こんにちは、rekikakkunです。
今回は有名な長篠の合戦の地を
1泊2日で探訪しました。
戦国当時の雰囲気を味わえる
歴史ぶらり旅垂涎の場所ですよねー。
合戦の時系列を4つのフェーズに分類して、
下地図の番号順に、探訪場所をご紹介します。
・フェーズ1:長篠城攻防戦 (地図番号①~④)
・フェーズ2:織田・徳川、武田軍設楽原布陣 (⑤~⑩)
・フェーズ3:設楽原の激戦 (⑪~⑭)
・フェーズ4:武田軍の敗走 (⑮~⑰)
<今回訪れた長篠史跡地図> 番号を押すと説明表示します
<フェーズ1 長篠城攻防戦>
①長篠城
長篠城址の駐車場に車を止め、自転車で下の
案内図を頼りに、長篠城周辺を巡りました。
よく紹介される絶景ですよね~。
場所は(写真1)の地図で長篠城址の下の豊川を
横切っている赤線です。
自転車なので、橋にゆっくり居れて、
のんびりと景色を見ました( ^ω^)。
・・・と橋でしばらく見ていたら、地元の方が
通りかかり、右側の宇連川に降りれるよーと
教えてくれました。降りた景色が下の写真です。
川からの城攻撃はとても無理っすねー。
②医王寺武田勝頼本陣
天正3年4月に甲斐を発した武田軍は5月初めには、
医王寺に本陣を構え、奥平貞昌が守る長篠城を包囲、攻撃。
(写真6)の図と同じ景色が、下の(写真7)です。
勝頼が見ていた景色とほぼ同じと思いますので、
これまた感激です。
正面右の天神山、左の大通寺山も武田軍が押さえてます。
大通寺山先端の先に、小さな茂みで長篠城が見えます。
③鳶ケ巣山(とびがすやま)
を挟んだ山も武田軍が押さえた。(写真8)は鳶ケ巣山
中腹から見下ろしてますが、長篠城が丸見えです。
ただし写真左端の台地の向こう側の設楽原は見えない。
(少なくともここから信長軍は直視できない)
④鳥居強右衛門 磔の場
武田軍の猛攻により、本丸以外大半を落とされ、兵糧庫
も消失し、落城が時間の問題となった中、5月14日夜
に居た信長・家康に戦況報告した。
その後5月16長篠城に戻る際に武田軍に捕まり、
ここで磔となった。
その経緯の話は凄いでよすねーーー。
信長と家康に伝達、戻る、捕まる、敵をだます、味方を守る
、磔で落命・・・これ1人ですごっ、時代厳しすぎだ~(汗)
<フェーズ2 織田、徳川着陣と武田軍移動>
⑤信長 極楽寺跡着陣
到着し、ここで馬防柵、鳶ケ巣山攻撃等の指示をした
と言われています。
探すのにちょっと手間取りましたが、隣接している
平井神社(ここも信長軍)が目印になります。
⑥信長茶臼山本陣
5月19日頃信長は極楽寺跡から東(設楽原方向)に
軍を進め、茶臼山に着陣した。
長篠設楽原PA(下り)から直接行けますし、
PAの外でも車道が近くまであって行けます。
設楽原方向が木々で見えなかったのが残念。
⑦徳川家康陣地
5月19日から20日にかけて、信長他各諸将が
決戦地と設定した設楽原に陣地を構築しました。
⑧徳川家康軍物見塚
家康陣地からですと設楽原が見えないので、
下(写真14)の物見塚に行きました。
ここは、まさに設楽原古戦場の最南端が見え、
距離感も良く分かります。
写真中央少し右側の道と小さく白いガ-ドレ-ルが
分かるでしょうか?ガ-ドレ-ルが連吾川にかかる橋で、
徳川軍と山県軍等が衝突した竹広激戦地です。
写真の中央の森(丘陵)に山県昌景のお墓があります。
また、写真手前のお墓とその道は、家より高い位置に
なっていて、徳川軍が守備していたと想像しました。
というか、多分この辺全部陣地なんだよなー。
(写真15)の全体図で見ますと、赤丸⑦から赤丸⑧を
見ているのが(写真14)となります。
⑨馬防柵
信長・家康連合軍の備えとして馬防柵の復元。
馬防柵裏手の信長軍の丘陵内を登って何か跡が無いかな~
と探索しましたが、何も無く丘陵上には工場が( ;∀;)。
(写真17)はその登り口ですが、実は物音がして見たら
鹿の群れが田畑から丘陵前を横切ったので咄嗟に
撮りました。 自転車の上を拡大すると、木の
後ろ側に5匹程鹿の影が撮ってます(笑)
⑩武田勝頼指揮地
信長到着の知らせを聞いた武田勝頼は一部兵を
