歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<大阪府と周辺 歴史探訪2> 飯盛城、天下統一へ歴史が動き出す!(1/2)

 こんにちは-、rekikakkunです。

 大坂歴史探訪2日目です。

 

 今回、三好長慶最後の拠点、

 飯盛城を探訪しました。

 信長の安土城に先駆けて、城全域に

 石垣を活用したとも言われています。 

 

 さて、まずは戦国最初の天下人とも言われる

 三好長慶の略歴を調べ始めると・・・。

 

 お父さんの三好元長は、主君の細川晴元達の

 策略により、一向一揆から攻められ、

 自害したと・・・、

 

 oh!、難しいではないか(@_@;)

 

 色々調べてみると、いつも

 木沢長政という、なじみが薄い人物が

    何度も出てきます。

 (私はよく分かんない)

 

 まず、三好長慶終焉の地、飯盛城と

 松永久秀終焉の地、信貴山城。

 この2つの立派なお城は、最初に

 木沢長政が築城してるみたい。

 知らなかったよ~、まじかねって感じです。

 

(下は木沢長政の後に改修拡張された参考図です)

(参考)信貴山城縄張り図

(参考)飯盛城想定図

 

 木沢長政は、室町幕府管領家の名門

 河内の守護畠山氏の被官だそうです。

 

 この畠山氏は、現在の大河ドラマ

 鎌倉殿の13人で、中川大志さんの

 カッコイイ好演で話題となった畠山重忠

 と系図が繋がっていました。

 

 重忠が北条氏に敗死した後、

 その妻が足利氏と再婚しました。

 当時は後家さんが所領を引き継ぐことが

 一般的にあったとのことです。

 

 よって重忠までは平氏系でしたが、

 その後の系譜は重忠と血縁は無いですが、

 源氏系(足利なので)の畠山氏として

 続きました。

 

 その畠山氏は室町時代、諸家に発展

 していきましたが、戦国の時代、

 河内を本拠とした畠山総州家の当主が

 畠山義堯で、木沢長政は彼の部下でした。

 

 ・・・と、だいぶはしょったのに、

 これだけで長くなってしまうw。

 

 いや!

 三好長慶のお父さん、元長でさえ

 まだ到達していない( ;∀;)。

 

 はしょります。

 1531年(享禄4年)その木沢長政が、

 主君畠山義堯へ謀反する事が発覚したため、

 畠山・三好連合軍が木沢長政の籠る

 飯盛城を攻撃しました。

 ⇒飯盛城の戦い です。

 

 そこに細川晴元の要請により、

 一向宗法主証如が動員をかけ、

 畠山・三好連合軍の背後を襲撃。

 

 ん、なんで急に細川と一向宗

 

 細川家としては畠山家はライバル家、

 また三好の台頭を晴元は警戒する様になり、

 法華宗一向宗の対立を利用して、

 一向宗へ畠山・三好を攻撃するよう

 けしかけたという・・・。

(もっと複雑なんだろうけどねー)

 

 一向宗は3万とも言われる大軍で

 連合軍に攻撃し、畠山義堯は自害。

 一向宗はまた泉州堺に居た長慶の父、

 三好元長をも襲撃し、自害に

 追い込みました。

 

 これでは、後の信長の対応も

 分かる気が・・・。

 

 その後木沢長政は畿内の実力者として、

 信貴山城を築城して大和の支配をも

 伺う等、権勢を振るったが、

 1542年(天文11年)細川・三好連合軍に

 敗れて討ち死にしました。

 

 流れの把握、難しすぎや~~(@_@;)

 すいませんが、間違いが

 御座いましたらご容赦を。

 

 その後、長慶は細川、足利将軍等と

 敵味方となりつつ勢力を拡大し、

 応仁の乱以降の畿内No.1の実力者

 となりました。

 

 1560年(永禄3年)三好長慶

 芥川山城から飯盛城へ居城を移し、

 城も大改修して現在の城郭になりました。

 

