歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その12)>後北条氏の重要拠点 玉縄城

こんにちわ。rekikakkunです。

 

前回は小田原城の包囲陣地探訪について、

長々とお付き合いありがとうございました。(__)

 

ここから再度、お城探訪になります。。。

 

下図のマップは昨年秋探訪しました小田原北条氏

関連のお城等を再表示しています。

 

今回は下図の玉縄城をご紹介致します。

 

実は、④の玉縄城はマップの中では最後に探訪しました。

何も分かっていませんが、何か玉縄城を外してはいけない

と感じ、追加で探訪してきた次第です。

(と言うか山中城の次はここでしょうと気が付いた(@_@;))

 

さて、天正18年1590年4月6日頃、

箱根を突破し、小田原城を包囲した豊臣本軍ですが、

流石に直ぐには小田原城を攻略できないので、

浅野長政を主将とした別動隊を編成し、

約2万の軍勢で相模、武蔵、下総方面の

北条方支城攻略を進めました。

 

その攻略対象、最初の有力な城が、

玉縄城と言えそうです。

 

10.玉縄城

 1)築城経緯

  後北条氏初代北条早雲は、1479年今川範満

  駿府静岡市)で襲撃し、自身の妹北側殿の子

  氏親を今川家当主に据えました。

  その功績により、早雲は興国寺城を与えられ、

  その後の領土拡張の起点となりました。

  (これも諸説色々ある様ですね~。)

 

  その後のざっくりな経歴を列記しますと。

 

  1493年 堀越公方を追放し、伊豆国を入手。 

  1495年 大森氏小田原城を攻略。

  1516年 三浦氏を滅亡させ、相模国を入手。

  1519年 韮山城で死去。

 

  このうち、小田原城攻略後、相模国平定の為、

  その有力国人で三浦半島を中心に勢力があった

  三浦氏攻略の為、三浦半島の入口の位置に

  築いたのが玉縄城となります。

  (現在の鎌倉市大船駅の近くです。)

 

  因みに三浦氏は、前々回の大河ドラマ

  「鎌倉殿の13人」で主力級の御家人だった

  三浦氏の傍流との事です。

 

  鎌倉時代の1247年、宝治合戦北条家の計略

  により三浦本家は滅亡しましたが、その後傍流の

  三浦氏が頑張って、三浦半島を含めた相模の一部

  を治めてた様です。

 

  しかし玉縄城を拠点とした北条早雲により、

  最後の実質的当主、三浦義同(道寸)は、

  1516年、三浦半島の先端付近の新井城

  に追い詰められ、抵抗むなしく壮絶な最後

  を遂げて、三浦氏は滅亡しました。

  この物語は別途取り上げたい位です。

 

  ・・・と個人的想いでだいぶ脱線してます(-_-;)

 

  ただ、今まで小田原北条氏をタイトルに使ってたのに、

  何故後北条氏と無意識に書いたのか今分かりました。

 (玉縄城鎌倉時代北条氏三浦氏と深く関係して

  くるから、そことの区別が必要ですね。(~ ̄▽ ̄)~)

 

  終わらないので、時代を戻します。(__)

 

 2)後北条氏玉縄

  時は戦国時代、永正9年1512年、北条早雲

  玉縄城を築城し、次男の氏時を城主に据えました。

  そして1516年三浦氏攻略後、氏時玉縄

  として本家を支えました。

 

  有名なのが2代為昌の養子となった、3代綱成です。

  彼は、日本3大夜戦とされる、1546年の川越合戦

  において、川越城主として主役となり、その後も北条

  随一とされる武略により北条家を支えました。

  そして玉縄衆最後の当主が6代氏勝です。

 

 3)小田原防衛戦

  その北条氏勝は、1590年の小田原防衛戦時の

  玉縄城でした。

  彼は開戦当初、幣ブログに出てきましたね。

  そう、3月29日山中城の壮絶な攻防戦で援軍の

  大将として入城し、落城前に退去しています。

 

  その後、多分面目が無いので小田原城には

  立ち寄らず、自身の居城玉縄城に戻り、

  4月21日降伏開城しました。

 

  後北条氏滅亡後、彼は徳川家康の家臣となり、

  下総1万石の大名となったそうです。

 

  玉縄城はその後も統治の拠点となっていましたが、

  一国一城令により、1619年廃城となったそうです。

 

 4)玉縄城探訪

  下のグーグルマップの玉縄城です。

  参考に、鶴岡八幡宮(鎌倉)小田原城④新井城です。 

 立地として三浦半島②鎌倉を抑える位置なのが分かります。

 

 さて玉縄城に向かいます。

 車で行きましたが、大船駅玉縄城の間に位置する

 龍宝寺に停めさせて頂きました。

 

 ~龍宝寺 と 歴史資料館~  

龍宝寺 入口

龍宝寺 説明板

龍宝寺境内
(この左手に駐車場がありました)

 

