歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<天下分け目の関ヶ原9>(外伝)上平寺 京極氏城館跡 と 京極氏

こんにちは、rekikakkunです。

 

ここまで関ケ原シリーズを

進めてまいりましたが、

今回ラストとなります。

 

関ケ原へ探訪の旅に行く前、

何度もグーグルマップで作戦を

練っておりました・・・が、

 

必ず近くに出てくるんですよね~、「京極氏城館跡」が。 

 

 ほら、( ̄︶ ̄)↗ 

  ①京極氏城館跡 

  ②は位置の参考として関ケ原の中央にある古戦場記念館

 

ここはなんだなんだ? と。

 

流石に関ケ原合戦とは関係が無いと思いましたが、

北国脇往還道の方向ですし、行ってきました。

 

~1.京極氏とは~

 ご存じの方も多いかもしれませんが、

 流れ上、まず簡単に調べてみます。

 

 京極氏は、源頼朝の旗揚げ初戦、伊豆山木館の

 襲撃より馳せ参じ、以後の源平合戦で大活躍した

 近江源氏佐々木氏の分流です。

 

 鎌倉時代末期から室町、南北朝時代にかけては、

 常に足利氏に味方して功を挙げた佐々木道誉

 有名ですよね。

 

 大河ドラマ太平記は大好きで、そのイメージです。

 道誉の時代、6か国の守護まで繁栄しましたが、

 応仁の乱以降は衰退していきました。

 

 戦国時代はおおまかに、

 北近江は京極氏、南近江は同族の六角氏

 の領分でした。

 

 頼朝の旗揚げ初戦から参戦し、戦国時代まで

 残ってた大名クラスって佐々木氏ぐらい

 しか思いつかない。

 

~2.上平寺京極氏城館跡~

 16世紀初頭、1505年、

 京極高清は京極家の内紛を収拾し、

 その後北近江の守護政務の拠点として、

 伊吹山南麓の上平寺に京極氏館を築きました。

 

 そしてこの館を中心に家臣館を配置し、

 南に北国脇往還道を取り込んだ城下町を形成。

 

 北の山に詰城として上平寺城を築きました。

上平寺城絵図
(江戸初期作成と推定されている)

 さて、正面入口からその館跡に入ってきます。

上平寺館の入口

 

館前の堀跡

京極道誉の旗があります。
(道誉はここには居なかったんだけどね、一番有名ですから)

京極氏遺跡の説明板

 

さて、遺跡の中に入ります

上平寺館跡の説明板です

 

てくてく進みます。少し登り坂です。

 

右手に弾正屋敷跡(絵図に載ってる)

左に90度道が曲がりました。
1505年の時代でも曲げるんですねー。
石垣が復元されてます。(⌒∇⌒)

曲がってすぐの蔵屋敷跡(これも絵図に載ってる)

道を挟んで蔵屋敷の反対側に隠岐屋敷跡
(絵図では文字が分からない)

段差発見

京極氏屋敷
(この奥の方に庭園跡の石があったかも)

 

京極氏館跡の正面

伊吹神社の鳥居

上に京極氏のお墓

神社の左脇に、上平寺城へ進む道

 今回は下調べしてなかったので、

 上平寺城までは行かず、ここで引き返しました。

 

 上平寺城絵図を確認しますと、

 おおよそ下の様になるかと思います。

上平寺絵図

 本ブログ最初の写真が、上絵図の「現在の入口」です。

 (すぐ手前に駐車場があります)

 ここから上に歩き、

 弾正屋敷跡⇒蔵屋敷跡⇒京極氏館跡へ行きました。

 

 規模的にも大きく、しっかりした組織に

 なっていたんだろうな~と感じられました。 

 

   実は京極氏館跡の奥には庭園跡の石が、

   少し残っていた様ですが、

   知らずに奥に行きませんでした。

 (だいぶ後悔してます`(*>﹏<*)′) 

 

 また、絵図の城下町内には、

  諸士屋敷(武家屋敷)

  町屋敷(商工業者)

  市店民屋(市や民家)

 と細かく書かれています。

 

 これら戦国期の守護館、庭園、家臣屋敷、

 城下町、詰城がセットでほぼ絵図通りに

 残っているのは珍しいとの事で、

 2004年に国史跡になったとの事です。

 