 ところが、1561年長慶を支えていた

 十河一存が、また1563年には

 嫡子義興が急死。

 

 1564年(永禄7年)長慶は

 飯盛城で病死しました。

 享年43歳。

 

 織田信長足利義昭を奉じて上洛したのは

 長慶が亡くなってすぐ、4年後の

 1568年(永禄11年)のことです。

 時代は絶妙にバトンタッチされました。

 

 あ~、やっぱり、書き始める前から

 要領を得ずだらだら、こうなる様な気が・・・。

 すいません。

 さっそく飯盛城跡に行きましょう。

 

 ①飯盛城、②信貴山城、③大阪城本願寺)、④芥川山城 

 飯盛城は上の地図の①の場所です。

 大阪府奈良県の北側の境、

 生駒山系の北西に位置します。

 大阪府四条畷市大東市にまたがります。

 

 かの楠木正成の嫡子正行が、足利軍と

 四条畷の戦いで討ち死にしました。

 戦場は飯盛山とその西麓だったと思います。

 それで四条畷の名は私も知っていました。

 

 当時は飯盛山の西は大きな池になっていて

 池と山の細い間での戦いだった様ですね。 

 もっと昔は大阪城本願寺)が立地している

 上町台地以外は海で、だんだん平地化したとか。

 また話がそれそう_(._.)_。

 

 大阪から飯盛城へのアクセス、

 最寄りの駅は学研都市線

 四条畷駅又は隣の野崎駅です。

    

 私は野崎駅からタクシーで飯盛城の南側、

 近くのキャンピー大東まで行きました。

 (タクシーで登った)

 2,670円でした。

 全国割により太っ腹です(笑)

 

 つまり野崎駅からスタートし、飯盛城を歩き、

 四条畷駅へ降りて帰る です。

    (上の地図を拡大すると①の左側に

  JRの駅が見えてきます)

 

 ただし、少し注意が必要でした。

 まず野崎駅にはタクシー停留所が無かったです。

 大阪は大都市だからJR駅にタクシーが居るだろう、

 と、都合よく思い込んでました。

 想定外でちょっとうろうろしましたが、

 運良く、野崎駅にお客さんを降ろした

 タクシーに遭遇出来ました。

 ほ~良かった😓

 

 そして、運転手さんにキャンピー大東まで

 お願いしますー、と当然の様に言ったら・・・、

 ん?どこかな~?

 と言われ、またあたふた、

 

 確か、野外何だかセンターとも

 言うみたいですと言ったら、すぐ分かりました。

 別名、大東市立野外活動センターです。

キャンピー大東 事務棟入口

 ここで飯盛城の縄張り図、御城印、

 石垣配置図等を入手しました。

 事務の方が優しく教えてくれました。

 さて、ここは飯森城の南ですので、

 北の方向に出発です。

 

 少し歩くと飯盛城跡駐車場がありました。

 10台以上は停められます。

 下調べでは分からなかったですね~。

 10:45の時点で全空きでしたので、

 通常は停められそうです。

飯盛城駐車場

先程の飯盛城 復元鳥観図
(左下の赤丸が現在地、駐車場)

 飯盛城には一番最初に、写真赤丸の駐車場から、

 右上にある「虎口」に向かいます。

 城の入口ですからね~。

 搦め手みたいですけど、入口からスタートしたい。 

 

 しかし道をそのまま進むと虎口の南、

 楠公寺に行ってしまいますので、

 途中、山道に入ります。

 

 下写真の不自然に黄緑色に塗られた木の脇にある

 山道、ここがそうだろうと想定し登りました。

(結果合っていたので、ここです。)

車道から虎口へ向かう山道の入口
(車道から左に入る)

登っていくとすぐに尾根道にぶつかりました。
(写真右側が虎口、城跡方向です)

