歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その4)> 豊臣家と北条家の交渉決裂、豊臣軍の出陣

こんにちは、rekikakkunです。

 

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

前回までの(その1)から(その3)にかけては、

1.北条家による小田原城総構えの構築

を3つに分けて投稿致しました。

 

今回(その4)は、少し時代を戻って

簡単な時代背景から、北条、豊臣両家の

交渉決裂⇒開戦直前までを進めてみます。

 

過去に使った写真を駆使してみます。😊

 

2.豊臣秀吉の台頭

 天正10年(1582年)6月2日、

 日本史有数の事件、本能寺の変が勃発しました。

    多くの歴史の転換点になってますよね。

 

 武田家を滅亡させ、天下統一が見えていた

 織田信長の突然の急死。

信長の居城 安土城大手道

1582年時点では日本一の安土城天守台跡

   

 その後の天下人レースに勝ち残ったのは、

 豊臣秀吉でした。

大坂城完成まで秀吉の拠点だった天王山、山崎城の本丸。
天守台跡かもしれない石垣。

 彼は本能寺の変の3年後に四国長曾我部家、

 4年後に徳川家康の上洛及び従属、

 5年後の天正15年(1587年)

 には九州及び島津家をを傘下に収め、

 ざっくり小田原北条家の西側全てを

 豊臣家が統一しました。

 

 その後、大坂城を拠点とした秀吉は、

 同年12月に大名同士の私闘を禁じた

 関東惣無事令を諸大名に通達。

現在の大坂城ですが、秀吉時代にも名のあった
本丸北の極楽橋、山里曲輪及び天守を望む

 いよいよ日ノ本の天下統一に向けて、

 残りの関東、東北の攻略に取り掛かります。

 

 

3.豊臣、北条家の手切れ

 九州平定の翌年、軍事的に余裕が出てきた秀吉は、

 天正16年(1588年)後陽成天皇聚楽第行幸を実施。

 自己の権威増強を図りました。

 しかし北条家はその列席要請を拒否してしまい、

 両家は緊張関係となりました。

 

 その後、東国取次となっていた徳川家康

 勧めに応じ、氏政の弟氏規が上洛する事で、

 最低限の収まりがついたみたいです。

 

 翌天正17年(1589年)2月、

 秀吉は北条家から要請されていた

 真田家の沼田領割譲について裁定を行い、

 沼田城及び沼田領の2/3を北条家が領有。

 残り1/3及び名胡桃城は真田氏が領有と

 決定しました。

 

 実際、同年7月沼田城は北条家に引き渡され、

 約束が実行されました。

 (豊臣方の真田家が支配し、北条家が以前攻略に

  失敗していた沼田領の2/3を譲ってもらっている)

 

 そこで、北条氏政は同年中の上洛に向け、準備に入ります。

 

河岸段丘の上にある沼田城を望む

沼田城の戦国期の本丸
(この写真の先が、北側の河岸段丘の崖、
そして名胡桃城の方向)

 ところが同年11月3日、真田領と裁定した

 名胡桃城を、沼田城代の猪俣邦憲が内応者の

 手引きにより占領してしまう事件が発生。

 (=名胡桃事件)

 

 城外に居た真田家家臣の城主、鈴木主水は

 責任を取って自決します。

 

沼田城付近から名胡桃城方向を見る

 

名胡桃城址1(入口)、綺麗だね~😊

名胡桃城2 (一番奥)
(ここも絶景でした。沼田城は写真右の方向)

 真田太平記では、これは秀吉の企みで、

 北条氏政の偽の書状を猪俣に使わせて、

 名胡桃城攻撃を指示してましたねー。

 

 私は秀吉の裁定によって沼田城を得た北条家が、

 なぜ名胡桃城奪取を決断したのか?

 理由が今一分かりません。

 

 兎にも角にも、両家の交渉はここに決裂!

