歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その16)>戦国関東で攻防戦の舞台となった城 武蔵松山城

こんにちわ、rekikakkunです。

 

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

今回は武蔵松山城を探訪致します。

ここは是非とも行きたかった所です。

だって下の写真見てもかっこいいので。😀

武蔵松山城 上空写真

 

14.武蔵松山城(国指定史跡)

 1)武蔵松山城の立地

  武蔵松山城は下のグーグルマップの位置です。

  (以後松山城と記します)

 

  この場所は埼玉県のちょうど中央の位置で、

  比企地方とも呼ばれます。

  そう、鎌倉幕府で北条氏と並ぶ有力御家人だった

  比企能員(ひきよしかず)の本拠地です。

 

  比企能員は、源頼朝の乳母であり、伊豆配流以降も

  援助を続けたとされる比企尼(ひきのあま)の

  猶子となって比企氏を相続しました。

 

  頼朝からすると第一の恩を授けてくれたのが比企氏

  と言えますので、能員頼朝の長男頼家の乳母父、

  妻は乳母、娘は妻妾となり、北条家に次ぐ血縁を得て

  超有力御家人となりました。

 

  うっ、どんどん話が逸れていきますね~😓

 

  まあ、その比企氏の本拠地は、戦国時代に

  関東の騒乱、攻防の中心の位置でもあり、

  個性豊かな城や館が多く存在してる様です。

 

  その中で規模、築城技術、保存状態等が良好な

  4つの城館(松山城、杉山城、小倉城、菅谷館

  が「比企城館跡群」として、2008年に

  国指定史跡になりました。 

 

 2)松山城の歴史

  ①築城

   諸説ある様ですが、室町時代の領主である

   上田氏の築城とされています。

 

   上田氏は、鎌倉幕府創立時の重鎮大江広元の子孫が

   信濃(長野県)上田荘の領主となったことから

   上田氏を名乗りました。

 

   信濃上田荘という事は・・・、

   そう😃、名前の通り、あの真田昌幸が築城した

   有名な上田城、そのすぐ東側の神科台地一帯

   だそうです。

   また毛利元就の遠い親戚ですかね?

   ここまではなんとかついていけました。😓

 

  ②戦国時代

   戦国時代に入り、扇谷上杉氏に仕えていた

   上田朝直松山城で、対抗していた古河公方

   山内上杉氏に対する前線基地だったようです。

 

   ちょっとやばい雰囲気が・・・

   扇谷、山内、古河とかがややこしくて😓

 

   しかし1537年主君の上杉朝定北条氏康

   本拠地川越城を奪われてしまい、この松山城

   扇谷上杉家の本拠地となりました。

 

   その後両上杉家は和睦し、強敵となった後北条家

   への備え、前線基地となります。

   しかし1545年川越合戦上杉朝定が戦死し、

   扇谷上杉家は滅亡。

 

   その後上杉謙信武田信玄北条氏康といった

   戦国スター3人衆(信長、秀吉、家康の前の元祖

   戦国3人衆と言ってよいのではないかと・・・)

   に攻略される等、攻防争奪の最前線の城として

   活躍したそうです。

   伝令犬を使って松山城へ素早く援軍に駆け付けた

   という、太田資正(三楽斎)も絡んできますよね~。

 

   もう沢山あって分からないので、

   さらっと締めます。すいません(__)

 

  ③小田原防衛戦

   小田原防衛戦当時、松山城上田朝直の子、

   憲定でしたが、彼は小田原城に在陣したので、

   残った家臣2,300名程で籠城しました。

 

   そこに前田利家上杉景勝

   真田昌幸達の北方軍に包囲され、

   1590年5月22日頃落城しました。

   

   そして1601年廃城となりました。

   

   上田氏小田原城落城後、

   没落してしまったとの事です。

   

 3)松山城の縄張

  松山城は下の写真の様に、市野川がぶつかって

  蛇行した丘陵に築かれており、周囲は湿地帯だった

  と伝わる要害の地です。

松山城 上空写真

  城域となる丘陵は、下の縄張図で見ても、青色が

  黄色が曲輪で、等高線部はへこんで堀の一部と言えるので、

  が城面積の約50%を占める珍しい構造だそうです。

松山城 縄張図

 これを見ると全ての曲輪間が、大きな堀で遮られて、

 土橋だらけな感じですね~。

 この縄張図を片手に探訪しました。

 さて、松山城へ行きましょう。

 

