歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

近江八幡探訪3 ~安土城、信長 天下取りへの夢の跡~

 

こんにちは、rekikakkunです。

 

 近江八幡探訪3は、観音寺城のお隣、

 有名な安土城に行ってきました。

    学術的な事は分からないので、

 写真を中心に載せていきますね~。

 

 前回の観音寺城探訪後、近江八幡のホテルに

 宿泊しました。

 ホテルの部屋から丁度安土城観音寺城

 見れました。

 部屋から目的地が直接見えると、来たんだな~

 と感じますよねー(⌒∇⌒)

近江八幡のホテル部屋から安土城観音寺城を撮影

 因みにホテルは「グリーンホテルyes近江八幡さん」。

 15:00から(つまりチェックイン)から、

 朝食会場でドリンク、ワインを無料提供してたり、

 大浴場もあったりで大満足でした。

 

 さて、宿泊地の近江八幡から車で10分も

 かからない位。

 安土城到着前に、せっかく時間あるので

 西から安土城観音寺城が見える所を探して、

 撮影しました。

安土城観音寺城 遠望(西から)

 

 さあ、安土城駐車場で車を降りて、

 お城に向かいます。

 駐車場からすぐ、行幸用に備えられたと推定

 される平虎口が3か所ありました。

 京都内裏の1辺3門と合わせたとのことです。

安土城 南側石塁と大手三門

 

  そして入城手続きし、直ぐに大手道です。

復元された有名な直線大手道

 大手道を登ってすぐ左手には「伝羽柴秀吉邸跡」

 があります。

羽柴秀吉邸跡①

羽柴秀吉邸跡②

羽柴秀吉邸跡③

 秀吉邸跡はぐるりと回れるんですねー。

 ここだけでも結構なボリューム感。

 石垣の脇道を歩けてうれしいです。

 

 さて、大手道に戻り、登っていきます。

大手道② 大手道を登っていきます

大手道③ 大手道で最初の曲がり道です

 少しくねくねを越えると、

黒鉄門に至る道

黒金門入口
(ここから信長の居住区域、城の中枢になる様です)

黒金門標識

黒金門を入るとコの字に曲がる

安土城主郭部図

 黒金門を過ぎると・・・、

 安土城はそのほとんどが積み直し

 されている石垣とのことですが、

 信長時代の石垣とされている二の丸の

 石垣が現れました。

 なかなかの迫力です。

二の丸の石垣

二の丸へ進む

二の丸入口

  上の写真を見ると確かに当時の石垣に見えます。

  階段を上り、二の丸に入ってきました。

二の丸

信長廟

二の丸から見た本丸の石垣

 上の写真の左手が多分二の丸東溜り。 

 この石垣の手前から礎石、焼け跡が見つかり、

 本丸天守に接続された舞台の様な遺構で、

 信長が姿を現していたかもしれない様です。

 確かに城下町の方向ですねー。

本丸石垣 天正っぽい

天守入口

天守入口から見た本丸跡

 この本丸跡には建物礎石が残っていて、天皇の御殿と

 同じ建物基礎だったとのことです。

 天皇を迎えようとしたのか?

 天守から御殿を見下ろそうとしたのか?

 その議論は他に方に任せて・・・///

 

 さていよいよ天守閣跡に向かいます。

天守閣跡入口

 

 安土城のてっぺん、天守閣跡に到着しました。

天守閣跡

 下の天守閣説明板を見ると、上写真の礎石部は

 天守閣の地下1階であり、また天守閣自体は

 今見ているこの礎石部の2倍の大きさとのこと。

 ほぼ日本初めての本格石垣城郭としては、

 嘘みたいに大きいですねー(@_@;)

天守閣跡説明

 

 天守閣は礎石部の周辺を歩くことが

 出来るんですねー。

天守閣土台を歩く

 土台を歩くと色々景色が見れましたので、

 載せますね。

天守からの眺望

 

 すいません、時間が経ってどの方向か

 分からなくなってました。

 ざっくりは北の方向なので、

 琵琶湖及び干拓地方向と思います。

 当時は天守から琵琶湖を一望できますね。

 

 日本最初の本格天守は完成から3年後の

 1582年、天正10年に本能寺の変の後、

 6月14日から15日にかけて短い命で

 焼失してしまいました。

 

 何故焼失したのか?

