歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その1)> 北条家による小田原城総構えの構築(1)

こんにちは、rekikakkunです。

 

今年の夏は暑かったですね。🤣

今年夏の平均気温は、統計を始めて125年間で、

最も暑かったそうです。

 

その暑さも次第に和らぎ、ようやく

動き易い季節になってきました。

山城シーズンの到来です。(^▽^)/

 

今秋は戦国時代の有名なお城が沢山ある

埼玉県探訪を11月に計画しています。

鉢形城忍城松山城、杉山城あたり)

 

しかし埼玉県、武蔵の国を含めた関東は

戦国時代、いや!、そのもっと昔から

複雑怪奇な歴史を踏んでますよね?

 

室町幕府が開かれたのは、1336年とも

1338年(建武5年)ともいわれていますが、

初代尊氏の時代に、子の基氏が鎌倉に下行し、

1349年に鎌倉府が設立しました。

 

幕府成立とほぼ同時に関東に権力組織が出来てしまい、

騒乱への下火が燻っていたと考えられます。

 

そして公方(くぽう)やら関東管領やらが

何故か複数出て来て、とても分かり難いです。😂

はっきり言って投稿できるほど把握できていない( ;∀;)

 

なので的が絞り易い豊臣秀吉と北条氏との戦いを

ベースにして、埼玉県及び周辺のお城探訪の話

を進めていこうと思います。👍

 

そして基本私は英雄が多くいた後北条氏

好きなので、表題を小田原防衛戦としますね。✨

(じゃあ嫌いなの居ます?って聞かれると

 特に思いつかなかったりして(@_@;))

 

まずは、北条氏の本拠、小田原城を見に行って来ました。

戦いの前準備として、第1回目としたいと思います。

 

1.北条家による小田原城総構えの構築

 (1)背景

 秀吉と北条氏の手切れは1589年(天正17年)

 11月の秀吉の開戦通知ですが、以前より両家の

 交渉は行われており、

 北条家も同年8月に氏政の弟氏規を上洛させたりして

 落としどころを探していました。

 

 ただ北条家としても開戦の可能性も高いとみていて、

 本拠の小田原城の防衛強化を急ピッチで進めて

 いたと思われます。

 

 その中心は総延長9km、堀と土塁で城を囲んだ、

 総構え(そうがまえ)と呼ばれる防御施設です。

 その規模は大阪城を凌ぎ、日本一と言われてるようです。

 

 今回、歴史的な背景等難しい話は次回以降にして、

 純粋に小田原城の総構えを見ていきましょう(^▽^)/

 

(2)総構え探訪マップ

 まずは下調べ。

 色々な総構えの探訪マップがありましたが、

 多くの遺構の記載があって分かり易そうな、

 下図を片手に探訪してみました。 

 (結果的に①から⑭を探訪してます。)

小田原城総構え探訪マップ
(青色の★と〇番号は私追記)

(3)小田原城の位置と地形

 そしてマップと共に小田原城の位置と地形を

 確認してみます。

 小田原城の位置>

小田原城の位置
東に箱根があり、その西側の尾根先です。
この縮尺で見てもかなり大きいですね~。

 小田原城の地形>

小田原城の地形図と縄張り
(この地形図の着眼点は、3つの丘陵とその接続点です)

 赤線がおおよその小田原城の外郭、総構えです。

 城の中心は八幡山丘陵に設置され、

 現在の小田原城の本丸もその丘陵の

 南東端に位置してます。

 

 この地形図を見ると、八幡山丘陵は、

 その南と北がそれぞれ天神山丘陵

 と谷津丘陵に挟まれ、守られてます。

 丁度3本の指を東側へ突き出した様な地形です。

 

 海側は、南西は早川、北東は現在ほぼ暗渠と

 なっていて地図で分かりませんが、渋取川までの

 範囲になってるそうです。

 

 そしてこの中で、川や山で遮られていない

 箇所があります。

 

 地形図の左上で西の方向にあり、3つの丘陵の

 始点となっている小峰御鐘ノ台(こみねおかねのだい)

 という場所です。

 (上地形図の茶色〇で示した所です)

 

 ここは箱根側(地形図の左側)から尾根続き

 になっており、地形的な防御がありません。

 しかも、ここを突破されると、3つの丘陵に

 敵がアクセス出来てしまいます。

 

 なので、この場所(茶色〇印の所)の防御を、

 念入りに補強したとのことです。

 そして山側なので比較的遺構が残り易い。

 ⇒ここが総構え一番の見所の様です。

 

 以上の情報を踏まえ、城の北の角「①城下張出」という

 場所からスタートし、ほぼ番号順に探訪しました。

 それでは総構え探訪に行きましょう。😀

 

(4)総構え探訪

 ①城下張出(しろしたはりだし)

     (この①の番号と、探訪マップの〇番号を同じ場所にしてます。)

  まず最初に下の探訪マップ内の右上の方、

  ①城下張出に向かいました。

  (現地ではずっと、じょうかはりだし、と読んでた(@_@;))

前置きが長かったので再掲載します。

  マップを片手に道を確認しながら

  ①城下張出の★印の所に来ました。

お、ありました、①城下張出

張出の角とその外側
(高い尾根の端ですよね~、外側が低くなってる)

 

  小田原城の遺構の様子を国土地理院の地図で

  探したら、下の傾斜図が分かり易そうでした。

小田原城 傾斜図> ①城下張出 と 総構えの遺構

  多分、青矢印のところが総構えの堀や

  土塁の線だと思います。

  総構え探訪マップの形状と合致してますよね~。

  (因みに国土地理院地図は上方向が北ですが、

   探訪マップは少し右周りに傾いてます)

城下張出の説明板

  説明板を見ると、ふむふむ、出っ張らして横矢だね、

  と納得しながら読んでました。

 

  ・・・とここで、説明板に書かれている堀と土塁って

  見当たらないな~、と少し周りを見渡しましたが、

  特に見あたらず、そうこうしてるうちに・・・

 

  仕事中のかみさんから、

  今、津波注意報が出ていて、小田原にも来るかも、

  知ってる? とLINEが入ってきたので、

  え?っと、少し海が見える所まで戻りました。

  ちょっと焦りましたが、すぐ後に注意報は解除されました。

 

  そして帰ってから確認してみたら、

  城下張出は「平場」と「堀」の2箇所あり、

  平場の裏(北側)が掘状になってる様です。

  (堀=低い⇒なので平場から見えなかった)

 

  と言うことで、城下張出は近くに2箇所あります。

 

張出から少し戻った所で、城外側との高低差が見えました。
丘陵のキワですよね~、今でも急ですね。

 

小田原城天守八幡山古郭を望む 展望地

 城下張出から西へ進むと、マップの説明通り、

 南側が開けた②展望地がありました。

 共用駐車場から、少しだけ写真撮らせてもらいました。 

 もしマップに記載が無かったら、多分綺麗だな~、

 って素通りしてたと思うので助かりました。👍

 

 そして、下写真で見えてる所は全部小田原城域ですね。

 それでも、小田原城のざっくり半分弱程と思うので、

 この距離感で見たら、広大なお城の規模を感じられます😊

②展望地から小田原城天守と、そのすぐ右側八幡山丘陵

天守閣拡大

天守閣と八幡山丘陵
天守と丘陵の間に新幹線が通ってます。
そこは丘陵から切り離すための掘だった様です)

 下の写真は翌日ホテルから運よく撮れた写真です。

上の写真を、別の場所で真横から撮った写真
左:天守、真ん中:東海道線路(堀)、右:八幡山丘陵が高くなっていく

 下の写真で補足してみます。

八幡山丘陵と小田原城

上の写真は、この図の赤矢印の方向を撮ってます

 

