こんにちは、rekikakkunです。
(下のマップ⑤です)
今回は大給松平家の拠点、
大給城(おぎゅうじょう)を探訪します。
下のマップで⑥の位置です。
(①の松平城のすぐ近く)
ここで松平家のお話を少し。
(多少・・・いやだいぶ間違ってるかもしれませんが、
さらっと見て下さい_(._.)_)
自分が訪れたお城の来歴を知りたくて、
まとめた系図が下図です。(前ブログでご紹介)
1.三河松平十八家
初代親氏公以降、主に3代信光、4代親忠、5代長親
の庶家が多数あり、江戸時代まで残った松平庶流を
総じて三河松平十八家(十四家)と呼ばれるそうです。
ただし私の図で十八に入っている家は
大給家しかありません。
岩津家、大草家は江戸時代前に無くなっています。
これら十八家や滅んだ庶家は、御多分に漏れなく、
戦国期、三河国内において同族同士の主導権争いが
絶えまでんでした。
それら多数の松平庶家を配下に抑え、
三河の国をほぼ統一したのが
家康の祖父清康公となります。
(この清康公の実績が徳川家臣団を
引き付ける源だったと感じます)
家康は桶狭間の戦いにより独立した後、
6年後である1566年に、徳川家を
起こしました。
松平家の上位に徳川家(自分)位置付けし、
家臣化させることに成功しました。
なので家康以降、同族の松平家って
あまり目立たず、聞かないですよね?
2.江戸松平十八家
家康以降、松平の称号を与えられた家。
例えば家康の母、於大の方を妻に迎えた
久松氏は、桶狭間の戦い前後頃、
家康から松平氏と葵の紋を授けられ、
久松松平家となりました。
こうした譜代系の松平家が八家。
また外様系では、前田家や伊達家等の
江戸時代の有力大名も松平氏の称号を
授けられています。
この外様系が十家。
⇒合計江戸松平十八家。
ま、外様系はその他島津、毛利、黒田等
があって有名な大名達ですよね~。
3.大給松平家
大給松平家は松平4代目親忠の次男乗元が
大給城を与えられ、大給松平家が起こりました。
(三河松平十八家の一つ)
家康が関東に移封となったとき、一緒に移動し、
大給城は廃城となりました。
大名家として存続しています。
4.大給城
さて、大給城に向かいましょう。
豊田松平ICから西へ国道301号線を進み、
途中、大給城に入る道に右折します。
前々回のブログでご紹介しました松平郷から、
直線距離で3km弱西、という近さです。
私が平日行ったら、5台程の駐車場が満杯だったので、
少し広くなっている道沿いに停めました。
大給城へ向かいます。
すぐに下の案内板。
最初に堀切がありました。(上図のA)
大給城はここからの展望がピカイチでした。
この景色見て少し思いました。
写真中央奥のビル群は名古屋市街地。
その名古屋市街の手前には
細かな丘陵(緑地)が点在してますよね?
少し調べてみると愛知県東部の山岳地帯は
三河山地と呼ばれており、今いる大給城は
その西端に位置してます。
その西側に矢作川が流れ、岡崎平野が
広がってます。
そして名古屋中心部の濃尾平野と岡崎平野の間は、
東部丘陵と呼ばれる丘陵により隔てられおり、
今この眺望はおおよそ、その東部丘陵を見ています。
そして桶狭間はその中にある様です。
(眺望4写真の中央より左側)
今川義元が大高城や鳴海城に行くためには
必ず東部丘陵を越えるので、
信長は自軍が見つかり難いこの地での
決戦一択を狙っていたのかもしれません。
上のグーグルマップを見ますと、
①大給城の西側は薄緑色の丘陵地帯が
広がってますよね~。
これがおおよそ東部丘陵の様です。
信長が義元本陣を強襲前に義元の所在地
情報を収集した場所が④善照寺砦。
ここは東部丘陵の西端ぽいです。
(ここから先、東が東部丘陵)
③大高城も当時西側は海だった様ですが、
東部丘陵の西端と言えそうです。
②の桶狭間はその東、東部丘陵の中ですね。
戦国当時は近現代の開発前で丘陵の起伏は
もっとはっきりしていたかと。
一択なので重臣にも伝えず、情報漏洩を防止。
昨今奇襲説が否定ぎみになってますが、
東部丘陵を戦場と考えていたのであれば、
イコール奇襲を基本戦略としていた
のだと思いました。
(個人の短絡的な意見です_(._.)_)
だいぶ脱線しました。
大給城に戻ります_(._.)_
以上で大給城の探訪を終わります。
大給城どうでしたでしょうか。
途中話脱線しましたが、このお城では
約20人程の方とお会いしました。
私が行った山城では一番多かったです。
山中城と並びお薦めの山城と思いました。
そしてハイキングがてらの方も居ましたので、
比較的安全に探訪できる山城かと思います。
次回は本シリーズラストの岡崎城になります。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m