 あほな信雄がという話もありましたが、

 

 燃えて一番得する人は?

 これから天下を取るうえで、

 前覇者の威光は不要。

 だが自分で主君の城を燃やした事

 には出来ない。

 6月13日山崎の合戦で勝利し、

 6月14日から燃えた。

 

 となればただ一人。

 私の推察です(笑)

 

 次も安土城続きます。

 ご高覧ありがとうございました。

近江八幡探訪2 ~観音寺城、頼朝旗揚げ以来の名門佐々木六角氏と信長上洛戦~

こんにちは、rekikakkunです。

 

  前回は観音寺城の本丸跡まで行きました。

  ここから、下の探訪経路図で

  ③本丸から④に向かいましょう。_(._.)_

 

  ちなみに、観音正寺裏駐車場から

  ①を経由して、お寺の入口②までは

  徒歩13分。

  

  観音正寺本殿からは山道に入り、

  ③の本丸までは8分程でした。

観音寺城縄張図  探訪経路

 ~③本丸から④平井丸~

  本丸を出て、石階段を降ります。

本丸の石階段

  石階段を降りてすぐに、3方向の分岐点に戻ります。

3方向の分岐点に戻る(縄張図③の位置)

  上の写真の左側、屋敷跡の方向に足を

  向けると、この道(下の写真)です。

  ここが一番不安な感じですよね、、、  

  25年前は本丸のみでここは

  行かなかったです。てか知らなかった(-_-;)

分岐点③から屋敷跡方向へ山道を下る
(夏だと草で道が見え難いかも)

 

  分岐から下ってほぼ1分で「大石垣まで7分」の

  標識がありました。

  

  観音寺城の遺構としては大石垣が一番迫力があって、

  景色も最高なので、目標の場所になりますよね。

  

  ただしこの時点では本当?~って雰囲気です(笑)

  (なので大石垣まで7分ぽっきりだよ、って案内は

   なかなかタイムリ-で良いです😊)

屋敷跡方向に行くとすぐに標識がありました

 

  分岐点から3分程で視界が開けて広い道になり、

  石垣も見え、安心しました。

平井丸の石垣が見えてきました

平井丸の入口

  ここ、観音寺城の紹介でよく出る処ですよね。

  確かに迫力ありました。

  こんなのが隠れているんですねー。

  確実に戦国時代当時の遺構👍

  これぞ山城巡りの醍醐味っすね😊

平井丸の入口(拡大)

 

平井丸内の標識

 

平井丸の石垣、角は算木積になってますよね~

 

本丸から平井丸に来た道

 

 ~④平井丸から⑤池田丸~ 

  上の写真の右手、平井丸の大きな門跡の正面が
  次の曲輪への道です。

  

平井丸から池田丸へ進む道
(またタイムリーに看板があります。大石垣まで5分)

池田丸にもうすぐで着きます

池田丸の入口
(看板は大石垣まで3分)

池田丸の中に道が通ってます
(探訪経路図のちょうど
⑤の位置ですね)

池田丸の出入口石垣

池田丸の石垣
ちょっと意外、しっかり残ってますね~

 

 ~⑤池田丸から⑥大石垣~

  池田丸を出ると周りが明るくなり、

  前方が開けてきました。 

池田丸を出て大石垣に向かう道

大石垣へ向かう途中

少しぐるっと回って展望地に来ました
観音寺城の旗が立ってます

 

展望地からの眺望
(南方向でお寺での写真とほぼ同じ方向ですが、絶景👍)

  この展望地は実は大石垣の上に立ってます。

  ちょっと右脇から降りて見ると・・・

大石垣1

  こ、これは凄い(@_@;)

  大石垣が見れました(^^♪

  今回探訪で最目的の場所なので、沢山撮影~😊

 

  下写真の石垣の右手の山は

  箕作城跡だと思います。

  観音寺城と箕作城の間に中山道

  通っていたとのこと。

大石垣2 (かっこいいな~)

大石垣3 (かっこいいな~2)

 

大石垣4 旗が上に見えます

 

大石垣5 大石垣の脇を歩けました
(通り抜けられます)

大石垣から南東方向を見る

 

 ⑥大石垣~⑦木村丸

  大石垣の先を少し行ってみました。

木村丸

 

