歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その21)> 関東一難攻不落の城となった忍城

こんにちは、rekikakkunです。

 

小田原防衛戦もいよいよ終盤戦となりました。

今回は忍城探訪となります。 

 

1.忍城の時間軸と場所

 小田原防衛戦を私が勝手に3つに区分した表を、

 再度掲載します。(自分が行った所が中心です)

小田原防衛戦の全体表
忍城以外は落城順)

 上の表は落城日順にしてますが、

 忍城は防衛戦の最中に落城しなかったので、

 忍城攻撃開始を取り上げて、の時間軸としました。

 

 今度は場所になります。

 忍城の場所は埼玉県行田市で、下マップのです。

 因みに、私が埼玉を探訪した時の宿泊先は

 熊谷深谷ですが、マップで見るとほぼの近くです。 

 (埼玉探訪時に行った城⑥~⑫の中央の場所を狙いました)

 

2.忍城の歴史

 文明10年(1478年)頃、忍城成田顕泰

 により築城されたそうです。(忍城説明板による) 

 

 立地は利根川荒川に挟まれた広大な沼地の中に

 築かれ、上杉謙信や今回の豊臣秀吉の大軍等を

 以てしても、一度も落城しなかった不落の城と言えます。

 

 江戸時代は忍藩10万石の政庁となり、

 家光時代の老中安倍忠秋の時に縄張りが

 完成したとの事です。

 

3.忍城の小田原防衛戦 

 小田原防衛戦時の城主は成田氏長でした。

 彼は、他城と同様主力を率いて小田原城

 籠城した為、隠居していた氏長の叔父

 成田泰季が城代となり、兵500人と

 城下の民と共に籠城しました。

 

 5月29日林城を攻略した石田三成軍約2万は

 忍城へ進軍し、6月4日頃より城を包囲しました。

 

 ところが城代の泰季は6月7日、75歳の高齢の為か

 死去してしまいました。

 

 城内では当然慌てた事でしょう。

 相談の上、泰季の息子成田長親が城代となりました。

 

 そして長親が城代となった翌日の6月8日より、

 豊臣軍による忍城攻撃が始まってしまいました。

 

 ・・・という開戦直前に、めったにないであろう

 籠城指揮者の交代で忍城籠城戦の幕が開かれました。 

 

 6月中旬、石田三成秀吉の指令を受け、

 本陣を忍城の西方約2kmの丸墓山古墳に置き、

 利根川から貯水堤(石田堤)を築き、忍城

 水攻めを仕掛けました。

 

 ところが利根川から引いてきた水位が予想より

 高くならなかった為、城にダメージを与えられず、

 しかもただでさえ沼地で攻撃し難い立地だった

 城周辺は、中途半端に水浸しとなった為、

 余計に攻撃困難となってしまいました。

 (攻城側が難攻不落にしてしまった感じ?)

 

 その後鉢形城を落とした浅野長政真田昌幸

 幸村等の増援があったりするも、結局1カ月程

 落城せず、小田原城落城後の7月16日、

 既に降伏していた城主成田氏長の説得等により

 開城となりました。

 (結構珍しいケースかもですね~)

 

 城内には、ほんとの城主成田氏長の娘で、

 美貌かつ武勇も名高い甲斐姫が居ました。

 (信長の野望でも高武力値😃)

 この戦いでも活躍し、後に秀吉の側室になりました。

 

 父の成田氏長は戦後蒲生氏郷に預けられたが、

 甲斐姫秀吉の側室になった後、下野烏山2万石を

 与えられたとあります。

 

 一説には1615年の大坂城落城時、甲斐姫

 秀頼の娘天秀尼をを助け、縁切り寺でも有名な

 鎌倉の東慶寺天秀尼の往生を見守ったという

 伝説もあります。

 

4.忍城探訪(続日本百名城)

 それでは忍城へ行きます。

忍城本丸の碑(近くに駐車場)

忍城本丸にある行田市郷土博物館

忍城の模型
(多分江戸時代。まさに浮城。)

江戸時代(1712年)の忍藩領地
利根川と荒川に挟まれた領地と
飛び地が視覚的で分かり易いですね~

1823年頃の忍城

忍城の博物館からの景色(赤城山の山並み)

景色の説明

博物館の庭

博物館の出口

 博物館を出て散策します。

鐘楼

お待たせの模擬三階櫓
模擬なのに、堀、門、橋とか絶妙な配置で
なかなかかっこよい(^▽^)/

忍城

忍城

 

