歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

群馬県 歴史探訪3 日本一の河岸段丘と歴史溢れる町 沼田探訪

こんにちは、rekikakkunです。

 

群馬県歴史探訪3日目は前橋から沼田へ移動し、

河岸段丘と戦国の史跡を探訪します。

 

 ~今回の探訪場所~

  探訪場所は、下のグ-グルマップの地図で、①から⑧です。

  探訪したこの番号順に、ご紹介致します。

 (②から⑦は沼田中心部に集中し見え難いので、拡大して下さいませ) 

  ①河岸段丘ビュ-ポイント   ⑤沼田城

  ②沼田市観光案内所      ⑥沼田市歴史資料館

  ③正覚寺、(沼田駅)     ⑦沼田城大手門跡、大手道

  ④沼田城滝坂口        ⑧名胡桃城  

 

<探訪 6>

 ①雨乞山付近の河岸段丘ビュ-ポイント

   探訪3日目の朝、7:30に前橋のホテルを出発し、

   国道17号線を北上して沼田を目指しました。

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(写真1)国道17号線を沼田に向かって北上中。
関東平野を抜けて狭隘になっていく

   うん、良い雰囲気です😊

   ただ、天気予報を見ていると、

   これから雲が多くなる感じ・・・。

   最初に河岸段丘のビュ-ポイントに

   向かうことにしました。

   この場所はプラタモリの番組で紹介された所です。

   10時頃に到着しました。(写真2)  

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(写真2)雨乞山付近の河岸段丘ビュ-ポイント(グーグルマップの①)

   そして車から降りて見てみると・・・   

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(写真3)雨乞山付近の河岸段丘ビュ-ポイントより撮影

   うお~これだー、凄い絶景( ^ω^)

   ネットで見た写真と同じ、河岸段丘ってハッキリ分かります👍 

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(写真3)の解説
(河岸段丘(赤の囲い)と沼田市街地の間に片品川が右Uの字に流れています)

   (写真3)は上のグーグルマップの①の場所から、

   西の方向(左下の方向)を見ています。

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(写真4) 河岸段丘部の拡大 (はっきり見えますね)

   沼田は、利根川、片品川、薄根川で形成される

   日本一美しい河岸段丘の町と言われてます。

   この場所以外にも見所が沢山ある様ですよー。

    

 沼田市観光案内所

   その後、沼田城の駐車場に駐車し、

   自転車に乗り換えて、沼田城周辺を探索しました。

   まずは沼田城の入口にあります沼田市観光案内所

   に行って、沼田市の観光地図と御城印(1城目)を

   入手しました。

  

   御城印は真田氏関係4城を集めると、

   無料で記念の御城印が貰える様です。

   狙おうかな?

 

   さて、遠い方の正覚寺から行きます、

   ・・・がもう昼ですねー、

   おっと、お寺に行く途中にお店がありました。

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(写真5) 沼田のお店でポ-クソテ-ランチ

   うん、美味しい😋

   平日のおしゃれなランチ店、当然の様に

   お嬢様方達に囲われ、男一人(*_*;

   ま、これで腰を落ち着けて沼田探索に行けます(笑)。

 

<探訪7>   

 正覚寺

   正覚寺真田昌幸の長男真田信幸に嫁いだ、

   本多忠勝の娘小松殿の菩提寺であり、

   お墓があります。

   1600年の関ヶ原合戦の折、舅の昌幸が夫と別れ、

   西軍となって上田へ戻る途中、沼田城を訪れた際、

   夫とは敵になったので昌幸の入城を拒否したという

   女丈夫のお話でも知られていますよね。

   大河ドラマ真田丸や、真田太平記でも重要人物です。

   また後で知りましたが、その親子が別れた場所

   の犬伏は金山城に結構近かったりしてました。

   う~ん、話が長くなってしまう~m(_ _"m)     

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(写真6)小松殿のお墓

 

   また1587年名胡桃城事件で鈴木主水が北条側に

   城を奪取された後、自害した場所がここ正覚寺

   言われてました。

   ・・・が多分現在は違う見解の様でした。

   過去の資料から、下の(写真7)がその供養塔と

   思われますが、表札、案内は無くなっています。

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(写真7)元鈴木主水の墓と言われていた供養塔

   私は鈴木主水が名胡桃城を奪われた際、岩櫃城

   行っていたというのがちょっと気になっており、

   城を奪われた後、岩櫃から名胡桃を超えて

   攻撃側(敵)の拠点、沼田城のすぐ脇まで行くかな~?

   万一捕まったら、城を失なった挙句、自害もできず、

   捕虜となってしまうと思うのですが・・・なんて。

  

   あと正覚寺沼田市街地の河岸段丘のへりにあり、

   ビュ-ポイントにもなっています。 

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(写真8)正覚寺河岸段丘側から沼田駅利根川を望む

  (写真8)は河岸段丘上の正覚寺から沼田駅利根川の方向を見る。

  (写真9)は逆に沼田駅から正面の河岸段丘(正覚寺含む)を見る。

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(写真9) 沼田駅の歩道橋から見た河岸段丘正覚寺の位置

   市街地と沼田駅河岸段丘高低差は約70mだそうです。

   駅から歩くと大変そうです( ;∀;)

   (森に見える木々が段丘で、その上の奥が市街地です)

 

   で、(写真9)の左側を見ると・・・

   河岸段丘が続き、(写真10)の沼田城の位置が見れます。

   沼田城は段丘の角っこだよねー。やったー( ^ω^)

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(写真10)沼田駅から沼田城を望む

 沼田城 滝坂口

   正覚寺から滝坂口に行きました。

   沼田城本丸の南側で、入口の一つだった様です。

   何も無いですが川の橋が名残みたいです。

   (沼田城の大きさを感じたかったので確認しました) 

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(写真11)沼田城 滝坂口

  

   と、沼田城滝坂口(写真11)の位置を見に来ただけでしたが、

   ふと左側に顔を向けると・・・・

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(写真12) 滝坂の河岸段丘登り口
 (ここは登り終わったところです)

   げ!、すごい急な坂があるけど・・・(*_*;

   いそいそスマホでグーグルマップ確認。

   そうか、ここは沼田駅から河岸段丘を登る道。

   この坂を大変そうに登ってる方達が居ました。

   てことは学校や仕事とか沼田駅から毎日昇り降り

   してる方がいらっしゃるとか?