③分岐点の総構え堀跡

 ②の展望地からそのまま道なりに西へ歩いていきます。

そうすると③分岐道に来ました

③分岐点の右側にある説明板

 この地図の堀は、総構えマップと微妙に違いますね~。

 総構えマップですと、分岐点の手前(東側)の道沿い

 には総構えの堀がありません。

 

 しかしこの看板(下に拡大)には分岐手前も

 少し堀跡になってます。

看板拡大

 

 分岐点右側の道に入ってすぐ振り返ると、 

分岐点の手前北側(写真左半分)は
看板の通り堀跡に見えますね。
ガイドさんが居ればすぐわかるのだけれど・・・

 ただ下の傾斜図を見ると、堀は赤丸の真ん中、

 別れ道際で堀が上に延びています。

 総構えマップと同じですね~。

 微妙な角度や位置の差かもしれません。

小田原城 傾斜図> ③分岐点

 

看板もあるので、分岐点の右側の道を進んでみます。
看板の図ですとここは堀底になってる様に見えます。
(柵があって開いてます。がちょっと入ってよいのか不安。)

総構えの外、北側の眺望
(多分向かいの山には包囲軍が居たかと)

外を見ながら歩いていきます

 ・・・が、その先は完全に農園になってましたので

 引き返しました。

 ただし農園の先には土塁状の物が南北に見えました。

 今考えると、次の、山の神堀切の東端じゃないかな?

 

④山の神堀跡

 分岐点に戻り、左側の道に進みます。

 そうすると、すぐに④山の神堀切がありました。

④山の神堀切入口

 

山の神堀切 説明板

 山の神堀切は、谷津丘陵を分断する堀なんですね。

④山の神堀切
下だいぶ埋まってますが、デカいですね~

 堀切の中を進んでみます。

堀切の北側も堀で繋がってます
堀切自体も守ってるみたい

 

⑤稲荷盛(いなにもり)の総構え跡

元来た道に戻り、また西へ進むと

⑤稲荷盛への入口の看板がありました。
ここを入って行きます。

稲荷盛の堀が見えてきました

お~これは確かに竹林と堀が幻想的で凄い😊
(クリックして拡大してね)

右側拡大

左側拡大

 

 そして⑤稲荷盛の総構えは地形に沿って残っている

 とのことで、イメージし易いですね。

 下の傾斜図でもはっきり、ここと分かります。

小田原城 傾斜図> ⑤稲荷森の堀跡

⑤稲荷盛総構え説明板

 説明板によると、総構えの堀は尾根の外側の

 少し下がった所を掘り、

 (山城で言う切岸を作ってるんですね)

 そのまた外側に土塁を作って、外側の敵から

 堀を見えなくしているとのことです。

 かなり分かり易い説明です。

 

 さて、目安の3,000字を越えました。

 まさかの総構え終わらずです。(@_@;) 

 写真もまだ半分以上残ってます。

 

 想定よりも遺構が多く残ってて、

 見所が盛りだくさんだったので、

 ブログにも気合がはいりました。👍

 

 次回はいよいよ総構え最大規模の小峰御鐘ノ台、

 3本も連なっている大堀切からになります。

 テレビでも総構えの紹介で必ず出てきます。

 

 (番外編)

       実は小田原の駐車場に到着して、

  歩き始めしょっぱな道に迷ってしまいました。

駐車場から出て最初の写真
(堀に通じる道なのか悩みました)

 小田原の北側は丘陵なので、少し入り込むと

 こんな感じの藪道が多いのだと思います。

 私有地もありますので、ちょっと注意が必要ですね。

 

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(静岡県東部のお城ご紹介)3国激戦区の趨勢を決めた深沢城の攻防戦

こんにちはー、rekikakkunです。

 

静岡県東部(駿東)のお城ご紹介も

今回最後となりました。(多分😓)

 

戦国時代、3国の攻防の舞台となった駿東の

歴史をもう一度整理してみます。

 

またですが3家の本拠地を①から③で示します。

 ①駿府城(今川氏居城、静岡県

 ②小田原城(北条氏居城、神奈川県)

 ③躑躅ケ崎館(武田氏居城、山梨県)  

 

 

この3国の駿東での攻防を下表にまとめてみました。

多少ズレもありますが、おおよそで見て下さい。

 

(1)1493年北条早雲(初代)の伊豆討ち入り

   により戦国時代が幕開けしたとも言われてます。

   当時駿河国は守護の今川家が領有していました。

 

(21537年 第1次河東一乱

   今川義元家督相続戦に勝った後、武田と同盟を

   結んだことにより、武田と敵対関係にあった

   北条氏綱(2代)は駿河富士川以東を占領しました。

 

(3)1545年 第2次河東一乱

   今度は今川義元が、北条の重鎮北条幻庵

   守備する長久保城(マップ④)を包囲。

   関東と駿河で挟み撃ちとなった北条氏康(3代)

   は、駿河東部を今川家に譲渡、和睦し、

   関東の管領上杉氏との決戦に注力します。

   

(4)1568年 第一次駿河侵攻(今川家滅亡)

   武田家が同盟関係を破棄し、今川家を攻撃。

   武田軍は駿府を占領したが、北条氏は今川に味方し、

   蒲原城に入城、及び富士川以東も北条家が押さえる。

   その為、信玄は甲府駿河間のルートを

   1つも確保出来ず、撤退となる。

 

   (甲斐ー駿河間の道はざっくり、富士川富士宮

    御殿場の3つのルートがあったと思われます。)

   

   1569年6月信玄の第2次駿河侵攻で大宮城落城。

   (マップ⑤、富士宮のルートを武田が押さえる)

   

   1569年11月の第3次駿河侵攻で蒲原城落城。

   (マップ⑥、富士川のルートも武田が押さえる)

 

   1570年12月武田軍が、川越夜戦で有名な

   猛将北条綱成が守る深沢城(マップ⑦)を攻撃。

   

   1571年1月北条氏政(4代)が援軍として

   千福城(マップ⑧)に在陣。 (前回お城ご案内)

 

   1571年1月16日 援軍間に合わず、深沢城開城。

   (表の赤丸、御殿場のルートも武田が押さえ始める)

   北条家は本拠の小田原防衛の為、戦線を後退させる。   

 

   1571年10月3日 北条氏康死去。

 

(5)1571年12月 甲相同盟(武田と北条が再同盟)

   深沢城落城(武田軍が接収)及び北条氏康の死去

   がトリガーとなり、甲相同盟の運びとなり、

   駿河はほぼ武田が領有。 3家間の攻防戦が終了。

   

(6)1582年武田家滅亡

   駿河徳川家康が領有する。

 

(7)1590年北条家滅亡

   この時、長久保城に豊臣秀吉徳川家康が入城し、

   山中城攻撃前の戦略会議をしたそうです。

 

   そして駿東等で争い、多くの弱小国を飲み込んで

   成長していった今川、武田、北条といった3つの

   強国さえも、新時代への荒波に飲み込まれ、

   全て本拠地から滅亡してしまいました。

 

ということで、説明下手で何だか分からなくなって

しまったかもしれませんが・・・😓

つまり3家の駿河争奪戦は、武田家の深沢城攻略により、

終結の運びとなった・・・んじゃないかな?です😂

 

~深沢城探訪~

さて、その深沢城へ行ってみましょう。

深沢城は東名御殿場ICから5km程北にあります。

位置は、最初のマップの⑦をポチって下さい。

・東は足柄街道経由相模国

・北は籠坂峠(かごさかとおげ)を越えて甲斐国

・南は御厨地区(御殿場)を経由して駿河国

と確かに重要な位置なのが、今わかりました(笑)。

 

メインは甲斐からの武田侵攻を防ぐ北条氏の拠点として、

整備されていった様です。

 

旧足柄街道、現県道78号線

 

旧足柄街道から深沢城へ入る道

深沢城説明板

深沢城 縄張図拡大

県道から歩いて5分程で深沢城正面
(上図の現在位置)に到着しました。
(看板の脇に車1台停められました)

最初に正面左側の舗装道路から三日月堀に向かいます。

 

看板の裏の三日月堀

三の丸南側の三日月堀(なんとなく分かるかな?)

