歴史ぶらり1人旅

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<小田原北条氏の防衛戦(その6)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(1)

こんにちは。rekikakkunです。

 

いよいよ北条軍と豊臣軍との開戦でございます。

 

前々回の投稿では、秀吉が箱根の手前に到着し、

山中城を視察したところまでお話しました。

その続きとなります。

 

視察の翌日、天正18年3月29日の朝、

いよいよ北条軍と豊臣主力軍との戦端が開かれます。

 

山中城豊臣秀次徳川家康を中心とした軍勢にて攻撃。

韮山城へは織田信雄蒲生氏郷らを派遣し包囲を

開始します。

 

 下マップでは、①山中城、⑭韮山城です。 

 

5.山中城の戦い

 1)山中城 縄張図

山中城 縄張図

  赤字で曲輪の名称を追記しましたが、名称は現在、

  現地に掲示されている案内板に合わせてます。

 

  攻撃は、旧東海道から岱崎出丸等を攻撃した

  豊臣秀次軍と、縄張図右上の西櫓付近から

  攻撃した徳川軍の2方面です。

 

  ま、内容は諸説ある中での参考と捉えて下さいね。  

 

 )攻城戦の概要

  ①開戦日:天正18年(1590年)3月29日

  ②落城日:同上

  ③攻撃側陣容:豊臣方総勢6万8千人

         本軍:豊臣秀次等3万8千人

         左軍:徳川家康3万人

  ④守備側陣容:北条方総勢4千人

         岱崎出丸:間宮康俊(援軍)

         二の丸:北条氏勝(援軍、玉縄城主)

         本丸:城主松田康長

  ⑤攻城戦経過:

   ・豊臣秀次を主将とする本軍は、主要道の東海道

    を攻め上がり、三の丸大手と岱崎出丸へ攻撃。

   ・東海道に沿って守備攻撃をする岱崎出丸と

    正面大手の三の丸からの十字攻撃により、

    大手付近に突入した豊臣軍は、6万石の大名

    一柳直末が戦死する等の大きな損害を被った。

   ・しかし守備兵が約500名程の岱崎出丸が

    間もなく落とされ、主将間宮康俊等が戦死。

    豊臣方は北条兵の撤退を追撃し三の丸へ攻め込む。

   ・左軍の徳川家康隊は西の丸方面の攻略を担当。

    岱崎出丸の陥落を見て北条方の守備意欲が低下

    したところを猛攻し、西の丸を落とす。

   ・城主の松田康長は一門衆で玉縄城主の北条氏勝を

    撤退させ、自らは本丸で戦死、同日中に落城

    しました。

 

 3)山中城アクセス

   さて、国道一号線で三島から箱根方向へ向かいます。

   2015年に出来た三島スカイウオーク

   (当時日本一長い人道吊り橋)を過ぎて、

   程なく山中城の標識が見えますので、その通りに

   旧国道1号線へ右折すると、山中城の入口に

   到着します。

   (小田原側からも同様に国道一号線で行けます。) 

 

   この山中城前の道は元々は本当の国道一号線でした。

   交通事故対策等で2016年山中地区のバイパスが

   開通するまで、みんなここを通って箱根に

   行っていました。

   (2020年にはスカイウオーク側のバイパスも開通)

山中城入口
(ここに駐車場、バス停、売店、そば屋、トイレ等があります)

  そして、ここ山中城を過ぎると、現在でも

  箱根を越えて、すぐに小田原の街に到着します。

 

 4)山中城探訪

  それではいよいよお城に向かいます。( •̀ ω •́ )✧

 

  ①岱崎出丸

   この出丸は豊臣秀吉の来攻に備えて追加した出丸です。

   縄張図の通り、攻城軍の主力が通るであろう

   東海道沿いに曲輪を長く配置して、多く横矢(攻撃)

   が出来る様にしました。

旧東海道石畳から岱崎出丸と本丸の分岐点
(正面が三の丸方向なので、激戦場所かな)