 さて、忍城本丸を出て、自転車で南方向へ下って、

 二の丸、三の丸の門跡を探してみます。

忍城本丸から下っていきます

太鼓門跡(二の丸の門)

成田御門跡(三の丸の門)

 って門跡の写真だけでは分からないので、

 下の写真で位置関係を表示します。

忍城の門跡廻り 

 ざっくり門跡に沿って道が出来ているので、

 二の丸三の丸の方向だけは分かります。

成田門付近から本丸方向へ振り返る
(曲がってる道と、中学校や駐車場が
なんとなく城跡を感じる)

忍城の南に位置する水城公園の付近

水城公園

 

5.さきたま古墳群、石田三成の本陣

 水城公園から進路を少し西に向かい、

 関東有数の古墳群及び石田三成の本陣に使われた

 さきたま古墳群へ向かいます。

自転車でてくてくと進み、さきたま古墳公園
にさしかかりました

さきたま古墳公園 案内図
古墳が11個以上密集してるみたいです)

公園の中に入り、丸墓山古墳の入口に到着

丸墓山古墳へ向かう並木道

 並木道が石田堤(石田三成水攻めの貯水堤)の痕跡だそうです。

 本陣の脇まで水を引き入れる必要あるのか?

 って疑問がありましたが・・・。

石田堤の説明板

お、丸墓山古墳です

丸墓山古墳 説明板
直径109mの日本最大の円墳、高さ19m
石田三成本陣に使ったとされてます

丸墓山古墳を登ります

丸墓山古墳の頂上

説明板

丸墓山古墳から忍城方面を見る

丸墓山古墳から忍城 拡大

赤城山方向

丸墓山古墳から将軍山古墳を見る

丸墓山古墳を降りる

  まあ丸墓山古墳は狭くて100名程しか居られないので、

  本陣というよりかは、石田軍の見張所って感じました。

 

 

5.ワカタケルの剣

  丸墓山古墳から隣の大きな将軍塚古墳に行ってみます。

将軍山古墳へ向かう

将軍山古墳に展示室がありました

さきたま古墳群の説明

  お、なんか聞いたことがある物が・・・

金錯銘鉄剣の表と裏に判別できる多数の文字が見つかる

  これは、稲荷山古墳の出土品の剣を1978年に

  X線調査した時、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)

  の文字が見つかったと話題になりました。

 

  多分私は小学生でしたが凄いな~

  と思った記憶がある様な無いような・・・。

剣の復元

墳墓内の復元

 ちょっと調べてみますと、

 ワカタケル21代雄略天皇と比定されてます。

 (乱暴だったが、天皇権力集中化を図ったイメージ)

 

 その孫娘を妻としたのが、従来の系統からは

 傍系なのに、本流となる謎の25代継体天皇

 (周りから推されて天皇になった有能なイメージ)

 

 継体天皇の息子が蘇我馬子の姉を妻とし、

 その娘が33代推古天皇となりました。

 聖徳太子継体天皇のひ孫の関係。

 

 どう?分かったような分からないような😅

 

 まあ有名人達が繋がってる

 という事で( ^ω^)・・・。

 天皇家って凄いな~。

 

6.前玉神社(さきたまじんじゃ)

 さきたま古墳群のすぐそばには、前玉神社があります。

 そう、プラタモリ埼玉の語源となった神社として

 紹介されました。

 

前玉神社 1

前玉神社 2

前玉神社 3

 

7.忍城に戻る

 さて、車を駐車している忍城に戻ります。

八軒口御門跡
もう位置関係があんまりよく分からない🤣

 小雨も降っていた忍城さきたま古墳でしたが、

 忍城に戻った頃には、晴れ間も見れました。

帰り際の忍城

忍城の橋

 

8.秩父鉄道日帰り温泉に行く

 熊谷のホテルに戻り、日帰り温泉

 熊谷駅の近く、秩父鉄道石原駅にあったので、

 この日、電車で行ってみました。

 

 車で一人旅の場合、車、自転車、電車と思い付きで

 色々駆使できるのが良いですね~。

日帰り温泉 愉楽の里
(熊谷温泉)

夕食 たぶんロコモコ定食

夜暗くなった秩父鉄道 石原駅

 以上で終わります。

 

 私は復元城はあまり興味が無くて、当時の物が

 そのまま残ってる城、遺構が好きなのですが、

 忍城は歴史的背景を含め、復元櫓も妙に味わいがあり、

 大好きなお城になりました。😀

 

 日本有数の数のさきたま古墳群、三成本陣も見所です。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

 次回は鉢形城、関東で現存する指折りのお城の様ですね~。

鉢形城 堀跡