歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

三河松平氏の歴史を訪ねて2 愛知県最大級の山城、三河山中城 と 大草松平氏

こんにちは-、rekikakkunです。

 

1.はじめに

 大河ドラマ「どうする家康」の系譜をたどる為、

 岡崎を中心とした旅を検討していたところ・・・。

 

 岡崎の近くに大給城(おぎゅうじょう)と山中城

 という大きな山城、遺構があることを知りました。

(特に山中城は初めて知りました)

 

 そこで今回計画して探訪しました城を

 下のマップに表記してみます。

 ①松平城、②岩津城、③安祥城、④岡崎城

 ⑤山中城、⑥大給城

 

 前回ブログでは①、②、③を探訪しました。

 (①②③は松平宗家の居城でした)

 

 今回は山中城を探訪します。

静岡県山中城と混同しない様、

 表題のみ三河を追記してます)

 

2.山中城の位置

 山中城の場所はマップ⑤です。

 ④岡崎城の南東20km位かな。

 

3.山中城築城と西郷氏

 山中城は西郷氏が15世紀半ば頃に

 築城したとされています。

山中城遠景、真ん中山頂が本丸

 

 西郷氏は三河守護代も務めた事もある有力国人で、

 岡崎城も築城、岡崎周辺を支配していました。

 

 ふ~んって感じで、

 西郷氏を少し調べてみると・・・・。

 

 薩摩の西郷隆盛会津西郷頼母

 2代将軍徳川秀忠の生母西郷の局と、

 私が知っている西郷さんが、みんな

 遠いところで繋がっているそうな。

 

 びっくり仰天( ゚Д゚)

 深すぎる(´・ω・`)

 しかし、山中城に行かなかったら調べなかった

 かもなので、良かったです😊

 

4.大草松平氏

 山中城を父と共に築城した西郷頼嗣は、

 勢力を増した松平3代目の信光に屈服し、

 信光の子光重を養子に迎えました。

 大草松平家の誕生です。

(岡崎松平家とも言うそうです)

 

 これを松平氏系図で見ると、前回のブログで

 整理しました下図の一番下行になります。

 ⇒家康の5代前の弟ですね。

 

松平氏系譜

 1524年(大永4年)、大草3代松平昌安の時、

 同族であった松平宗家である清康の奇襲作戦

 により、山中城岡崎城と共に落城しました。

 

 ⇒つまり山中城松平宗家3代目信光と

  7代目清康の2回攻略されてます。

 

 その後今川氏の管理下、家康攻略等を経て、

 1563年(永禄6年)には三河一向一揆

 一度占拠されたそうです。

 

 昌安の子、4代目昌久はこの一揆の時、

 吉良氏と共に反家康側に参加しました。

 しかし1564年(永禄7年)籠っていた

 東条城が落城し、行方不明となったそうです。

 (当時吉良氏の城、西尾市

 

 この4代目が、「どうする家康」で家康が岡崎に

 戻った後、何かと家康に敵対して登場していた、

 松平昌久です。

角田晃広さんが演じていました)

 

 大草松平家、元山中城主の家系ということですね。

 家康の祖父に山中城を奪われてるのですね~。

 これを書いていて、何で目の敵にしていたのか

 やっと分かりました(笑)

 

 1590年(天正18年)家康の関東移封により

 山中城は廃城になってます。

 

 さて、長々と拙い前置きを書きました。_(._.)_

 お城に向かいましょう。👍

 

5.山中城アクセス

 国道1号線から名電山中駅付近で南に曲がり、

 県道324号線を通ります。

 国道1号線の東海道、県道324号線は吉良道と、

 戦国時代の主要道路を押さえてる様です。

 

 324号線を通って数分で、通り沿いの山中城専用

 駐車場に到着しました。(写真左側です)

山中城駐車場

駐車場から324号線を南へ歩いて、
すぐに山中城の看板が見えました

看板の方向を見ると、正面が山中城入口です
現在9:40

 