   ここにも河岸段丘と沼田の街の特徴が感じられます。

   (こちらはびっくりだけですけど、登る方は大変かと)
 
<探訪8>

 ⑤沼田城

   滝坂口からそのまま北に向かって沼田城に行きました。

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(写真13) 沼田城のシンボル、本丸太鼓櫓(復元)

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(写真14)西櫓台石垣と階段跡
(地中に埋まっていた真田氏時代の遺構)

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(写真15) 本丸の堀石垣跡
(破壊前は石垣の高さ6m。発掘で下側1.5mのこの写真が一部残存との事です)

  

   さて、沼田城は北関東の重要拠点なので、

   北条、上杉、武田、北条、織田、真田氏等

   戦国を彩る有名どころが沢山登場しますよね。

   話は長くなるので割愛します

   ・・・が、ちょっと少しだけ、

   沼田城は1531年頃沼田顕泰(万鬼斎)

   により築城されました。

   万鬼斎は息子2人を殺害したりして戦国時代を

   地で生きてきた人。そしてその息子の景義は

   1580年真田昌幸の謀略によって殺害され

   沼田氏は滅亡。(その2年後武田氏も信長により滅亡)

   ・・・とこんなマイナ-な歴史があったりして、

   その当時の本丸が多分下の(写真16)といわれています。

   私としましては~~~、

   ここに来たのが一番の感動でして・・・(;^_^A

   じ~ん、としながら1周しました(-_-;)

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(写真16) 捨曲輪(古城)跡 (本丸の北側)

 

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(写真17) 沼田景義を沼田城で謀殺した際、首級を載せた石と言われています


   捨曲輪(古城)は沼田城の最北西ですので、

   そこから名胡桃城方面が望めます。(写真18)

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(写真18) 沼田城古城から名胡桃城方面(北方向)を望む
(木の森の下は河岸段丘の崖)

 沼田市歴史資料館

   沼田市の歴史資料館で展示していたのを撮りました。

   当然私の写真より綺麗(笑) 参考になりました👍。

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(写真19) 河岸段丘説明写真
(私の位置より高い所から撮ってますね)

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(写真20) 沼田城古地図
(写真上側が西、右側が北ですね。右上の端が古城、その左が本丸。)

   

  沼田城 大手門跡と大手道

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(写真21) 大手門跡
(中に土台の石があります。小学校なので少しだけ)

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(写真22) 大手門から南方向に通じる道
(なだらかに道が下っています)

    あまり遺跡が無い大手跡になぜ来たか?

    というと・・・

    先の正覚寺のところで、小松殿が

    真田昌幸の入場を断ったのが、

    ここ大手門と言われています。

    ここで昌幸と小松姫のやり取りが・・・

    と信じよう(⌒∇⌒)

    あと大手の道は城まで登りになっており、

    道沿いには寺院を配置し、防御に備えたと

    言われています。

    プラタモリより(笑)

    行ってみると確かに良く分かる。

    沼田城の立地、ここ選ぶわ。

 

 <探訪9>

  ⑧名胡桃城

    さて、ここまで15:00。

    明日予定だった名胡桃城に行ってしまおう。

    マップを見て、利根川を渡り山側の、

    県道253号を車で北上して向かいます。

    (北条は山側から向かったかも?と思ったので)

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(写真23) 利根川の橋から北方向(名胡桃の方向)

  

   15:55名胡桃城址案内所に到着しましたが、

   閉店16:00となっており、運良くセ-フ。

   5分だけ入って、名胡桃城御城印ゲット(2枚目)。

   ここのお城は上り下りも少なく、安心して見れます。

   (16:00以降もお城見れました)

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(写真24) 名胡桃城入口

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(写真25) 名胡桃城空堀(なかなか豪快に残ってる)

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(写真26) 名胡桃城 堀と曲輪群 (この中を歩けます)

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(写真27) 名胡桃城 最東端(城の一番奥、下は崖)

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(写真28) 名胡桃城 最東端の眺望
(見えないが右側が沼田方面、どこ行っても眺望凄い)

   豊臣秀吉の北条征伐の大義名分となった

   名胡桃事件の場所。

   正覚寺でお話しました鈴木主水が城代でした。

   この沼田方面の動向を見ていたと思うので、

   さぞかし無念だったと思います。

 

        ここで名胡桃城案内所の方と御城印の

   話をしていたら、

   沼田城、名胡桃城、岩櫃城上田城

   4城の記念御城印は終了し、

   現在は中山城、松代城を加え6城御城印

   になってるとのことでした。

  

   まじですか~、あと旅程は残り2日。。。

   で残り4城、どうしようかな?

   あれ?前橋で3城も行ってるじゃん、

   その御城印は?(・・・何も買ってないぞ)

   と今頃気が付いた自分を不思議に思いながら、

   ホテルに向かいました(笑)。

   ま、その時考えよう。

 

   群馬県探訪3日目沼田探訪はこれでお終いです。

   沼田は、四方絶景でありながら、自らも絶景を

   彩る街、それゆえの要害、歴史の街でしょうか。

   今まであまり見たことがない、素敵な街でした。

     

   いつもの如く、筋が見え難い構成すいません。  

   ご鑑賞ありがとうございましたm(__)m

 

 

 

群馬県 歴史探訪2 上州要の城 前橋城と箕輪城 (2/2)

こんにちは、rekikakkunです。

 

 群馬県歴史探訪2日目の箕輪城

 続き(2/2)をご紹介致します。

 

<探訪4 箕輪城

 

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(参考図)箕輪城縄張図

 

 前回は大堀切を下りるところまでお話しました。

 大堀切を下りきると、参考図で中央部の上にある

 大手虎韜門口駐車場に着きました。

 搦手側駐車場から大手側駐車場に行ってしまいましたが・・・

 この選択は結果的に間違ってませんでした。 

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(写真1) 箕輪城大手虎韜門口駐車場
(う~ん、写真が中途半端だ~、城と駐車場は写真右側です)

 大手虎韜門口駐車場から、下って来た大堀切を見上げると・・・

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(写真2) 大手虎韜口駐車場から大堀切を見上げる

 

 う~ん、やっぱりそのまま大堀切を登って戻るのは嫌だな~

 と周囲を見渡すと・・・、

 駐車場の北側に道が少し見えたので、

 行ってみたら鍛冶曲輪の石垣と山道がありました。 

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(写真3) 鍛冶曲輪の石垣と山道

 ここを登ってみると、鍛冶曲輪があり、

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(写真4) 鍛冶曲輪

 そのまま進むと、

 あら、しっかりと石垣が残ってますね~😊

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(写真5) 三の丸石垣

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(写真6) 三の丸の石垣 説明看板

  大堀切を下りなかったら、三の丸の石垣には

  来なかったかも。見れて良かった👍

 

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(写真7) 三の丸

 三の丸に入ると、そのまま二の丸に通じて、

 (写真8)の場所に戻りました。

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(写真8) 二の丸から見た大堀切と土橋、郭馬出

 結果的に大手虎韜門駐車場からは、

 鍛冶曲輪経由で登った方が、遺構の変化

 を見ながら行けるので良いのかなと思いました。

 箕輪城のご紹介はこれで終わりになります。

 