三の丸西側の三日月堀1
(深沢城の遺構で一番大きい)

三の丸西側の三日月堀2
(丁度整備直後みたい)

最初の正面に戻り、城内の道を進みますと

すぐ最初に馬出の表示がありました。

三の丸の馬出し

 最初これ見た時、どこが馬出しなのかな?と

 思いましたが、周りを見ると、見えてきました😀

左奥が三の丸、手前が三の丸と馬出間の堀、
右手が馬出しへ通じる細道、写真右見えないが馬出の曲輪

深沢城最初の防衛拠点である三の丸は

南と西に三日月堀、東の足柄街道方向に馬出しを

設置していました。

 

三の丸から二の丸へ進みます。

三の丸から二の丸へ通じる道

三の丸と二の丸間の堀ですね~、
つまり道はクランクに折れ曲がって、かつ土橋になってる

二の丸入口

二の丸全景(だいぶ広いですね~)
中央のあぜ道しか通れないので、曲輪の脇の堀は見えないです

 

二の丸から本丸方向を見る
(二の丸の方が高い)

二の丸から本丸へ通じる道
これも両側が掘になっていて土橋になってます

二の丸と本丸間の堀跡

本丸に入りました

本丸も広いですね~

本丸に入ったら、あぜ道を通って
西側の城楼にも行って下さいませ

深沢城の写真でよく出ているところですね。
(城楼跡から撮影)

二の丸西側の馬伏川と多分森の中にあるであろう堀

これが城の外郭をイメージし易いかな?
左半分(田んぼ)が本丸。 そこから二の丸(森)方向
と西側の川と堀。一番右奥に多分三の丸。

深沢城は曲輪内は田んぼですが、形、輪郭が残ってるので、

イメージし易く、お城巡りに満足しました。

 

深沢城の攻城戦は、矢文による戦意低下策や

金山採掘の金山衆による城破壊工作等も行われ、

武田軍は深沢城を絶対に手に入れようと対応しました。

 

そして城将が有名な北条綱成ということで、

もし落城により彼が戦死したら、北条氏は

武田に全面戦争をしかけると想定されるので、

なんとか降伏開城にしたかったかもしれません。

 

この深沢城開城により、後述する長久保

まで武田の支配下となり、武田氏の駿河領有が

ほぼ確定的になりました。

(黄瀬川以西の武田領有を北条が認める)

 

長久保城探訪~

 それでは、マップ④の長久保城も

 ちょっとご紹介致します。

 ここは現地の方も、一部の方しか知らないと思われます。

 ここがお城だったとは(@_@;)

長久保城本丸跡(現在ショッピングモール)
なんにも分からない🙄

 でも脇にある公園の名前が城山神社公園。

 なので城があったと感じられますよね。

城山神社公園北側の入口

城山神社東側の入口

実は神社がある公園には、大きな土塁が残ってます

結構デカいですよね

神社正面と左手は土塁跡

 

神社脇にある長久保城説明板

長久保城は愛鷹山の尾根の末端に築かれ、

周囲に黄瀬川、桃沢川等に囲まれた

平山城、要害の地です。

背後の黄瀬川から、前面の愛鷹山方向に高くなってる
この道はそのまま246号線にぶつかります
(つまり246号線は長久保城の堀を使って城を分断してる)

 

そして1571年武田氏が長久保城も支配下に置いた際、

城主の姫が逃げる途中、牛車と共に黄瀬川に落下して

命を落とした伝説があるとのことです。

(牛ケ淵の名の由来かも)

牛ケ淵(黄瀬川の一部、長久保城のすぐ近く)

牛ケ淵の説明板、読むと面白いです。
深沢城ー葛山城長久保城ー三枚橋
のラインが描かれています。
そしてここも1万年前の溶岩なんですねー。

 

また時は戻りますが、1545年7月、

第2次河東一乱では、北条幻庵が守る

長久保城を今川義元軍が包囲したそうです。

これは元々今川領だった河東地区(駿東)の奪還が目的であり、

9月の関東管領上杉憲政達の川越城包囲戦に呼応しました。

 

同じく9月に武田信玄も今川支援で出陣していた事から、

北条氏康は駿東を譲渡して今川氏と和睦し、

川越城救援、関東での決戦を選択しました。

 

つまり、長久保城は、

①1545年今川義元北条幻庵北条氏康

 絡んだ攻防戦の場。

②そして長久保城戦後、北条は駿河を今川へ譲渡した

 選択により、関東に戦力集中し、翌1546年の

 川越決戦での勝利に繋がった。以後関東制覇へと進む。

③1571年武田家攻撃時には、牛ケ淵で

 姫の牛車落下の悲劇伝説が残る。

④1590年秀吉による天下統一

 最後の大戦、北条討伐戦。

 豊臣秀吉徳川家康が、この開戦となる

 山中城攻略等の軍議を行った場所だそうです。

 ⇒軍議の翌日に山中城攻撃、及び1日で落城。

 (山中城改修途中で即決の攻撃だった模様)

 

と結構歴史に味のあるお城ですよね~。

本丸跡には、子供向けのチェーン店トイザラスがあり、

まさか、お子様が走り回ってるここに、秀吉と家康が

居たなんて・・・( ^ω^)

う~ん、と唸ってしまいますよね❓

 

以上で静岡県東部編を終わります。

ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 そして・・・

 暑すぎる夏が過ぎ、ようやく外歩き

 し易い季節になりつつありますね。

 11月は関東の城、埼玉県探訪を計画してます 😊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(静岡県東部のお城ご紹介)葛山氏の支城 千福城 と 御宿氏

こんにちは、rekikakkunです。

 

前回は駿河東部の有力国人、葛山氏と

その居城葛山城をご紹介致しました。

 

駿河東部は今川、北条、武田氏3家境目の

位置の為、激しい争奪戦があった地域です。

 

場所を地図で確認してみます。

 

まず3家の本拠地を①から③で示します。

 ①駿府城(今川氏居城、静岡県

 ②小田原城(北条氏居城、神奈川県)

 ③躑躅ケ崎館(武田氏居城、山梨県

 

そして、3家での争奪戦がありました

境目のお城を、④から⑦で示します。

 ④深沢城

 ⑤葛山城

 ⑥千福城

 ⑦長久保

 

あまり聞きなれないお城かもしれませんね。

私も⑤の葛山城以外は最近知りました。

 

そして駿東境目の城や争奪戦は、上記以外にも

富士大宮城等、沢山あると思いますが、

今回は3家に最も近い国道246号線沿いの

お城に焦点を当てます。

(まあ、結果的にそうなってただけですが🙄)

 

御殿場から沼津に至る街道は、

足柄街道、矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)

とも言われている様です。

 

さて、今回は前回の葛山城の南方向近く、

葛山氏の支城千福城を探訪致します。

(グーグルマップの⑥です)

 

1.景ケ島渓谷(けいがしま)

 葛山城から南へ約1km程、

 千福城への途中に景ケ島という

 名勝地がありましたので、寄ってみました。

 地図では⑤と⑥の間の位置です。

 (ほとんど同じ位置)

 

