こんにちは、rekikakkunです。
関ケ原シリーズ最後を飾るのは、
やはり、島津の退き口ですよね~。
いつか探訪したいと思っていたところ、
このはてなブログで、私が読者として登録
させていただいてる記事に、
桐野作人さん著の「関ケ原島津退き口」
の著書がご紹介されておりました。
(加筆版ですが、2022年10月の初版です)
早速購入して読んでみたところ、読み応え充分。😊
多くの興味深い情報を得ることが出来、
かつとても面白かったです。
ご紹介ありがとうございました。m(__)m
今回、この本を参考にしながら行ける所まで、
島津軍退き口の史跡をおおよその時系列で
追ってみたいと思います。
今回投稿場所の地図です。
②関ケ原合戦開始(開戦地)
③島津軍突破開始(島津陣所跡)
④家康本陣を迂回(徳川家康最後の陣跡)
⑤伊勢街道に入る(地図上でプールを代替借用)
⑥鳥頭坂の防戦(島津豊久激戦地)
⑦長寿院盛淳の身代り防戦(記念碑、琳光寺)
~①関ケ原布陣~
1600年9月15日関ケ原の合戦当日、
島津軍は小池村に先手島津豊久軍、
少し後方の尾関村に島津義弘軍を本陣とし、
総勢1,500名で布陣しました。
2番備えとして少し後方に島津軍が布陣してた説
が現実的と、現地を見て想像してます。
~②関ケ原合戦~
15日朝、合戦が開始されましたが、
小早川秀秋軍等の西軍への側面攻撃により、
善戦していた西軍主力の宇喜多軍も敗走。
これを見た小西、石田軍も敗走に転じ、
西軍敗北が決定的となりました。
この間、島津軍は布陣を保ったままほぼ待機
してましたが、敗走を始めた石田三成軍の追撃に
移った東軍と横並びの位置となり、かつ
一部の東軍が島津軍へ攻撃態勢に転じました。
下の布陣図はこの状況下と思います。
そして開戦時後方に居た譜代の本多忠勝隊が
島津隊正面まで前進しているということは、
他の大半の東軍諸隊は敗走している西軍を
追いかけて、島津の側面か、西側方向を
進んでると予想されますね。
~③東軍攻撃及び最初の突破~
島津義弘は敵軍が迫る状況下、敗走している
石田隊と同方向(伊吹山方向)に後退では無く、
前進し敵中突破しての撤退を選択しました。
(てか退却するにも、そこには追撃している
東軍が居るしねー。
前進の方が可能性があると判断したみたいです)
そして本多、井伊及び数隊が、取り残された
島津軍に攻撃を仕掛けました。
島津軍は敵を引き寄せてから
射撃をして、相手を倒しました。
しかし、戦国期の後期は軍勢規模が大きくなり、
味方の屍を越えてどんどん突撃してくるので、
元々総数1,500人程度の島津軍は、いくら
勇猛とはいえ、混戦になってしまって大苦戦。
そして義弘本軍を前進突破させる為、
先手の島津豊久隊は前方の敵に突撃し、
豊久は早くに戦死した模様です。
というのも島津側には、後に家臣達の覚書記録
が多数残っているのに、義弘の次に重要だった
豊久の戦死状況を記した記録がないそうです。
⇒豊久隊が取り囲まれて全員戦死して
しまったので、帰還できた者は誰も見てない。
そして合戦当日、関ケ原内での首実験で家康が
豊久の首を確認している資料があるそうです。
(ただしそれだと話が終わってしまうので、
別説でも進めていきます)
負ったとの事です。
(井伊直政はこの鉄砲傷で1年半後落命とも)
井伊直政がどこで負傷したのか?
島津が退却する前後、家康本陣を抜けた後、
また、もっと離れた勝地峠手前まで
諸説ありますねー。
東軍は、石田隊の北国脇往還道と
宇喜多隊等の中山道方面を西へ追撃してた為、
(⇒島津軍の両脇側を進んでいた為)
島津軍正面の敵が少なかったのかもしれません。
なんとか東軍の包囲攻撃を突破しました。
この時の島津軍は200名程だったのかな?