 昔の写真と比べてみると、堀や城跡の

 伐採がなされ、史跡の整備が進んでます。

 そのおかげで曲輪、堀や堀切、虎口周辺等

 井伊直政時代の雄大な遺構がそのまま

 残ってる感じです。

 是非行ってみて下さいね。 

 

 碓氷峠や沼田、渋川方面から武田が

 攻略に来た時の、箕輪城の立ち位置の

 厳しさは現地に行って感じられました。

 

 <ちょっと一息 ランチ>

  さて、箕輪城を見終わって12時を過ぎ、

  お昼どうしようかとグーグルマップ

  を見たら・・・

  運良く箕輪城の東側すぐ近くに、

  地元のお店を見つけました。

  そのお店では、旅では不足がちな野菜を

  たっぷり採ることが出来ました。

  美味しかったです、ありがとー👍

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(写真9) 野菜のごはんランチセット

 

<探訪5 長純寺>

  箕輪城の近くでゆっくりランチが出来たので、

  何か無いか調べてみると・・・。

  長野業正公のお墓が、箕輪城西方近くの

  長純寺にあるとのことで行ってきました。

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(写真10 長純寺入口)

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(写真11 長野業正公供養塔)

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(写真12)  長野業正公供養塔 説明看板拡大

 入口からは奥へ進み、少し上がった所です。

 長野氏の菩提寺であり、長野業正が再建している

 とのことで、手を合わせご冥福を祈りました。

 

 以上で前橋を拠点とした金山城箕輪城

 前橋城の探訪が終わり、

 次回群馬探訪3日目は沼田へと北上します。

 いよいよ真田づくしとなりそうな予感です(;^_^A

 

 ご鑑賞ありがとうございました。

群馬県 歴史探訪2 上州要の城 前橋城と箕輪城 (1/2)

こんにちは、rekikakkunです。

 

群馬県歴史探訪2日目は前橋城(厩橋城)と

箕輪城を探訪します。

 

<探訪3>前橋城

  朝7:30、ちょっと肌寒いですが

  秋晴れの心地よい朝、

  前橋駅からほど近いホテルから、自転車で

  北上し、広瀬川経由で前橋城に向かいました。

 

  広瀬川萩原朔太郎を初め、郷土の詩人、

  文学の石碑などが並び、遊歩道が整備

  されている風情ある川で、のんびりと

  サイクリングが出来ました。

  (特に川の両側に遊歩道が途切れなく整備

   されていたのが、感心させられました)

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(写真1)風情ある広瀬川
(撮影下手な私にしてはまあまあかな?)

 

    さて現在も県庁所在地で要の地である前橋城です。

 戦国時代は厩橋城と言われており、長野氏が

 築城し厩橋長野氏と言われていますが、色々

 な説があるとの事です。

 永禄3年(1560年)に上杉謙信が関東進出の拠点と

 して厩橋城を接収しましたが、地図を見ると、北の

 新潟方面から関東に侵攻した場合、沼田と厩橋間を

 押さえていないと帰るの、大変になってしまいます。

 実際、東の赤城山系、西の榛名山系にバックにした

 厩橋雄大な立地は重要な拠点と感じられました。

 

 しかし厩橋城、また江戸時代に前橋城と名が変わって

 からも、利根川の氾濫、浸食により度々機能停止に

 なったり、幕末に再興してすぐ維新により廃城に

 なったりして、現在は遺構が少ない様です。

 その中で、県庁の周辺にある土塁跡は結構

 大きくて見応えがありました。

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(写真2) 前橋城土塁跡 (ちょっと遠かった)

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(写真3) 前橋城縄張り図

 あと(写真3)の縄張り図中央にある半円形の馬出がある

 ⑤と⑥の位置ですが、その車橋門跡の石垣が、

 位置こそ少し移動してますが残っています。

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(写真4)前橋城 車橋門石垣跡

 

 その後、8:30より入場できる群馬県庁の

 32F展望フロアーに行きました。

 赤城、榛名山系、碓氷峠等の雄大な景色を

 見ることが出来ました。

 予約なしで誰でも入れますので、時間があれば是非。 

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(写真5)群馬県庁展望フロアーから利根川と北方向の沼田方面を見る

  その後ホテルに戻って、9:30頃車で箕輪城へ向かいました。

 

<探訪4>箕輪城

   前橋駅近くから北西の方向に車でちょうど

   30分位で箕輪城に到着しました。

   お城好きならあまりにも有名な箕輪城

   私の適当な説明は省きますね m(_ _"m)

   全体図だけは載せます・・・手抜きか(笑)。

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(写真6) 箕輪城全体図


   下の(写真7)搦手口駐車場は、上の(写真6)では

   真ん中下の史跡箕輪城跡駐車場です。

   流石の箕輪城、50台を超える大きな駐車場でした。

   あとで述べますが、この搦手口駐車場から

   入場するがおすすめかと思います。

   (立地が高くて、主要部にも近いので)

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(写真7)箕輪城 搦手口駐車場

  さて搦手口駐車場からは二の丸、本丸まですぐです。

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(写真8)箕輪城 本丸跡
(広いですねー。周囲には土塁があり、そこを歩けました)

 

 本丸からそのまま歩いて北側に御前曲輪があります。

 箕輪城で最も行きたかった場所です。

 戦国時代、西上野の要として、甲斐の武田軍の侵攻

 を何度も防いでいた箕輪城は、1566年(永禄9年)

 遂に力尽き、攻め落とされます。

 その際、名将長野業正の息子である城主長野業盛

 及び多数の籠城者が自害した場所が、この曲輪と

 言われています。

 現地は雰囲気もあり、戦国の悲哀を感じると

 共に、冥福を祈りました。 

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(写真9)箕輪城 御前曲輪跡


 そして本丸と御前曲輪の周囲は大きな空堀となっていて、

 歩くことが出来ます。

 伐採等すごく整備に力を入れたのが分かります。

 ありがとー👍

 ただ御前曲輪の背後の空堀が少し不気味に感じました。 

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(写真10) 本丸周囲の空堀(御前曲輪の北側位)

 

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(写真11) 本丸と三の丸間の空堀に建築中の橋

 

 そして、二の丸の前方(南側)にある郭馬出西虎口と大堀切。

 (写真12~16)が箕輪城有数の見所でしょうか?

 確かに迫力満点です。👍

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(写真12) 郭馬出西虎口門

 

  (写真12)の門を入って先に進み、振り返ると

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(写真13) 二の丸から見た大堀切と土橋、
その先が郭馬出と西虎口門

 

  上の(写真13)の右側の大堀切を土橋から見ると・・・

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(写真14) 郭馬出西虎口と大堀切

 うお、深い、でかい・・・。

 この大堀切は(写真14)に見える様に階段があって、

 降りることが出来ました。

 大堀切に降りると、こんな感じです。

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(写真15) 大堀切の下から郭馬出西虎口を見上げる

 こりゃ~上に城兵が居たら、生きた心地しません(笑)

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(写真16) 大堀切から土橋を見上げる
(正面が土橋、右側が郭馬出、左側が二の丸)

 (写真16)のところに居ましたら、、、

 汗だくになっている方が、ここはどこですか?

