歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<天下分け目の関ヶ原2>合戦前日、小早川秀秋 松尾山城に着陣(1/2)

こんにちは~、rekikakkunです。

 

関ヶ原シリーズ第2回目は、

小早川秀秋が布陣したことでも

有名な松尾山城を探訪します。

 

歴史の時系列的には、関ケ原の決戦前日の昼頃、

家康の赤坂着陣と同じ頃だったそうです。

ここも意外と前日布陣ですね~。

家康と小早川の着陣から半日を経ずに西軍主力が

関ケ原へ向かい、1日を経ずに決戦が開始されてる

ことから、とても重要な局面だったと考えます。

 

さて、松尾山城へ向かいましょう。

 ①JR関ケ原駅(参考)、

 ②松尾山駐車場、③山之神神社、④松尾山城主郭

 

 東名高速関ケ原ICを降りて、すぐ南側の広域農道、

 別名戦国ロードを西に進むと、上マップの②駐車場の

 入口が見えてきます。

 ②の駐車場から③、④へと登っていきます。

 

松尾山登山口駐車場
(グーグルマップにも、拡大すると載っています)

駐車場と小早川秀秋陣跡 案内板拡大

 駐車場に到着してみると、既に3台の車が駐車

   されており、なかなか人気なのが分かります。

 (他の情報を見ると休日は満車の時も多いとか)

 

 11:17、駐車場から出発です。(≧∇≦)ノ

登り始め

綺麗な花が迎えてくれました

側溝がある山道って初めてです。
分かれ道の案内もしっかりしてます。

分岐点の案内

 11:35山之神神社に到着。

山之神神社1 

山之神神社2

土橋風の道を進む
自分には土橋にしか見えないです(笑)

土橋の真ん中で横を見ると谷地形を利用した堀切に見える

 ですが、堀切と土橋のセットってありましたっけ?

 あ、金山城に堀切+土橋+竪堀の3点セットの場所が

 ありましたね~。

 でもなんとなく自然地形の谷に後世、

 道を作っただけの様な気もします。

 守るにはちょっと間延びしてる

(城の主な守りから離れている)感じがするので。

土橋を過ぎて、階段を登っています。
左側が曲輪であれば、さっきのは土橋と
思いますが、確認してなかった( ̄ ‘i  ̄;)。

山道が広くなってます。
曲輪なのか後世のものか?

あと240M、頑張れとの標識も

この辺りから平削地が散見されます。

 

 多分、ここから縄張図に載ってくると思います。

 

 <松尾山城縄張図> ちょっと古い図らしいですが。

松尾山城 縄張図と写真掲載位置(右上から進みます)

 【縄張図①】の写真は上の縄張図の①のところです。

  (ただし平削地は何箇所かあったので違う場所かも)

【縄張図①】主郭へ行く途中の平削地1

【縄張図①】主郭へ行く途中の平削地2
関ケ原側の曲輪なのに土塁が無いので、
城に入りきれない兵士用の溜り場を作ったのかな?

 ↑ でも作ったのって小早川秀秋軍?

 彼の軍は9月14日昼に松尾山に到着したとのこと。

 翌日朝から合戦だから、日中5,6時間位しか松尾山に

 居ないけど作れちゃうのかな?

 

 その前だとすると、西軍が大軍を収容する計画で

 造った可能性がありそうですが。

 でも、そもそも関ケ原で決戦になるのって、

 両軍共前日に分かったのでは?

 西軍主力陣地用とすると、元々大垣ー岐阜戦線から

 後退するつもりだったの?

 城の全体像は元亀、天正頃の時代が主と思いますが。

 ・・・と勝手に悩んでいます(˘・_・˘)

 

 下は縄張図に載っている分岐点ですね。

 11:57着。

 ここから本格的な城エリアになっていきます。 

【縄張図②】左右の分かれ道(尾根筋)に着きました。

 

【縄張図②】分岐点を左に曲がると東側の曲輪

【縄張図②】右へ曲がると主郭方向です。

 まずは、主郭の方向に行きます。

上の方が開けてきました。
そして主郭北側切岸下の道に竪堀がある様なので行ってみます

 

【縄張図③】なんとか竪堀らしく撮れました

のぼりが近づいてきました。
いよいよ主郭、山頂です

(参考)因みに2年前に山中の大谷吉継陣地から見えた松尾山
(結構遠いですねー、
小早川軍の最前線ってどの辺りだったんだろう?🙄)

(参考)2年前大谷陣地から見えた松尾山城主郭部の拡大
(黄色、白色ののぼりが主郭ですよね~)

 

山頂直前の城説明板

 

 主郭に到着しました。

 時刻は12:04。

 駐車場から47分でした。(ゆっくりめです)

 

 主郭まではおおよそ10人位の方とお会いしましたし、 

 小学生を連れたご家族もいらっしゃいましたので、

 思ってたよりは気軽に行けました。

【縄張図④】主郭に到着しました

土塁が復元されています

 

 そして、北の方の眺望を見に行くと・・・

関ヶ原眺望1
(おー、これを見に来ました😊)

関ケ原眺望2

関ヶ原眺望3

関ケ原眺望案内図(上手く映ってない)

 

西軍陣地拡大

西軍陣地拡大追記版(厳密には陣跡の碑があるところ)
この写真を見ると真ん中の島津軍が最前線に見えてしまう(・・?