岱崎出丸全景
(大きすぎて全体の半分位、写真左方向が東海道

岱崎出丸 三の丸側(正面左の上に櫓台が見えます)

上写真の拡大
(多分二の丸の櫓台。理由は岱崎出丸が
遠望出来たのがそこだけだったので)

 

 岱崎出丸の中ほどに進むと大きな堀跡があります。

出丸御馬場堀の説明板

岱崎出丸御馬場堀1 結構な迫力です

岱崎出丸御馬場堀2 反対側は掘られていない。
説明板に書いて無かったけど何故かな?途中だったとか?

 

こちらは本当に構築途中だった曲輪跡の説明板

岱崎出丸内に構築途中になってしまった曲輪跡

 

岱崎出丸の先端にある、すり鉢曲輪

すり鉢曲輪 説明板

 

 そして岱崎出丸からの眺望も凄いです。

 下の4枚の写真を撮った方向を縄張図で図示します。 

岱崎出丸からの撮影方向(青矢印、青字)

すり鉢曲輪付近から西方向を望む
(豊臣軍が登って来る方向、
中央やや左が長久保城の位置)

岱崎出丸から西方向を望む。畝横堀を介しすぐ下に旧東海道
(遠くに三枚橋城、駿河湾が見える立地)

上の写真の反対方向(本丸方向)
見事な畝横堀
(一生懸命身手を伸ばして撮影😓)

岱崎出丸の見張り台から北西方向を望む
(中央に富士山と愛鷹山、400年前もほぼ同じ風景ですよね~。
本丸が写真右手の山の先の方向になります)

 

岱崎出丸脇の旧東海道石畳
(戦国期は石畳では無かったと思われますが、
この左手が岱崎出丸で、この道から攻撃陣が
上がっていった)

 

  しかし、岱崎出丸は、一番最初に攻略された

  場所の様です。

  写真を見ると長いですよね~。

 

  以前静岡県出身の城郭研究家で、

  著名な加藤理文先生のお城歩き講座で

  山中城探訪に参加しました。

 

  先生がおっしゃるには、技術的には最高峰の山城

  でしたが、戦力差と共に守備ラインが長すぎた

  との事です。

 

  旧東海道沿いに曲輪を囲む形に配置するのは

  良かったが、攻撃側の兵力が多い場合、

  長すぎ=攻め口が長い=全体を守らなければならない

  ⇒攻撃側の被害も大きいが、兵力差がある

  ⇒守備兵、武器が減っていき、いずれどこかの

   守備ラインが突破される

 

  そして問題は、追加補強された出丸とは言え、

  占領されてしまった状況が他の曲輪からも丸見え

  なので、守備側の士気が下がることになって

  しまい、戦局に響いたのでは?と思われます。

 

 ②三の丸

  岱崎出丸と本丸の間には、三の丸がありました。

  しかし現在は全くその間の防御構造が見えません。

  境目は現在道になってます。

  (元々の国道一号線、面影が見えない😢)

 

  一説には、岱崎出丸が落とされて、北条兵が三の丸

  へ退却するのを追撃して、豊臣方がなだれ込んだ

  とも言われてます。

右手岱崎出丸の端から、左手三の丸入口方向

岱崎出丸を出て、三の丸入口方向
正面中央が旧東海道石畳の道
(大きなカーブの旧国一、三島市の調査報告書を
見ると出丸の名残かもとの事です)

 上の写真のどこかに三の丸の堅固な虎口が

 あったのかな~❓。

 この先が三の丸ですが、旧国道1号線と住居地区

 になっていて分かり難いです。

 

 上写真真ん中の旧東海道に入ります。

 (三の丸に入る感じ)

旧東海道(旧国一から入る)

ただし民家の中ですが、少し見渡すと
土塁の様に見えるものもあります

旧東海道はすぐ旧国一に吸収され、そのまま北東へ進むと
宗閑寺(兼公民館)入口に着きます。
(ここには北条、豊臣両軍の供養塔があるので、後述致します。)