木村丸の先にある縄張図に載ってた竪堀

  縄張図に載ってた竪堀が見れて一人、

  ニヤリと満足したのでこれで戻りました。

  周り誰も居ないから、ばれてないよ(笑)
  

平井丸に戻った。映えるので再撮影

 

  観音正寺を出て、戻ってくるまで約1時間半でした。

  縄張図を見ながら行くと良いと思います。

  また行きたい。

  今度は冬の見やすい時期に佐々木城の方も・・・///。

 


  ~外から観音寺城、箕作城を見る~

   

繖山(きぬがさやま)遠望

  大石垣と観音正寺が正面に見える処に来ました。

繖山(きぬがさやま)拡大

大石垣拡大 旗が見えます


  さてもう一つの目的が、信長の上洛戦、  

  地図は、①:観音寺城、②和田山城、③箕作城、④愛知川

 

  

  足利義昭を奉じた織田信長が永禄11年

  (1568)9月7日岐阜城を出発、

  京都へ上洛し、天下統一戦が始まります。

  その最初の敵対勢力が近江南半国の領主、

  六角氏でした。

 

  9月11日、信長軍は愛知川の北東岸

  (上のマップ④の右上側)

  に集結し観音寺城と対峙しました。

  繖山の西側は当時は安土山まで琵琶湖

  だったから、東側から進軍ですよね。

 

  六角氏は①観音寺城を中心に、④愛知川から見て

  左手に③箕作山、右手に②和田山城の3つに

  兵を分け、最初に一番落とし易そうな

  和田山城に信長軍が取り付くだろうから、

  観音寺城と箕作城から挟撃しようと、

  策を建てたみたいです。

  

  愛知川から戦場の位置関係を撮りたかった

  のですが、うまく撮れる所が見つかりません

  でした。。。_| ̄|○

左が箕作城、右が観音寺城、その右の
写ってないところに和田山城 (北東から撮影)

 

  さて、9月12日攻撃の火ぶたが切られ、

  信長は最初に箕作城(みつくりじょう)を

  攻撃しました。

  

  その際、元々大軍だったので、和田山城と観音寺城

  から挟撃されないよう抑えの軍勢を配備したので、

  六角側は挟撃策を取れず、箕作城は攻撃初日の

  夜襲により1日で落城しました。

  

  翌日、夜が明けたら、観音寺城和田山城の六角軍

  は、ほとんど退散してしまったとのことです。

  (そもそも六角家は内紛状態だったみたい)

 

  よって観音寺城での戦いは、

  ほぼ箕作城の戦いですね。

 

  下の写真前面に信長軍が観音寺城封鎖の軍を

  展開していたんだろうと想います。

観音寺城を南から見る
(正面観音寺城、写真のほぼ中央が大石垣)

 

左が観音寺城、右の山が箕作城
(南西から撮影、見えませんが写真の左手が安土)

  鎌倉以来の名門六角氏にたった1日で

  勝った事は、京都を押さえていた三好松永

  や京都の公家さん達に相当なインパク

  があったと予想出来ますよねー。

 

  というのも翌日、安土考古学博物館の六角氏

  の展示場に行ったのですが、

  信長と対した六角承禎及びその父六角定頼や

  祖父六角高頼は隣接する中央勢力、幕府と

  協力、敵対を繰り返しながら、簡単には

  屈服しないぞという気概、実績を持って

  いたんですね。

 

  そして当時としては最大規模の観音寺城

 

  その六角氏を信長は1日で、まあ実質

  滅亡させてしまったのですから、

  なかなか・・・恐ろしい、スゲー。

  

  締めとしてはこんな感じです。

  なんとか表題の上洛戦に繋げた(-_-;)

  

  次はお隣、安土城をご紹介致します。

  信長の栄華と、まぬがれなかった

  終焉の舞台。

  このブログを見て頂いてる方は、

  ほぼみなさん行ってますよね。

  自転車でぐるっと1周してきました。

    

  ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

近江八幡探訪1 ~観音寺城、頼朝旗揚げ以来の名門佐々木六角氏と信長上洛戦~

こんにちは、rekikakkunです。

 

 今回は安土城考古博物館で近江の守護大名

 六角氏の特別展示会が6/5まで開催されて

 いるのを知り、2回目の滋賀県探訪を計画。

 

