

 

  上の写真を反対側(箱根側)から見ると。

  ざっくり豊臣軍が小田原方面へ進軍した際の

  箱根風景かな?

道の駅箱根峠」から二子山、芦ノ湖を見る
この先が箱根湯本、そして小田原城

  実は外国の方が沢山居たので、何かあるのかな?

  と寄り道したら絶景だったので撮っただけです_(._.)_

 

 以上でお終いです。

 次回はいよいよ小田原城の包囲です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_