こんにちは、rekikakkunです。
静岡県、愛知県東部で探訪しましたお城を、
元亀3年、武田信玄の最後の決戦、
西上作戦につなげて綴っています。
現在、西上作戦の別動隊、山県昌景が
三河方面から進軍し、経路上で吸収した
奥三河の有力国人、通称山家三方衆
②長篠城の菅沼氏
③田峰城の菅沼氏 (下地図の番号①②③と同じ)
を取り上げております。
前回は、①作手亀山城を探訪しました。
今回は③田峰城です。
先週現地に行ってきました。
ネタ切れ暫定対応のつもりが、だんだん
本命になってきてます( ´艸`)
下の地図の③が今回探訪した田峰城です。
~東三河 菅沼氏~
菅沼一族は戦国期、田峰、長篠、野田城等、
東三河の有名どころに広く分布してました。
今川、織田、武田、徳川の勢力の狭間で、
それぞれ生き残りをかけて苦闘してる様です。
この一族の中で野田菅沼氏は武田の捕虜
となっても徳川氏に従い、長篠合戦では
鳶ケ巣山奇襲軍に加わったそうです。
江戸時代は菅沼氏で唯一、膳所、亀山等
において3,4万石の大名になってます。
さて今回探訪の田峰菅沼氏ですが、
1470年頃菅沼定信が築城、
菅沼一族の総領家となります。
天正3年(1575年)、城主菅沼定忠は、
長篠合戦で武田勝頼に従いましたが敗北。
寒狭川(豊川)沿いに北上していた、主君勝頼
と合流し、自領田峰城まで案内しました。
ところが留守居の叔父定直や家老今泉道善
らが、勝頼一行の入城を拒絶し補足しようと
した為、更に北方の武節城まで逃げました。
(元々合戦前から両派に分かれていたみたい)
勝頼一行はここで一泊後、信州伊那へ
戻りました。
面目を失った元城主定忠は翌天正4年
7月14日早朝、田峰城を奇襲し、
城内全員96名を惨殺、家老今泉道善を
鋸引きで処刑し、主な首を作手街道の
平野の辻に晒したそうです。
定忠はすぐに信州に戻りましたが、
その後武田家滅亡の時に討ち死しました。
無人となった田峰城は家康により定直の
嫡子定利に預けた。
定利は終生徳川家に仕え、関東移封時は
は秀忠軍に従軍。
1602年死去し、一時養子はあったものの、
血統は断絶したとのことです。
同じ田峰菅沼氏でさえ、武田、徳川に分かれて
おり、当時生き残りをかけた判断は大変だった
んだと思います。
さて、毎度の長~い話はやっと
終わりました(^▽^)/
田峰城を探訪写真を掲載していきます。✨
探訪がバラバラなので単純に行った順に
番号付けます。
新東名新城ICを出て、国道257号線を
豊川沿いに北上しました。
(★1) 武田勝頼が長篠合戦敗北後の逃走ルート
当時の道はどこかな(・・?)
なんとなく必死さの感じる山並みと川。
(★2)四谷の棚田
田峰城に向かう途中、国道257号を
豊川沿いに通ってるつもりが、いつのまにか
東側の県道を通ってました。
しかし田峰城の手前に、「四谷の棚田」
との看板があったので、城ばかりじゃな~、
と思い寄り道をしました。
下の説明板によると明治時代に山津波があり、
その跡地を復興したとのことです。
綺麗な風景でした(^^♪
(★3)田峰城
さて、ようやく目的地に到着です。
道は案内表示があるので大丈夫と思います。
駐車場降りて、すぐお城でした。
歩き始めから、本丸が見えてる安心感。
曲輪跡が整備されてました。
数分で本丸手前。
(★4)田峰城遠望
首塚へ向かう途中、田峰城西側にビューポイント
がありました。
これはめちゃお城かっこ良かったです。
(★5)田峰城内乱の首塚
上の長いお話の中で、長篠合戦時の
城主菅沼定忠が、敗戦後留守居に城を
乗っ取られたので、翌年復讐して
首を街道に晒した・・・
という所に行きました。
当時の街道と首塚の雰囲気を感じられました。
ここ行こうと思わなかったら、
★4の写真が撮れなかったので
良かったです~(*'▽')
(★6)田峰観音
菅沼氏の菩提寺。
江戸時代、田峰の村を救ってくれたことから、
村人3人になるま奉納するという伝承があり、
国指定重要無形民俗文化財に指定されている
田峰観音奉納歌舞伎があるとのことです。
(★7)道の駅したら
田峰城より少し北、国道257号線沿いに、
「道の駅したら」がありますので、
ここで昼食にしました。
人と車が多く、ちょっと写真が掲載出来ないですね~。
広くてなかなか繁盛してました。
レストランもメニュー豊富で美味しかったです(*'▽')
(★8) 豊川写真おまけ
(★9)橋詰殿戦場、馬場美濃討ち死の場所
昨年行ったが、通り道で行きたいので行きます。
長篠敗戦時、馬場信春が主君勝頼を北へ逃がす為、
ここで殿軍をして討ち死した場所。
(★10)大通寺(長篠城の近く)
大通寺は長篠の合戦時、武田軍の
長篠城に最も近い包囲陣地の一つで、
また織田軍との決戦を決めた際、
水盃を挙げた場所として有名です。
水盃の場所から少し登ると、武田軍の陣跡がありました。
の本拠です。
が、ほとんど知らないのを理由に、
奥平信昌が城主だった長篠合戦に
繋げてます。。。
せっかくなので、最後に長篠城に
さらっと来ましたら・・・、
なんと、ちょうど私がブログで綴っている
東三河の勢力変遷図がありました。。。
これ一つで説明着くじゃん(@_@;)
以前来たときは気にもしていなかったかな( ´艸`)
そして長篠城址史跡保存館に行ってきました。
多分30年ぶりくらいかな?
そしたら最後の最後に衝撃が((((;゚Д゚))))
上の信玄の侵攻ルートが駿河経由に
なってるじゃないか(゚д゚)!
青崩峠通ってないぞ~。
私が出していた西上作戦の進軍図
と違うことに///・・・。
実はこの説はTVにも出てましたよね~。
確かに二俣城が落ちる前
(というか攻城と同時に)、
天竜川東岸で武田軍と徳川軍が衝突する
一言坂の戦いがありましたが、
南下策の場合、二俣城攻撃と同時に
南下進軍するかな~?と思ってました。
また軍勢が多い本軍が飯田、駒ケ根
辺りの平地を通らないのも?
(本軍を見せない攪乱作戦?)
ただ補給を考えると掛川、高天神を残して
西進はリスクある気も・・・。
まあ一般人の考えと違う策を使うのが
信玄と言えるのかも。
今後の研究に期待します~~~。
以上で終わります。
ご高覧ありがとうございました。