 

 口実を得た秀吉は12月、

 北条家に対し宣戦布告をしました。

 

 

4.豊臣本軍の出陣、開戦前 

 1)先陣が三枚橋城(別名沼津城)に集結

  年が明け、天正18年(1590年)1月、

  いよいよ豊臣、北条双方が軍事動員をかけます。

 

  2月に入り、豊臣軍の先鋒が出陣しました。

 

  2月24日織田信雄軍15,000人

  2月25日徳川家康軍30,000人

  が三枚橋城(現在の静岡県沼津市)に到着。

 

  武田勝頼が北条氏との境目の城として築城した

  三枚橋城が、豊臣軍の軍事兵站集結の拠点となりました。

  もう武田家は全く関係ありません。

  ちょっと時代の流れ、厳しさを感じます。(≧﹏ ≦)

三枚橋城 本丸跡

三枚橋城 説明板(武田勝頼築城と書いてます)


 2)豊臣水軍が清水港に兵糧を運ぶ

  2月27日、長曾我部、九鬼等の水軍1万は、

  20万石の兵糧等を運搬し、清水港に入港しました。

静岡市日本平から見た、清水港、富士山
(2008年12月撮影、3枚同じ時期)

  伊豆半島は、上の写真ではもう少し右奥側です。

  三枚橋城は写真内の右端位。

  この日本平静岡市民として、歴史抜きにしても

  お勧めの絶景スポット、観光地です。😃

 

清水港
(その先には薩多峠、蒲原城富士川と続く)

ついでに綺麗な富士山を掲載
(静岡の富士山は、右側に宝永山が出ている、
この形が基本になってます)

 

  この時は、北条水軍も伊豆半島に健在の中、

  豊臣水軍は兵糧を積んでいるので、

  三枚橋城に近い沼津港では無く、安全を見て

  少し離れた清水港に陸揚げしたのかな?

 

 3)豊臣水軍の伊豆長浜城攻略

  兵糧、武器弾薬等を清水港に輸送した水軍は、

  3月中に伊豆半島の西側の付け根にあり、

  北条水軍の水軍基地がある伊豆長浜城を攻略しました。

新東名のサービスエリアから南東の眺望。
このすぐ下が興国寺城なので、
興国寺城から見た景色と言っても、まあ合ってます。
三枚橋城と長浜城の位置)

  伊豆長浜城攻略しておけば、北条方の水軍による

  三枚橋城奇襲が避けられます。

  (三枚橋城のすぐ南が沼津港)

北条水軍の拠点、伊豆長浜城跡1
(正面右手が淡島)

伊豆長浜城跡2

伊豆長浜城の曲輪跡

伊豆長浜城から三枚橋城を見る

  3月の伊豆長浜城攻略後、豊臣水軍は伊豆半島

  北条水軍拠点を西から順次制圧していき、

  4月に小田原城包囲に加わります。

 

 4)秀吉の出陣

  先陣、水軍が地ならしをしていく中、

  大将の秀吉は3月1日京都を出立しました。

  3月19日駿府(静岡)着。

  3月27日に三枚橋城(沼津)に到着しました。

 

  そして3月28日には家康と長久保城に入り、

  山中城を遠望、視察をしたとの事です。

  (三枚橋城より長久保城の方が山中城に近いです)

ほぼほぼ長久保城から見た山中城の方向
(違うかもですが地図で辿ると、この赤矢印辺り)

 

  事前の調査、検討結果を踏まえ、

  北条方の重要防衛拠点である山中城

  韮山城攻撃等の差配をしたと思われます。

 

  そして翌3月29日、いよいよ山中城攻撃にて

  豊臣本軍と北条方との本格開戦となります。

 

<マップ1 開戦前> 

 今回ご紹介の場所+αをマップで示します。 

 1)①清水港、②三枚橋城、③長久保城は豊臣方の拠点。

 2)④伊豆長浜城は北条氏の水軍拠点。 

 3)⑤韮山城、⑥山中城、⑦足柄城、⑧河村城が

   ⑨小田原城西側の北条防衛拠点です。(ざっくりね) 

   (下田城他はすいません、省略です。m(__)m) 

 このマップを見ると武田が豊臣に入れ替わった

 構図の様ですねえ~。(以前作ったマップに似てる)

 

 実は今回最後の写真以外も、

 以前使ったか、もしくは古い写真です。

 

 そして次回は、新しい写真の全体把握の為、

 今秋に探訪したお城全体のご紹介を簡単にします。

 

 その後いよいよ攻城戦となります。

 ⇒多分 山中城と足柄城からになると思います。 

 

 以上で(その4)を終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m