 1505年以降北近江守護として、

 上平寺にて国を治めていた京極高清

 でしたが、1523年に家督相続が

 絡んだ国人衆との争いに敗れてしまい、

 上平寺の館及び周辺は焼失した模様です。

 (上平寺では20年弱の統治でした。

  またこれにより京極家は

  大名としても没落してます。)

 

~3.浅井氏による上平寺城改修~

 ただ上平寺は京極氏の時代と、

 その後の時代がありそうですね。 

 

 以降、北近江は小谷城を拠点とした

 浅井氏が実権を握っていきます。

 この時の浅井家当主は浅井長政の祖父、

 浅井亮政です。 

 

 小谷城には京極高清も居たとされる、

 京極丸があります。 

小谷城全体図
(中央上側に京極丸があります)

小谷城の京極丸
(2年前に行った時の写真)

 

 その後北近江は浅井長政の時代となり、

 1570年、織田信長への備えとして、

 朝倉氏の支援により上平寺城を改修した

 記録がある様です。

 

 現在残っている縄張は、放射状の竪堀群や

 桝形虎口等、戦国後期の技術とされ、

 主には浅井氏改修の跡と言われています。

 

 縄張図を見るとなかなかの規模ですよね~。

 機会あったら行きたいです。

 

~4.京極家の再興~

 その後京極氏は高清の孫、高次の時代となりました。

 浅井氏に篭絡されていた京極氏でしたが、

 1573年浅井氏が滅亡後、高次は信長に仕えていました。

 

 しかし1582年本能寺の変で、

 うっかり?高次は明智方に味方してしまい、

 またその後も柴田方に味方してしまったので、

 逃亡生活になります。

 秀吉の時代になりましたから、

 普通はお終いですよね~。

 でもなんとか妹竜子の努力等により生き延びます。

 

 高次は1587年、浅井長政お市の方の次女

 初を妻とし、1595年大津城主となりました。

(やはり名門ということですよね~)

 

~5.運命の大津城籠城戦~

 そしていよいよ関ケ原の合戦。

 高次は東軍として大津城に籠城し、

 9月7日より、毛利元就の八男元康や立花宗茂

 西軍2万前後を相手に激戦を演じました。

 

 9月14日に降伏、15日に開城しましたが、

 その同日関ケ原合戦で東軍が勝ちました。

 

 この西軍2万を9月15日の本戦に

 参加させなかったのは、実は東軍一番の功

 だったかもしれません。

 (そして西軍勢力圏内なのに、明確に東軍味方を表明してる。

  高次なりの考察、意地、覚悟があったのでしょう。)

 

 というのも立花宗茂らの軍勢は日和見の軍では無く、

 明らかに西軍側として高い戦意で戦ってました。

 

 もし2,3日で大津城が落城してたら、

 9月11日頃に大津を出発し、

 15日前に関ケ原(又は大垣)へ到着出来そうです。

 しかも西軍一番の主力として。

 

 その場合、東近江辺りで時間稼ぎをしていた

 小早川軍1万5千と、毛利立花軍2万は

 関ケ原到着前に中山道で会いますね、たぶん・・・。

 

 そうすると小早川軍は9月14日に松尾山の

 西軍守備隊を追い出す様なまねは出来なかったかも。

 (そしたら小早川はどうしたかな?)

 

 小早川の松尾山占拠が無かった場合、

 三成ら大垣城主力部隊は

 関ケ原へ急行したかどうか?

 

 それは秀頼が動座する前に決着を着けたい

 家康もですが、この状況で野戦に誘うか?

 秀忠軍を待つか? 

 

 でも赤坂に着陣して翌日決戦に持ち込だから、

 相当急いで決着つけたかったんだよね~。

 

 もしかして今の日本の歴史は京極高次

 作ったのでは。。。、

 

 ん❓

 だんだんきりが無くなってました🙄

 

 話もどんどん違う方向にφ(* ̄0 ̄)

 

 閑話休題

 京極高次以降、宗家は色々ありましたが、

 丸亀藩5万石で江戸時代を生き抜きました👍。

 

 と、関ケ原に中途半端に繋げたまま、

 強引に話を終了致します。_(._.)_

 

 でもこの関ケ原IFは、個人的には楽しくて

 考えながらどんどん書いてました(笑)

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m