歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<天下分け目の関ヶ原7>壮絶! 島津の退き口を追う(豊久編)(2/3)

こんにちは、rekikakkunです。

 

関ケ原シリーズ、島津の退き口の2回目です。

 

前回は関ヶ原を突破し、伊勢街道を南下、

鳥頭坂の史跡を越え、長寿院盛淳の戦死場所、

上石津町牧田の地まで追跡しました。

長寿院盛淳の碑(上石津町牧田)

 牧田の地は関ケ原盆地から

 おおよそ4km程伊勢街道を南下した場所で、

 養老山系北端の小さな平野です。

 

 そしてここは南下の際に、養老山系の東側を通る道と、

 西側を通る道の分岐点になります。

 伊勢東街道、伊勢西街道とも言われたそうです。

 

 マップに追記してみますと、下図の感じです。

関ケ原盆地から、伊勢東街道(赤線)と伊勢西街道(黄線)を見る

 

 牧田の分岐点辺りで撮影した写真ですと、

 こんな感じです。

中央少し左が養老山系。その北端から分かれる

 

 ここから、1つの有名な伝承で話を進めていきます。

 

 長寿院盛淳達の奮戦により、東軍の追撃を

 牧田の地で一時的に防いでいる間に、

 島津義弘は養老山系の東側(上写真の赤字の方向)を進み、

 その後島津豊久達は敵を惑わす為(おとりとして)、

 養老山系の西側(上写真の黄字の方向)へ

 進んだとの事です。

 

 東軍からすると長寿院達を撃破し、

 次に見えた軍団が島津豊久隊だったので、

 黄字の伊勢西街道方面へ追撃した模様です。

 

 よって今回は、義弘本隊では無く、

 島津豊久の伝説、ロマンが多く残る、

 伊勢西街道の方を探訪します。

 

 探訪マップを載せます。

  

 島津の退き口の始まりである

 関ケ原島津軍陣地を①。

 長寿院盛淳奮戦から義弘と豊久が

 別れた牧田の地を②。

 (①と②は前回投稿しました)

 そして今回紹介場所を③から進めます。

 

 

~③牧田川、上石津中学校~

 島津豊久隊は、おとりとなる為、

 上マップ②の牧田の地で義弘軍と別れ、

 牧田川沿いの伊勢西街道へ進みました。

 (その先に勝地峠があります)

島津豊久軍が進んだ伊勢西街道方面

 まあ、私も車でほぼ上写真の黄色矢印の通りに進みました。

 この道は現在、国道365号線です。 

牧田から伊勢西街道方面に入り、牧田川沿いを進む

 

 ・・・とここで、実は知りませんでしたが、

 牧田川沿いは凄いところだったんですね~。

伊勢西街道方面を進む1
(前方桜がいっぱいなので脇道を探す)

伊勢西街道方面を進む2
(脇道に車を停めて、少し外を歩く)

伊勢西街道方面を進む3
(なんて所だ!満開の桜が大迫力(❁´◡`❁))

牧田川の北側の山麓を見る
(当時の伊勢西街道はこの山裾辺りかも)

進むと、直角に曲がった牧田川を渡る橋。
通ってきた道を振り返って、ざっくり西から東を撮ってます。
写真正面が南宮山、右手養老山系、背後が勝地峠。

 橋の上を歩いて、牧田川南側を観ますと、

 とても優雅な風景美が。😃

 行ったことは無いが、中国の桂林みたいな感じ。

橋から牧田川南側1

端から牧田川南側2
(ちなみのこの橋は国道365号線の橋では無くて、
その北側の、勝地峠に通じる道の橋です)

 

 ・・・っと~、

 ここまで退き口から脱線して風景に見惚れてました。

 ブログの主旨があやふやなのが明らかにφ(* ̄0 ̄)

 

 ただこの風景は苦しい退却をしていた

 島津兵達にとって、とても心和むどころ

 では無かったかもですね~。`(*>﹏<*)′

 