4.松山城探訪

 実はこの日は埼玉探訪初日で、暗いうちに静岡を出て、

 岩槻城に直行してから、松山城に来ました。

 駐車場は隣にある吉見百穴(よしみひゃくあな)

 に停めさせて頂きました。

吉見百穴

 

吉見百穴2

 吉見百穴で昼飯と期待してたのですが無かったので、

 車で探し回ってやっと王将を見つけました。

 (土の城は昼飯に困る、あるあるですね~)   

王将の回鍋肉定食

 だからなんだという訳ではありませんが、

 腹ごしらえを済ませて、いざ出発です。👍

 

 吉見百穴駐車場の目の前が松山城です。

松山城 説明板
(あれ?最後の指定史跡の上側が消されているのは何故?)

 

 城への入口が近いのは本丸側(市野川側)ですが、

 やはりお城なので、登城順で進みたいので、

 松山城と百穴の間の車道を登って、城の北東側

 へ回り込んでから入城したいと思います。

城北側の車道を登って振り返ってます。
(左が松山城、右が吉見百穴

車道を登り切って城の北東を進む

流石、案内板がありました

東側は下がってるので、ここがお城の境界、
その先が根小屋なのかもですね

城の北側から東側へ回り込んだ道

ちゃんと標識が有りました👍

入口には詳細な縄張図と現在地表示があって、
とても分かり易いです。
駐車場からここまでの経路を青線で追記しました。

 

 この城入口からの探訪経路は、赤線で縄張図に追記します。

城入口からの探訪経路図です。
(ここから入る)の場所から入ります。

入ります

入ってすぐに堀です

曲輪4

ずいぶん広い曲輪ですね~

曲輪4の出口と土塁

曲輪4を出ると、土橋
来ましたね~😍

曲輪4から降りた

土橋の横がですね。堀底を進んでみます。

曲輪4

曲輪4を1周して戻って来た

また曲輪4を降りる

先程は土橋から堀底を進みましたが、
今回は土橋から次の曲輪への道を進みます

と思ったが、逆の堀底を進む
(右上に正規の道の矢印)

土橋に戻って来た

三ノ曲輪へ進む

三ノ曲輪 標識

三ノ曲輪の入口

三ノ曲輪

三ノ曲輪説明板

三ノ曲輪から土橋を介して四ノ曲輪を見る

三ノ曲輪

三ノ曲輪の出口方向

自然地形の感じですが急斜面になってますね

三ノ曲輪から二ノ曲輪へ向かう

三ノ曲輪二ノ曲輪間の土橋

二ノ曲輪から三ノ曲輪を見返す

 ちゃんと順番に高くなってるんですね~

二ノ曲輪

二ノ曲輪の出口

二ノ曲輪からに出て本曲輪へ向かう

から本曲輪へ上がる

本曲輪に着きました

本曲輪

松山城 説明板

松山城 立地と縄張図

比企城館跡群の場所
松山城、杉山城、菅谷館、小倉城

 

本曲輪を出て、兵糧庫跡根小屋方向へ向かいます

兵糧庫跡

多分、惣曲輪跡

根小屋虎口(出口)

根小屋の現在
(城の東側です。城から見て市野川の反対方向。)

 城を出て、来た道を戻ります。

 吉見百穴松山城の間には岩室観音堂があります。

岩室観音堂

岩室観音堂

岩室観音堂 説明板

石仏 ちょっと雰囲気有ります

岩室観音堂からの登城路は閉鎖
松山城の竪堀

松山城の西側へ向かう
(右の市野川はこの先で左方向へ蛇行する)

上の写真を左に曲がり、松山城の西端に来る
(ここも登城口で本曲輪に通じる。右手には蛇行した市野川。)

松山城説明板
(赤字の現在地が上の写真の位置です)

 

 今回ほぼメイン道しか行っていないので

 城全体の半分も見ていないと思います。

 写真は単調ですいません。

 それだけ土の城の遺構が多いということですね~。

 

 次回は築城者が分からないのに山城の教科書

 と人気が高く、是非行ってみたかった

 杉山城探訪比企城館跡群の一つ)です。

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_