長篠城押さえに残し、19日から20日にかけて
医王寺陣地から設楽原に移動した。
設楽原中央の武田側丘陵に武田勝頼公指揮地
の碑があります。
開戦時にここに居たのか不明ですが・・・。
~ここまでが長篠城攻防戦から織田・徳川連合軍と
武田軍の合戦前の進軍、布陣です。~
<フェーズ3 設楽原の激戦>
さて織田・徳川と武田軍の布陣も完了し、
いよいよ合戦へ突入します。
鳶ケ巣山陥落
5月21日早朝より、酒井忠次率いる軍勢が
鳶ケ巣山の武田陣地を迂回奇襲しました。
この奇襲により武田軍による長篠城包囲を
解除したと共に、背後の一角を押さえられて
しまったので勝頼に全軍突撃を決心させた
とも言われてます。(写真8)
⑪竹広激戦地 (設楽原南側の橋、徳川vs山県)
5月21日早朝6:00頃、鳶ケ巣山攻撃に
合わせる様に、設楽原でも戦闘開始。
徳川軍の大久保隊が山県軍に発砲。
下の(写真18)は武田軍側から竹広激戦地を
撮ってます。写真中央奥にある鉄塔の所が家康物見塚
です。写真左手が南方向でそちら側へ山県隊が回り
込んで、家康軍の横、裏へ回ろうとしたが、成功せず。
自分も徳川軍の南へ回り込めばいいじゃんと思って
ましたが、連吾川の南端は豊川が行く手を遮り、
連吾川自体も昔はもっと広くて断崖等により徳川軍の
背後への道は限られていたみたいです。
山県隊の後、小幡信貞、小山田信茂等も南方面の攻撃
に失敗。その残兵を吸収し13:00頃ここ竹広に
突撃した山県昌景は徳川軍に阻まれ戦死しました。
確かに(写真18)から連吾川の先を見ると、丘陵で奥行きが
感じられず、織田兵が多く見えなかったのかもねー。
でも武田忍者は?背後の状況分からないの?
とか思っちゃうのですが(笑)。
⑫柳田激戦地 (設楽原中央の橋、内藤他vs滝川他)
ここは設楽原合戦の中央では、武田軍は勝頼本陣前に
右翼左翼の戦況を見ながら援軍をしたりしていた。
勝頼の指示により、10:00頃突撃を開始したが
撃退された。
⑬丸山攻防戦(設楽原最北側、馬場vs佐久間)
7:30頃右翼の先手馬場信春隊は佐久間信盛が
守備していた丸山砦を攻撃し、占拠した。
武田軍右翼の緒戦は悪くない戦況の模様。
⑭大宮激戦地
(設楽原北側の橋、馬場・真田等vs滝川・佐々・前田・羽柴等)
10:00頃勝頼は全軍進軍を指示したので、
真田隊、土屋隊等が突撃を開始、1,2重の柵を突破
したが3重目で佐々、前田の鉄砲隊射撃により、
<フェーズ4 武田軍敗走>
⑮名将山県昌景の戦死
13:00頃竹広激戦地(先の写真14、18)にて
山県昌景戦死。
この頃より織田徳川軍は柵から出て攻撃に転じる。
⑯橋詰殿戦場
14:00頃織田徳川軍総攻撃。
15:00頃武田軍内藤昌豊他諸将討ち死、敗走。
その後武田勝頼を北方へ逃がすため、豊川沿いの橋詰付近
(現国道257号)で馬場信春等が殿軍として踏みとどまる。
⑰馬場信春戦死の地
主君勝頼の退却を見届けた後、橋詰付近で討ち死。
ここにどうしても行きたくて、調べて行きました。
ちょっと分かりにくい所ですので、写真を掲載します。
やっと見つけました(写真33)。\(^_^)/
雰囲気ありありで、個人的には長篠で一番感動した所です。
決戦回避の意見を聞いてくれなかった主君をぎりぎりまで
守った、彼の覚悟と観念、故信玄への強い思いを感じます。
また別の見方をすると、勝頼が家督を継いだ時、
武田の周囲は、織田連合・北条・上杉の有力勢力に
囲まれて飽和状態になってました。
彼としては、じり貧になる前に信長が目の前に来た絶好の
チャンスで一か八か決戦する選択は、ありだったのかも。
以上で今回の長篠探訪は終わりです。
連吾川近辺はのどかな田園風景も残っていて、
合戦の雰囲気を落ち着いて見れますので、
また行きたいですねー。
進んだ湯谷温泉に1泊しました。旅館の方が親切に
周辺は有名なサイクリングコースと教えていただいたので、
チェックアウト後、車を旅館に残し、少しサイクリングを
走れます。景色めちゃ良かったので少し掲載しますね。
ご鑑賞ありがとうございました。m(_ _m)