6.山中城探訪

入口に来ました。防獣柵を開け、閉じます

 標高195m、比高100mの連郭式山城で

 愛知県最大級の山城と案内されています。

 

山中城址遊歩道案内板

 私の攻城ルートは赤丸の現在地、舞木口から登り、

 城内散策後、左手の羽栗口へ降りました。

 

縄張図で見ると赤線右側から登り、左下に降りるです

 入口写真の通り、説明、案内が豊富で、

 親切さ、地元の山中城に対する愛着を感じます。

いよいよ登ります

こんな感じの、さほど急ではない山道を進むと

分岐点(右八幡口、左城方向)
頂上まで200mと遊歩道看板がだいぶ親切ですね~

 

馬の背と書かれている尾根道

最初の曲輪Ⅶに到着

登っていきます(右手は曲輪Ⅴ)

一度振り返る(当時の経路っぽい)

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ、結構広い

 

曲輪Ⅴから曲輪Ⅳ方向を見る

曲輪Ⅴから堀切と曲輪Ⅳを見る

曲輪Ⅳ、Ⅴ間の堀切

曲輪Ⅳ

曲輪Ⅳから曲輪Ⅴを見る
(ここも迫力あり)

曲輪Ⅳから本丸方向を見る

曲輪Ⅳから馬出Fを見る

馬出Fに来ました

馬出F

馬出FからⅣ東曲輪(写真半分)を上から望む
(遊歩道は曲輪Ⅳより少し高いので
当時の道ではなさそうですね)

馬出Fから左本丸方向ですが、右手は

北東尾根曲輪へ通じる道
(縄張図では中央北曲輪の名称になってます)

少し歩く(左手が本丸側の切岸)

中央北曲輪ⅧかⅨ
後で写真見ると分からないですね~(o^―^o)

北東尾根と本曲輪区域を遮断する竪堀O

中央北曲輪Ⅸ

中央北曲輪Ⅹ

曲輪Ⅹから急斜面越しに堀切Mを上から見てます
・・・が写真では上手く撮れない
(これ以上は行かないでのピンク印ですね~)

これは曲輪Ⅹに残る土塁かな?

馬出Fの分岐点に戻ってきました

 

曲輪Ⅲの脇を通り奥に本丸が見えてきました

木を倒してくれてます
(こんなに手を加えてくれて凄いと感じます)

来た道と東郭(曲輪Ⅲ)

さあ、もうすぐ本丸です

本丸に到着しました(曲輪Ⅰ)

本丸反対側は二の曲輪です(曲輪Ⅱ)

縄張り図がありました

 

 そして主郭からの眺望は流石です。

主郭から東海道方面(北側)を見る
街並みは吉良道沿いですねー

拡大

正面

南側

ちょっと一休み
(駐車場から本丸までちょうど1時間でした)

二の曲輪には周辺かすかに土塁跡が見れます

本丸と二の曲輪の間、南側に降りる道があります
3つ目の帯曲輪を進むと物見曲輪とありますが・・・
縄張図を添えないと分からないでしょうねー

二の丸から階段を降りてすぐの帯曲輪C

そのすぐ下の帯曲輪B

帯曲輪B、少し入ったところ

帯曲輪Bの下、帯曲輪A

帯曲輪Aの下、堀切W

階段を降りる

縄張図に記載の城西側最後の遺構、堀切X

 ここから階段を下ると羽栗口遊歩道経由で麓に戻ります。

 ・・・が、物見曲輪の方に行くために、

 階段を上って、少し戻ります。

 

 縄張図を見ると堀切Wから

 物見曲輪に行けそうです。

堀切Wに戻りました

 堀切Wを進むと、図に大きな竪堀がありました。

竪堀(堀切Wを入ったところ)
まあ~写真だと見えないですね(笑)

帯曲輪Aを北方向に進んでます

帯曲輪Aの終点に着き、写真右が堀切U、
写真左に進むと物見曲輪Ⅻ

物見曲輪Ⅻを進んでます

物見曲輪Ⅻの最北端が見えてきました

物見曲輪Ⅻからの眺望
写真左右に東海道が通ってます。
城の北東側なので写真左手方向が岡崎ですね。

 つまり東海道と吉良道、

 両方が見える立地なんですね~👍

 

物見曲輪Ⅻから戻って、曲輪Ⅺに来ました

 ここから二の丸の北側の曲輪、竪堀を経由して

 再度本丸に向かいましたが、写真がどこか分かりません。

 ほぼ迷子になってます。

竪堀Sかな?