 近江八幡を宿泊拠点とし、上記及び

 六角氏の主城である観音寺城と、

 信長の安土城を中心に探訪してきました。

 

観音正寺探訪~

  初日高速を使って八日市ICを経由して、

  12:00頃に観音正寺裏駐車場

  に到着しました。

  観音寺城へは、城域内で頂上に近い

  観音正寺を目指し、そこから行くのが

  一般的です。

 

観音寺城観音正寺)地図
(中央に観音正寺、その左に主な観音寺城跡が載ってます)

 

  観音寺城へは登山道(赤色)が3つあります。

   登山道①:表参道岡寺コース

   登山道②:表参道桑実寺コース

   登山道③:裏参道コース

 

  また車でのアクセス(青色)は2経路あります。

   自動車道①:表参道コース

   自動車道②:裏参道コース

 

  下にアクセス経路を追加しましたので載せますー。

観音寺城(観音正寺)アクセスマップ

 

  今回は自動車で②裏参道駐車場まで行き、

  そこから徒歩で観音正寺までは行きました。

  高低差がほぼ無い整備された歩道なので、

  特に山登りを目的にしてない場合は、

  一番簡単でおすすめです。

 

  さて・・・

  実は、観音寺城はその昔(25年位前?)

  奥さんと初めて旅行に行った時に、

  少しだけ訪れてます。

 

  この時、自分は観音寺城には車では

  行けないと思い込んでいたので、

  麓の駐車場に車を止めて、

  今思えば表参道石寺ルートから

  登りました。

 

  そして観音正寺にやっとこさ着いたら、

  ・・・ (゚д゚)! 

  車の影が・・・

  なんとそこに車で来てる人が居る

  じゃないか( ;∀;)

 

  表参道は高低差が250mもあって

  1時間かけて登るのに対し、

  裏参道は高低差1mを15分程歩いて

  観音正寺に到着できます。

  そして記憶では表参道は、半分壊れている

  石階段をずっと登ってへろへろに( ;∀;)

  (25年前ですが)

 

  奥さんには事あるごとに

  言われ続けています。

  「観音寺城では騙されたよ、って」

  ・・・(´・ω・`)

  以降はちゃんと下調べをする様に( ^ω^)。

 

  なんて脱線話をしていたら・・・

  観音正寺裏駐車場に到着しました。

観音正寺裏参道駐車場

裏参道駐車場から観音正寺に入ります

裏参道駐車場から観音正寺に向かう
(道が平ですねー)

 

  さて、ここから観音寺城の写真が出始めます

  ので縄張図を掲載します。

観音寺城 縄張図

観音寺城 探訪経路図

 

裏参道駐車場から観音正寺に向かう途中に佐々木城跡への
階段がありました(下の探訪経路図の①の場所)

 

観音正寺入口から見れる南方向の綺麗な眺望
(下の探訪経路図の②の場所)

 

上写真より西方向の眺望

  真ん中に特徴のある山があったので、

  グーグルマップ等で調べると近江富士

  呼ばれる三上山でした。

  またこの方向の先が京都の様です。

  

観音正寺

  観音正寺ですが、お寺の紹介によりますと、

  かの聖徳太子繖山(きぬがさやま)で千手観音を彫み、

  お寺を開かれました。

  この繖山が観音寺城観音正寺の舞台です。

  現在は西国第三十二番札所として全国から

  巡礼者がお参りに来ています。

観音寺城探訪~ 

  さて、観音寺城観音正寺と同じ

  繖山の南斜面に展開されています。

  観音寺城主は近江の守護六角氏です。

  

  六角氏は近江佐々木氏の出で、

  現在の大河ドラマの時代では、

  佐々木秀義、定綱父子等一族が、

  源頼朝が伊豆で旗揚げした時から

  味方し、鎌倉幕府設立に手柄を

  立てています。

  

  そして定綱は出身地の近江守護を

  獲得しましたが、

  その子孫は六角氏、京極氏、高島氏、

  大原氏の4家に分割しました。

  嫡流は六角氏でしたが、各家毎に

  幕府に従っていたので、近江全体の

  統一感が無かったようです。

  

  鎌倉幕府末期、京極家からは

  ばさら大名で有名な佐々木道誉

  勢力を伸ばしました。

  関ケ原合戦等でも京極高次

  大津城(近江)で活躍してますよね。

 

