こんにちは。rekikakkunです。
現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。
みなさんもご存じの通り、
北条氏の本拠小田原城は北条領国の
東南の国境に偏り過ぎていますよね。
特に豊臣軍主力が、西から小田原城を
目指すのは北条方も容易に想定出来ます。
よって小田原城の西側にある箱根とその周辺が、
必然的に重要な防衛ラインとなります。
下の全体マップを見て可視化してみると、
よく分かるのではと思います。
北条氏の本拠地、⑤小田原城に対し、
その西側を取り囲む様に、
旧来のメイン道だった足柄道に②足柄城。
その北の道に③河村城。
伊豆方面の玄関口に④韮山城。
等の箱根守備網が配置されています。
ところがこの内、小田原城西方の守りで
最も重要な防衛拠点だった、①山中城が、
初戦、一日で攻略されてしまいました。
小田原城及びその他の箱根守備網は
大混乱になったと予想されます。
していた為か、約3カ月持ちこたえましたが、
②足柄城及び③河村城は、ほぼ戦わずして小田原城
へ退却し、箱根守備網は崩壊した模様です。
今回は山中城に続き、その箱根守備網の一つ、
②足柄城を探訪してみます。
6.足柄城(あしがらじょう)
1)足柄城の位置
上マップの②の場所です。
ここは足柄峠の場所でもあり、
足柄街道という道が通っています。
足柄街道は、奈良、平安、鎌倉時代には
静岡県と神奈川県を結ぶメインの道
だったとの事です。
足利軍が激突し、朝廷軍が勝利しました。
で起こったの竹之下の戦いでは、足利方が勝利し、
そのまま京都へ攻め登りました。
建武の新政崩壊の初端となった戦地です。
(なので室町初期も足柄道がメインだったのかもね)
丁度県境なので、毎年綱引きで足柄城の
所有権を決めてるそうで、面白いですね。
多分富士山噴火等による劣化、代替道の需要増等
整備されて主要道になっていったと思われます。
(江戸時代では東海道が五大街道の一つとなった)
2)足柄城縄張り
適当な縄張図が見つからず、グーグルマップで
曲輪を表示します。
①一の曲輪、②二の曲輪、③三の曲輪、
④四の曲輪、⑤五の曲輪
(足柄街道を西から登ると、最初五の曲輪です。
以下番号順で一の曲輪が本丸で、最高部です。)
3)足柄城アクセス
下の写真の正面、すぐ南に駐車場があります。
そして上写真の通り、78号線沿いに
足柄峠の看板があり、階段ですぐに
足柄城一の曲輪に到着します。
4)足柄城探訪
それでは足柄城に向かいます。
(・・・と言っても階段2分位で本丸ですが😓)
①一の曲輪
②二の曲輪
二の曲輪に入ります。
ここには超絶展望地があります。
(一度ご紹介し、綺麗と言って頂いてますね👍)
二の曲輪西の方向に椅子がある様です。
おー😍 何枚か掲載しますね~。
二の曲輪の東側に何か入口があって行ってみると、
蔵屋敷跡の表示板と曲輪がありました。
③三の曲輪
三の曲輪に入ります。
三の曲輪を越えた辺りから、木々に囲われた
暗い雰囲気となり、私の記憶もあやふやに
なってきました。😓
④四の曲輪
⑤五の曲輪
⑥足柄城周辺の史跡
~足柄峠~
~足柄の関~
足柄峠を少し神奈川県側に78号線を降りると
足柄の関の跡がありました。
~足柄古道~
足柄古道を歩いている方も何度か見かけました。
~小田原方面の眺望~
5)足柄城の防衛戦
防衛戦当時の城主は、北条氏康の九男氏光。
(別説あり)
彼は600名程の兵で守備していましたが、
1590年3月29日、山中城落城を知ると、
足柄城を退去し、小田原城に入りました。
翌3月30日、井伊直政が足柄城を攻撃し、
残った兵はわずかの為、4月2日落城
又は降伏した様です。
そもそも城の規模からして600人では
全く足りないので、足柄城は捨ててますね。
ただ、豊臣との戦いこそ機能しませんでしたが、
1571年、足柄城の西麓の方にある深沢城
が武田信玄に攻略されてから、約20年間、
足柄城と河村城の両城は、本拠地である
小田原城の西側をしっかり守っています。
以上で足柄城編を終わります。
思ってたよりも足柄城は大きな規模で、
堀の遺構も大きく残っていました。
そして富士山等西側の眺望は凄いの一言です。
次は河村城及び小田原城の包囲の予定です。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m