北西方向、伊吹山

伊吹山拡大

写真中央に家康最終陣地、関ケ原資料館、
その右上先に黒田陣地

一番東方向。
写真右側の南宮山が木で見えない

 

 さて、主郭から南方向へ行ってみます。

 ここからが、ほんとの山城構造に会える感じ。

 

 再度縄張図を参考に載せます。

 桝形虎口⑤から進みます。

松尾山城縄張図と写真位置

 

【縄張図⑤】主郭南の桝形虎口(主郭から見る)

【縄張図⑤】主郭南の桝形虎口(入口から見る)

 

【縄張図⑤から⑥を見る】主郭桝形虎口の先(南)
にある馬出状の曲輪

 上の写真に興味を抱かないと、行かないですよね~。

 

【縄張図⑥】馬出しの看板

【縄張図⑥】馬出し曲輪から主郭を見る
主郭の入口は真っすぐ先では無くて、
左側に曲がっている

【縄張図⑦】馬出から出ると土橋

【縄張図⑦】土橋の左右は竪堀とのセット

【縄張図⑧】土橋の先にはクランク状の曲輪、
ある意味桝形の曲輪

 ここから戻り、土橋の西側竪堀の脇に道があるので、

 土橋、馬出の西側下を通ってみます。

【縄張図⑨】馬出し曲輪の西側切岸の下を通ってます

【縄張図⑩】土橋西側の竪堀(だったと思う)

【縄張図⑪】馬出曲輪の西側切岸

 

【縄張図⑫】主郭から赤矢印方向に進み、
下の青矢印方向に戻ってます

【縄張図⑬】主郭南西側の切岸(上写真の青の矢印の辺り)

 なんか土橋、馬出、曲輪の下も歩けるのって

 2倍得した感じがしたりして・・・😊 

 兵が沢山駐屯する周辺の曲輪から防衛及び出撃するのに

 使われた犬走でしょうか。

 

 そして主郭切岸の反対方向を見ると・・・、

【縄張図⑭の周辺】主郭から西側の谷、堀、曲輪等

 木々であまり見えませんが、何かありそうですね~。

 どうなってるんだろうっていう山城特有のわくわく感が😎

 

 

小早川秀秋の略歴~

 さて、小早川秀秋ですが、ねねの兄木下定家の五男

 として生まれ、豊臣秀吉の養子となり、小さい頃は

 有力な後継者とされていました。

 

 しかし秀頼が生まれたため、秀吉は不要となった

 秀秋を毛利家に養子に出そうと考えました。

 

 これを知ったのが元祖5大老の一人で、

 毛利家を支えた、人気の武将小早川隆景で、

 彼は自身の家、小早川家の養子に秀秋を迎え、

 毛利家を乗っ取られない様に図りました。

 

 ただし隆景はというと、ある意味小早川家を

 乗っ取っています。(元就の時代)

 

 そして秀秋の死後、小早川本家は断絶、

 取り潰しとなります。

 

 つまり、乗っ取って、乗っ取られた挙句取り潰し。

 www厳しさ3倍増です( ;∀;)

 

関ケ原合戦前の小早川秀秋軍の動き~

 さて、関ケ原合戦前を見てみましょう。

 秀秋は8月1日までの伏見城攻城戦に

 西軍として参加したものの、

 その後は近江、伊勢等で単独行動を

 してたとのことです。

 (1.5カ月以上の兵糧を準備してたのかな?

  自城が近くに無い小早川軍は西軍勢力下では、

  とても東軍味方を表明できなかった)

 

 関ヶ原合戦前日の1600年9月14日、

 突然松尾山城に表れ、城を守っていた伊藤盛正隊

 を追い出して松尾山城に布陣したとされています。

 (だれの考え、目的だったのかな~?凄く知りたいです)

 

 そしてその伊藤盛正はそもそも大垣城石田三成

 西軍に明け渡した、元大垣城主でした。

 

 この方もたらい回しにされた挙句、戦後家康に

 殺されそうになる等大変な目に( ;∀;)

 が、なんとか生き残って前田家に仕えたそうです。

 

 今回松尾山城は、主郭とその南側にはっきりと

 遺構が残っていましたね。

 そして関ケ原全体を俯瞰出来る主郭の眺望

 も素晴らしかったです。

 

 まだ写真が半分あるので2回に分けたいと思います。

 西側の曲輪と谷地形の堀、東側の曲輪等、

 まだまだ遺構が沢山ありました。

 

 以上で松尾山城前半を終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m