  観音寺城の築城、沿革はちと複雑ですねー(笑)

  佐々木城入口の写真を掲載しましたが、  

  佐々木道誉南朝との戦いで籠ったとの事です。

  (ってことは、南北朝時代

  戦国時代初期に大規模な山城が増築

  されていき、代表的な山城として、

  現在、日本五大山城の1つになってます。

  

  さて、話が長くなってしまいました。

  観音正寺の左脇の道、又は本堂裏手

  から観音寺城に向かいましょう。

 

観音正寺から180m程進んだところ

観音正寺観音寺城本丸、観音寺城曲輪跡の3つの分岐点
(探訪経路図の③の場所)

  まず最初に上の写真真っすぐに進んで、

  本丸跡を目指します。

  基本案内看板が分岐点にしっかりあるので安心です😊

 

  すぐに大規模な石階段が見えてきました。

本丸東側虎口前の石階段

  石階段を登ると、本丸跡に到着しました。

本丸跡、説明板

本丸北側の虎口(よく写真で使われる場所かな?)

  25年前の写真を探して見たら、ここの

  石垣配列が同じでちと感動でした(〃ノωノ)

  確かここでUターンしてます。

  (当時はネットも無く、

   あまり分かってなかったです)

 

本丸北側の虎口(本丸外側から撮影、上写真の反対側)
桑実寺コースから来ると、ここに到着すると思います。

本丸を囲う土塁、石垣跡

本丸の石垣、良く残してくれました

  本丸だけでも結構土塁、石垣が残っていますねー😊

 

  観音寺城は標高約400m、

  その後の時代の安土城は約200m。

  2倍の高い山に石垣造りの山城を

  戦国初期に造ったところが凄いですねー。

    

  今回は本丸までとします。

  次回はもっと壮大な石垣跡になりますよー。

  ご高覧ありがとうございました。

中世駿府の歴史、城を訪ねて4 ~戦国駿府を守る激戦と駿府城の築城~

こんにちは、rekikakkunです。

 

前回桶狭間の戦い今川義元討死まで、

お話しました。

1560年(永禄3年)のことです。

 

ほんとは今川氏の勢力が最大となり、

「東国の京」とも呼ばれて駿府の街が

栄えた時代が今川義元の時代でした。

なので義元の時代を、どこかで勉強

しなければと思います。

 

義元の死後、家督を継いだ嫡男氏真ですが、

求心力の低下、弱体化が進み、

1568年12月甲斐武田信玄による

駿河侵攻が始まります。

今川方は薩埵峠に布陣。

富士川を越え、駿府の東方向から侵攻

してきた武田軍と激突。

 

~ ①薩埵峠 ~

薩埵峠の展望台から、富士山、駿河湾の絶景
下の道は国道一号線、上は東名高速

  台風の時、最初に一番海寄りの東名高速下りが

  通行止めになります。

  ここ全部やられると物流辛くなるので新東名が

  出来たんですね~。

西側登り口から東へ進む道

 西側にはトイレがある駐車場があり、そこから10分程で

 上の写真の所まで上がれます。(東側も駐車場あります)

 ここまで上がれば、この先の展望台までは徒歩15分程

 、上下動も無いのでのんびり散歩できますよー。

 

 また、鉄道では、JR興津駅で降りて、

 この写真の場所まで徒歩30分位。

 展望台からそのまま東へ進み由比駅へ、

 全行程で90分位かな。

 

 さて薩埵峠の戦いは、武田の調略により今川方が

 早々に退却してしまい、12月13日には

 駿府に武田軍が侵攻。

 今川館及び城下町等が焼き払われてしまいました。

  

 翌1569年5月掛川城徳川家康に降参し、

 戦国大名としての駿河今川家は無くなりました。

 

 駿河の国は今川家を支援した北条氏と武田との

 争いで一進一退となりましたが、1571年頃

 武田家が駿河をほぼ領有します。

 

~ ②蒲原城

 その過程で、1569年12月北条氏が

 守備をしていた、富士川の西岸に立地する

 蒲原城が武田氏により落城。

 北条早雲の孫氏信や今川家臣700人から

 1000人ともいわれる城兵達が壊滅する

 壮絶な戦いでした。

 (最初の駿河侵攻では武田は蒲原城

  押さえていなかったので)

