歴史ぶらり1人旅

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<天下分け目の関ヶ原8>壮絶! 島津の退き口を追う(義弘編)(3/3)

こんにちは、rekikakkunです。

 

今回は島津の退き口も3回目、

ラストとなります。

 

前回の島津退き口は、島津豊久公の

足跡を巡りました。

 

今回は、主将島津義弘本隊の足跡を、

桐野作人さんの著書をベースに、

確認していきたいと思います。

(ほぼ行ってないので写真2枚だけですm(__)m)

 

 義弘の退却ルートはざっくり下図になろうかと思います。

 各ポイントの場所に番号を振ってお話していきます。

 

~①関ケ原島津陣跡~

  島津軍、関ケ原を正面突破、退き口開始。

関ケ原 島津軍の突破開始(赤矢印が島津隊)

~②伊勢街道、牧田~

  関ケ原を突破し伊勢街道に入った島津義弘本隊は、

  養老山系と南宮山の間、伊勢東街道を南下しました。

  下写真赤矢印の方向に進んだのでしょう。

牧田から島津義弘本隊が進んだ伊勢東街道方面を見る
(伊勢街道の道は写真の左側です)

 

~③長曾我部・長束軍と遭遇、栗原村~

  伊勢東街道を南下し、南宮山の南端に来ると、

  南宮山の東側山麓に布陣していて、戦闘に参加せず

  退却を開始した長曾我部盛親軍と長束正家軍に

  遭遇したとの事です。

  

  牧田川、南宮山等によって狭い道(隘路)に

  なっていたので、いわゆる渋滞状態だった様です。

 

  同じ西軍ですが、敵対の意思が無い事を互いに確認し、

  交渉の結果、少人数の島津隊が先に南下することに

  なりました。

 

  かつ長束正家が案内人を一人付けてくれました。

  (長束正家は上地図⑤付近の水口の領主です)

  せめてものって感じですね~。

 

  あまり出てこない話ですが、

  現実味があって面白いです。

 

~④駒野峠(二之瀬峠)、9月15日、一泊目~

  伊勢東街道を南下していた義弘軍は、

  途中駒野の地で、南から西方向に

  向きを変え、養老山系の駒野峠(現二之瀬峠)

  に入り、宿営した模様。

 

 (家臣の覚書によると)

  初日15日の午後4時頃、敵の追撃も無くなったので、

  家臣が食料調達に行ったが、村人に襲われて逃走。

  家臣の従者5人が走り疲れ、追いつかれて叩き殺された。

  当時の敗北側の厳しさと言ったら、

  農民に殺されてしまう。( ;∀;)

 

  2日目、50人分の食料調達に成功。

  ただし念の為、家臣は義弘を座敷に上げず、

  土間の隅で従者の様に扱ったとのことです。

   ⇒義弘一行が約50名程だったと推測される。

 

~⑤土山、9月17日、退き口3日目~

  駒野峠を越えた義弘一行は、

  鈴鹿山系の東側を南下し、東海道

  (現在の国道1号線)に入ったが、

  東軍の存在が確認されたので、

  滋賀県土山付近で引き返し、

  関から伊賀上野を進む。

 

~⑥伊賀上野信楽、9月18日、退き口4日目~

  伊賀上野を経由し、近江信楽へ進む。

 

 (家臣の覚書によると)

  伊賀上野で、里人の落ち武者狩りに待ち伏せ

  されてしまったので、突撃突破する。

 

  信楽では夜、村人に道案内を頼んだが、嫌がったので、

  縛り上げて脅したら、寝ていた女房が大声で騒ぐ。

  隣人も起きてきて騒ぎになってしまったので、

  女房、隣人を討ち果たしてしまい、

  亭主に道案内させたとのこと。 

  ⇒前述で農民に従者が殺された話がありましたが、

   ここでは農民を殺してます。

   必死の世の中です`(*>﹏<*)′

 

~⑦飯盛山、9月19日、退き口5日目~

  奈良盆地から生駒山系を飯盛山付近で越え、

  大坂に入りました。

  少数で潜伏する為、大坂の平野ー住吉間で

  分散し、家臣達は大阪城等へ向かう。

 

  関ケ原で豊久軍と共に先手の一軍を率いていた

  山田有栄も、退き口を生き延び、ここで

  大坂に向かった模様です。

 

~⑧堺、9月20日、退き口6日目~

  知友の商人等の協力を得て堺に潜伏。

  やっと一息できる・・・

       では無くて、

  ここで義弘は、直ちに、絶対にやらなければ

  ならない事があったんですね~。

  知らなかったけどー\( ̄︶ ̄*\))

 

