こんにちは-、rekikakkunです。
大坂歴史探訪2日目です。
今回、三好長慶最後の拠点、
飯盛城を探訪しました。
信長の安土城に先駆けて、城全域に
石垣を活用したとも言われています。
さて、まずは戦国最初の天下人とも言われる
三好長慶の略歴を調べ始めると・・・。
策略により、一向一揆から攻められ、
自害したと・・・、
oh!、難しいではないか(@_@;)
色々調べてみると、いつも
木沢長政という、なじみが薄い人物が
何度も出てきます。
(私はよく分かんない)
まず、三好長慶終焉の地、飯盛城と
この2つの立派なお城は、最初に
木沢長政が築城してるみたい。
知らなかったよ~、まじかねって感じです。
(下は木沢長政の後に改修拡張された参考図です)
河内の守護畠山氏の被官だそうです。
この畠山氏は、現在の大河ドラマ
鎌倉殿の13人で、中川大志さんの
カッコイイ好演で話題となった畠山重忠
と系図が繋がっていました。
重忠が北条氏に敗死した後、
その妻が足利氏と再婚しました。
当時は後家さんが所領を引き継ぐことが
一般的にあったとのことです。
よって重忠までは平氏系でしたが、
その後の系譜は重忠と血縁は無いですが、
源氏系(足利なので)の畠山氏として
続きました。
その畠山氏は室町時代、諸家に発展
していきましたが、戦国の時代、
河内を本拠とした畠山総州家の当主が
畠山義堯で、木沢長政は彼の部下でした。
・・・と、だいぶはしょったのに、
これだけで長くなってしまうw。
いや!
三好長慶のお父さん、元長でさえ
まだ到達していない( ;∀;)。
はしょります。
1531年(享禄4年)その木沢長政が、
主君畠山義堯へ謀反する事が発覚したため、
畠山・三好連合軍が木沢長政の籠る
飯盛城を攻撃しました。
⇒飯盛城の戦い です。
そこに細川晴元の要請により、
畠山・三好連合軍の背後を襲撃。
ん、なんで急に細川と一向宗?
細川家としては畠山家はライバル家、
また三好の台頭を晴元は警戒する様になり、
一向宗へ畠山・三好を攻撃するよう
けしかけたという・・・。
(もっと複雑なんだろうけどねー)
一向宗は3万とも言われる大軍で
連合軍に攻撃し、畠山義堯は自害。
三好元長をも襲撃し、自害に
追い込みました。
これでは、後の信長の対応も
分かる気が・・・。
その後木沢長政は畿内の実力者として、
信貴山城を築城して大和の支配をも
伺う等、権勢を振るったが、
1542年(天文11年)細川・三好連合軍に
敗れて討ち死にしました。
流れの把握、難しすぎや~~(@_@;)
すいませんが、間違いが
御座いましたらご容赦を。
その後、長慶は細川、足利将軍等と
敵味方となりつつ勢力を拡大し、
となりました。
1560年(永禄3年)三好長慶は
芥川山城から飯盛城へ居城を移し、
城も大改修して現在の城郭になりました。
ところが、1561年長慶を支えていた
十河一存が、また1563年には
嫡子義興が急死。
1564年(永禄7年)長慶は
飯盛城で病死しました。
享年43歳。
長慶が亡くなってすぐ、4年後の
1568年(永禄11年)のことです。
時代は絶妙にバトンタッチされました。
あ~、やっぱり、書き始める前から
要領を得ずだらだら、こうなる様な気が・・・。
すいません。
さっそく飯盛城跡に行きましょう。
飯盛城は上の地図の①の場所です。
生駒山系の北西に位置します。
かの楠木正成の嫡子正行が、足利軍と
四条畷の戦いで討ち死にしました。
戦場は飯盛山とその西麓だったと思います。
それで四条畷の名は私も知っていました。
当時は飯盛山の西は大きな池になっていて
池と山の細い間での戦いだった様ですね。
上町台地以外は海で、だんだん平地化したとか。
また話がそれそう_(._.)_。
大阪から飯盛城へのアクセス、
最寄りの駅は学研都市線の
四条畷駅又は隣の野崎駅です。
私は野崎駅からタクシーで飯盛城の南側、
近くのキャンピー大東まで行きました。
(タクシーで登った)
2,670円でした。
全国割により太っ腹です(笑)
つまり野崎駅からスタートし、飯盛城を歩き、
四条畷駅へ降りて帰る です。
(上の地図を拡大すると①の左側に
JRの駅が見えてきます)
ただし、少し注意が必要でした。
まず野崎駅にはタクシー停留所が無かったです。
大阪は大都市だからJR駅にタクシーが居るだろう、
と、都合よく思い込んでました。
想定外でちょっとうろうろしましたが、
運良く、野崎駅にお客さんを降ろした
タクシーに遭遇出来ました。
ほ~良かった😓
そして、運転手さんにキャンピー大東まで
お願いしますー、と当然の様に言ったら・・・、
ん?どこかな~?