~④家康本軍と遭遇~
ところが突破したその先には家康本隊が布陣しており、
ちょうど正面数百メートルの所に来てしまいました。
(中山道を進軍中の家康軍をやりすごした話も
ある様です。)
上記写真を真っすぐ進むと家康本陣と
衝突してしまうので、
多分写真右側に折れ曲がって回避し、
梨木川と平行に進む感じで
養老山系方向の伊勢街道を目指した。
と思われます。
上写真の左側を正面の養老山系方向に
進んだと思われます。
この頃は、井伊直政が追撃して負傷した。
福島正則隊は危険と判断し追撃しなかった。
小早川軍は川に遮られて攻撃できなかった等
の伝承がある様です。
・・・ん?、
もう何を言ってるのか分からないという
声が聞こえてきそうです...(* ̄0 ̄)ノ
私もだんだん分からなくなってきました(笑)
~⑤伊勢街道へ進む~
家康本隊との衝突を回避した後、
梨木川に沿って南東方向に進み、
南方向に進む伊勢街道へ入りました。
~⑥鳥頭坂の戦い~
中山道から伊勢街道(国道365号の東付近)
を南下し、 関ケ原盆地の南端に差し掛かった
辺りに鳥頭坂があります。
追撃してきたのを、島津豊久が先方から
殿(しんがり)に変わり、捨て奸の戦法
で防戦し、戦死したという伝承、説明です。
捨て奸(すてがまり)とは、
防戦する10名程の兵士が死ぬまで
敵に立ち塞がります。
突破されたら次の10名が立ち塞がる。
これを複数回やり、味方の退却時間を稼ぐ
という恐ろしい戦法だそうです。😓
撤退開始からここ鳥頭坂まで、約2km弱。
同じような話。
色々な伝承があるんでしょうね~。
鳥頭坂を越え、下写真の国道365号線沿い
に出てきました。
ここは薩摩カイコウズ街道とも呼ばれています。
角度で見えませんが、右側の山沿いに
梨木川と合流した藤古川が流れています。
島津軍がここのどこかを通ったと感じられ、
とても印象に残る風景でした。😊😊😊
~⑦長寿院盛淳の戦死、上石津町牧田、琳光寺~
鳥頭坂での追撃をかわした島津本隊は、
1km程南に進んだ、現在の牧田の地で、
再び東軍追撃隊が迫いつかれてしまいました。
ここで立ち塞がったのが、島津家の家老で、
元住職、本軍を統率していた長寿院盛淳
(ちょうじゅいんもりあつ)です。
彼は、主君島津義弘の陣羽織を着て、
身代わりとなって戦死したとのことです。
激闘だらけの退却戦、凄いです。
長寿院盛淳の顕彰碑は、大垣市牧田支所を目指します。
上石津町牧田の役場と思って探したのですが
見つからず、ちょっと迷いました😓
大垣市の役場名称になってました。(知らなかった~)
長寿院盛淳達の防戦により、追撃を切り抜けた
島津義弘隊は、約50人程まで減っていた模様です。
どこまで描けるかな?
と思いながら作成していましたが、
やっぱり1回で終わりませんでした。
一応3,000文字位を目安にしてますので、
一旦ここまでとします。
⑦長寿院盛淳の激戦地
までを掲載致しました。
これって、まだ関ケ原合戦当日9月15日です(笑)
そして、退き口は自領薩摩帰還までですが、
一応なんとかなるかもという状況になる
堺到着までは、6日後の9月20日です。
その距離感を下の地図で示して見ると・・・、
今回の、①関ケ原 から ②長寿院盛淳戦死
までの距離に対し、
③の堺までなんと遠いことか!w(゚Д゚)w
次回は勝地峠跡を見ながら、島津豊久が自決
した伝承が残る白拍子谷(しらべしだに)まで
行きましたので、探訪地を中心に、
退き口全体を描けれたらと思います。
(てか島津豊久さん、3回目の戦死φ(* ̄0 ̄))
次回の一部
以上、ご高覧ありがとうございました。m(__)m