 と声を掛けてくれました。。。

  

 実はこの大堀切は堀切内を歩くことが出来て、

 登って来た様です。

 歩くつもりは無かったのですが、せっかくですから

 下りてみました。(写真17、18)参照。 

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(写真17) 大堀切を下りる途中

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(写真18) 大堀切を下る途中、振り返って階段を見上げる

  登るの、めちゃ大変だったの、納得しました。。。

  私もこの直線的な坂を登っていたら

  へばってましたね(笑)

  ってそもそもこんなデカくて長い堀切

  どうやって作ったの?Σ(゚Д゚)

  

  下りると大手虎韜門口駐車場に出ました。

  虎韜門=読み方は、ことうもん、六韜三略

      (りくとうさんりゃく)が語源らしい。

      六韜と入力しないと韜の字が出ない(汗)

  

  結論⇒大堀切は登らず、行くなら下った方が良いですよー

     ・・・たまたま知っただけです( ^ω^)・・・  

 

  しかし流石の箕輪城、1回ではちょっと

  終われず、2回に分けます。

  

  ご鑑賞ありがとうございました。m(_ _"m)

 

 

 

群馬県 歴史探訪1 山の上にこんなに石垣が! 新田金山城(2/2)

 

こんにちは、rekikakkunです。

 

 <探訪1>新田金山城跡 の続き(2/2)

 全体図(写真1)を再度載せます。  

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(写真1) 新田金山城全体図

 前回は上の(写真1) の左端の駐車場から、

 写真中央の■6の物見台まで進みました。

 物見台を降りて先に進むと、(写真11)の様に

 案内看板がありました。

 現在の位置と次に向かう方向が分かる看板が

 随所に設置されていて、大変分かり易かったです。

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(写真11) 物見台から次の馬場曲輪に進む

 

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(写真12) 馬場曲輪

 馬場曲輪を降りて進むと本丸の手前に(写真13)の月の池が

 あり、また堀切でこれまで通ったエリアが分離してます。

 いよいよこの先が本丸でしょうか。

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(写真13) 月の池 (写真1の■8)

  お、石垣でできた虎口が見えてきました。

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(写真14) 大手虎口の入口へ進む

 月の池を左に見ながらいよいよ金山城最大の見どころ

 である、大手虎口の石垣群を見ます。

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(写真15) 大手虎口の手前 (写真1の■9です)

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(写真16)大手虎口の入口
(おおーこれだー、凄い迫力だよー)

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(写真17) 大手虎口を進んで振り返って見る

 大手虎口は金山城の案内写真でよく見る所ですが、

 期待通りで、本当に圧巻でしたよー😊

   200mを超える山の上に当時こんな遺構を作れた

 なんて、驚きでした。

 

 そして虎口を上がって休憩所に行きますと、南の都心方向と

 関東平野が見渡せます。

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(写真18) 休憩所から南方向(都心方向)を見る

 

  この先の本丸中央に新田神社があり、また本丸の外側を

  廻ると当時の石垣が少し残ってる所もありました。

    

  感想としましては、駐車場まで行けば、そこからは

  お散歩気分で日本有数の山城石垣群が見れる

  素晴らしい城でした。

  

  さて金山城太田市にありますが、この付近は

  金山城が活躍するよりもっと昔には、新田義貞

  有名な新田源氏の本拠地でした。

  金山城は新田氏の一族の岩松氏が築城し、その後

  戦国時代に家臣の由良氏が台頭し城主となりました。

  1570年から80年代にかけて武田や上杉、北条

  と渡り合うのはこの由良氏となります。  

 

 <探訪2> 生品神社

  時はさかのぼり鎌倉時代の末期、1333年、

  元弘3年5月8日、御醍醐天皇の綸旨を受けた

  新田義貞は鎌倉侵攻の為に、この生品神社

  挙兵しました。

  境内入口で時代を感じながら見ていると、

  自転車で下校する通りすがりの中学生達が、

  一様に「こんにちわー」と私に声を掛けてくれました。

  子供たちはここがどの様な歴史を持つ場所か

  分かっている様ですね。

  名門源氏の雰囲気を十分感じることが出来ました。

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(写真19) 生品神社 境内入口

 

 境内に入るとすぐに、白くてかわいい猫ちゃんが

 お迎えに待っててくれてました。

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(写真20) 境内で待っていた猫ちゃん

  

  足利館跡にも行って、新田足利の距離感を感じたかった

  のですが、日も暮れ始めたのであきらめ、前橋駅近くの

  ビジネスホテルに泊まりました。

  

  1日目はこれで終わりです。

  ご鑑賞ありがとうございました。m(_ _"m)

 

 

群馬県 歴史探訪1 山の上にこんなに石垣が! 新田金山城(1/2)

こんにちは、rekikakkunです。

 

今回は群馬県から長野県にかけて

真田氏の城を中心に史跡を探訪

してまいりました。

 

まずはどこを宿泊拠点にしようかな?

群馬県といえば長尾景虎の関東遠征や

織田氏の甲信遠征後に滝川一益等の

戦国時代、県外から来た人がよく

拠点としたのが厩橋城ですよねー。

さて、私も前橋(厩橋)を最初の

拠点にして行くかー。

・・・いや、単なる真似です。

 

<探訪1>新田金山城

 初日高速を突っ走って到着したのは、

 新田金山城。国指定史跡ですー。

 (武田、上杉等の攻撃に耐え、

 一度も落城しなかった、

 石垣の迫力で有名な山城。)

 

 群馬県太田駅から車で北へ10分足らずで

 金山城跡駐車場に到着します。

 下の(写真1)の左端の赤丸が駐車場です。

 ほぼ山の上まで車で行けて、史跡の右端

 まで、山登りの負担無く散策できます。

 実際散歩している地元の方々を何十人と

 お見かけしました。

 (近所を散歩している感じでうらやましい~)

 

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(写真1) 金山城全体図

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(写真2) 新田金山城 駐車場からスタ-ト
(平坦な道を進むよー)

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(写真3) 西櫓台西堀切付近 (写真1の■1の所です)

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(写真4) 西櫓台下堀切跡
(写真3の堀切の次にある堀切です)

 

