歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

(静岡県東部のお城ご紹介)駿東の有力国人 葛山氏と葛山城

こんにちは、rekikakkunです。

 

現在、私のブログはいつのまにか

静岡県東部のお城ご紹介シリーズ」

になっておりまして・・・、

泉頭城(柿田川公園)、伊豆長浜城(水軍の拠点)

に続く第3弾と致しまして、

葛山城(かずらやまじょう)をご紹介致します。

 

静岡県の戦国時代のお城や歴史の本等を見ていると、

葛山氏、葛山城は時々目にしてました。

 

そしてその領主葛山氏は藤原北家を先祖に持つ

名門として鎌倉、室町時代を生き抜き、

駿東で1,2を争う有力国人だったと言えます。

 

葛山城の場所は、静岡県裾野市で、下マップ⑤の所です。

国道246号線を北進し、途中の西側です。

 

 

今回はシンプルにお城へ行きます。( •̀ ω •́ )✧

葛山城入口の案内板

葛山城及びその周辺案内マップ

仙年寺正面、右側に広い駐車場、トイレがあります

お城正面の仙年寺から登城します
(写真はお寺の裏まで来ています)

葛山城 説明板

歴代葛山氏のお墓

お墓を過ぎて、登城道を見上げます
山城にしては明るくて広い道です

上が見えてきました
道は竪堀の一つに階段、手摺を設置してました

分岐点に到着しました。ほぼ山頂です。
(すぐ着いちゃいます(^▽^)/)

葛山城縄張図で見ますと、赤字「現在地」の上の位置です。
右下の仙年寺から登っています。

 せっかくなので、ここから東側の大手口まで行って、

 そこからスタートします。

 (上の縄張図の右側、大手への方向です)

大手口への入口
(城の東側を通り抜けて、スタートしてます)

近くから富士山を撮りました。大きいです(^▽^)/

舗装道から入って行くと、すぐ案内板です

大手曲輪へ進む

ここが大手曲輪

大手曲輪を越えて尾根道を進む
(ここも山道というよりは、広くて明るい道です)

袖曲輪への案内

袖曲輪(の方向)

 袖曲輪には行かず、そのまま本丸方向へ直進します。

東曲輪跡

そのまま直進
この辺りやけになだらかだな~と思いましたが、
実はその先は谷地形(天然の堀)になってました。

竪堀の遺構が見えてきました
(写真中央にはお寺から登って来た道の手摺が見えます。
その手前も掘ってあるので、2重の竪堀ですね😃)

本丸東側の堀切

上から見ると堀切が2つあります
(はっきり残こってて、なかなか圧巻です)

 つまり先程の竪堀は堀切と繋がっていて、

 2重堀切に竪堀も2重に繋げた東側の主防御施設でした。

 (尾根道とその斜面からも進入を

       遮ってるのが良く分かる遺構です)

 

堀切と竪堀と道が合流している分岐点

主郭の南側の道を通り、主郭の西側に向かいます
(写真右手が主郭の切岸です)

3号竪堀

てくてく歩くと4号竪堀

 ん?1と2号は?

 後で調べると、東側の2重堀切に繋がっている

 竪堀2本が1と2号でした。納得😓

 

 主郭の南側を通り過ぎて西側に来ました。

五号堀(主郭の西側の堀切)

5号堀切と6号堀切を上から撮る
・・・がなかなか分かり難いね~

 東側と同じく、西側も2重の堀切でした。

 主郭の両側の堀切が2重にはっきり残ってるのって

 なかなか無いですよね~(^▽^)/

 

二の丸虎口(5,6号堀切と本丸の間)

二の丸虎口から5,6号堀切を見る(西側の尾根)
こういうのが自然で良いな~😊

二の丸跡

本丸跡

説明板

本丸の眺望(確か東側、国道246号方向)

畝状竪堀
(短い竪堀が連なると名称が畝状となるのかな?)

本丸東側の帯曲輪

分岐点に戻ってきましたが、これはこれでなかなか
深みがある感じ(堀切と本丸、切岸)

分岐点、なかなか複雑

少し右にずらして撮ると、
2重になってる堀切の頭が見えます
(最初の東側の2重堀切です)

もっと右にずらすと2重の頭

 さて、お寺へ戻ります。

登城時は知らなかったですが、
降りる時は2重って分かったので、2重竪堀を撮る
(左が登城道の竪堀、右側にも竪堀がある)

 なかなか2重竪堀全体を中に入って安全に

 撮れるのって、珍しいんじゃないかな~?

お寺を通って駐車場に戻ってきました
見えてる所が葛山の里、城下ですね

葛山城を外から撮ります
3つある頂きの真ん中が本丸です

近くの葛山氏館跡
通常時はここに居たんですね、
すごい広いね~

~葛山氏の戦国時代~

 ちょっと簡単に調べてみます。

・葛山氏堯:1495年、北条早雲の堀越御所襲撃に

      参加した記録があるそうです。

     (戦国時代の始まりですね)

・葛山氏広:北条早雲の三男。氏堯の養子として

      相続し、今川氏親、氏輝に仕える。

      (この時は北条と今川は緊密でしたね)

葛山氏元:この方が戦国動乱にだいぶ巻き込まれてます。

    1536年、花倉の乱で義元に味方。

    1537年、第一次河東一乱で今川と北条が敵対

        してしまった。富士川以東を北条が

        領有したので、北条方となるしかない。

    1545年、第二次河東一乱で北条に味方したが、

        北条撤退(川越合戦等)により今川に属す。

        (今川家中でも有力な地位だった模様)

    1560年、桶狭間の戦い今川義元戦死。

    1568年、信玄の駿河侵攻で武田に鞍替え。

        ただし今川に味方した北条により、

        葛山城を攻められ落城。

        (この侵攻では、信玄は撤退してる)

        つまり葛山城を失ってます。 

    1571年、相甲同盟により葛山城は武田方となる。

        (信玄の駿河領有成功)

    1573年、謀反の疑いで信玄に処刑される。

        え~まじか(@_@;)

葛山信貞:1573年、信玄の六男の信貞が葛山氏を継ぐ。

          (葛山一族の娘を娶る)

          甲府に残り、実務は御宿氏等が行う。

      1582年、武田滅亡時に甲斐善光寺で自刃。

          葛山氏滅亡。

 

 武田、北条、今川の3国の国境だった駿河東部は、

 御殿場深沢城、長泉の長久保城、沼津の三枚橋城等、

 一進一退の攻防戦が行われています。

 

 その為、葛山氏等の国人領主達は大国間を渡り歩き、

 信用されずに乗っ取られて滅亡の憂き目に合ってしまう。

 大変な世ですね。

 (そういえば関ケ原シリーズでの小早川家も

  似た感じでしたね)

 

 今回は静岡県の中でも名の知れた、一つの有力国人領主

 の必死の生き方と、遺構保存状態が良いその主城を

 ピックアップしました。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m