  島津家当主の義久には嫡子がおらず、

  当時後継者は義弘の三男忠恒でした。

  忠恒の正室は義久の三女亀寿。

 

  そして大阪城には人質として、その亀寿

  及び義弘の正室(宰相殿)達が居ました。

 

  もし、ここで息子の正室で大ボス義久の娘である

  亀寿を失えば、息子忠恒の家督相続はご破算になり、

  かつ関ケ原合戦で敗北側についた義弘及びその一党は

  島津家内でのポジションを失う確率が高い。

  ⇒義久の娘を大坂に残して帰国はできない😂

 

  また、義弘自身も亡くなった場合、息子忠恒第一の

  後ろ盾が無くなり、家督相続不可の可能性があった。

  ⇒義弘自身も死ぬわけにはいけない。

  (つまり武士として、責任取って死ねば良い、

   だけでは無い)

 

  ⇒これら生き延びる必要性、強い意思と共に、

   島津兵の武力、忠誠力等の力が加わり、

   他に類を見ない島津退き口を成功させた

   大きな要因でしょう、と書かれていました。

 

  そして義弘は家臣を大阪城内の

  島津家中へと遣わし、義弘存命の伝達と

  薩摩同時帰国を画策しました。 

 

~⑧堺出発、9月22日~

  詳細は割愛しますが、亀寿、宰相殿一行は

  大阪城を脱出し、無事義弘と舟で合流する事に

  成功しました。

  そして義弘、一族、家臣等4艘の船に分乗し、

  瀬戸内海を西進します。

 

  凄い計画ですよね~。

  敗軍の中、秘密裡にやらねばならないし、

  当時スマホも無いし。

  てかスマホが有っても難しそう(@_@;)

 

 (参考)

  9月22日、島津義弘、堺出航。(大阪出発とほぼ同じ)

  9月25日、毛利輝元大阪城退去。

  9月27日、徳川家康大阪城入城。

 

  毛利輝元大阪城内が混乱の最中で良かった。

  家康が入城した後だと人質は拿捕され、

  手の打ちようがなかったでしょうし。

  (義弘公がもし傷、体調不良等により、

   退却途中で歩みが遅れてたら厳しかったかも。

   気合の退却が活きたんですね~)

 

~森江沖海戦、9月28日~

 途中、かの立花宗茂と涙の再会をしがてら

 瀬戸内海を進みました。

 (これはこれでなかなかぐっとくるものが

  ありますね~!)

 

 ところが、九州が見えてきてあと少しという

 豊後沖(大分県)で、東軍の黒田如水所属の

 軍船と遭遇してしまい、海戦となりました。

 

 え!そんなこともあったの (⊙x⊙;)

 

 戦死者もあり、4艘中2艘が

 拿捕されたとの事です。

 ここまで来て戦死された方の無念たるや。

 (義弘や亀寿、宰相殿は無事)

 

~日向細江上陸、9月29日~

 翌日、ようやく南九州日向の地に上陸しました。

 

 しかし日向の大隅寄りの領主だった

 伊東氏は東軍で、ちょうど西軍方の

 空き城等を攻撃していました。

 

 伊東氏は過去島津家に壊滅させられた事もあり、

 捕捉されたてたらだいぶやばかったと思いますが、

 なんとか回避できた様です。

 

~10月3日、島津の退き口終了~

 義久の隠居館があり、島津家の統治内である

 大隅国富隈着(とみのくま)に到着したのが

 10月3日。

 退き口開始から19日が経っていました。

 

 ここで義久の出迎えを受け、長く苦難の連続

 であった退き口が終了しました。

 

~その後~

 1602年 島津家の本領安堵及び忠恒の家督相続が

       決まり、後に忠恒は初代藩主となりました。

    

   ※義久には男子が出来ませんでした。

    そして義弘の子忠恒と義久の娘亀寿との間に

    子が出来なかったので、

    義久としては自身の血筋を残せない

    忠恒は後継者として満足は出来なかった。

    しかし義弘のこれまでの大きすぎる勲功、

    家臣団の義弘への忠誠も無視できない。

    とても微妙な関係だった様ですね。

 

 1611年 義久の死後は、忠恒が主導権を握る。 

 1615年 大坂の陣で豊臣家滅亡。 

 1619年 義弘死去。(享年85)

 

  ※幕末一の名君と言われる島津斉彬等、

   歴代島津家の当主は義弘の血筋を

   受け継いでるそうです。

 

退き口は、過酷な退却が出来ただけでは無くて、

その影響が何百年も続いてたんですね~。

 

以上で島津退き口編を終わります。

ご高覧ありがとうございました。m(__)m