 上写真も三の丸(もしくはその周辺)に含まれており、

 相当広かった様ですね。

 ただし3つ程の曲輪に分割してる図もあります。

 (住宅地区に吸収されてしまったが所々遺構があるのかも)

 

 そして想像ですが、岱崎出丸が落とされた後、

 北条兵は少数の味方兵に対し、20倍以上の

 豊臣軍を見て、三の丸にとり残されない様、

 どんどん本丸、二の丸方向に後退していった

 のかもしれません。

 

 そこを豊臣軍がなだれ込んだのか、

 もう守備をする兵隊が少なかったか。

 

 三の丸の遺構は、一番防御したい西方向に、

 堀土塁の一部が残され整備されています。

 ここは実は、山中城のメインルート最初の遺構です。

 (写真を戦闘時系列的に紹介してしまってる為、

  ぐちゃぐちゃですね(笑))

三の丸西側の堀
(駐車場のすぐ脇にあって、本丸方向へ進む最初の遺構)

  この堀は西側から三の丸への攻撃を防ぐ堀です。

  写真奥正面に旧東海道が横切っていて、

  写真左上のこんもりが岱崎出丸です。

 

 ③西櫓

  一方で西の丸方面は徳川家康が攻撃担当だった様です。

  そして、ここ西櫓と西の丸は山中城一番の見所です。😍

  

西の丸拡大図

城外から城最西端の西木戸口に向かう
(実際は戻ってます)

西木戸口に到着。正面が西櫓。

西櫓の堀を横から見るとちゃんと畝堀が。
(左手が西木戸口、右手が西櫓)

 この辺りから徳川軍が攻め込んだと思われます。

西櫓に入ります

西櫓
(右手は西の丸。ここ西櫓を敵に占領されたら
西の丸から攻撃出来る様、右側のみ土塁が無いとの
ことです。他の3方向には土塁があります。)

 

 畝堀三昧

  そしてお隣の西の丸と西櫓の間。

  ここが凄いんです。間近に見れます。

  南側から西端⇒北側へ、ぐるっと回ります。

西の丸と西櫓の間の障子堀1(南側から撮影)
(右手が西の丸、左が西櫓。ぐるっと右回りします。)

西の丸と西櫓の間の障子堀2

 そして、この一本。

西の丸と西櫓の間の障子堀3と富士山
(先生に教えてもらった撮影ポイント)

西櫓の堀(南側)

西櫓の最西端の畝堀1(南側から撮影)

 西櫓の北側に来ました。

西櫓の最西端の畝堀2(北側から撮影)

西の丸と西櫓の間の障子堀1
(北側から撮影、右が西櫓)

西の丸と西櫓の間の障子堀2
(北側から撮影、左が西の丸)

西の丸と西櫓の間の障子堀3
(これでもかと拡大)
当時はもっと頂上はもっと狭くて、かつ表面は
全面ローム層の赤土でつるつるだった。
崩れ難くする為に芝生や植木をしている。

西の丸と西櫓の間の障子堀4
(右が西櫓、左が西の丸)

西の丸堀の説明板

西の丸と西櫓の間から、北方向に
振り返ると富士山が見えます

富士山拡大

 おわかりでしょうか?

 西の丸と西櫓の間の障子堀が一番の見所ですが、

 ①南側から撮ると障子堀が影になるが、

  富士山が同時に撮れます。

 ②北側から障子堀を撮るとが鮮やかに写る。

  (AM中が良いかも)

 

 ここで3,000文字を越えました。

 西の丸、二の丸、本丸、その他は次回にします。

 

 たまたま三島市の環境整備事業を見たら、

 山中城は昭和45年から平成5年の26年間で

 総額5.6億円をかけて発掘調査、整備を

 したそうです。

 

 山城整備事業の先駆け、日本屈指の山城保存遺構

 で間違いなですよね😊

 

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m