景ケ島沿いの道と駐車場

駐車場に車を止めて、道向こうに行きますと、

入り口と案内板がありました。

景ケ島の案内板

階段を少し降ります

なんかいい雰囲気になってきました(^▽^)/

溶岩が浸食された渓谷拡大

 約1万年前の富士山噴火で愛鷹山と箱根の間に

 溶岩が流れました。

 その溶岩を通って湧き出た泉が、以前ご紹介しました

 柿田川公園、泉頭城です。

 

 景ケ島渓谷も、この固まった溶岩が年月をかけて、

 佐野川に浸食されてできた渓谷だそうです。

 

後で確認したら依京寺のお堂、結構綺麗

2.屏風岩

 渓谷から車で千福城方向に進むと、

 すぐに屏風岩の看板が見えたので、

 道沿いの駐車スペースに入りました。

 

屏風岩入口、脇に駐車スペースがあります

屏風岩の説明板

 景ケ島渓谷の末端に柱状節理が露出した様です。

 溶岩が冷却収縮過程で垂直に割れて六角形になった

 のが柱状節理みたい。

(プラタモリでよく聞きますよねー)

 

すこしだけ歩いてます。

正面に見えてきました

屏風岩正面

屏風岩

柱状節理 拡大

 写真で見ると、確かに六角形になってますね~。

 

3.千福城

 さて、ようやく千福城に到着です。

 正面は城主館があったとされる、

 普明寺(ふみょうじ)があり、数台駐車できます。

普明寺

普明寺正面(千福城跡の掲示もあります)

千福城遠景
(お寺の後ろの山が千福城です)

千福城 説明板

 千福城は独立丘陵を利用し、周囲を川に

 囲まれた要害の地。

 葛山氏の支城でしたが、

 1569年武田信玄の第一次駿河侵攻時、

 今川家に味方した北条氏が駿東を支配しました。

 

 この時、葛山城と千福城は北条氏所有となり、

 千福城も現在の規模まで拡張されたと思われます。

 

 翌1570年信玄が深沢城を攻撃の際、

 北条氏政自ら後詰として千福城に入ったと

 言われています。

 

 武田氏の支配後は葛山氏の一族、

 御宿監物(みしゅくけんもつ)が

 城主となり、信玄の六男で後を継いだ葛山信貞

 代行として統治していたとの事です。

 (この時千福城は城破却の話もあり、

  使っていたかは不明だそうです)

 

境内入りますと城跡の方向へ、やさしく教えてくれます

お墓の脇道を通ると桜が開花してました
3月8日です。

その年初めて見る桜って、いつも良いですよね~😊

やっと千福城への山道に入ります

少し登ってすぐに竪堀がありました

竪堀

 

登って最初の曲輪。千福城の看板があります

①櫓台に着きました。城内で一番高い曲輪みたい。

 

千福城縄張図と写真の番号
(①から⑫まで写真番号と図の番号位置が同じです)

 

櫓台から北側を見る
(大きな堀切を介して北曲輪の方向、後で行きます)

櫓台から南方向の曲輪を見る

櫓台の一つ南側の曲輪

②櫓台の南東の曲輪

③本曲輪

④本曲輪西側の堀

本曲輪から東南方向の眺望

 

虎口がある曲輪を進む

⑤虎口跡

⑥虎口を北東方向に出ると、袖曲輪の様な広い道に出た

北へ進むと千福城址の看板が

櫓台東側の切岸(城最高地を見上げる)

⑦最初に見た櫓台と北曲輪の堀切
⇒ここが一番の見所

北曲輪の横堀、藪化してほとんど見えない

堀切から北曲輪へ上がる

⑧上がってすぐに北曲輪

⑨北曲輪の西側にある畝状竪堀群1

 竪堀撮るのが難しい🤣

畝状竪堀群2
(大きい堀を撮影したが分かり難いかな?)

畝状竪堀群3
(ならば2つの堀を同時撮影、カッコイイ😀)

畝状竪堀群4
(これでどうだと、少し横から撮影😎)

 木で見え難いけど、木があるから

 風雨に削られずに残ってられるんですよね~。

 

北曲輪を北方向に進みます

⑩展望台が見えてきました

北の方向に富士山

富士山拡大

展望台の北側は通行止めです
(すぐ脇を東名高速が通ってる模様)

それでは展望台から戻ります

⑪北曲輪の北側を守る横堀が微かに見えます

畝状竪堀群を真横から撮る

北曲輪側から堀切を見る

⑫堀切の西側に繋がっている横堀(竪堀)

 千福城は葛山城よりも大きいらしく

 (実際歩いてもそう感じる)、

 遺構も多くて見所満載でした。

 

 そして曲輪が多くて広く、葛山氏、御宿氏の地盤

 では守り切れない感じがしますので、

 武田家をこれ以上南下せさない為に、北条家の陣所

 として拡張したという説もありかもしれません。

 

4.御宿氏(みしゅくし)について簡単に
 少し調べてみると、葛山一族である御宿氏は、

 結構面白い歴史がありました。

 (詳しくは知らないけど、どこかでなんとなく

  聞いたことがある感じですかね~🙄) 

 

 まず、源頼朝が富士の鷹狩りで葛山家の一族

 の館に宿泊したことから、その子孫が

 御宿氏を名乗ったそうです。

 

 武田氏が千福城地区を支配した時、

 実質統治したのが御宿監物友綱です。

 

 彼は武田家重臣と姻戚関係を築き、

 戦国時代武田信玄が西上作戦で病に

 倒れた際に、治療をしてたそうです。

 

 1580年友綱の子の御宿官兵衛政友が家督

 継ぎましたが、1582年武田家滅亡後北条家、

 北条滅亡後結城秀康に1万石で使えたそうです。

 なかなか高い知行ですよね~。

 (結城家の直前、少し家康に仕えてたのかも)

 

 1607年結城秀康の死後は浪人となり、

 1614年大坂の陣大阪城に入城します。

 

 徳川家康大坂の陣の際、

 「武将と言えるのは後藤又兵衛と御宿官兵衛だけ」

 と言ったそうです。

 それほど彼の武勇は認知されていた様です。

 

 大坂冬の陣では真田丸に居たとも???

 (そしたら凄いですね~)

 そして夏の陣最後の戦いで奮戦の上

 討ち死にしたとされています。

 戦国武将らしく波乱万丈ですよねー。


千福城と御宿氏のお話は以上で終わります。

 

次回は静岡県東部シリーズのラストを

予定してます。

少し調べて行くと、この地域の争奪戦の潮目は

武田信玄による深沢城の攻略成功と

感じましたので、行って来ました。

 

ご高覧ありがとうございました。m(__)m



 

 






















 

 

 

 

 

 

 

(静岡県東部のお城ご紹介)駿東の有力国人 葛山氏と葛山城

こんにちは、rekikakkunです。

 

現在、私のブログはいつのまにか

静岡県東部のお城ご紹介シリーズ」

になっておりまして・・・、

泉頭城(柿田川公園)、伊豆長浜城(水軍の拠点)

に続く第3弾と致しまして、

葛山城(かずらやまじょう)をご紹介致します。

 

静岡県の戦国時代のお城や歴史の本等を見ていると、

葛山氏、葛山城は時々目にしてました。

 

そしてその領主葛山氏は藤原北家を先祖に持つ

名門として鎌倉、室町時代を生き抜き、

駿東で1,2を争う有力国人だったと言えます。

 

葛山城の場所は、静岡県裾野市で、下マップ⑤の所です。

国道246号線を北進し、途中の西側です。

 

 

今回はシンプルにお城へ行きます。( •̀ ω •́ )✧

葛山城入口の案内板

葛山城及びその周辺案内マップ

仙年寺正面、右側に広い駐車場、トイレがあります

お城正面の仙年寺から登城します
(写真はお寺の裏まで来ています)

