歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<天下分け目の関ヶ原6>壮絶! 島津の退き口を追う(1/2)

こんにちは、rekikakkunです。

 

関ケ原シリーズ最後を飾るのは、

やはり、島津の退き口ですよね~。

 

いつか探訪したいと思っていたところ、

このはてなブログで、私が読者として登録

させていただいてる記事に、

桐野作人さん著の「関ケ原島津退き口」

の著書がご紹介されておりました。

(加筆版ですが、2022年10月の初版です)

 

早速購入して読んでみたところ、読み応え充分。😊

多くの興味深い情報を得ることが出来、

かつとても面白かったです。

ご紹介ありがとうございました。m(__)m

 

今回、この本を参考にしながら行ける所まで、

島津軍退き口の史跡をおおよその時系列で

追ってみたいと思います。

 

今回投稿場所の地図です。

 ①島津義弘関ケ原布陣(薩摩池)

 ②関ケ原合戦開始(開戦地)

 ③島津軍突破開始(島津陣所跡)

 ④家康本陣を迂回(徳川家康最後の陣跡)

 ⑤伊勢街道に入る(地図上でプールを代替借用)

 ⑥鳥頭坂の防戦(島津豊久激戦地)

 ⑦長寿院盛淳の身代り防戦(記念碑、琳光寺)

 

~①関ケ原布陣~

 1600年9月15日関ケ原の合戦当日、

 島津軍は小池村に先手島津豊久軍、

 少し後方の尾関村に島津義弘軍を本陣とし、

 総勢1,500名で布陣しました。 

小池島津義弘陣所跡
島津義弘の陣所跡として整備されているところ。
⇒私は島津豊久軍の陣所として記載してます)

 そして石田三成小西行長軍と横並びではなく、

 2番備えとして少し後方に島津軍が布陣してた説

 が現実的と、現地を見て想像してます。

 

~②関ケ原合戦~

 15日朝、合戦が開始されましたが、

 小早川秀秋軍等の西軍への側面攻撃により、

 大谷吉継隊他の中山道守備隊が崩壊し、

 善戦していた西軍主力の宇喜多軍も敗走。

 これを見た小西、石田軍も敗走に転じ、

 西軍敗北が決定的となりました。

 

 この間、島津軍は布陣を保ったままほぼ待機

 してましたが、敗走を始めた石田三成軍の追撃に

 移った東軍と横並びの位置となり、かつ

 一部の東軍が島津軍へ攻撃態勢に転じました。

 下の布陣図はこの状況下と思います。

掲示されている島津軍退却開始時の様子。
この布陣図の島津豊久隊の位置は、
上写真の小池島津義弘陣所跡の場所になります。

 

上の布陣図を上空写真で見ると、こんな感じかな?
丸3つがそれぞれ、本多、井伊、松平なのかも。

 そして開戦時後方に居た譜代の本多忠勝隊が

 島津隊正面まで前進しているということは、

 他の大半の東軍諸隊は敗走している西軍を

 追いかけて、島津の側面か、西側方向を

 進んでると予想されますね。

 

~③東軍攻撃及び最初の突破~ 

 島津義弘は敵軍が迫る状況下、敗走している

 石田隊と同方向(伊吹山方向)に後退では無く、

 前進し敵中突破しての撤退を選択しました。

 (てか退却するにも、そこには追撃している

  東軍が居るしねー。

  前進の方が可能性があると判断したみたいです)

 

 そして本多、井伊及び数隊が、取り残された

 島津軍に攻撃を仕掛けました。

 

 島津軍は敵を引き寄せてから

 射撃をして、相手を倒しました。

 

 しかし、戦国期の後期は軍勢規模が大きくなり、

 味方の屍を越えてどんどん突撃してくるので、

 元々総数1,500人程度の島津軍は、いくら

 勇猛とはいえ、混戦になってしまって大苦戦。

 

 そして義弘本軍を前進突破させる為、

 先手の島津豊久隊は前方の敵に突撃し、

 豊久は早くに戦死した模様です。

 

 というのも島津側には、後に家臣達の覚書記録

 が多数残っているのに、義弘の次に重要だった

 豊久の戦死状況を記した記録がないそうです。

 ⇒豊久隊が取り囲まれて全員戦死して

  しまったので、帰還できた者は誰も見てない。

 

 そして合戦当日、関ケ原内での首実験で家康が

 豊久の首を確認している資料があるそうです。

 (ただしそれだと話が終わってしまうので、

  別説でも進めていきます)

 

 また、本多忠勝は馬、井伊直政は肘に鉄砲傷を

 負ったとの事です。

 (井伊直政はこの鉄砲傷で1年半後落命とも)

 井伊直政がどこで負傷したのか?

 島津が退却する前後、家康本陣を抜けた後、

 また、もっと離れた勝地峠手前まで

 諸説ありますねー。

 

 東軍は、石田隊の北国脇往還道と

 宇喜多隊等の中山道方面を西へ追撃してた為、

 (⇒島津軍の両脇側を進んでいた為)

 島津軍正面の敵が少なかったのかもしれません。

 なんとか東軍の包囲攻撃を突破しました。

 この時の島津軍は200名程だったのかな?