 牧田の分岐点から養老山系の西側へ向かって進むと、

 勝地峠が見えてきました。

いよいよ勝地峠が正面に。
3方が山。戻れないので正面の山(勝地峠)を進むしかない

 

 勝地峠の入口にあたる上石津中学校。

勝地峠北側の入口にあたる、上石津中学校

 この辺りでは、土地整備時等で人骨、鉄器や供養塔等

 が発見されているとの記事を見ました。

 一説ではこの付近まで井伊直政軍(東軍)が追ってきて、

 家康からの帰還命令により、追撃を止めたとの事です。

 

 つまり東軍追撃隊との戦いは、

 遅くてもここで終わった模様です。

 

~④勝地峠(かちじとうげ)~

 追撃からようやく解放された豊久軍でしたが、

 今度は伊勢西街道最大の難所

 と言われる勝地峠を越えに来ました。

 

 上の全体マップだと見えてこないので、

 拡大した下のマップ★印にて、

 牧田~上石津中学校~勝地峠をアップします。

 (島津豊久軍はマップの上の★印から、

  下の★印の方向へ南下しています)

 

 豊久軍は捨て奸をしているので、

 島津豊久公含めほとんどの兵が傷を負い、

 峠を越えるのは相当の苦難だったと予想されます。

山間部に入りました

 私は舗装路を通ってましたが、途中分岐してた道を

 間違えて右側へ行ってしまい、舗装が無くなり、

 なんか崖の脇を通ったりして行き止まりになりました。

 

 間違いに気が付いて戻り、分岐の左側へ進むと、

 すぐに勝地峠の看板前に到着しました。

 何か難所を経験した感じになったりして。φ(* ̄0 ̄)

 

 そして勝地峠には看板、石碑、峠道の痕跡が

 ありました。😊

勝地峠に到着しました

勝地峠案内板

勝地峠1 石碑

横には伊勢街道の文字

勝地峠2 峠道の痕跡かな?少し入って見る

勝地峠3 昔の峠道かな?怖いのでここで辞めとく
(なにせ牧田を離れてからここまで人影を見てなくて😓)

勝地峠4 舗装道路へ戻る

 鳥頭坂で重症を負った豊久公を運んで勝地峠を越えた。

 既に戦死していた豊久公を運んで勝地峠を越えた。

 等々様々な伝承がある様です。

 ちょっと行っただけですが、大変そうです、ここは!

 

~⑤西高木陣屋跡、上石津郷土資料館、多良地区~ 

 勝地峠を越えると、多分上石津町の中心部に位置する

 多良地区に入りました。

 ここには江戸時代の陣屋跡と郷土資料館があります。

 次の豊久公の史跡まで、ほぼ通り道なので寄ってみます。

勝地峠を下りて、人里に出た

多良地区のとある風景

 

おそらく陣屋の石垣1

陣屋の石垣2

郷土資料館と陣屋跡(隣同士です)

西高木家陣屋跡
(高木家は江戸時代、多良地区を治めた合計4300石の一族)

 郷土資料館で島津関連の情報を仕入れようと

 思ってましたが、今回は資料館では対応

 してもらえず残念😢

 現地の方の史跡への想いや伝承とか聞きたかったw

 

~ちょっと休憩、昼飯~

多良地区の牧田川近くのカフェでカルボナーラセットを
頼みました。美味しかったです(⌒∇⌒)

カフェにあった島津豊久のガイド
食べてる間、ずっと確認してました✪ ω ✪
うん、ここに紹介されている史跡全部行きますψ(`∇´)ψ

また満開の桜並木

多良地区の自然と風景

 

~⑥瑠璃光寺、⑦島津豊久の墓~

 西高木陣屋跡から少し南へ下ると、

 島津豊久のお墓がある瑠璃光寺があります。

瑠璃光寺

 お墓自体は少しだけ離れたところにあります。

 瑠璃光寺に駐車して、徒歩で進みます。

島津豊久のお墓入口

島津豊久のお墓案内板

 戦で重傷を負った島津豊久は、勝地峠を越えて、

 この地区まで辿り着いたが、足手まといになると

 考えて、近くの白拍子谷で自刃してしまいました。

 亡骸は現在の瑠璃光寺に埋葬され、菩提寺となってる

 と書かれています。

島津豊久のお墓2

島津豊久のお墓3

島津豊久のお墓4

島津豊久のお墓5

 

