こんにちは、rekikakkunです。
前回は駿河東部の有力国人、葛山氏と
その居城葛山城をご紹介致しました。
駿河東部は今川、北条、武田氏3家境目の
位置の為、激しい争奪戦があった地域です。
場所を地図で確認してみます。
まず3家の本拠地を①から③で示します。
②小田原城(北条氏居城、神奈川県)
そして、3家での争奪戦がありました
境目のお城を、④から⑦で示します。
④深沢城
⑤葛山城
⑥千福城
⑦長久保城
あまり聞きなれないお城かもしれませんね。
私も⑤の葛山城以外は最近知りました。
そして駿東境目の城や争奪戦は、上記以外にも
富士大宮城等、沢山あると思いますが、
今回は3家に最も近い国道246号線沿いの
お城に焦点を当てます。
(まあ、結果的にそうなってただけですが🙄)
御殿場から沼津に至る街道は、
とも言われている様です。
さて、今回は前回の葛山城の南方向近く、
葛山氏の支城千福城を探訪致します。
(グーグルマップの⑥です)
1.景ケ島渓谷(けいがしま)
葛山城から南へ約1km程、
千福城への途中に景ケ島という
名勝地がありましたので、寄ってみました。
地図では⑤と⑥の間の位置です。
(ほとんど同じ位置)
駐車場に車を止めて、道向こうに行きますと、
入り口と案内板がありました。
約1万年前の富士山噴火で愛鷹山と箱根の間に
溶岩が流れました。
その溶岩を通って湧き出た泉が、以前ご紹介しました
柿田川公園、泉頭城です。
景ケ島渓谷も、この固まった溶岩が年月をかけて、
佐野川に浸食されてできた渓谷だそうです。
2.屏風岩
渓谷から車で千福城方向に進むと、
すぐに屏風岩の看板が見えたので、
道沿いの駐車スペースに入りました。
景ケ島渓谷の末端に柱状節理が露出した様です。
溶岩が冷却収縮過程で垂直に割れて六角形になった
のが柱状節理みたい。
(プラタモリでよく聞きますよねー)
写真で見ると、確かに六角形になってますね~。
3.千福城
さて、ようやく千福城に到着です。
正面は城主館があったとされる、
普明寺(ふみょうじ)があり、数台駐車できます。
千福城は独立丘陵を利用し、周囲を川に
囲まれた要害の地。
葛山氏の支城でしたが、
今川家に味方した北条氏が駿東を支配しました。
この時、葛山城と千福城は北条氏所有となり、
千福城も現在の規模まで拡張されたと思われます。
翌1570年信玄が深沢城を攻撃の際、
北条氏政自ら後詰として千福城に入ったと
言われています。
武田氏の支配後は葛山氏の一族、
御宿監物(みしゅくけんもつ)が
城主となり、信玄の六男で後を継いだ葛山信貞の
代行として統治していたとの事です。
(この時千福城は城破却の話もあり、
使っていたかは不明だそうです)
竪堀撮るのが難しい🤣
木で見え難いけど、木があるから
風雨に削られずに残ってられるんですよね~。
千福城は葛山城よりも大きいらしく
(実際歩いてもそう感じる)、
遺構も多くて見所満載でした。
そして曲輪が多くて広く、葛山氏、御宿氏の地盤
では守り切れない感じがしますので、
武田家をこれ以上南下せさない為に、北条家の陣所
として拡張したという説もありかもしれません。
4.御宿氏(みしゅくし)について簡単に
少し調べてみると、葛山一族である御宿氏は、
結構面白い歴史がありました。
(詳しくは知らないけど、どこかでなんとなく
聞いたことがある感じですかね~🙄)
まず、源頼朝が富士の鷹狩りで葛山家の一族
の館に宿泊したことから、その子孫が
御宿氏を名乗ったそうです。
武田氏が千福城地区を支配した時、
実質統治したのが御宿監物友綱です。
彼は武田家重臣と姻戚関係を築き、
戦国時代武田信玄が西上作戦で病に
倒れた際に、治療をしてたそうです。
継ぎましたが、1582年武田家滅亡後北条家、
北条滅亡後結城秀康に1万石で使えたそうです。
なかなか高い知行ですよね~。
(結城家の直前、少し家康に仕えてたのかも)
1607年結城秀康の死後は浪人となり、
「武将と言えるのは後藤又兵衛と御宿官兵衛だけ」
と言ったそうです。
それほど彼の武勇は認知されていた様です。
(そしたら凄いですね~)
そして夏の陣最後の戦いで奮戦の上
討ち死にしたとされています。
戦国武将らしく波乱万丈ですよねー。
千福城と御宿氏のお話は以上で終わります。
次回は静岡県東部シリーズのラストを
予定してます。
少し調べて行くと、この地域の争奪戦の潮目は
武田信玄による深沢城の攻略成功と
感じましたので、行って来ました。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m