歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<お城へぶらり3>奥三河 山家三方衆 戦国生き残りへ苦闘 作手亀山城と古宮城(2)

 

 

こんにちは、rekikakkunです。

先のブログの話を続けますね。

 

元亀3年(1572年)10月3日

武田信玄は生涯最後の決戦となる

西上作戦を開始し、甲府を出陣。

 

その少し前の9月29日、

別動隊の山県昌景三河の北東部に侵攻し、

かねてより徳川から武田方に寝返った

 ・作手亀山城の奥平氏

 ・長篠城の菅沼氏

 ・田峰城の菅沼氏(一族の総領)

通称山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)を

自軍に加えました。

 

前回のブログ地図を再掲載します。 

地図上の番号は、①作手亀山城、②長篠城、③田峰城

 

今回は山家三方衆の一人、

平氏が当時本拠としていた

作手亀山城とそのすぐ近くの古宮城を

探訪したいと思います。

上の地図の①です。

 

最寄りは新東名の新城IC。

思いっきり長篠合戦のところで、

見所いっぱいの所です。 

 

平氏というと天正3年(1575年)の

長篠の合戦武田勝頼軍の猛攻をしのぎ、

武勲を建てた奥平信昌が有名ですよね。

 

戦国中期の奥平氏の流れを確認してみますと、

①元亀元年(1570年)東美濃で武田軍との

 上村合戦で、山家三方衆は徳川方として参戦。

 (既に武田に内通していたという話もあるみたい)

②上村合戦で徳川方敗北後、武田方に転身。

 (元亀2年馬場信春が作手盆地、亀山城

  北に三河攻撃の拠点古宮城を築城)

③元亀3年(1572年)西上作戦において

 武田方として参戦。

 

~ここまでは山家三方衆の動きは同じの様です~

 

天正元年(1573年)6月、家康の長女亀姫

 と奥平信昌が婚約し、徳川家臣となる。

 ここが分かれ目だった様ですね~。

 (結果的に天下を取った徳川家康の婿となった)

⑤8月奥平氏は、古宮城武田軍の追撃を振り切り、

 作手亀山城を退去する。 

 9月離縁した元妻を含む人質は勝頼により処刑された。

 厳しすぎる時代( ;∀;) 

⑥上記により天正3年、長篠城主となっていた

 奥平信昌は徳川家の一員として、武田勝頼

 猛攻を耐えに耐え、後世に名を残しました。

 

 長篠合戦後、古宮城は武田の拠点から外れ、

 廃城した模様。

 

さて、ようやくお城に行きます。

前置き長くなりすいません_(._.)_

 

上の地図の①部分の作手盆地を拡大したのが下の地図です。

  ①作手亀山城(奥平氏本拠)、②古宮城(武田氏拠点)   

  2つの城の距離は約1km位。

 

 上の地図①の亀山城本丸から、身を乗り出して

 古宮城を撮ったのが下の写真です。

 なんとか2つの城を1枚に収めたかったんです。

 まあ、お互い丸見えですよねー。

 周辺の高い山にも双方の砦がありますし。

亀山城と古宮城

 ①作手亀山城

  奥平氏は1380年頃、群馬県から

  愛知県作手盆地に移り住み、

  1424年亀山城を築き居城としました。

  それから上述の1573年に退去するまでの期間。

  そして1602年から1610年、信昌の4男

  松平忠明が城主となっている2つの時期が

  あるとのことです。

 

  亀山城は、「道の駅つくで手作り村」のすぐ脇です。

  道の駅に停めても良いし、城址目の前にも

  広い専用駐車場がありました。

道の駅とその裏の亀山城
(写真中央のこんもりが亀山城址)

作手地区の案内図
(⑤亀山城、中央⑥が古宮城。周辺にもお城やお寺がある)

亀山城入口(やっとお城の写真が出た)

亀山城 想像図
(これ見るとイメージ湧くねー)

入り口の階段(ここ登ったらすぐ曲輪)

西曲輪

本曲輪に行く前に見える作手地区

お~、あっという間に本曲輪に到着しました

入って右側(東)に土塁

入って左側(西)に亀山城の看板
(この看板から古宮城が見えたので先程撮りました)

亀山城縄張り図
(先にこれが必要でしたね、左側から本丸に来ました)

二の丸

大手跡と本丸の切岸
(大手は作手街道の反対側ですね。攻撃されにくいからかな?)