 ここから石垣群が立ちはだかります。

 下の(写真5)は虎口(入口)ですが、色々な

 構造が見れます。

 まず入口の手前は土橋(細い道)になっていて、

 攻撃側の人数を妨げています。

 次に意図的に通路を曲げて石垣を構える事で、

 城の奥側(先)を攻撃側から見えなくしてます。

 と偉そうに言ってますが・・・、 

 私はそれと知らず写真スポットを探し、なかなか奥と

 一緒に撮れないな~と、土橋を行ったり来たり

 うろうろして城側の術中にどっぷり嵌っていました(汗)。

 一人で10回程死んでました。。。_| ̄|○ 

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(写真5) 物見台下虎口 (写真1の■3です)

 また土橋の両側は岩盤を削って堀切になってます。

 (写真6)はその堀切で(写真5)の土橋の左側です。

 なかなか豪快ですねー。

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(写真6) 写真5の左側にある岩盤を削った堀切

 そして先程10回死んだ虎口を、

 死ななかった事にして(笑)、

 入り進むと、(写真7)

 うん?何か先に見えるな~。

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(写真7) 写真5の虎口の中を通る
(先に少しだけ何かが見える)

 

 今度は木橋とまた虎口。

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(写真7) 写真5を進んだ先の木橋と虎口
(写真1の■5の所です)

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(写真8) 木橋にある堀切

 橋+堀切が連続で2つある構造はなかなか凄いです。
 

 そして物見台(写真1の■6)に来ました。

 物見台に登ると、金山城の北と南方向の

 見晴らしが良く、写真を撮りました。

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(写真9) 金山城物見台から東京方面を撮る

 が、南方向(写真9)をよく見ると何か見えるので拡大写真

 を撮ってみたところ・・・下の写真が撮れ、グーグルマップ

 で確認したら東京都心ビル群と分かりました。 

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(写真10) 金山城物見台から東京都心方面を拡大して見ると
都心のビル群が見えます。(写真9の拡大) 
もう少し左側撮ればスカイツリ-が撮れたみたい。 

            

  何故謙信や滝川達が厩橋(現前橋)を拠点にしたのか?

  当時江戸(東京)はまだ中心地では無いですが、

  地図で見える通り、関東平野の全体を上(北)から

  望める位置が厩橋なんだな~、と自分なりに

  目で見て納得できました。😊

  この納得感がたまらないですねー(笑)

  

  すいません、次回に金山城の最も有名な

  石垣群及び新田義貞旗揚げの地、生品神社

  に行きます。

  結局今日は真田は出ませんでしたが、

  これから先真田だらけになりそうな予感です。

  (箕輪城沼田城岩櫃城真田本城砥石城

  上田城の順で廻っていきます)

 

 ①新田金山城 ②生品神社 ③前橋(厩橋)

 

 

頼朝旗揚げ、早雲下剋上 時代の幕開けの地 韮山の史跡を巡る

こんにちは、rekikakkunです。

 

 今回は 静岡県 伊豆の国市 韮山

 を探訪しました。

 ここは不思議と歴史の分岐点が積み重なって

 いる珍しい場所なのかな~と思います。

 つらつら書き並べてみると・・・

 

 (1)中世(鎌倉~室町時代)

   ⇒中世の幕開け鎌倉幕府を開いた源頼朝の旗揚げの地

   ⇒その後幕府の実権握った北条氏の本拠地

 (2)近世(安土桃山~江戸時代)

   ⇒近世への扉を開く戦国時代、その幕開けを飾る

    北条早雲下剋上及び本拠地の場でもあります。

   ⇒豊臣秀吉による天下統一、韮山城の攻防戦

 (3)近代(明治~現代)

   ⇒幕末の黒船来航を契機に、時代の先端をいく

    韮山反射炉が築造され、当時の姿で現存

    しています。

 

 そこで韮山の史跡でおすすめの場所を、、、

 ・・・いや、単に私の趣味でぶらぶら行った

    ところを年代順にご紹介します。(汗) 

  

  このグーグルマップの〇番号とその後の番号は合致しています。

  (例えば地図の① は 1.蛭ケ小島です。〇番号を押すと説明出ます)

 

 1.蛭ケ小島(源頼朝配流の地) 

   韮山での大きな歴史的事象としての始まりは、

   1160年源頼朝が伊豆に流されたことでしょうか。

   1177年北条政子と結婚するまでの17年間

   蛭ケ小島に居住したとされています。

   蛭ケ小島は伊豆箱根鉄道韮山駅から東南方向へ

   徒歩10分程で到着し、現在蛭ケ島公園として

   整備されています。

   公園には10台以上の無料駐車場があり、おすすめ

   の拠点です。私もここから自転車で廻りました。

   上のマップ①を見ると各史跡の中間に位置してますよねー。  

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(写真1) 蛭ケ小島 (蛭ケ島公園入口の頼朝政子像)

   頼朝の配流地については、確定出来る資料や物証は無くて、

   伊東(伊豆の東側海岸)という説もある様です。

   蛭ケ小島については、江戸時代に地元の学者による調査

   により、この場所と比定されています。

   私はここで信じてます、史跡を見て繋がりを感じるし。

 

 2.北条氏邸跡(円成寺跡)

   蛭ケ小島から1.5km程西に向かった狩野川沿いの

   守山一帯は北条氏の本拠地です。

   守山北西部の狩野川沿いには、北条時政や政子達が居住

   していた館跡があり、また鎌倉幕府滅亡の折、北条一族

   の一部が韮山に戻り、この館跡に円成寺を建て、先祖の

   冥福を祈ったとされています。

   現在は単なる原っぱに見えますが、発掘調査もされて

   おり、今後も史跡として開発が楽しみな所です。

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(写真2) 鎌倉北条氏の本拠地守山の遠景と史跡年表
(写真の上方向が南、左側が東、蛭ケ小島方向です)

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(写真3) 北条氏邸跡
(発掘調査で北条氏と同年代の館跡や陶器等が発見されています)

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(写真4) 円成寺

 

 3.北条政子 産湯の井戸

   北条氏の館跡から200m程東側です。

   (堀越御所跡正面のすぐ近く)

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(写真5) 北条政子 産湯の井戸 

   また井戸の少し東には光照寺があり、ここは頼朝の別荘

   (宿館)だったと吾妻鑑に記載されてるとのことです。

   

   つまるところ伊豆に来た当初は蛭ケ小島や伊東に

   住んでいて、伊東祐親との確執や八重姫との悲劇

   の伝承等、何かと慌ただしい時もありましたが、

   政子と結婚してからの3年程は、北条氏の本拠地

   を背景に安心して守山付近に住んでいたかもですね。

   現在守山の北側の道は「北条の里さんぽ路」、

   東側の道は「頼朝政子語らいの路」となっていて、

   旗揚げ前の頼朝政子の幸せそうな雰囲気を

   感じられる所でした。

   

 4.山木判官兼隆館跡(やまきはんがんかねたかやかたあと)