と言われ、またあたふた、
確か、野外何だかセンターとも
言うみたいですと言ったら、すぐ分かりました。
別名、大東市立野外活動センターです。
ここで飯盛城の縄張り図、御城印、
石垣配置図等を入手しました。
事務の方が優しく教えてくれました。
さて、ここは飯森城の南ですので、
北の方向に出発です。
少し歩くと飯盛城跡駐車場がありました。
10台以上は停められます。
下調べでは分からなかったですね~。
10:45の時点で全空きでしたので、
通常は停められそうです。
飯盛城には一番最初に、写真赤丸の駐車場から、
右上にある「虎口」に向かいます。
城の入口ですからね~。
搦め手みたいですけど、入口からスタートしたい。
しかし道をそのまま進むと虎口の南、
楠公寺に行ってしまいますので、
途中、山道に入ります。
下写真の不自然に黄緑色に塗られた木の脇にある
山道、ここがそうだろうと想定し登りました。
(結果合っていたので、ここです。)
キャンピー大東から、最初の城跡の
虎口までは約15分でした。
虎口の位置は、下の飯盛城縄張図の左下です。
この縄張図の左下から右上へ、
飯盛城内をおおよそ青い矢印の方向に進みます。
色々な地図を持ちましたが、キャンピー大東で頂いた
この石垣ガイドの地図が、私的には一番良かったです。
城散策に必要な脇道、石垣位置が正確に描かれてます。
虎口から入ると、南丸という曲輪になります。
南丸だけでも結構広くて、虎口、曲輪、
石垣、土塁と見応えがありました。(⌒∇⌒)
千畳敷は、その構造、発掘調査から、
三好長慶の居館があり、政治の中心だったと
推定されています。
上の曲輪を進むと、木の影から
西側の景色が見えました。
千畳敷を北に降りると、大きな堀切になります。
現在は車道にもなっていますが、南北を遮断する
形は見て分かります。
飯盛城南半分は、居住空間の広い曲輪で
構成されていて、千畳敷を中心とした城郭。
北半分は、小さな曲輪で防御性を固めている
主郭を中心とした城郭になってる様です。
そして土橋も挟んで、主郭に向かいます。
土橋を越えるとすぐに主郭に到着しました。
副郭には展望台がありました。
キャンピー大東を出発して展望台まで
ちょうど1時間でした。
当日はちょっと、もやがかってて少し残念~。
朝、晴れてはいたんですが、時間と共に曇ってきました。
是非やって欲しい~。
信長上洛前の日本の中心地はどうなってたんだか?
難解だし。
戦国ラストの一つ二つ前の時代、
信長の野望でも実力値の高い名武将達👍、
信長や謙信も一時上京していて・・・、
尾張1国を統一したばかりの信長の心の中、
見てみたいですね~。
もっとマイナーな木沢長政、畠山氏、
本願寺、足利将軍達も凌ぎを削ってる。
充分1年間ドラマ化出来ますよね~、
期待してます(⌒∇⌒)。
そして副郭の下に降りると・・・。
虎口以降見られなかった
石垣が見えてきました。
ここから石垣が各所に点在しており、
石垣三昧になりますよー👍
悪く言うと石垣だけ探し廻ってます( ;∀;)。
次回へと続く。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_