葛山城 説明板

歴代葛山氏のお墓

お墓を過ぎて、登城道を見上げます
山城にしては明るくて広い道です

上が見えてきました
道は竪堀の一つに階段、手摺を設置してました

分岐点に到着しました。ほぼ山頂です。
(すぐ着いちゃいます(^▽^)/)

葛山城縄張図で見ますと、赤字「現在地」の上の位置です。
右下の仙年寺から登っています。

 せっかくなので、ここから東側の大手口まで行って、

 そこからスタートします。

 (上の縄張図の右側、大手への方向です)

大手口への入口
(城の東側を通り抜けて、スタートしてます)

近くから富士山を撮りました。大きいです(^▽^)/

舗装道から入って行くと、すぐ案内板です

大手曲輪へ進む

ここが大手曲輪

大手曲輪を越えて尾根道を進む
(ここも山道というよりは、広くて明るい道です)

袖曲輪への案内

袖曲輪(の方向)

 袖曲輪には行かず、そのまま本丸方向へ直進します。

東曲輪跡

そのまま直進
この辺りやけになだらかだな~と思いましたが、
実はその先は谷地形(天然の堀)になってました。

竪堀の遺構が見えてきました
(写真中央にはお寺から登って来た道の手摺が見えます。
その手前も掘ってあるので、2重の竪堀ですね😃)

本丸東側の堀切

上から見ると堀切が2つあります
(はっきり残こってて、なかなか圧巻です)

 つまり先程の竪堀は堀切と繋がっていて、

 2重堀切に竪堀も2重に繋げた東側の主防御施設でした。

 (尾根道とその斜面からも進入を

       遮ってるのが良く分かる遺構です)

 

堀切と竪堀と道が合流している分岐点

主郭の南側の道を通り、主郭の西側に向かいます
(写真右手が主郭の切岸です)

3号竪堀

てくてく歩くと4号竪堀

 ん?1と2号は?

 後で調べると、東側の2重堀切に繋がっている

 竪堀2本が1と2号でした。納得😓

 

 主郭の南側を通り過ぎて西側に来ました。

五号堀(主郭の西側の堀切)

5号堀切と6号堀切を上から撮る
・・・がなかなか分かり難いね~

 東側と同じく、西側も2重の堀切でした。

 主郭の両側の堀切が2重にはっきり残ってるのって

 なかなか無いですよね~(^▽^)/

 

二の丸虎口(5,6号堀切と本丸の間)

二の丸虎口から5,6号堀切を見る(西側の尾根)
こういうのが自然で良いな~😊

二の丸跡

本丸跡

説明板

本丸の眺望(確か東側、国道246号方向)

畝状竪堀
(短い竪堀が連なると名称が畝状となるのかな?)

本丸東側の帯曲輪

分岐点に戻ってきましたが、これはこれでなかなか
深みがある感じ(堀切と本丸、切岸)

分岐点、なかなか複雑

少し右にずらして撮ると、
2重になってる堀切の頭が見えます
(最初の東側の2重堀切です)

もっと右にずらすと2重の頭

 さて、お寺へ戻ります。

登城時は知らなかったですが、
降りる時は2重って分かったので、2重竪堀を撮る
(左が登城道の竪堀、右側にも竪堀がある)

 なかなか2重竪堀全体を中に入って安全に

 撮れるのって、珍しいんじゃないかな~?

お寺を通って駐車場に戻ってきました
見えてる所が葛山の里、城下ですね

葛山城を外から撮ります
3つある頂きの真ん中が本丸です

近くの葛山氏館跡
通常時はここに居たんですね、
すごい広いね~

~葛山氏の戦国時代~

 ちょっと簡単に調べてみます。

・葛山氏堯:1495年、北条早雲の堀越御所襲撃に

      参加した記録があるそうです。

     (戦国時代の始まりですね)

・葛山氏広:北条早雲の三男。氏堯の養子として

      相続し、今川氏親、氏輝に仕える。

      (この時は北条と今川は緊密でしたね)

葛山氏元:この方が戦国動乱にだいぶ巻き込まれてます。

    1536年、花倉の乱で義元に味方。

    1537年、第一次河東一乱で今川と北条が敵対

        してしまった。富士川以東を北条が

        領有したので、北条方となるしかない。

    1545年、第二次河東一乱で北条に味方したが、

        北条撤退(川越合戦等)により今川に属す。

        (今川家中でも有力な地位だった模様)

    1560年、桶狭間の戦い今川義元戦死。

    1568年、信玄の駿河侵攻で武田に鞍替え。

        ただし今川に味方した北条により、

        葛山城を攻められ落城。

        (この侵攻では、信玄は撤退してる)

        つまり葛山城を失ってます。 

    1571年、相甲同盟により葛山城は武田方となる。

        (信玄の駿河領有成功)

    1573年、謀反の疑いで信玄に処刑される。

        え~まじか(@_@;)

葛山信貞:1573年、信玄の六男の信貞が葛山氏を継ぐ。

          (葛山一族の娘を娶る)

          甲府に残り、実務は御宿氏等が行う。

      1582年、武田滅亡時に甲斐善光寺で自刃。

          葛山氏滅亡。

 

 武田、北条、今川の3国の国境だった駿河東部は、

 御殿場深沢城、長泉の長久保城、沼津の三枚橋城等、

 一進一退の攻防戦が行われています。

 

 その為、葛山氏等の国人領主達は大国間を渡り歩き、

 信用されずに乗っ取られて滅亡の憂き目に合ってしまう。

 大変な世ですね。

 (そういえば関ケ原シリーズでの小早川家も

  似た感じでしたね)

 

 今回は静岡県の中でも名の知れた、一つの有力国人領主

 の必死の生き方と、遺構保存状態が良いその主城を

 ピックアップしました。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

(静岡県東部のお城ご紹介)北条水軍の本拠地 伊豆長浜城

こんにちは、rekikakkunです。

 

いや~、まだ暑いですね。

前回も同じ様なことを言ってましたが、

もう1度涼しそうな所。

 

伊豆の長浜城に行ってみます。

 

と言うか、暑さが和らぎそうなお城の

写真がこれしか無くて・・・///

 

1.長浜城築城の背景

 (突然ですが、発端はここからと思うので、)

 1578年、天正6年の3月、

 越後の国主、上杉謙信が病死しました。

 

 跡目を明確にする前の突然死であった為、

 相続候補の2人、上杉景勝上杉景虎との間で

 相続争いが勃発しました。

 御舘の乱(おたてのらん)です。

 

 上杉景虎北条氏康の子(7男)で、当然北条氏は

 景虎を支援しており、同じく北条氏康の娘(6女)を

 継室として同盟を結んでいた武田勝頼景虎への

 援助を求めます。

  

 当初は景虎支援を表明していた武田勝頼でしたが、

 乱の終盤で何故か?上杉景勝に援助をします。

 (流れ的にこの決断が武田滅亡に繋がっている

  感じですよね~。

 跡目争いで国力が大幅低下した上杉が味方に

 なった代わりに、正面の織田徳川と共に背後の

 北条の両大国を敵にしてしまった。)

 

 最終的に1579年、天正7年3月、

 景虎は敗死し、景勝の相続となりました。

 北条は武田を裏切りと見た事でしょう。

 

 上記により武田と北条の関係が悪化した為、

 1579年、天正7年9月武田勝頼は北条領との国境、

 現在の沼津市中心部に三枚橋城を築城しました。

 

 対する北条氏政三枚橋城から伊豆、韮山城への

 侵攻を押さえる目的等で長浜城を築きました。 

 (☝この文章を書きたかっただけなのですが、

  前置きが長くなりましたm(__)m

  まだ果たせぬ越後探訪への想いがつい・・・)

 

2.長浜城及び北条・武田の伊豆付近国境マップ

 長浜城の位置を下のグーグルマップに載せます。

  ①が長浜城です。

  ②韮山城、③は北条氏本拠の小田原城

  ①から③は北条氏の拠点です。 

 

  これに対し、④が三枚橋城、⑤葛山城

  ⑥は駿河の武田軍拠点江尻城。

  ④から⑥は武田氏の拠点です。

 

 実際はもっと細かい話になるのでしょうが、

 おおまかな位置関係、様子は見えるでしょうか?