   さて平家独裁への不満の気運高まりと共に、

   政子との平和な生活も終わりに近づきます。

   伊豆に流されて20年経った1180年(治承4年)

   頼朝は伊豆国目代山木判官兼隆の館を平家打倒

   最初の標的として襲撃しました。

 

   山木の館跡の所在地にはたどり着けなかったので、

   同じ山木地区で、彼の供養塔がある香山寺に

   行きました。

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(写真6) 山木判官兼隆館跡の看板(場所は香山寺横)

  5.香山寺

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(写真7) 香山寺入り口 (山木兼隆の供養塔があります)


   大河ドラマ草燃えるの看板が入口にありました。

   今回自分の頭の中も、草燃えるの世界感です(笑)。

    

   襲撃は北条本拠地の守山から東方向に出発し、頼朝は

   その守山山頂から火が挙がるのを見ていたとのこと。

   ちょうど韮山城に遮られてますが距離、位置的に

   夜に火の手で明るくなったのは見えそうですね。

   この挙兵を起点に頼朝は平家を追討し、中世の始まり

   鎌倉幕府(武家政権)が成立していきます。

 

 6.願成就院(がんじょうじゅいん)

   北条氏の本拠地守山の東山麓には1189年奥州征討

   祈願と共に北条氏の氏寺として北条時政が建立した

   願成就院があります。

   北条時政のお墓があり、また運慶作の本物の仏像が

   国宝として拝観出来ます。

   北条氏ゆかりの史跡としては外せないところですね。

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(写真8) 願成就院入口

 7.北条時政のお墓

   北条政子の父親である北条時政は頼朝を支援し、

   競合勢力を滅ぼして、北条氏を強力な氏族に

   押し上げましたが、晩年息子の北条義時により

   失脚するというちょっと不思議な方ですね。

   失脚してもこのご時世の中、殺されずに地元で

   10年程生活し往生しているという。

   (剛腕辣腕の割に、何か憎めない感じです)

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(写真9) 北条時政のお墓(願成就院内)

 

 8.伝堀越御所跡(でんほりごえごしょあと)

   さて中世の時代、時は流れて鎌倉幕府は滅び、

   足利氏による室町幕府も中期頃の時代、

   ~頼朝配流からちょうど300年後~

   再びに韮山の地が歴史の表舞台に出ます。

   

   室町幕府は関東地方の混乱を押さえる為に6代将軍

   の子、足利政知を派遣しましたが、既存勢力により

   関東に入れず、1460年に伊豆で堀越御所を

   造営しました。(堀越公方)

    →頼朝が蛭ケ小島に来るのが1160年

    →足利政知が堀越御所に居座るのが1460年

   この堀越御所は、上述の北条氏本拠地守山の北

   に設置されてます。

   (先の北条政子の産湯の井戸の正面です)    

   

   これはブログ作成してる時に知ったのですが、

   1491年政知は死去しましたが、彼の次男は

   11代将軍足利義澄です。そして11代から

   最後の15代将軍足利義昭まで実は全て政知

   の子孫ということになるんですねー。

   関東にも入れず私的にはピンと来なかった方でしたが、

   実は義澄を京に登らせていた事で室町将軍を継承し、

   歴史に大きな足跡を残したと言えそうです。

   

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(写真10) 伝堀越御所跡入口

 

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(写真11) 伝堀越御所跡
(入口から入った原っぱ、しかしここにあったのか~と想う)

 

 9.足利茶々丸のお墓

   そして政知の死後、跡を継いだのは嫡男茶々丸です。

   嫡男が跡継ぎであれば通常は問題無いのですが、

   この茶々丸は素行不良で、政知の3男で彼の

   異母弟である潤童子及びその実母を殺害します。

   

   この行為は潤童子と同じ母の出である11代

   将軍足利義澄からしてみれば完全に仇敵と言え、

   その討伐を目的(名目)として1493年北条早雲

   (当時伊勢盛時)が興国寺城から堀越御所を

   急襲したという説があります。

   (北条時政の願成就院茶々丸のお墓もあります)

   

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(写真12) 足利茶々丸のお墓 (願成就院の中)

 

   応仁の乱以降、守護大名同士、その親類等の興亡は

   ありましたが、一武将にすぎない早雲が幕府の公方

   を滅ぼし、既存の権威から外れて大名化しました。

   戦国時代の幕が開けたと言われる所以ですねー。

   韮山の地はおもいっきりその発端、場所となります。

   

 10.韮山城

   堀越公方を滅ぼした後、早雲は韮山城を増改築し

   本拠地としました。早雲はその後伊豆平定、

   小田原大森氏や三浦氏等と相模で戦いますが、

   早雲本人は1519年ここ韮山城で死去したと

   言われています。

   どこで亡くなったのかな?

   地図のお座敷、韮山高校あたりとか?

   

   韮山城は、急な山道も少なく、ほんの

   15分程度で本丸まで辿り着けれます

   ので、お気軽に行けます。

   

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(写真13) 韮山城

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(写真14)韮山城遠望(西から撮影、真ん中が本丸付近)

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(写真15) 韮山城本丸跡

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(写真16) 韮山城土塁 (本丸から続く)

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(写真17) 韮山城 伝塩蔵跡 (本丸の先、一番南)

      

   1590年豊臣秀吉の小田原討伐時、北条氏の重要拠点で

   あった韮山城は包囲され、下の(写真18)の様に東側山の

   尾根に付城が構築されてますが、3カ月の籠城の末、

   開城しました。 

   その時の城主北条氏規の嫡子が北条宗家を継ぎ、

   狭山藩1万石として幕末まで続いています。

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(写真18) 豊臣軍による韮山城付城配置図
(左側の四角枠の5か所が付城ですが、字が見え難い😞)


   韮山城と蛭ケ小島は位置的にほぼ同じと言ってもよく、
   その東西には北条氏館、堀越御所、山木館跡、江川邸等

   があり、それぞれに歴史的な背景があります。

   また少し南には国指定史跡かつ世界遺産に登録されて

   いる「韮山反射炉」があります。(今回は工事の為未訪問)

   

   よくまあこんな時代の転換点となる多種多様な史跡が

   集中してるなあ~と感心させられました。

  

   ・・・と話があっちゃこっちゃで、すいませ~ん。。。
      ご鑑賞ありがとうございました。m(_ _m)

 

 (番外編) 

   韮崎から国道136号線で北の方へ帰る途中、

   国1にぶつかる前に「むらの駅」に寄りました。

   人気の場所です。下はTAMAGOYAの写真ですが、

   ふわふわのパンケーキ等も食べられますよー。 

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(写真19) 伊豆村の駅のTAMAGOYA

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(写真20) 帰りに食べたパンケーキ

  