  そして龍宝寺境内には、玉縄民俗資料館旧石井家住宅もあります。

玉縄民俗資料館
玉縄歴史館、玉縄ふるさと館)

 資料館は玉縄地域の歴史的資料を展示している資料館です。

 無人資料館で拝観料200円。早速入ります(^▽^)/

 

 そしたら玉縄城に関する資料がわんさかありました。😀

玉縄城模型1

玉縄城模型2
(中央の火口みたいな所が本丸)

玉縄城鳥瞰図

玉縄城縄張り説明板

玉縄城古写真1(本丸部)
昭和35年撮影、これは、ド迫力な写真ですね~
なかなか見れない開発前の貴重な古写真ですね。

玉縄城古写真2
(本丸に清泉女学院高等学校が建設)

 

玉縄城遺構案内板:龍宝寺
(歴代玉縄城主の菩提寺

龍宝寺を出て玉縄城方向を見る
(正面の丘陵が玉縄城

龍宝寺から歩いて七曲坂へ向かってます

 

  ~七曲坂~

七曲坂入口に到着しました

玉縄城遺構案内板:七曲坂

七曲坂1

七曲坂2

七曲坂3

七曲坂4 武者だまり跡

七曲坂5 坂から南の方向を見る

七曲坂6 見事に曲がっています

 

 ~太鼓櫓址~

  七曲坂を登り切った山頂部は、住宅地になっています。

  すぐ近くに太鼓櫓址がありました。

太鼓櫓址入口

  玉縄城を残す為、市民団体が、市と協議の上、

  市民緑地として保存整備区域指定をしたとの事です。

植木1号市民緑地
(土地所有者は居ますが、緑地として公開、整備している)

太鼓櫓址1

玉縄城遺構案内板:太鼓櫓址

太鼓櫓址の位置写真

太鼓櫓址の場所が赤三角で示されています。
坂を登ってきて、今ここ、
とても分かり易いです👍(⌒∇⌒)

太鼓櫓址

太鼓櫓址の下1
周囲をのぞき込んでみますと、堀切の様な跡が見えました

太鼓櫓址の下2

堀切の先が焔硝蔵(えんしょうぐら、武器庫)

太鼓櫓址の下3
手摺の様な区画があります

太鼓櫓址の下4
少し道を辿っていくと、太鼓櫓下へ通じる入口がありましたが、
整備中の為関係者以外は入れませんでした。

住宅街に残っている緑地
玉縄城の遺構として整備中かも)

右手太鼓櫓址、正面左が本丸

玉縄城縄張図
七曲坂、太鼓櫓址、堀切、焔硝蔵
の位置が良く分かります。

 ~本丸跡入口~

  太鼓櫓址から住宅街を歩いて数分で、

  本丸の入口正面に辿り着きます。

本丸入口正面

玉縄城遺構案内板:本丸大手門跡
(現在女子高の門なので絶対入れません(@_@;))

不審者と思われたくないので、
そそくさと本丸正面の道を進みます😓

 

本丸付近から下る坂の様です

坂から見上げます

 

 ~池状遺跡(推定玉縄城主館跡)~

  ちょうど本丸の南を下っていくと、

  遺構案内板が見えました。

陣屋坂公園

  降りてきた道は陣屋坂と言うそうです。

玉縄城遺構案内板:池状遺構(城主館跡)


  玉縄城探訪の報告は以上となります。

  市街地化が進む中、玉縄城の遺構の見所は

  主に七曲坂太鼓櫓跡に見られました。

 

  また龍宝寺境内にある歴史資料館には、

  玉縄城の資料が多数展示されていました。

 

  実は、玉縄城から帰ってきた際、

  再度歴史資料館に入りましたら、

  10名程のボランテイアの方達が展示品の

  更新等を行っていました。

  その指導をしていた方が私に声をかけてくれ

  お話したり、掲示物を少し支える等手伝ったり

  しました。

 

  後で確認してみると、玉縄城址まちづくり会議」

  の方達だったと分かりました。

 

  資料館の展示、玉縄城遺構案内板、講演会等のイベント、

  そして何より市街地のど真ん中にある玉縄城の遺構保存

  に自ら計画整備し、そして市や企業、有識者と協議

  して進めている事が分かりました。

 

  最初に資料館に入った時、展示品の内容が、

  どうも他の城とは違う気迫を感じてました。

  (玉縄城北条家を知ってもらい、守り、伝承したい

   ・・・と個人的によく伝わりました)

 

  ちょっと一味違う玉縄城

  お近くに来たらお寄り下さいませ_(._.)_

 

  次回からは、今までほぼ触れてこなかった、

  前田利家上杉景勝真田昌幸ら超有名人軍団、

  北関東から南下してくる北方軍の展開に移ります。

  ようやく❓φ(* ̄0 ̄)

  ・・・次回は唐沢山城辺りかな?

 

  ご高覧ありがとうございました。_(._.)_