 (①②③北条vs④⑤⑥武田)

 

3.長浜城周辺拡大マップ

 長浜城は現在水軍のお城として発掘調査され、

 整備されています。

 三枚橋城への対応もありますが、

 元々長浜城の脇にある重須湊(おもすみなと)は、

 伊豆と駿河湾への出入口の位置であり、

 正面の淡島等によって、波が穏やかであることから

 北条氏の軍港拠点として整備されていった様です。

 

 下のマップで長浜城周辺を拡大します。

 ①長浜城

 ②淡島マリンパーク

 ③伊豆・三津シーパラダイス

 ④伊豆パノラマパーク(ロープウエイ、展望テラス)

 ⑤ニュー八景園(伊豆長岡温泉のホテル)

 

 

 ②あわしまマリンパークと③伊豆・三津シーパラダイス

 は、水族館として小さなお子さん連れの家族に

 人気のスポットで、私も行ったことがあります。

静岡県東半分の人は、みんな1回は行ってると思います。

 個人的な予想で!)

 ④と⑤は流れで後で載せます。

 

4.長浜城探訪

 やっとお城に行きます。

 

 長浜城へは国道414号線から海沿いの

 県道17号線に入って南下します。

 

 伊豆・三津シーパラダイスを越えて

 数百メートル先に長浜城登城口がある漁業組合、

 釣堀の方向に右折します。

 

 その先に駐車場があります。

 下の写真は右折後、登城口の手前で

 一旦停めて撮ってます。

長浜城入口
(来たときは分からずに登城口を隠してしまってます)

 

 そして・・・、

 ん!なんと写真が無くて、もう本丸に

 着いてしまいました。( ゚Д゚)

 (昔デジカメと携帯両方で撮っていて、

  デジカメの写真が保存出来なかったからかな?(T_T))

長浜城本丸跡

 しかし綺麗な眺望が残ってました(⌒∇⌒) 

本丸からの眺め1
(正面少し右の丸い島が淡島)

本丸からの眺め2と、警戒している武田側の三枚橋
長浜城から北方向を撮っています)


本丸から階段で、曲輪を介して北側の海辺に出られます。

本丸北側の階段

本丸北側の曲輪
(3つの段になっており、下の縄張図の曲輪A,B,Cです)

伊豆長浜城 縄張図

海辺まで降りてきました
(縄張図ですと曲輪Dの先です)

現在も船が沢山停泊しています

 長浜城の写真はこれでお終いです。😓

 

 しかし、山城で綺麗な眺望が観れ、かつ

 海辺まで直接行ける城なんて凄いな~と思います。

 そして今回ご紹介できなかった堀跡や曲輪等も

 まだまだあって、気軽に訪問出来ますので、

 近くに来たら是非行ってみてくださいませ_(._.)_。

 

5.三枚橋城(沼津城)

 一方の武田方の拠点ですが、

 沼津市街中心部に三枚橋城が築城されてます。

 現在は中央公園に石碑と案内板があるのみ。

沼津市の中央公園(三枚橋城の本丸の位置)

三枚橋城(江戸時代の沼津城)の配置図

 

中央公園にある沼津城本丸跡の石碑と説明板
(この石垣は本物らしい)

沼津城本丸跡の説明板
(江戸時代1777年に三枚橋城跡地に沼津城を築城したが、
戦国の三枚橋城時代の方が大きかったと書いてます)

 この説明板で北条の戸倉城に対抗して三枚橋城を築いた

 とされていますが、その戸倉城は、私が前回ブログで行きました

 柿田川のすぐ脇にあります。(下マップ参照)

  ①三枚橋城、②戸倉城、③泉頭城(柿田川公園)  

 結構エグイ近さですよね~。

 戦国時代の緊張感が感じられます。

三枚橋城の狩野川から②戸倉城方向を見る
(戸倉城は正面の山の先なので見えてません)

 

6.駿河湾海戦

 さて、そんな緊張関係にあった武田、北条の

 伊豆方面ですが、

 1580年、天正8年3月駿河湾にて

 最大の海戦が勃発します。

 

 長浜城に集結した北条水軍が、沼津の千本浜に

 布陣していた武田軍を攻撃しました。

 そんな事があったんですね~~~。

新東名 沼津SAから駿河湾長浜城方面を撮影

マップで見ますと、

 ①長浜城、②三枚橋城、③千本浜、④首塚、⑤パノラマパーク展望台

 北条水軍が①から、駿河湾及び③の千本浜へ出撃。

 戦いは数日行われ、詳細不明ながら北条が駿河湾制海権

 握ったとも言われています。 

千本浜から撮影
(左:千本浜、右:駿河湾、正面:沼津港、長浜城方向)

千本浜から見た、今は静かな駿河湾

7.千本浜の首塚

 千本浜には首塚がありました。

 これは北条武田軍による駿河湾海戦時の

 戦死者の可能性があるとのことです。

 

 沼津市ホームページの調査研究によると

 首塚の骨は室町中期から戦国時代で、

 戦闘による痕跡があるとのことです。

千本浜の首塚

首塚の説明板

首塚

 

8.伊豆パノラマパーク

 伊豆長岡にあるパノラマパークのロープウエイ乗り場から

 葛城山山頂へ上がると、360度の凄い絶景が観れます。

富士山は雲で残念でしたが、拡大するとこの迫力です!

 

葛城山山頂から駿河湾、富士山、淡島、沼津港が一望に(@_@;)

葛城山山頂から、北条水軍の武田への攻撃進路を見る(推定)

 駿河湾海戦についてはこの写真が一番

 かっこよかったので載せました。

 (しかし撮った時は駿河湾海戦なんて知らなかったりして(笑))

 

 凄い絶景ですので、絶対に晴れの日に行って下さいねー。

 

9.伊豆長岡のニュー八景園

 まあ実は今回の写真は同じ時ではないのですが、

 長浜城に行った時は、近くの温泉で有名な

 伊豆長岡に泊まりました。

 そのお宿がニュー八景園です。

 

ニュー八景園正面

露天風呂からの風景、富士山が見えます
(一人だったので撮影してしまった)

夕食はまだあれがピーク時だったので、
部屋食しかなくて、うな重。(約2年前です)

朝食はレストランに案内されました。夕食より豪華に見える。

 ホテルは伊豆長岡温泉内の少し高台の位置であり、

 すぐ脇に伊豆パノラマパークの搭乗口や市役所がありました。

 露天風呂が開放的で良い景色でした。(⌒∇⌒)

 

 以上で長浜城を終わります。

 前回が泉頭城でしたので、そこから

 静岡県東部のお城編として進めてみます。

 ・・・ネタ的にそうなったので(笑)

 

ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

日本三大清流 柿田川公園 またの名を泉頭城とも(~ ̄▽ ̄)~

こんにちは、rekikakkunです。

 

連日の猛暑、暑いですねー。

暑くて、どこにも行けません(´・ω・`)

⇒ネタが仕込めない///

 

なので涼しくなるまで、写真が

残ってる所を個別にご紹介致します。

 

今回は暑い夏にはもってこいの場所、

柿田川の湧水公園をご紹介します。

 

