こんにちは、rekikakkunです。
関ケ原シリーズ、島津の退き口の2回目です。
前回は関ヶ原を突破し、伊勢街道を南下、
鳥頭坂の史跡を越え、長寿院盛淳の戦死場所、
上石津町牧田の地まで追跡しました。
牧田の地は関ケ原盆地から
おおよそ4km程伊勢街道を南下した場所で、
養老山系北端の小さな平野です。
そしてここは南下の際に、養老山系の東側を通る道と、
西側を通る道の分岐点になります。
伊勢東街道、伊勢西街道とも言われたそうです。
マップに追記してみますと、下図の感じです。
牧田の分岐点辺りで撮影した写真ですと、
こんな感じです。
ここから、1つの有名な伝承で話を進めていきます。
長寿院盛淳達の奮戦により、東軍の追撃を
牧田の地で一時的に防いでいる間に、
島津義弘は養老山系の東側(上写真の赤字の方向)を進み、
その後島津豊久達は敵を惑わす為(おとりとして)、
養老山系の西側(上写真の黄字の方向)へ
進んだとの事です。
東軍からすると長寿院達を撃破し、
次に見えた軍団が島津豊久隊だったので、
黄字の伊勢西街道方面へ追撃した模様です。
よって今回は、義弘本隊では無く、
島津豊久の伝説、ロマンが多く残る、
伊勢西街道の方を探訪します。
探訪マップを載せます。
島津の退き口の始まりである
関ケ原島津軍陣地を①。
長寿院盛淳奮戦から義弘と豊久が
別れた牧田の地を②。
(①と②は前回投稿しました)
そして今回紹介場所を③から進めます。
~③牧田川、上石津中学校~
島津豊久隊は、おとりとなる為、
上マップ②の牧田の地で義弘軍と別れ、
牧田川沿いの伊勢西街道へ進みました。
(その先に勝地峠があります)
まあ、私も車でほぼ上写真の黄色矢印の通りに進みました。
この道は現在、国道365号線です。
・・・とここで、実は知りませんでしたが、
牧田川沿いは凄いところだったんですね~。
橋の上を歩いて、牧田川南側を観ますと、
とても優雅な風景美が。😃
行ったことは無いが、中国の桂林みたいな感じ。
・・・っと~、
ここまで退き口から脱線して風景に見惚れてました。
ブログの主旨があやふやなのが明らかにφ(* ̄0 ̄)
ただこの風景は苦しい退却をしていた
島津兵達にとって、とても心和むどころ
では無かったかもですね~。`(*>﹏<*)′
牧田の分岐点から養老山系の西側へ向かって進むと、
勝地峠が見えてきました。
勝地峠の入口にあたる上石津中学校。
この辺りでは、土地整備時等で人骨、鉄器や供養塔等
が発見されているとの記事を見ました。
一説ではこの付近まで井伊直政軍(東軍)が追ってきて、
家康からの帰還命令により、追撃を止めたとの事です。
つまり東軍追撃隊との戦いは、
遅くてもここで終わった模様です。
~④勝地峠(かちじとうげ)~
追撃からようやく解放された豊久軍でしたが、
今度は伊勢西街道最大の難所
と言われる勝地峠を越えに来ました。
上の全体マップだと見えてこないので、
拡大した下のマップ★印にて、
牧田~上石津中学校~勝地峠をアップします。
(島津豊久軍はマップの上の★印から、
下の★印の方向へ南下しています)
豊久軍は捨て奸をしているので、
島津豊久公含めほとんどの兵が傷を負い、
峠を越えるのは相当の苦難だったと予想されます。
私は舗装路を通ってましたが、途中分岐してた道を
間違えて右側へ行ってしまい、舗装が無くなり、
なんか崖の脇を通ったりして行き止まりになりました。
間違いに気が付いて戻り、分岐の左側へ進むと、
すぐに勝地峠の看板前に到着しました。
何か難所を経験した感じになったりして。φ(* ̄0 ̄)
そして勝地峠には看板、石碑、峠道の痕跡が
ありました。😊
鳥頭坂で重症を負った豊久公を運んで勝地峠を越えた。
既に戦死していた豊久公を運んで勝地峠を越えた。
等々様々な伝承がある様です。
ちょっと行っただけですが、大変そうです、ここは!
~⑤西高木陣屋跡、上石津郷土資料館、多良地区~
勝地峠を越えると、多分上石津町の中心部に位置する
多良地区に入りました。
ここには江戸時代の陣屋跡と郷土資料館があります。
次の豊久公の史跡まで、ほぼ通り道なので寄ってみます。
郷土資料館で島津関連の情報を仕入れようと
思ってましたが、今回は資料館では対応
してもらえず残念😢
現地の方の史跡への想いや伝承とか聞きたかったw
~ちょっと休憩、昼飯~
西高木陣屋跡から少し南へ下ると、
お墓自体は少しだけ離れたところにあります。
瑠璃光寺に駐車して、徒歩で進みます。
戦で重傷を負った島津豊久は、勝地峠を越えて、
この地区まで辿り着いたが、足手まといになると
考えて、近くの白拍子谷で自刃してしまいました。
と書かれています。
瑠璃光寺の少し南に、豊久公自刃の場所との伝承が残る
白拍子谷がありますので、行ってみます。
さて、歴史好きは事実を知りたいところがありますよね。
本能寺の変の本当の理由は?とか。
曹操のお墓が本当に見つかったとか。
調査研究によって明らかになった事実を知りたいと。
でも、豊久公には異なる伝承が多数ありました。
しかしこれら伝承は事実云々では無く、
豊久公が己の筋を通して戦死した
一つの明らかな事実が、
日本人の共感を得て派生した結果
であると思われます。
白拍谷に着いた時、最初ここに庄屋さんの家があったの?
とか思いましたが、一人でじ~と立っていましたら、
そういう事ではないぞ!と、
今残されているものを大切に残していくべきなんだと、
思い至った次第です。m(__)m
~⑨五僧峠~
豊久隊一行は、主君が自刃しましたが、
残された家臣達は薩摩を目指す為、
伊勢西街道筋から西へ至る道へ進みます。
岐阜と滋賀の県境である五僧峠はその一つと
されていますので、車で向かいました。
(豊久隊云々は別にして、ここを通った
島津兵が居たのだと推測できます。)
国道365号線から牧田川沿いの
県道139号線に入り、西へ進みます。
ところが!
五僧峠は通行止めでした。φ(* ̄0 ̄)
3月末まで通行止め。
当日は3月29日。😓
マップを見ると、ここを越えて西へ進むと、
彦根の南辺りに到着する感じですかね?
てことは佐和山城も近いですね。
9月18日に落城、ほぼ全滅した様です。
まさに滋賀県の東側から京都にかけては
東軍が、うじゃうじゃ居たんでしょうね~。
鈴鹿山系を越える峠は、勝地峠より
深くて長いと思われますし、
普通に超えるだけでも大変そうです。
ましてや敗走の苦難は想像を絶します。
そして、落ち武者狩り、力尽きて、
捕縛されたりと。
その中でも百名前後もの方達が命を繋ぎ、
主将の義弘を中心に堺から薩摩へ
帰還できました。
今回私は義弘軍の退却方向(伊勢東街道方面)
へは行ってないので、写真がありません。
しかし資料を読んでみると、そんな事があったのか~
と知らなかった事、興味深い事が沢山ありました。
次回簡単にでもご紹介できたらと思います。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m