堀跡

 亀山城は以上となります。

 遺構は多くは無いですが、整備されており、

 一族の居城としての広さを感じました。

 またここは山、丘陵というよりも公園

 ですね。気軽に散歩できますよ~。

 

②古宮城

 さて、今度は武田の前線基地古宮城に行きます。

 車で数分。

 途中、作手歴史民俗資料館に寄り、

 古宮城の情報を仕入れました。

 (。´・ω・)ん?何を仕入れたかって?

 確か縄張り図をもらったよ。。。

 なんとか思い出した(-_-;)

 この縄張り図を片手に歩いたんだ。

作手歴史民俗資料館

古宮城全景(まん中の丘陵全体が古宮城です)

お城南側の道沿いの白鳥神社に駐車スペースが
2,3台分あり、この神社から古宮城に入ります。

古宮城説明看板

~古宮城縄張り図と探訪経路~

 お城の出入り口は基本、下の縄張り図の

 白鳥神社からです。

 

 城本来の出入口は西側の作手街道側

 (縄張り図の左下の入口)からですが、

 一般所有地であり、ロープが張ってますので、

 外から直接入れません。

 (ここまでは事前の調べで分かってました) 

 

 なので私は最初白鳥神社から城内の縄張り図⑦に

 来て、しょっぱなから凄い遺構だな~と

 見てましたが、⑦は城の中央部になります。

 

 途中で流れが中途半端になってしまう事に気付き、

 ⑦から城内を通って入口の所①までさくっと歩き、

 攻撃侵入路順(①から順)に縄張りをゆっくり

 確認していきました。

 

古宮城縄張り図

 

古宮城縄張り図及び探訪経路

 お城の基本構造は上の縄張り図の通り、

 西城エリアと東城エリアに分かれていて、

 中央の大堀切で完全分離されてます。

 

 本丸は西エリアの先、縄張り図⑨の東城です。

 西城から東城への道は、縄張り図⑥の土橋のみです。 

 

 東城エリアのさらに城の東外側(縄張り図⑪の右側)

 は湿地帯になっていて侵入し難かった様です。

 (今も水田が広がってました)

 

 なので西側、街道側からの攻撃に対する

 防御施設が相当凝ってます。

 

①入口から外堀を通る 

縄張り図の入り口のところ
(この写真の背面がお城です)

 ~ここから、ほとんど似たような写真が大量に

  掲載され、分かり難いと思います~

  ただ後世、大きくは荒らされず、当時の保存状態が

  大変良い事で有名なお城なので、見所多く我慢して

  観て下さいね_(._.)_

 

入り口の堀から進む(縄張り図①)

入って右手を見ると、早速切岸になっていて、
守備側から攻撃されますね~
(縄張り図①から④を見上げる)

入った堀は、それ自体にまた溝、土塁があり、
すんなりは通れない様になってたみたいです

 真っすぐ進み、下写真を越えると、東西に大きく

 分かれているお城の西側エリアから東側に行けます。

大堀切の下(縄張り図②)

大堀切の最下部(縄張り図⑩)

 しかし元々、当時は簡単には入れなかったと

 思いますので、縄張り図②から攻城進入路である

 ③の西城エリア方向を登ります。

  

西エリア(縄張り図③方向)へ登る道
(もはや複雑すぎて写真の説明が出来ません(-_-;))
実際ここに来たら土の城の迫力が凄いです

写真真ん中は行き止まりに誘う道と思います

 この様に、この城は細い通り道を作り、全ての

 通り道は、その上から道全面に攻撃できる

 防御設計なのがよく分かります。

 