 

どこ撮ったか分からない
(位置的に竪堀Tかも)

曲輪Dかな?

どこの道か分からない

曲輪DかCか、番号が無い曲輪

記憶では竪堀R

たぶん竪堀Q

帯曲輪C、ここで位置が分かって来た

帯曲輪C

帯曲輪Cから再度本丸に戻ってきました

再度本丸と二の丸間の遊歩道へ降ります
(1回目より天気が良くなり、明るくなってきました)

 

 1回行ったので、案内看板に書いている

 「3つ目の帯曲輪を進む」

  の意味が分かりました。

 

  縄張図を載せます。

 

 縄張図の一番広い二の丸(Ⅳの曲輪)、

 その南方向の虎口③が先程の案内看板の位置です。

 

 ③から縄張図では左方向に階段を降りて、

 一つ目が帯曲輪C、二つ目がB、3つ目がA。

 階段を離れて帯曲輪Aを北にずっと進むと、

 その先が物見曲輪になる。

 で正解かな❓

 そもそも帯曲輪CからAの階段が図に載ってないし。

 行かないと分からないでしょー、これは( ゚Д゚)

二の丸を降りて、再度帯曲輪C

 ここから羽栗口遊歩道で下っていきます。

 

再度堀切X

堀切Xの先の尾根、行くのは止めました

遊歩道を下ってます

 

羽栗口の出入口が見えてきました

羽栗口の柵を出ました

羽栗口から舞木口へ戻ります
(左見ると山全体に柵があります)

戻ってきました
11:55晴れてます

山中城全景
舞木口と羽栗口の間の吉良道から撮れました)

本丸部拡大(のぼりが見えます)

 愛知県最大級の山城との案内。

 

 愛知県全部の山城は知りませんが、

 最大級であるのは間違いないですよね~。👍

 

 とにかく案内板が整備されていて安心できます。

 

 前半の城東側は大きな曲輪が連格式に

 4つ程配置されており、

 西、北側は帯曲輪が3段程設置されてます。

 竪堀、堀切、帯曲輪、腰曲輪、土塁等

 山城の要素が全部残っている巨大な山城

 と言えるのではないでしょうか?

 

 途中少し迷子になりましたが、出来れば曲輪表示

 に縄張図の番号を添えて頂くと、確実ですね~。

 

 でも充分すぎるほど堪能しましたm(__)m

 

7.山中八幡宮

 国一に戻ってすぐのところに山中八幡宮という

 神社がありました。

 折角なので寄ってみます。

 

 どれどれ入口の案内看板を読んでみますと・・・。

 え、一向一揆で家康が隠れた洞窟がある???

 あまりにタイムリーですねー(^▽^)/

山中八幡宮案内

山中八幡宮案内図

山中八幡宮参道、雰囲気があります

山中八幡宮本殿

家康が隠れた洞窟と石碑
石碑読めないですが

家康が隠れた洞窟
・・・には入れない

 家康は何しにここにきたのかな?

 説明案内は無かったのですが、

 山中城が一度一揆側に落ちたのであれば、

 奪還又は援軍に来たのかも?

 そしたら家臣に任せず自ら動いてますねー。

 

 この山中の地、一つ見ても

 家康や松平氏の史跡、分家の歴史の

 一端が残っているのですね~。

 充分歴史を感じることが出来ました(^▽^)/

 

 因みに山中城八幡宮は一人も会いません

 でしたが、松平郷や大樹寺、大給城は

 沢山居ました。

 是非山中の地もお薦めです👍

 

 以上で終わります。

 

 

 次回はもう一つの松平分家の城、

 大給城(おぎゅう)となります。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_