こんにちは、rekikakkunです。
今回は島津の退き口も3回目、
ラストとなります。
前回の島津退き口は、島津豊久公の
足跡を巡りました。
今回は、主将島津義弘本隊の足跡を、
桐野作人さんの著書をベースに、
確認していきたいと思います。
(ほぼ行ってないので写真2枚だけですm(__)m)
義弘の退却ルートはざっくり下図になろうかと思います。
各ポイントの場所に番号を振ってお話していきます。
~①関ケ原島津陣跡~
島津軍、関ケ原を正面突破、退き口開始。
~②伊勢街道、牧田~
養老山系と南宮山の間、伊勢東街道を南下しました。
下写真赤矢印の方向に進んだのでしょう。
~③長曾我部・長束軍と遭遇、栗原村~
伊勢東街道を南下し、南宮山の南端に来ると、
南宮山の東側山麓に布陣していて、戦闘に参加せず
退却を開始した長曾我部盛親軍と長束正家軍に
遭遇したとの事です。
牧田川、南宮山等によって狭い道(隘路)に
なっていたので、いわゆる渋滞状態だった様です。
同じ西軍ですが、敵対の意思が無い事を互いに確認し、
交渉の結果、少人数の島津隊が先に南下することに
なりました。
かつ長束正家が案内人を一人付けてくれました。
(長束正家は上地図⑤付近の水口の領主です)
せめてものって感じですね~。
あまり出てこない話ですが、
現実味があって面白いです。
~④駒野峠(二之瀬峠)、9月15日、一泊目~
伊勢東街道を南下していた義弘軍は、
途中駒野の地で、南から西方向に
向きを変え、養老山系の駒野峠(現二之瀬峠)
に入り、宿営した模様。
(家臣の覚書によると)
初日15日の午後4時頃、敵の追撃も無くなったので、
家臣が食料調達に行ったが、村人に襲われて逃走。
家臣の従者5人が走り疲れ、追いつかれて叩き殺された。
当時の敗北側の厳しさと言ったら、
農民に殺されてしまう。( ;∀;)
2日目、50人分の食料調達に成功。
ただし念の為、家臣は義弘を座敷に上げず、
土間の隅で従者の様に扱ったとのことです。
⇒義弘一行が約50名程だったと推測される。
~⑤土山、9月17日、退き口3日目~
駒野峠を越えた義弘一行は、
(現在の国道1号線)に入ったが、
東軍の存在が確認されたので、
滋賀県土山付近で引き返し、
関から伊賀上野を進む。
(家臣の覚書によると)
されてしまったので、突撃突破する。
信楽では夜、村人に道案内を頼んだが、嫌がったので、
縛り上げて脅したら、寝ていた女房が大声で騒ぐ。
隣人も起きてきて騒ぎになってしまったので、
女房、隣人を討ち果たしてしまい、
亭主に道案内させたとのこと。
⇒前述で農民に従者が殺された話がありましたが、
ここでは農民を殺してます。
必死の世の中です`(*>﹏<*)′
~⑦飯盛山、9月19日、退き口5日目~
大坂に入りました。
少数で潜伏する為、大坂の平野ー住吉間で
分散し、家臣達は大阪城等へ向かう。
関ケ原で豊久軍と共に先手の一軍を率いていた
山田有栄も、退き口を生き延び、ここで
大坂に向かった模様です。
~⑧堺、9月20日、退き口6日目~
知友の商人等の協力を得て堺に潜伏。
やっと一息できる・・・
では無くて、
ここで義弘は、直ちに、絶対にやらなければ
ならない事があったんですね~。
知らなかったけどー\( ̄︶ ̄*\))
島津家当主の義久には嫡子がおらず、
当時後継者は義弘の三男忠恒でした。
忠恒の正室は義久の三女亀寿。
そして大阪城には人質として、その亀寿
及び義弘の正室(宰相殿)達が居ました。
もし、ここで息子の正室で大ボス義久の娘である
亀寿を失えば、息子忠恒の家督相続はご破算になり、
かつ関ケ原合戦で敗北側についた義弘及びその一党は
島津家内でのポジションを失う確率が高い。
⇒義久の娘を大坂に残して帰国はできない😂
また、義弘自身も亡くなった場合、息子忠恒第一の
後ろ盾が無くなり、家督相続不可の可能性があった。
⇒義弘自身も死ぬわけにはいけない。
(つまり武士として、責任取って死ねば良い、
だけでは無い)
⇒これら生き延びる必要性、強い意思と共に、
島津兵の武力、忠誠力等の力が加わり、
他に類を見ない島津退き口を成功させた
大きな要因でしょう、と書かれていました。
そして義弘は家臣を大阪城内の
島津家中へと遣わし、義弘存命の伝達と
薩摩同時帰国を画策しました。
~⑧堺出発、9月22日~
詳細は割愛しますが、亀寿、宰相殿一行は
大阪城を脱出し、無事義弘と舟で合流する事に
成功しました。
そして義弘、一族、家臣等4艘の船に分乗し、
瀬戸内海を西進します。
凄い計画ですよね~。
敗軍の中、秘密裡にやらねばならないし、
当時スマホも無いし。
てかスマホが有っても難しそう(@_@;)
(参考)
9月22日、島津義弘、堺出航。(大阪出発とほぼ同じ)
家康が入城した後だと人質は拿捕され、
手の打ちようがなかったでしょうし。
(義弘公がもし傷、体調不良等により、
退却途中で歩みが遅れてたら厳しかったかも。
気合の退却が活きたんですね~)
~森江沖海戦、9月28日~
途中、かの立花宗茂と涙の再会をしがてら
瀬戸内海を進みました。
(これはこれでなかなかぐっとくるものが
ありますね~!)
ところが、九州が見えてきてあと少しという
軍船と遭遇してしまい、海戦となりました。
え!そんなこともあったの (⊙x⊙;)
戦死者もあり、4艘中2艘が
拿捕されたとの事です。
ここまで来て戦死された方の無念たるや。
(義弘や亀寿、宰相殿は無事)
~日向細江上陸、9月29日~
翌日、ようやく南九州日向の地に上陸しました。
しかし日向の大隅寄りの領主だった
伊東氏は東軍で、ちょうど西軍方の
空き城等を攻撃していました。
伊東氏は過去島津家に壊滅させられた事もあり、
捕捉されたてたらだいぶやばかったと思いますが、
なんとか回避できた様です。
~10月3日、島津の退き口終了~
義久の隠居館があり、島津家の統治内である
大隅国富隈着(とみのくま)に到着したのが
10月3日。
退き口開始から19日が経っていました。
ここで義久の出迎えを受け、長く苦難の連続
であった退き口が終了しました。
~その後~
決まり、後に忠恒は初代藩主となりました。
※義久には男子が出来ませんでした。
そして義弘の子忠恒と義久の娘亀寿との間に
子が出来なかったので、
義久としては自身の血筋を残せない
忠恒は後継者として満足は出来なかった。
しかし義弘のこれまでの大きすぎる勲功、
家臣団の義弘への忠誠も無視できない。
とても微妙な関係だった様ですね。
1611年 義久の死後は、忠恒が主導権を握る。
1615年 大坂の陣で豊臣家滅亡。
1619年 義弘死去。(享年85)
※幕末一の名君と言われる島津斉彬等、
歴代島津家の当主は義弘の血筋を
受け継いでるそうです。
退き口は、過酷な退却が出来ただけでは無くて、
その影響が何百年も続いてたんですね~。
以上で島津退き口編を終わります。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m