 

 攻め手は武田勝頼真田幸隆等だった様です。

 その後信玄自らも入城し、北条への備えとしました。

 まさに富士川東から駿府への敵軍侵攻を止めるのに、

 重要な場所といえます。

原城 鳥観図(搦め手口側に駐車場)

登り道

原城 本曲輪

原城から西南側の山道から撮った、駿府方面の眺望

 上写真の右側の突き出しが薩埵峠だと思います。

 ここ蒲原城薩埵峠が駿府の東側防御のポイント

 であったことが見れます。

 (海の反対側は山ばかりなので・・・。)

 

 蒲原城はその後1582年(天正10年)の

 武田氏滅亡時落城し、廃城となったとの事です。 
 

 ~ ③持舟城 ~

  さて駿府を守る東側の拠点、薩埵峠と蒲原城

  ご紹介をしました。

  これに対し、西側の進入路は山側(東海道)と

  海側(日本坂)の2方面があり、防衛拠点は

  山側は以前挙げました丸子城。

  そして海側が持舟城となります。

 

  さてこの持舟城、一般的にはさほど有名には

  感じないのですが、戦国時代に今川vs武田vs徳川

  による4度もの争奪戦が行われた事からも、

  重要拠点であった様です。

  知らなかった~(゚д゚)!

  (1)1568年武田氏の駿河侵攻により落城

    (〇武田勝ち、×今川負け)

  (2)1579年徳川家康の攻城により守将及び

     守備兵400人討死

    (〇徳川勝ち、×武田負け)

  (3)1580年武田勝頼が取り戻す

    (〇武田勝ち、×徳川負け)

  (4)1582年武田滅亡時開城⇒廃城

    (〇徳川勝ち、×武田負け)

 

  そこで持舟城に行ってきました。

山道(中腹に駐車場があり、そこからすぐです)

本曲輪

看板

本曲輪と二の曲輪間の堀切(はっきり残ってますね~)

 

 さて、このお城の重要性は本曲輪から駿府平野全体が

 見渡せる、立地眺望にあると思います。

本曲輪から東側眺望

本曲輪から東側眺望(駿府の街、平野、城がほぼ全て見える)

 

海側拡大(現在の用宗港)

富士山を中央に拡大(手前は東名高速

本曲輪東正面(正面少し右手は砦の跡、左の線路は新幹線)

  これまで静岡の山城を訪問してきましたが、

  1か所で平野全体を見渡せる眺望は、

  ここが一番と思いました。

  (平野最西側の海の際から前面全体が見渡せる)

  つまりここを手に入れないと、駿府周りの

  動きが丸見えになってしまいますねー。

  また、港もあったので水軍も設置されてたとか。

 

~④駿府城

  さて・・・

  1582年、武田氏滅亡と共に、

  要の城である蒲原城、持船城等が落ち、

  駿府駿河の国)は徳川家の手中になりました。

  1585年頃の安土桃山時代

  天守が建てられた様です。

  

  その後、豊臣政権下の1590年からは

  中村一氏が領有。

  

  1600年の関ケ原合戦を経て、

  再び徳川家が領有。

 

  1610年大御所として駿府に入城していた

  徳川家康による天下普請により国内最大級の

  天守が再建されました。

 

  そして、平成28年(2016年)から

  今年にかけて、この1585年と1610年の

  2つの時代の駿府城天守台が発掘されたとのこと。

  (長いので、もっと前から調査していた感じ・・・)

駿府城天守台発掘調査

駿府城天守台発掘現場(2022年4月)

駿府城本丸天守配置図
(赤字が天正期、緑字が慶長期。一部重なってますね)

天守台石垣 案内板

 

天正期(古い方)の天守台石垣

慶長期(新しい方)の石垣 奥に古い方の石垣

  ・天正期の野面積み(のづらつみ、自然石を積む)

  ・慶長期の打込接(うちこみはぎ、加工した石を積む)

 

  私もやけに発掘調査が長いな~と少し思ってましたが、

  まさか2つの時代の石垣が発見され、天守遺構が確定

  するとは驚きました。

  そして今川時代の遺構も発見された様です。

今川時代の発掘遺構

今川時代の遺構発見場所

  これにより、ここに今川館があったと断定は出来ないと

  思われますが、可能性を感じますよねー😊

 