織田vs武田 史跡の宝庫 長篠合戦を偲ぶ旅

こんにちは、rekikakkunです。

 

 今回は有名な長篠の合戦の地を

 1泊2日で探訪しました。

 戦国当時の雰囲気を味わえる

 歴史ぶらり旅垂涎の場所ですよねー。

 

 合戦の時系列を4つのフェーズに分類して、

 下地図の番号順に、探訪場所をご紹介します。

  ・フェーズ1:長篠城攻防戦 (地図番号①~④)

  ・フェーズ2:織田・徳川、武田軍設楽原布陣 (⑤~⑩)

  ・フェーズ3:設楽原の激戦 (⑪~⑭)

  ・フェーズ4:武田軍の敗走 (⑮~⑰)

 

  <今回訪れた長篠史跡地図> 番号を押すと説明表示します

 

<フェーズ1 長篠城攻防戦>

 長篠城

  長篠城址の駐車場に車を止め、自転車で下の

  案内図を頼りに、長篠城周辺を巡りました。 

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(写真1) 長篠城 周辺案内図

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(写真2) 長篠城 本丸土塁、堀

  

  下の(写真3)は牛渕橋から長篠城を撮った、

  よく紹介される絶景ですよね~。

  場所は(写真1)の地図で長篠城址の下の豊川を

  横切っている赤線です。

  自転車なので、橋にゆっくり居れて、

  のんびりと景色を見ました( ^ω^)。 

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(写真3)長篠城 遠景(右 宇連川、左と手前 豊川)

 

  ・・・と橋でしばらく見ていたら、地元の方が

  通りかかり、右側の宇連川に降りれるよーと

  教えてくれました。降りた景色が下の写真です。

  川からの城攻撃はとても無理っすねー。 

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(写真4)宇連川から見た長篠城(右手が城、正面牛渕橋)

   

 ②医王寺武田勝頼本陣

  天正3年4月に甲斐を発した武田軍は5月初めには、

  医王寺に本陣を構え、奥平貞昌が守る長篠城を包囲、攻撃。

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(写真5)医王寺正面 (背後の山に物見櫓が見えます)

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(写真6)医王寺遠望図(この図のおかげで位置関係が分かる)

  (写真6)の図と同じ景色が、下の(写真7)です。

  勝頼が見ていた景色とほぼ同じと思いますので、

       これまた感激です。

  正面右の天神山、左の大通寺山も武田軍が押さえてます。

  大通寺山先端の先に、小さな茂みで長篠城が見えます。

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(写真7)医王寺3(勝頼本陣物見櫓から長篠城を望む)

 

 ③鳶ケ巣山(とびがすやま)

  長篠城の陸続きは医王寺他で完全包囲、また宇連川

  を挟んだ山も武田軍が押さえた。(写真8)は鳶ケ巣山

  中腹から見下ろしてますが、長篠城が丸見えです。

  ただし写真左端の台地の向こう側の設楽原は見えない。

  (少なくともここから信長軍は直視できない)

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(写真8)鳶ケ巣山から長篠城を見下ろす
(中央少し左が長篠城本丸、右端は大通寺山、その先が武田本陣)

 

  鳥居強右衛門 磔の場

   武田軍の猛攻により、本丸以外大半を落とされ、兵糧庫

   も消失し、落城が時間の問題となった中、5月14日夜

   鳥居強右衛門が城抜け出しに成功し、5月15日岡崎城

   に居た信長・家康に戦況報告した。

   その後5月16長篠城に戻る際に武田軍に捕まり、

   ここで磔となった。

   その経緯の話は凄いでよすねーーー。

   信長と家康に伝達、戻る、捕まる、敵をだます、味方を守る

   、磔で落命・・・これ1人ですごっ、時代厳しすぎだ~(汗)

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(写真9)鳥居強右衛門 磔の場
(この写真の木の向こう側が豊川と長篠城)

 

<フェーズ2 織田、徳川着陣と武田軍移動>

  ⑤信長 極楽寺跡着陣

   鳥居強右衛門の報告を聞き、岡崎城を発した信長は

   5月18日長篠城から7km程西の極楽寺跡(丘陵)に

   到着し、ここで馬防柵、鳶ケ巣山攻撃等の指示をした

   と言われています。

   探すのにちょっと手間取りましたが、隣接している

   平井神社(ここも信長軍)が目印になります。  

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(写真10)信長本陣 極楽寺

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(写真11)極楽寺跡本陣から設楽原古戦場方向を見る
 (・・・がすいません、いまいち分からん)

 

   ⑥信長茶臼山本陣

    5月19日頃信長は極楽寺跡から東(設楽原方向)に

    軍を進め、茶臼山に着陣した。

    長篠設楽原PA(下り)から直接行けますし、

    PAの外でも車道が近くまであって行けます。

    設楽原方向が木々で見えなかったのが残念。

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(写真12)信長茶臼山本陣

  

  徳川家康陣地    

   5月19日から20日にかけて、信長他各諸将が

   決戦地と設定した設楽原に陣地を構築しました。

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(写真13)徳川家康陣地

  徳川家康軍物見塚

   家康陣地からですと設楽原が見えないので、

   下(写真14)の物見塚に行きました。

   ここは、まさに設楽原古戦場の最南端が見え、

   距離感も良く分かります。

   写真中央少し右側の道と小さく白いガ-ドレ-ルが

   分かるでしょうか?ガ-ドレ-ルが連吾川にかかる橋で、

   徳川軍と山県軍等が衝突した竹広激戦地です。

   写真の中央の森(丘陵)に山県昌景のお墓があります。

   また、写真手前のお墓とその道は、家より高い位置に

   なっていて、徳川軍が守備していたと想像しました。

   というか、多分この辺全部陣地なんだよなー。

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(写真14)家康物見塚から連吾川方面(武田軍方面)を見る

  (写真15)の全体図で見ますと、赤丸⑦から赤丸⑧を

  見ているのが(写真14)となります。

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(写真15)設楽原合戦 全体図
(分かり易い配置図で、この図を見ながら探訪しました)

 

 ⑨馬防柵

   信長・家康連合軍の備えとして馬防柵の復元。

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(写真16)馬防柵

  

  馬防柵裏手の信長軍の丘陵内を登って何か跡が無いかな~

  と探索しましたが、何も無く丘陵上には工場が( ;∀;)。

  (写真17)はその登り口ですが、実は物音がして見たら

  鹿の群れが田畑から丘陵前を横切ったので咄嗟に

  撮りました。 自転車の上を拡大すると、木の

  後ろ側に5匹程鹿の影が撮ってます(笑)

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(写真17)信長軍北側丘陵陣地内

 