 つまりお城の基本的な設計が分かり易く

 残ってるんですね~。

 ほとんどの写真がそうなってますね~。

縄張り図③から下を見る

縄張り図③から④に向かいます
この写真構図はまさに武田の馬出と横堀ですね~

 ※縄張り図の③から⑤に行く前に、少し戻って④方向

  に進みました。

縄張り図④から下の①方向を見る
(上から攻撃する)

 

縄張り図③に戻りました。③の下の緑の道(細い道)
攻城側はこの道を通らなくてはならず、
たまったものではない(笑)

縄張り図③から⑤方向へ180度曲がる道

縄張り図⑤の手前(右手に虎口が見えます)

 

縄張り図⑤西城主郭に到着です

西城を2つに区切る土塁跡

縄張り図④ 西城の西側の土塁

縄張り図⑤の南側の虎口
(本当は南側からも入れるみたい)

もはやどこだか分からないない_(._.)_

ここは分かるぞ~、縄張り図⑥の手前。
(左上に東城の櫓台⑧、⑥の土橋を通る。左が大堀切)

大堀切(⑥から北を見る)

大堀切の反対側、南斜面の竪堀
(縄張り図⑥から南を見る)

縄張り図⑦の両袖桝形虎口
白鳥神社から上がると最初、この付近に来ます。
(写真の左右にコの字型対象に土塁を配置して
桝形を形成。出入口もずらしてますね~)

⑦両袖桝形虎口内
(この先が東城です。ここを突破されたら落城ですね)

⑦虎口越えてすぐ左に進むと縄張り図⑧の櫓台があります

櫓台跡上から⑥の土橋を見る
(土橋を通る敵を上から攻撃できる。西と東の境目の重要場所)
ただしここまで攻められたらお終いかな~?

⑧櫓台から見る大堀切

⑧櫓台から大堀切を介して⑤西城を見る

⑨東城の土塁から、縄張り図③と⑨の間位の大堀切

⑨東城(本丸)の北側の虎口
(あんまりよく分からないですね、)

⑩大堀切の脇の土塁を降りてます

⑩大堀切脇を降りてきた土塁道を見上げる

⑩大堀切を降りて東側の広い外曲輪に入る
(縄張り図⑪近辺)

縄張り図⑪から上を見上げる

 

縄張り図⑪を神社に向かって歩いてるところ
もう写真左手は城外の田んぼ

神社の前の道(お城の南)に戻りました。
この道も当時から伊那街道に通じる道らしいです。
(写真右手が白鳥神社、古宮城)

 以上で古宮城探訪が終わりました。

 古宮城の凄さはどうでしょうか❓

 写真だと土の城って分かり難いですよね~。

 

 ただ通常山城って山を登り、大半は

 樹木、藪で、熊よけしたりして、

 その中に遺構が点在してる感じですよね~。

 

 しかし古宮城は丘陵ほぼ全部遺構になってます。

 また小さな独立丘陵なので、動物とか居なくて

 足も疲れず、安全にじっくり探訪できる城、

 造りも凝ってるということで、お勧めMaxですよ~。 

 

 さて、後の歴史は、武田氏はみなさんご存じの通り。

 奥平氏は家康の長女を娶ることが出来た。

 (武田に困っている織田、徳川の、ちょうど

  欲しい「時」と「地」に奥平氏が居た・・・かな)

 これにより江戸時代も10万石の大名として、

 勝ち組として厳しい時代を生き残りました。

 

 古宮城と亀山城、及び武田氏と奥平氏

 のそれぞれの事情、変化を感じながら探訪

 してみるのも面白いかなと思います。

 

 長々とお付き合い、ご高覧

 ありがとうございました。_(._.)_

 

 次回は山家三方衆の中で、

 長篠城はもうブログ探訪終わってるので、

 残りは田峰城になります。かな?

 少し涼しくなってきましたね~。