~⑧白拍子谷(しらべしだに)、島津豊久自刃の場所~

 瑠璃光寺の少し南に、豊久公自刃の場所との伝承が残る

 白拍子谷がありますので、行ってみます。

白拍谷への道(左方向の小さな道へ行く)

白拍谷への案内看板があり、とても親切です

写ってませんがここに1台分の空きスペースがあり、
短時間駐車させていただきました。

というのも、ここは歩きですよね~

白拍谷への看板、迷いなしです

白拍谷へ到着
(ここでしばらく瞑想( ̄o ̄) . z Z)

 

白拍子谷の説明板
(かくまった庄屋さんの家がこの辺りにあったのかな???
断られてここまで来て自刃した、との伝承もある様です・・・)

白拍谷からの帰り、良く見ると、山に柵では無く、
建物、農地を柵で囲っている

白拍谷から戻る
家も柵で囲ってました

 さて、歴史好きは事実を知りたいところがありますよね。

 本能寺の変の本当の理由は?とか。

 曹操のお墓が本当に見つかったとか。

 調査研究によって明らかになった事実を知りたいと。

 

 でも、豊久公には異なる伝承が多数ありました。

 しかしこれら伝承は事実云々では無く、

 豊久公が己の筋を通して戦死した

 一つの明らかな事実が、

 日本人の共感を得て派生した結果

 であると思われます。

 

 白拍谷に着いた時、最初ここに庄屋さんの家があったの?

 とか思いましたが、一人でじ~と立っていましたら、

 そういう事ではないぞ!と、

 今残されているものを大切に残していくべきなんだと、

 思い至った次第です。m(__)m

 

~⑨五僧峠~

 豊久隊一行は、主君が自刃しましたが、

 残された家臣達は薩摩を目指す為、

 伊勢西街道筋から西へ至る道へ進みます。

 

 岐阜と滋賀の県境である五僧峠はその一つと

 されていますので、車で向かいました。

(豊久隊云々は別にして、ここを通った

 島津兵が居たのだと推測できます。)

 

 国道365号線から牧田川沿いの

 県道139号線に入り、西へ進みます。

県道139号線を五僧峠へ向かう

五僧峠の方向、山深くなってます

拡大
(こりゃ~また大変そうなところに・・・o(* ̄▽ ̄*)o)

五僧峠へ進む

島津越えの説明板

五僧峠へ進む

 ところが!

 五僧峠は通行止めでした。φ(* ̄0 ̄)

 3月末まで通行止め。

 当日は3月29日。😓

五僧峠前で引き返す

 マップを見ると、ここを越えて西へ進むと、

 彦根の南辺りに到着する感じですかね?

 

 てことは佐和山城も近いですね。

 石田三成の居城佐和山城関ヶ原合戦の3日後、

 9月18日に落城、ほぼ全滅した様です。

 

 まさに滋賀県の東側から京都にかけては

 東軍が、うじゃうじゃ居たんでしょうね~。

 

 鈴鹿山系を越える峠は、勝地峠より

 深くて長いと思われますし、

 普通に超えるだけでも大変そうです。

 

 ましてや敗走の苦難は想像を絶します。

 

 そして、落ち武者狩り、力尽きて、

 捕縛されたりと。

 

 その中でも百名前後もの方達が命を繋ぎ、

 主将の義弘を中心に堺から薩摩へ

 帰還できました。

 

 今回私は義弘軍の退却方向(伊勢東街道方面)

 へは行ってないので、写真がありません。

 しかし資料を読んでみると、そんな事があったのか~

 と知らなかった事、興味深い事が沢山ありました。

 次回簡単にでもご紹介できたらと思います。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m