  武田勝頼指揮地

   信長到着の知らせを聞いた武田勝頼は一部兵を

   長篠城押さえに残し、19日から20日にかけて

   医王寺陣地から設楽原に移動した。

   設楽原中央の武田側丘陵に武田勝頼公指揮地

   の碑があります。

   開戦時にここに居たのか不明ですが・・・。

 

  ~ここまでが長篠城攻防戦から織田・徳川連合軍と
   武田軍の合戦前の進軍、布陣です。~

  

<フェーズ3 設楽原の激戦>

       さて織田・徳川と武田軍の布陣も完了し、

  いよいよ合戦へ突入します。 

  鳶ケ巣山陥落

   5月21日早朝より、酒井忠次率いる軍勢が

   鳶ケ巣山の武田陣地を迂回奇襲しました。

   この奇襲により武田軍による長篠城包囲を

   解除したと共に、背後の一角を押さえられて

   しまったので勝頼に全軍突撃を決心させた

   とも言われてます。(写真8)

  

  ⑪竹広激戦地 (設楽原南側の橋、徳川vs山県)

   5月21日早朝6:00頃、鳶ケ巣山攻撃に

   合わせる様に、設楽原でも戦闘開始。

   徳川軍の大久保隊が山県軍に発砲。

   下の(写真18)は武田軍側から竹広激戦地を

   撮ってます。写真中央奥にある鉄塔の所が家康物見塚

   です。写真左手が南方向でそちら側へ山県隊が回り

   込んで、家康軍の横、裏へ回ろうとしたが、成功せず。

   

   自分も徳川軍の南へ回り込めばいいじゃんと思って

   ましたが、連吾川の南端は豊川が行く手を遮り、

   連吾川自体も昔はもっと広くて断崖等により徳川軍の

   背後への道は限られていたみたいです。

   山県隊の後、小幡信貞、小山田信茂等も南方面の攻撃

   に失敗。その残兵を吸収し13:00頃ここ竹広に

   突撃した山県昌景は徳川軍に阻まれ戦死しました。 

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(写真18)武田側から見た竹広激戦地

   確かに(写真18)から連吾川の先を見ると、丘陵で奥行きが

   感じられず、織田兵が多く見えなかったのかもねー。

   でも武田忍者は?背後の状況分からないの?

   とか思っちゃうのですが(笑)。

 

  ⑫柳田激戦地 (設楽原中央の橋、内藤他vs滝川他)

   ここは設楽原合戦の中央では、武田軍は勝頼本陣前に

   武田信廉内藤昌豊原昌胤(はらまさたね)等が

   右翼左翼の戦況を見ながら援軍をしたりしていた。

   勝頼の指示により、10:00頃突撃を開始したが

   撃退された。 

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(写真19)設楽原中央部遠景 
(すいません、柳田付近の写真がなくて・・・)

 

  ⑬丸山攻防戦(設楽原最北側、馬場vs佐久間)
   7:30頃右翼の先手馬場信春隊は佐久間信盛

   守備していた丸山砦を攻撃し、占拠した。

   武田軍右翼の緒戦は悪くない戦況の模様。

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(写真20) 丸山 遠景 (写真中央の小さな丸い丘)

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(写真21) 丸山陣地から南方向を見る
(写真右手が織田軍、左武田軍)


 ⑭大宮激戦地

  (設楽原北側の橋、馬場・真田等vs滝川・佐々・前田・羽柴等)

   10:00頃勝頼は全軍進軍を指示したので、

   真田隊、土屋隊等が突撃を開始、1,2重の柵を突破

   したが3重目で佐々、前田の鉄砲隊射撃により、

   土屋昌次戦死、その後柴田。羽柴隊により真田信綱戦死。

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(写真22) 大宮激戦地1 (手前が武田軍、橋の奥側が織田軍)

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(写真23) 大宮激戦地2

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(写真24) 大宮激戦地から連吾川を南方向に見る
(川の左手が武田軍、右手織田軍)

 

 <フェーズ4 武田軍敗走>

  ⑮名将山県昌景の戦死

   13:00頃竹広激戦地(先の写真14、18)にて

   山県昌景戦死。

   この頃より織田徳川軍は柵から出て攻撃に転じる。

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(写真25) 山県昌景のお墓入口

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(写真26)山県昌景のお墓

  ⑯橋詰殿戦場

   14:00頃織田徳川軍総攻撃。

   15:00頃武田軍内藤昌豊他諸将討ち死、敗走。

   その後武田勝頼を北方へ逃がすため、豊川沿いの橋詰付近

   (現国道257号)で馬場信春等が殿軍として踏みとどまる。  

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(写真27) 橋詰殿戦場

 馬場信春戦死の地

   主君勝頼の退却を見届けた後、橋詰付近で討ち死。

   ここにどうしても行きたくて、調べて行きました。

   ちょっと分かりにくい所ですので、写真を掲載します。

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(写真28)馬場信房戦死の地の標識
(国道257号を北進し、この標識の百m位北です)

 

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(写真29) 馬場信春討ち死の入口 (道路は国道257号、右豊川)

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(写真30) 写真29の標識拡大 (この標識が入口です)

 

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(写真31) 馬場信春討ち死の場所への登り口
(入口標識から南方向に見ると国道に沿って小さな登り口がある)

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(写真32) 登る途中 (数分登るだけです)

 

  やっと見つけました(写真33)。\(^_^)/

  雰囲気ありありで、個人的には長篠で一番感動した所です。

  決戦回避の意見を聞いてくれなかった主君をぎりぎりまで

  守った、彼の覚悟と観念、故信玄への強い思いを感じます。

  

  また別の見方をすると、勝頼が家督を継いだ時、

  武田の周囲は、織田連合・北条・上杉の有力勢力に

  囲まれて飽和状態になってました。

  彼としては、じり貧になる前に信長が目の前に来た絶好の

  チャンスで一か八か決戦する選択は、ありだったのかも。 

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(写真33) 馬場信春の討ち死の塔
(山道の途中、行き過ぎ無い様、右側の斜面を見て歩いて下さい)

 

  以上で今回の長篠探訪は終わりです。

  連吾川近辺はのどかな田園風景も残っていて、

  合戦の雰囲気を落ち着いて見れますので、

  また行きたいですねー。

 

  最後に、長篠城から宇連川沿いに10km弱程北に

  進んだ湯谷温泉に1泊しました。旅館の方が親切に

  周辺は有名なサイクリングコースと教えていただいたので、

  チェックアウト後、車を旅館に残し、少しサイクリングを

  しました。宇連川飯田線路の間を自転車で安心して

  走れます。景色めちゃ良かったので少し掲載しますね。

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(写真34)湯谷温泉郷と宇連川

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(写真35) 湯谷温泉から北へサイクリング途中の宇連川

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(写真36) 宇連川飯田線
(湯谷温泉から北、撮影ポジションと看板があったので)

 

 ご鑑賞ありがとうございました。m(_ _m)