 

~④家康本軍と遭遇~

 ところが突破したその先には家康本隊が布陣しており、 

 ちょうど正面数百メートルの所に来てしまいました。 

 (中山道を進軍中の家康軍をやりすごした話も

  ある様です。)

島津隊から家康本陣方向(東方向)を見る
現代の建物が無かったら、お互い丸見えですかね?
(真ん中南宮山、右側養老山系)

 上記写真を真っすぐ進むと家康本陣と

 衝突してしまうので、

 多分写真右側に折れ曲がって回避し、

 梨木川と平行に進む感じで

 養老山系方向の伊勢街道を目指した。

 と思われます。

 

梨木川から伊勢街道方面(南東方向)を見る

 上写真の左側を正面の養老山系方向に

 進んだと思われます。

  

 この頃は、井伊直政が追撃して負傷した。

 福島正則隊は危険と判断し追撃しなかった。

 小早川軍は川に遮られて攻撃できなかった等

 の伝承がある様です。

 

 ・・・ん?、

 もう何を言ってるのか分からないという

 声が聞こえてきそうです...(* ̄0 ̄)ノ

 私もだんだん分からなくなってきました(笑)

 

~⑤伊勢街道へ進む~

 家康本隊との衝突を回避した後、

 梨木川に沿って南東方向に進み、

 関ケ原盆地を東西に通っている中山道を突っ切って、

 南方向に進む伊勢街道へ入りました。

中山道から伊勢街道に入ったところを南へと進む
(上は東海道新幹線。)

 

~⑥鳥頭坂の戦い~

 中山道から伊勢街道(国道365号の東付近)

 を南下し、 関ケ原盆地の南端に差し掛かった

 辺りに鳥頭坂があります。

鳥頭坂の史跡

現在の鳥頭坂

鳥頭坂 説明板

 ここで、東軍井伊直政松平忠吉本多忠勝

 追撃してきたのを、島津豊久が先方から

 殿(しんがり)に変わり、捨て奸の戦法

 で防戦し、戦死したという伝承、説明です。

 

 捨て奸(すてがまり)とは、

 防戦する10名程の兵士が死ぬまで

 敵に立ち塞がります。

 突破されたら次の10名が立ち塞がる。

 これを複数回やり、味方の退却時間を稼ぐ

 という恐ろしい戦法だそうです。😓

 

退却ルート(関ケ原付近より)

 撤退開始からここ鳥頭坂まで、約2km弱。

 同じような話。

 色々な伝承があるんでしょうね~。 

現在は死闘とは無縁、綺麗な桜が満開です

島津豊久の碑

鳥頭坂の島津豊久の碑 説明板
(新しい説明板とほぼ同じ内容です)

 

 鳥頭坂を越え、下写真の国道365号線沿い

 に出てきました。

 ここは薩摩カイコウズ街道とも呼ばれています。

 角度で見えませんが、右側の山沿いに

 梨木川と合流した藤古川が流れています。

 島津軍がここのどこかを通ったと感じられ、

 とても印象に残る風景でした。😊😊😊

関ケ原盆地を南へ抜けた直後位。
伊勢街道の南方向を見る。

 

~⑦長寿院盛淳の戦死、上石津町牧田、琳光寺~

 鳥頭坂での追撃をかわした島津本隊は、

 1km程南に進んだ、現在の牧田の地で、

 再び東軍追撃隊が迫いつかれてしまいました。

 

 ここで立ち塞がったのが、島津家の家老で、

 元住職、本軍を統率していた長寿院盛淳

 (ちょうじゅいんもりあつ)です。

 

 彼は、主君島津義弘の陣羽織を着て、

 身代わりとなって戦死したとのことです。

 

 激闘だらけの退却戦、凄いです。

 

 長寿院盛淳の顕彰碑は、大垣市牧田支所を目指します。

大垣市 牧田支所

 上石津町牧田の役場と思って探したのですが

 見つからず、ちょっと迷いました😓

 現在、上石津町は大垣市に飛び地で編入したので、

 大垣市の役場名称になってました。(知らなかった~)

 正確には岐阜県大垣市上石津町です。

 お隣には岐阜県養老町岐阜県垂井町があります。

牧田支所の南側に長寿院盛淳の顕彰碑
(写真左半分が養老山系、ここはその北端)

 

長寿院盛淳のお墓がある琳光寺
(牧田支所の北隣にあります)

境内にある長寿院盛淳の墓

長寿院盛淳の墓 説明板

 長寿院盛淳達の防戦により、追撃を切り抜けた

 島津義弘隊は、約50人程まで減っていた模様です。

 

 どこまで描けるかな?

 と思いながら作成していましたが、

 やっぱり1回で終わりませんでした。

 一応3,000文字位を目安にしてますので、

 一旦ここまでとします。

 

 今回①関ケ原島津布陣場所から

   ⑦長寿院盛淳の激戦地

 までを掲載致しました。

 

 これって、まだ関ケ原合戦当日9月15日です(笑)

 

 そして、退き口は自領薩摩帰還までですが、

 一応なんとかなるかもという状況になる

 堺到着までは、6日後の9月20日です。

 

 その距離感を下の地図で示して見ると・・・、

 今回の、①関ケ原 から ②長寿院盛淳戦死

 までの距離に対し、

 ③の堺までなんと遠いことか!w(゚Д゚)w

 

 

 次回は勝地峠跡を見ながら、島津豊久が自決

 した伝承が残る白拍子谷(しらべしだに)まで

 行きましたので、探訪地を中心に、

 退き口全体を描けれたらと思います。

 (てか島津豊久さん、3回目の戦死φ(* ̄0 ̄)) 

 

 次回の一部

勝地峠

白拍子谷へ、だいぶ来たな~、人影が全く見えず・・・

 以上、ご高覧ありがとうございました。m(__)m