歴史ぶらり1人旅

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<小田原北条氏の防衛戦(その8)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(3)

こんにちは。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

みなさんもご存じの通り、

北条氏の本拠小田原城は北条領国の

東南の国境に偏り過ぎていますよね。

 

特に豊臣軍主力が、西から小田原城

目指すのは北条方も容易に想定出来ます。

よって小田原城の西側にある箱根とその周辺が、

必然的に重要な防衛ラインとなります。

 

下の全体マップを見て可視化してみると、

よく分かるのではと思います。

 

 

北条氏の本拠地、小田原城に対し、

その西側を取り囲む様に、

 

箱根中央部を通る東海道山中城

旧来のメイン道だった足柄道に②足柄城

その北の道に③河村城

伊豆方面の玄関口に韮山城

 

等の箱根守備網が配置されています。

 

ところがこの内、小田原城西方の守りで

最も重要な防衛拠点だった、山中城が、

初戦、一日で攻略されてしまいました。

 

小田原城及びその他の箱根守備網は

大混乱になったと予想されます。

 

④の韮山城こそは、北条氏政の弟氏規が城将を

していた為か、約3カ月持ちこたえましたが、

②足柄城及び③河村城は、ほぼ戦わずして小田原城

へ退却し、箱根守備網は崩壊した模様です。

 

今回は山中城に続き、その箱根守備網の一つ、

②足柄城を探訪してみます。

 

6.足柄城(あしがらじょう)

 1)足柄城の位置

  上マップの②の場所です。

 

  ここは足柄峠の場所でもあり、

  足柄街道という道が通っています。

 

  足柄街道は、奈良、平安、鎌倉時代には

  静岡県と神奈川県を結ぶメインの道

  だったとの事です。

 

  建武2年12月、足利尊氏討伐が開始され、

  静岡市手越原で新田義貞を主将とする朝廷軍と

  足利軍が激突し、朝廷軍が勝利しました。

 

  しかしその後、足柄峠の登り口、JR足柄駅付近

  で起こったの竹之下の戦いでは、足利方が勝利し、

  そのまま京都へ攻め登りました。

  建武の新政崩壊の初端となった戦地です。

  (なので室町初期も足柄道がメインだったのかもね)

 

  丁度県境なので、毎年綱引きで足柄城

  所有権を決めてるそうで、面白いですね。

 

  多分富士山噴火等による劣化、代替道の需要増等

  により、室町、戦国時代には山中城を通る東海道

  整備されて主要道になっていったと思われます。

  (江戸時代では東海道が五大街道の一つとなった)

 

静岡県足柄駅から旧足柄街道である
県道78号線にて足柄峠へ向かう

 2)足柄城縄張り 

  適当な縄張図が見つからず、グーグルマップで

  曲輪を表示します。

  ①一の曲輪、②二の曲輪、③三の曲輪、

  ④四の曲輪、⑤五の曲輪

  (足柄街道を西から登ると、最初五の曲輪です。

   以下番号順で一の曲輪が本丸で、最高部です。)

  

 

 

 3)足柄城アクセス

   下の写真の正面、すぐ南に駐車場があります。

足柄峠に到着。足柄城に進む階段。

  そして上写真の通り、78号線沿いに

  足柄峠の看板があり、階段ですぐに

  足柄城一の曲輪に到着します。

 

 4)足柄城探訪

  それでは足柄城に向かいます。

  (・・・と言っても階段2分位で本丸ですが😓)

 

  ①一の曲輪

階段を登って最初、足柄城一の曲輪

 

玉手ケ池

玉手ケ池 水がありました

玉手ケ池 説明板

一の曲輪から二の曲輪へ向かう土橋
・・・お城の遺構( ^ω^)・・・

  ②二の曲輪

   二の曲輪に入ります。

   ここには超絶展望地があります。

   (一度ご紹介し、綺麗と言って頂いてますね👍)

二の曲輪に渡って振り返る

 二の曲輪西の方向に椅子がある様です。

二の曲輪 展望用の椅子
(ここにはほぼ常時誰かが居る感じ)

  おー😍 何枚か掲載しますね~。

二の曲輪からの富士山1

二の曲輪からの富士山2
げ、凄い眺望(@_@;)