  ・戦国の幕開けとその後の今川時代の駿府

  (当時は府中)で花開いた、文化と今川政権の全盛期。

  ・ここから義元の死、政権の弱体化と共に、

   駿府の街が焼き払われ、今川・武田・徳川による

   争奪戦乱の舞台になっていった時代。

  ・そして天下人家康の権威を象徴する

   駿府城の天下普請と大御所時代。

 

   これらの時代を、

   「中世駿府の歴史、城を訪ねて」で、

   計4回にまとめてみました。

   

   ちょっと極端にはしょってたり、

   認識不足だったりはご容赦下さいね。

 

   最後に場所が確認出来る様、以前掲載しました

   駿府と周辺地図を再添付します。

   ご高覧ありがとうございました。

    ①駿府、②賎機山城、③持船城、④丸子城

    ⑤薩埵峠、⑥蒲原城、⑦安倍城

  

 

中世駿府の歴史、城を訪ねて3 ~駿府戦国大名今川義元の攻防~

こんにちは、rekikakkunです。

 

前回は今川家を戦国大名へと前進

させた9代氏親を中心に話を進めました。

 

彼が1526年死去し、嫡男の氏輝が

跡を継ぎましたが、1536年26歳

で病死。その弟の彦五郎も何故か急死。

ここから話を進めたいと思います。

 

またしても今川家当主が跡継ぎを

定められず急死してしまい、

跡継ぎ争いが再発します。

 

氏輝に男子がおらず、

僧籍に入っていた氏輝の弟の中で、

 

福島氏が推す「玄広恵探(げんこうえたん)」と、

福島正成の娘が母なので)

 

寿桂尼太原雪斎達が

推す「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」、

還俗して今川義元

寿桂尼が母なので)

 

1536年、この2人による跡継ぎ争いが勃発。

花倉の乱と呼ばれています。

玄広恵探が拠点とした場所が花倉城)

 

まあ~、とにかく簡単に変換出来ない

お2人の僧籍名の入力に四苦八苦( ;∀;)。

今回書くまで栴(せん)を、ずっと梅(ばい)

だと思ってました。( ;∀;)

見たこと無い字だしw

 

最終的に玄広恵探は劣勢となり、自ら住持だった

遍照光寺のすぐ北、花倉城に立て籠もりました。

 

ここら辺は葉梨(はなし)という地名で、

今川氏が建武4年に葉梨荘を足利尊氏

から賜り、駿府に入る前の最初の拠点

とも言われています。

花倉の地(藤枝市) 入口付近の案内板

 

現在の遍照寺

遍照寺内にある2代今川範氏公の墳墓

 ここの説明を見ますと、2代範氏公の時、

 1354年頃に葉梨に進出し、花倉に館、

 花倉城、遍照光寺を構築したとされてます。

 

 そして花倉城は葉梨城とも言われており、

 花倉の乱での最終決戦の場です。

 花倉城攻城写真を少しですが載せますね。

花倉城の入口 (右手の暗い所から、ちょっと怖いけど入る)
農道を車で登って、この脇に1,2台停めるスペースがかろうじてあります。

花倉城入口に設置されてる説明版

花倉城 縄張図 (右下が入口です)

 

花倉城 入口に入ると、いきなり土橋でした
(上の写真の土橋1)

二の曲輪の堀

二の曲輪

二の曲輪付近から南東方向の眺望
(2つの尾根端に囲われた部分が葉梨地区、先の海が焼津港付近)

 

二の曲輪と本曲輪を遮断する堀切

本曲輪

 

入口の土橋に戻りました

 

入口から少し離れて山を撮影
(左が暗い入口、上が花倉城本曲輪かな?違うかも)

 外からは全く見えないけれど、

 中入ると城の遺構が残ってるんだねー(⌒∇⌒)

 

 花倉城は落城し、逃亡した玄広恵探は、

 西方向(駿府と反対方向)にある瀬戸谷の

 普門寺で自害し、乱は終結しました。

 

普門寺と花倉城の間の山と瀬戸川(写真左の山奥側に花倉城)

玄光恵探の供養塔
(当時の普門寺の場所、現在は少し南にありました)