場所は、静岡県三島駅から少し南に下り、

国道一号線沿いの南側、清水町にあります。

マップを下に添付致します。

 

 ①三島駅、②柿田川の始点(公園)、③柿田川終点

       (柿田川は②と③の間のみです)  

 この柿田川は、四万十川高知県)と長良川岐阜県

 と共に、日本三大清流に数えられています。

 

 富士山周辺の雨水等が、8,500年程前の

 富士山噴火で箱根と愛鷹山の間に流れて出来た

 三島溶岩流で濾過され、この地の数十か所

(マップ②付近)で大量に湧き出ています。

 

 水源は、ほぼその湧水のみで一級河川

 形成している珍しい川とのことです。

 

 そして柿田川は南へ全長約1,200m流れた後、

 マップ③付近の狩野川に合流して終了します。

 (これも日本一短い一級河川らしいです)

 

 この間、湧水を見ることが出来る展望台、

 子供も水遊び出来る湧水公園や遊歩道、

 駐車場やお店もあり、観光名所として

 整備されています。

 

 そしてこの柿田川公園には・・・

 もう一つ隠された顔があります。

 

 そう!、泉頭城(いずみがしら)

 という城跡があります。(^▽^)/

 

 やっぱり😞 という声も❓・・・

 

 いや、実は、柿田川公園=泉頭城

 と言っても大きな間違いではないと思います。

 (というか、泉頭城内に柿田川公園がある)

 

 現地の観光案内所の説明板及び想定図を観ますと・・・、

泉頭城址の案内板

観光案内所内に展示されていて、案内所の方に
了解をもらって撮った泉頭城鳥瞰図。(赤字追記)。
(大きな規模ですね~、図も詳細で凄い)

 多分、この鳥瞰図を見てここが柿田川公園と、

 すぐ分かる方は少ないかもしれません。

  

 と言うのも、私のかみさんの実家は三島なのですが、

 かみさんやご両親、お兄さん、みんなに

 柿田川公園は城跡だったの?と聞いても、

 え~?そんなの知らな~い。と同じ返答でした。

 

 ま、だからこそ探訪する甲斐がありますよね~。

 (歴史オタクとして・・・///)

 

 案内板に書かれてますが、徳川家康が泉頭城の

 環境(つまり柿田川)を隠居所として好み、

 計画しましたが、急遽駿府(静岡)に変更

 されたそうです。

 (時期的に亡くなったから中止になった気のかな?)

 

 その情報を今年なんかのテレビ番組で知って、

 早速行ってみました。

 ま、私もたまたまテレビを見てて知ったのです(笑)

 

 公園と城両方を見ていきましょう。

 

1.駐車場と公園案内図(公園、城 共通)

 国道一号線を西進し、左側に駐車場があります。

 東進する方向からは入れないので、ご注意下さい。

 そして、この駐車場がお城で見ると本曲輪の場所です。

駐車場
(広いですが、休日午後等は待ちになる場合もあります)

駐車場北側には売店、レストラン、茶店、観光案内所等があります

正面入口、右手が国一。
(車の入口ではありません。車は少し手前(東側)です。
ここは徒歩と自転車が入場可です)

公園案内地図
(正面入口と駐車場出入口)

公園モデルコース
(駐車場からほぼこの順路で良いと思います)

2.第一展望台(公園)

正面入口から公園内を西へ進むと、
第一展望台への階段に辿り着きます。

第一展望台から見る

第一展望台から湧き水を見る

3.第二展望台(公園)

第二展望台

第二展望台から湧き水(昔の工場の井戸跡)を見る
(公園の案内によく載っている所)

 

4.貴船神社(公園と城跡)

 第二展望台から南へ進むと、すぐ貴船神社があります。

貴船神社

貴船神社 案内板

 貴船神社は水の神、縁結びの神様です。

 そして泉頭城の西の丸跡と書かれています。

貴船神社境内=西の丸

 貴船神社を出て、脇の坂道を降ります。

貴船神社脇の階段、湧き水公園へ向かう

階段途中で貴船神社を下から見上げる
(つまり西の丸の切岸の一部ですよね?)

城マップで見ると、黄色〇の位置です

 

5.湧き水公園(公園)

 貴船神社の脇を降りていくと、湧水公園に辿り着きます。

柿田川公園内の湧水広場
ここが現在の公園の中心的な場所で
お子さんも湧き水で楽しく遊んでいます

湧き水公園
(人が居なくなった瞬間を撮る)

6.本丸南の大堀切(城跡)

 湧き水公園のすぐ東側は、城跡が観れます。

 (A)大堀切

大堀切(現在遊歩道)

大堀切
(左手が駐車場=本丸、右手が堀切を介した曲輪)

駐車場の南階段より大堀切を見る
城跡と知らないと単なる道ですね~

 

7.大堀切の南側にある曲輪と堀切と曲輪(城跡)

 多分泉頭城で、大堀切とここが最も城跡っぽく見れます。

湧き水公園と大堀切、曲輪
(A,B,C,Dで説明)


 (B)大堀切の南側にある曲輪

大堀切の南側の曲輪が右手(切岸の上)にあります

 (C)その南側にある、もうひとつの堀切

もう一つの堀切(大堀切の南側)

 (D)もう一つの堀切の南にある曲輪

もう一つの堀切の南側の曲輪

 

8.遊歩道と柿田川(公園)

遊歩道

遊歩道から見える柿田川

柿田川拡大

9.南曲輪との間(公園、城跡)

遊歩道(右手が南曲輪、左手がDの曲輪)

上の写真は城マップで見ると、「赤丸部のここ」です


10.南曲輪の痕跡(城跡)
 城マップを片手に、位置を探りながら、

 歩いています。

遊歩道から東方向へ進み、上がってきました

階段を上がった所。
明らかに盛り上がっている、南曲輪の痕跡

上の写真は、このマップの「赤丸ここ」と推定
違ってたらすいません_(._.)_

11.馬出、畝傍堀、外堀の痕跡(城跡)

クランク形の外堀

クランクに曲がっている外堀と同じ様なクランク道

馬出、畝傍堀がこの辺りなはずだが、全く分からない
(クランクの南西部。空き地が馬出かな⁇)

馬出しと畝堀を探す

 もはや城跡では無くて、住宅地。

 ちとうろうろしてました。

 すいませんm(__)m。

 

12.猪のししラーメン

猪のししラーメン。外堀の外側

 お昼は猪のししラーメンに行きました。

 実は知り合いの知り合い。

 11:30開店と同時に入り、10分後満席。

 人気店で美味しいですよ。

 ラーメンの写真忘れたφ(* ̄0 ̄)


13.駐車場に戻る 

駐車場北側に隣接しているお店群
豆腐アイスが有名

その脇で全く無警戒で寝ている猫(笑)

 柿田川の湧き水は一年中15℃前後の水温だそうです。

 お店もありますし、訪れている親子さんが

 多くいましたので、厳しい夏には

 お薦めの場所です。(⌒∇⌒) 

 

    以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

 

 

<天下分け目の関ヶ原9>(外伝)上平寺 京極氏城館跡 と 京極氏

こんにちは、rekikakkunです。

 

ここまで関ケ原シリーズを

進めてまいりましたが、

今回ラストとなります。

 

関ケ原へ探訪の旅に行く前、

何度もグーグルマップで作戦を

練っておりました・・・が、

 

必ず近くに出てくるんですよね~、「京極氏城館跡」が。 

 

 ほら、( ̄︶ ̄)↗ 

  ①京極氏城館跡 

  ②は位置の参考として関ケ原の中央にある古戦場記念館

 

ここはなんだなんだ? と。

 

流石に関ケ原合戦とは関係が無いと思いましたが、

北国脇往還道の方向ですし、行ってきました。

 