飯盛城ののぼりが見えてきました。

虎口に来ました。間違いないですね~

 キャンピー大東から、最初の城跡の

 虎口までは約15分でした。

 虎口の位置は、下の飯盛城縄張図の左下です。

飯盛城 縄張図

  この縄張図の左下から右上へ、

  飯盛城内をおおよそ青い矢印の方向に進みます。

  色々な地図を持ちましたが、キャンピー大東で頂いた

  この石垣ガイドの地図が、私的には一番良かったです。

  城散策に必要な脇道、石垣位置が正確に描かれてます。

 

虎口の階段

虎口の案内板

 虎口から入ると、南丸という曲輪になります。

南丸(虎口を入ってすぐの曲輪)

南丸案内板

南丸の南にある曲輪の土塁
(土塁の左下が虎口、虎口来た敵に横矢をかける)

 南丸だけでも結構広くて、虎口、曲輪、

 石垣、土塁と見応えがありました。(⌒∇⌒)

南丸から千畳敷へ向かう

 千畳敷は、その構造、発掘調査から、

 三好長慶の居館があり、政治の中心だったと

 推定されています。

千畳敷

千畳敷郭の中心部が一段高くなっている
(現在FMアンテナ塔が建っており、ここが居館跡と推定)

千畳敷郭の南西部分の曲輪

 上の曲輪を進むと、木の影から

 西側の景色が見えました。

千畳敷郭からの眺望
(飯盛城の西方向、少し北側)

千畳敷郭から大阪中心部の眺望
(飯盛城から西方向、少し南側)

千畳敷郭を降りる

 千畳敷を北に降りると、大きな堀切になります。

 現在は車道にもなっていますが、南北を遮断する

 形は見て分かります。 

飯盛城を南北に2分割する堀切
(写真右手が千畳敷方向、左手が主郭方向)

堀切案内板

 飯盛城南半分は、居住空間の広い曲輪で

 構成されていて、千畳敷を中心とした城郭。

 北半分は、小さな曲輪で防御性を固めている

 主郭を中心とした城郭になってる様です。

 

 そして土橋も挟んで、主郭に向かいます。

堀切から土橋に向かう
(写真中央から少し左側に入る山道)

土橋
(本当にS字になってる、うれしい(@_@;))

S字感動の為、もう1枚👍
(見えませんが両側は竪堀になってます)

 土橋を越えるとすぐに主郭に到着しました。

主郭(高櫓郭)

飯盛城碑

楠木正行
(歴史好きでないと分からないかもですが、
楠木正成の嫡子、歴史に名を残しています。)

主郭を降りると副郭が見えました

 副郭には展望台がありました。

飯盛城展望台から西側、大阪を見る

大阪中心部拡大
(写真中央の左側に大阪城、ちょっと分からないかも)

 

展望台の案内図

 キャンピー大東を出発して展望台まで

 ちょうど1時間でした。

 当日はちょっと、もやがかってて少し残念~。

 朝、晴れてはいたんですが、時間と共に曇ってきました。

副郭を北へ降りながら振り返る

 お、三好長慶大河ドラマ化への幟。

 是非やって欲しい~。

 信長上洛前の日本の中心地はどうなってたんだか?

 難解だし。

   

 朝倉宗滴尼子経久、六角定頼等、

 戦国ラストの一つ二つ前の時代、

 信長の野望でも実力値の高い名武将達👍、

 

 信長や謙信も一時上京していて・・・、

 尾張1国を統一したばかりの信長の心の中、

 見てみたいですね~。

 

 もっとマイナーな木沢長政、畠山氏、

 本願寺、足利将軍達も凌ぎを削ってる。

 充分1年間ドラマ化出来ますよね~、

 期待してます(⌒∇⌒)。

 

 そして副郭の下に降りると・・・。

副郭を北側に降りて、東側の石垣

 虎口以降見られなかった

 石垣が見えてきました。

 

 ここから石垣が各所に点在しており、

 石垣三昧になりますよー👍

 悪く言うと石垣だけ探し廻ってます( ;∀;)。

石垣、こんな感じだよ~

 次回へと続く。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_