こんにちは、rekikakkunです。
ここまで関ケ原シリーズを
進めてまいりましたが、
今回ラストとなります。
関ケ原へ探訪の旅に行く前、
何度もグーグルマップで作戦を
練っておりました・・・が、
必ず近くに出てくるんですよね~、「京極氏城館跡」が。
ほら、( ̄︶ ̄)↗
①京極氏城館跡
②は位置の参考として関ケ原の中央にある古戦場記念館
ここはなんだなんだ? と。
流石に関ケ原合戦とは関係が無いと思いましたが、
北国脇往還道の方向ですし、行ってきました。
~1.京極氏とは~
ご存じの方も多いかもしれませんが、
流れ上、まず簡単に調べてみます。
京極氏は、源頼朝の旗揚げ初戦、伊豆山木館の
襲撃より馳せ参じ、以後の源平合戦で大活躍した
近江源氏佐々木氏の分流です。
常に足利氏に味方して功を挙げた佐々木道誉が
有名ですよね。
道誉の時代、6か国の守護まで繁栄しましたが、
応仁の乱以降は衰退していきました。
戦国時代はおおまかに、
北近江は京極氏、南近江は同族の六角氏
の領分でした。
頼朝の旗揚げ初戦から参戦し、戦国時代まで
残ってた大名クラスって佐々木氏ぐらい
しか思いつかない。
~2.上平寺京極氏城館跡~
16世紀初頭、1505年、
京極高清は京極家の内紛を収拾し、
その後北近江の守護政務の拠点として、
伊吹山南麓の上平寺に京極氏館を築きました。
そしてこの館を中心に家臣館を配置し、
南に北国脇往還道を取り込んだ城下町を形成。
北の山に詰城として上平寺城を築きました。
さて、正面入口からその館跡に入ってきます。
今回は下調べしてなかったので、
上平寺城までは行かず、ここで引き返しました。
上平寺城絵図を確認しますと、
おおよそ下の様になるかと思います。
本ブログ最初の写真が、上絵図の「現在の入口」です。
(すぐ手前に駐車場があります)
ここから上に歩き、
弾正屋敷跡⇒蔵屋敷跡⇒京極氏館跡へ行きました。
規模的にも大きく、しっかりした組織に
なっていたんだろうな~と感じられました。
実は京極氏館跡の奥には庭園跡の石が、
少し残っていた様ですが、
知らずに奥に行きませんでした。
(だいぶ後悔してます`(*>﹏<*)′)
また、絵図の城下町内には、
諸士屋敷(武家屋敷)
町屋敷(商工業者)
市店民屋(市や民家)
と細かく書かれています。
これら戦国期の守護館、庭園、家臣屋敷、
城下町、詰城がセットでほぼ絵図通りに
残っているのは珍しいとの事で、
2004年に国史跡になったとの事です。
1505年以降北近江守護として、
上平寺にて国を治めていた京極高清
でしたが、1523年に家督相続が
絡んだ国人衆との争いに敗れてしまい、
上平寺の館及び周辺は焼失した模様です。
(上平寺では20年弱の統治でした。
またこれにより京極家は
大名としても没落してます。)
~3.浅井氏による上平寺城改修~
ただ上平寺は京極氏の時代と、
その後の時代がありそうですね。
以降、北近江は小谷城を拠点とした
浅井氏が実権を握っていきます。
この時の浅井家当主は浅井長政の祖父、
浅井亮政です。
小谷城には京極高清も居たとされる、
京極丸があります。
その後北近江は浅井長政の時代となり、
1570年、織田信長への備えとして、
朝倉氏の支援により上平寺城を改修した
記録がある様です。
現在残っている縄張は、放射状の竪堀群や
桝形虎口等、戦国後期の技術とされ、
主には浅井氏改修の跡と言われています。
縄張図を見るとなかなかの規模ですよね~。
機会あったら行きたいです。
~4.京極家の再興~
その後京極氏は高清の孫、高次の時代となりました。
浅井氏に篭絡されていた京極氏でしたが、
1573年浅井氏が滅亡後、高次は信長に仕えていました。
しかし1582年本能寺の変で、
うっかり?高次は明智方に味方してしまい、
またその後も柴田方に味方してしまったので、
逃亡生活になります。
秀吉の時代になりましたから、
普通はお終いですよね~。
でもなんとか妹竜子の努力等により生き延びます。
初を妻とし、1595年大津城主となりました。
(やはり名門ということですよね~)
~5.運命の大津城籠城戦~
そしていよいよ関ケ原の合戦。
高次は東軍として大津城に籠城し、
西軍2万前後を相手に激戦を演じました。
9月14日に降伏、15日に開城しましたが、
その同日関ケ原合戦で東軍が勝ちました。
この西軍2万を9月15日の本戦に
参加させなかったのは、実は東軍一番の功
だったかもしれません。
(そして西軍勢力圏内なのに、明確に東軍味方を表明してる。
高次なりの考察、意地、覚悟があったのでしょう。)
明らかに西軍側として高い戦意で戦ってました。
もし2,3日で大津城が落城してたら、
9月11日頃に大津を出発し、
15日前に関ケ原(又は大垣)へ到着出来そうです。
しかも西軍一番の主力として。
その場合、東近江辺りで時間稼ぎをしていた
小早川軍1万5千と、毛利立花軍2万は
そうすると小早川軍は9月14日に松尾山の
西軍守備隊を追い出す様なまねは出来なかったかも。
(そしたら小早川はどうしたかな?)
小早川の松尾山占拠が無かった場合、
三成ら大垣城主力部隊は
関ケ原へ急行したかどうか?
それは秀頼が動座する前に決着を着けたい
家康もですが、この状況で野戦に誘うか?
秀忠軍を待つか?
でも赤坂に着陣して翌日決戦に持ち込だから、
相当急いで決着つけたかったんだよね~。
もしかして今の日本の歴史は京極高次が
作ったのでは。。。、
ん❓
だんだんきりが無くなってました🙄
話もどんどん違う方向にφ(* ̄0 ̄)
閑話休題、
京極高次以降、宗家は色々ありましたが、
丸亀藩5万石で江戸時代を生き抜きました👍。
と、関ケ原に中途半端に繋げたまま、
強引に話を終了致します。_(._.)_
でもこの関ケ原IFは、個人的には楽しくて
考えながらどんどん書いてました(笑)
ご高覧ありがとうございました。m(__)m