~1.京極氏とは~

 ご存じの方も多いかもしれませんが、

 流れ上、まず簡単に調べてみます。

 

 京極氏は、源頼朝の旗揚げ初戦、伊豆山木館の

 襲撃より馳せ参じ、以後の源平合戦で大活躍した

 近江源氏佐々木氏の分流です。

 

 鎌倉時代末期から室町、南北朝時代にかけては、

 常に足利氏に味方して功を挙げた佐々木道誉

 有名ですよね。

 

 大河ドラマ太平記は大好きで、そのイメージです。

 道誉の時代、6か国の守護まで繁栄しましたが、

 応仁の乱以降は衰退していきました。

 

 戦国時代はおおまかに、

 北近江は京極氏、南近江は同族の六角氏

 の領分でした。

 

 頼朝の旗揚げ初戦から参戦し、戦国時代まで

 残ってた大名クラスって佐々木氏ぐらい

 しか思いつかない。

 

~2.上平寺京極氏城館跡~

 16世紀初頭、1505年、

 京極高清は京極家の内紛を収拾し、

 その後北近江の守護政務の拠点として、

 伊吹山南麓の上平寺に京極氏館を築きました。

 

 そしてこの館を中心に家臣館を配置し、

 南に北国脇往還道を取り込んだ城下町を形成。

 

 北の山に詰城として上平寺城を築きました。

上平寺城絵図
(江戸初期作成と推定されている)

 さて、正面入口からその館跡に入ってきます。

上平寺館の入口

 

館前の堀跡

京極道誉の旗があります。
(道誉はここには居なかったんだけどね、一番有名ですから)

京極氏遺跡の説明板

 

さて、遺跡の中に入ります

上平寺館跡の説明板です

 

てくてく進みます。少し登り坂です。

 

右手に弾正屋敷跡(絵図に載ってる)

左に90度道が曲がりました。
1505年の時代でも曲げるんですねー。
石垣が復元されてます。(⌒∇⌒)

曲がってすぐの蔵屋敷跡(これも絵図に載ってる)

道を挟んで蔵屋敷の反対側に隠岐屋敷跡
(絵図では文字が分からない)

段差発見

京極氏屋敷
(この奥の方に庭園跡の石があったかも)

 

京極氏館跡の正面

伊吹神社の鳥居

上に京極氏のお墓

神社の左脇に、上平寺城へ進む道

 今回は下調べしてなかったので、

 上平寺城までは行かず、ここで引き返しました。

 

 上平寺城絵図を確認しますと、

 おおよそ下の様になるかと思います。

上平寺絵図

 本ブログ最初の写真が、上絵図の「現在の入口」です。

 (すぐ手前に駐車場があります)

 ここから上に歩き、

 弾正屋敷跡⇒蔵屋敷跡⇒京極氏館跡へ行きました。

 

 規模的にも大きく、しっかりした組織に

 なっていたんだろうな~と感じられました。 

 

   実は京極氏館跡の奥には庭園跡の石が、

   少し残っていた様ですが、

   知らずに奥に行きませんでした。

 (だいぶ後悔してます`(*>﹏<*)′) 

 

 また、絵図の城下町内には、

  諸士屋敷(武家屋敷)

  町屋敷(商工業者)

  市店民屋(市や民家)

 と細かく書かれています。

 

 これら戦国期の守護館、庭園、家臣屋敷、

 城下町、詰城がセットでほぼ絵図通りに

 残っているのは珍しいとの事で、

 2004年に国史跡になったとの事です。

 

 1505年以降北近江守護として、

 上平寺にて国を治めていた京極高清

 でしたが、1523年に家督相続が

 絡んだ国人衆との争いに敗れてしまい、

 上平寺の館及び周辺は焼失した模様です。

 (上平寺では20年弱の統治でした。

  またこれにより京極家は

  大名としても没落してます。)

 

~3.浅井氏による上平寺城改修~

 ただ上平寺は京極氏の時代と、

 その後の時代がありそうですね。 

 

 以降、北近江は小谷城を拠点とした

 浅井氏が実権を握っていきます。

 この時の浅井家当主は浅井長政の祖父、

 浅井亮政です。 

 

 小谷城には京極高清も居たとされる、

 京極丸があります。 

小谷城全体図
(中央上側に京極丸があります)

小谷城の京極丸
(2年前に行った時の写真)

 

 その後北近江は浅井長政の時代となり、

 1570年、織田信長への備えとして、

 朝倉氏の支援により上平寺城を改修した

 記録がある様です。

 

 現在残っている縄張は、放射状の竪堀群や

 桝形虎口等、戦国後期の技術とされ、

 主には浅井氏改修の跡と言われています。

 

 縄張図を見るとなかなかの規模ですよね~。

 機会あったら行きたいです。

 

~4.京極家の再興~

 その後京極氏は高清の孫、高次の時代となりました。

 浅井氏に篭絡されていた京極氏でしたが、

 1573年浅井氏が滅亡後、高次は信長に仕えていました。

 

 しかし1582年本能寺の変で、

 うっかり?高次は明智方に味方してしまい、

 またその後も柴田方に味方してしまったので、

 逃亡生活になります。

 秀吉の時代になりましたから、

 普通はお終いですよね~。

 でもなんとか妹竜子の努力等により生き延びます。

 

 高次は1587年、浅井長政お市の方の次女

 初を妻とし、1595年大津城主となりました。

(やはり名門ということですよね~)

 

~5.運命の大津城籠城戦~

 そしていよいよ関ケ原の合戦。

 高次は東軍として大津城に籠城し、

 9月7日より、毛利元就の八男元康や立花宗茂

 西軍2万前後を相手に激戦を演じました。

 

 9月14日に降伏、15日に開城しましたが、

 その同日関ケ原合戦で東軍が勝ちました。

 

 この西軍2万を9月15日の本戦に

 参加させなかったのは、実は東軍一番の功

 だったかもしれません。

 (そして西軍勢力圏内なのに、明確に東軍味方を表明してる。

  高次なりの考察、意地、覚悟があったのでしょう。)

 

 というのも立花宗茂らの軍勢は日和見の軍では無く、

 明らかに西軍側として高い戦意で戦ってました。

 

 もし2,3日で大津城が落城してたら、

 9月11日頃に大津を出発し、

 15日前に関ケ原(又は大垣)へ到着出来そうです。

 しかも西軍一番の主力として。

 

 その場合、東近江辺りで時間稼ぎをしていた

 小早川軍1万5千と、毛利立花軍2万は

 関ケ原到着前に中山道で会いますね、たぶん・・・。

 

 そうすると小早川軍は9月14日に松尾山の

 西軍守備隊を追い出す様なまねは出来なかったかも。

 (そしたら小早川はどうしたかな?)

 

 小早川の松尾山占拠が無かった場合、

 三成ら大垣城主力部隊は

 関ケ原へ急行したかどうか?

 

 それは秀頼が動座する前に決着を着けたい

 家康もですが、この状況で野戦に誘うか?

 秀忠軍を待つか? 

 

 でも赤坂に着陣して翌日決戦に持ち込だから、

 相当急いで決着つけたかったんだよね~。

 

 もしかして今の日本の歴史は京極高次

 作ったのでは。。。、

 

 ん❓

 だんだんきりが無くなってました🙄

 

 話もどんどん違う方向にφ(* ̄0 ̄)

 

 閑話休題

 京極高次以降、宗家は色々ありましたが、

 丸亀藩5万石で江戸時代を生き抜きました👍。

 

 と、関ケ原に中途半端に繋げたまま、

 強引に話を終了致します。_(._.)_

 

 でもこの関ケ原IFは、個人的には楽しくて

 考えながらどんどん書いてました(笑)

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m