二の曲輪からの富士山3

二の曲輪から富士山の南、愛鷹山

二の曲輪 表示板

  二の曲輪の東側に何か入口があって行ってみると、

  蔵屋敷の表示板と曲輪がありました。

蔵屋敷跡 明らかに階段状に整地されている。
こういうの、何かそのまま残ってる感じで良いね~

二の曲輪の展望椅子に戻る。

二の曲輪からの富士山4 撮影9:30位
(この1.5時間後、富士山は雲で覆われてしまう)

足柄城を一通り見て、別の撮影ポイントに行ったら、
雲に覆われてた富士山 撮影同日11:00頃

二の曲輪から富士山と愛鷹山の間の稜線。
手前の街が御殿場。
自衛隊の大砲の音も聞こえます。

二の曲輪から三の曲輪に向かいます

二の曲輪三の曲輪間の堀

  ③三の曲輪

   三の曲輪に入ります。

三の曲輪から堀と階段を
介して二の曲輪を見る

三の曲輪 ここも少し展望整備されてます

三の曲輪から山道に入ると井戸跡
(ここからは誰も居ません)

 三の曲輪を越えた辺りから、木々に囲われた

 暗い雰囲気となり、私の記憶もあやふやに

 なってきました。😓

四の曲輪に向かう

  ④四の曲輪

多分四の曲輪

土塁跡のようですね

四の曲輪の脇の竪堀か横堀なのかな?

四の曲輪 表示板

上から下の堀を撮る

う~ん、どこだか分からない

確か、四の曲輪の周辺を廻って撮った堀跡

堀が続いている
(雨水の流れ跡か?)

多分四の曲輪から降りてきた

堀跡の案内板

  ⑤五の曲輪

五の曲輪の案内板

多分 五の曲輪から降りる階段

五の曲輪から降りる階段2

 

降りて遊歩道の案内板

遊歩道、ここは五の曲輪の外側の堀1
(結構壮大な堀跡です)

五の曲輪の外側の堀2
(この堀跡が遊歩道となってます)

堀の外側の崖

五の曲輪の外側の堀3

五の曲輪外側の堀を進むと、県道78号線に出ました

逆に県道78号線側から堀を覗く。
遊歩道=五の曲輪外側の堀 です。 
(ただこちら行くには、外堀を進んで四の曲輪
への登り口に気付かなければならないので、
縄張を分かってないと厳しいかもです)

県道78号線 この少し先が足柄峠の駐車場

 

 ⑥足柄城周辺の史跡

 足柄峠

足柄峠の分岐道
(ただし左右足柄城みたい)

八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光ゆかりの石
(義光は武田信玄の先祖)

 ~足柄の関~

  足柄峠を少し神奈川県側に78号線を降りると

  足柄の関の跡がありました。

足柄の関 1

足柄の関 2

足柄の関 3
治承4年は頼朝旗揚げの年。この時足柄の関守が居た。
鎌倉時代の内に関所の機能は無くなったと書いてますね。

足柄峠の説明板1
(神奈川県側から登る方向)

足柄峠 説明板
空海、頼朝、日蓮足利尊氏太田道灌
有名人が通った記録がある様です。

 ~足柄古道~

  足柄古道を歩いている方も何度か見かけました。

足柄古道

足柄古道

現在の自動車道である78号線
江戸時代の足柄道矢倉沢往還とも言われ、
その地名が看板にも残っている

 ~小田原方面の眺望~  

足柄道を神奈川県側に降りる途中の眺望

眺望 手前箱根外輪山の一部 ⇒ 足柄平野
⇒ 大磯丘陵、そして相模湾
小田原城は右側で、隠れて見えない)

 

 5)足柄城の防衛戦

  防衛戦当時の城主は、北条氏康の九男氏光。

  (別説あり)

  彼は600名程の兵で守備していましたが、

  1590年3月29日、山中城落城を知ると、

  足柄城を退去し、小田原城に入りました。

 

  翌3月30日、井伊直政足柄城を攻撃し、

  残った兵はわずかの為、4月2日落城

  又は降伏した様です。

 

  そもそも城の規模からして600人では

  全く足りないので、足柄城は捨ててますね。

 

  ただ、豊臣との戦いこそ機能しませんでしたが、

  1571年、足柄城の西麓の方にある深沢城

  が武田信玄に攻略されてから、約20年間、

  足柄城河村城の両城は、本拠地である

  小田原城の西側をしっかり守っています。

 

 以上で足柄城編を終わります。

 思ってたよりも足柄城は大きな規模で、

 堀の遺構も大きく残っていました。

 そして富士山等西側の眺望は凄いの一言です。

 

 次は河村城及び小田原城の包囲の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m