説明版拡大

玄広恵探の供養塔(右側)

  ①遍照寺、②花倉城、③玄広恵探の供養塔

 

 

 桶狭間の合戦前に今川義元

 玄広恵探の夢を見たとか・・・

 怨念を感じる事件ですね~

 (ちょっと怖い)

 

 さて、ここからさ~と進めます。

 (ただ怠慢なだけですが。。。_| ̄|○

 

 翌年1537年、武田と同盟を結んだ

 事が発端となり、河東一乱と呼ばれる

 後北条氏との争いで、富士川以東の

 駿東地区を奪われてしまいますが、

 その後取り戻します。

 (ここら辺、川越夜戦も絡んできますね~、

  もう少しお勉強します)

 

 以降、義元の治世は太原雪斎

 母寿桂尼等の補佐もあり、25年余り。

 今川家は三河尾張の一部まで支配を

 拡大し、武田、北条と同盟を結んでおり、

 駿府の街にとっては安定した時代

 だったのかな?

 と思います。

 

 静岡市内にある寿桂尼菩提寺

 竜雲寺です。

 お墓は駿府の街を見ています。

寿桂尼菩提寺 竜雲寺

寿桂尼の供養塔

供養塔からの眺望
駿府は少し左手。正面は賎機山城の北側尾根)


 

~~時代は進み~~

 

 義元さんは1536年の

 家督争いには攻め勝ちましたが、

 1560年桶狭間の戦いでは

 信長の攻撃を防ぎきれず、

 戦死しました。

 

 桶狭間豊明市緑区の古戦場に

 一度行きましたが、どこかで

 まとめれたらな~と思います。

 

 今回は現地の方が連れて行ってくれた、

 今川義元本陣前の前衛隊が駐屯していた

 有松神社(高根山)からの写真を

 載せます。 

桶狭間の戦い地図

 上の地図の高根山から西の方向(織田方の方向)、

 ①、②、③の3方向を撮影した写真です。

 (高根山は現在住宅地になってますが、

  かろうじて有松神社の狭い部分が

  残ってます。

  グーグルマップで見つかりますよ-)

 

①大高城方面
(この先に家康が入城した大高城がありますが、
大高緑地により、直接は見えません。
ですが丸根鷲頭砦が落ちた時の煙の方向と思います)

 

②西方向の道(佐々と千秋の先遣隊が攻めてきた方向かな?)

 

③名古屋方向
(信長隊が見えそうですが・・・?、
山とか削られてるかも、ちょっと分からないです。
ただここが周辺で高い位置である事が分かります)

  義元の本陣はこの後方ですが、

  今川方が見ていた(注視していた)

  景色なのかな~と思います。

 

  これで今回のお話を終わります。

  

  次は義元の死後、駿府の支配が

  今川家から武田家、徳川家へと

  移り変わる激動の時代を・・・。

  西の押さえ持舟城と東の押さえ蒲原城

  をターゲットに進めたいと思います。

 

  ご高覧ありがとうございましたm(__)m

 

 

 

 

 

中世駿府の歴史、城を訪ねて2 ~駿府戦国の始まり今川氏親の攻防 と 迫力の遺構が残る丸子城~

こんにちは、rekikakkunです。

 

中世駿府の歴史を訪ねて、

初回は南北朝の時代、

安倍城、賎機山城を中心に

ご紹介致しました。

 

今回第2弾は、

戦国時代に突入する時代、

北条早雲の甥であり、今川義元の父

である今川氏親と、

彼が一時身を寄せていたとされ、

国内でも有数であろう山城遺構が残る、

丸子城をメインに進めてみます。

 

1.今川義忠の死

 事の発端は少しさかのぼった

 応仁の乱の時代、

 1476年、彼の父8代今川義忠が、

 遠江(静岡県西部)の主導権争いの中、

 同国の有力な国人、勝間田氏と横地氏を

 攻撃し勝利した後の帰国時に、残党の

 待ち伏せにより、不慮の死に至った所

 から始まります。

    

 ①勝間田城

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勝間田城(1/2)本曲輪周辺中心部

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勝間田城(2/2) 堀切跡が連続式に残ってます

 

 ②横地城

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横地城(1/3) 赤線の堀切が全て見れました(⌒∇⌒)

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横地城(2/3)東の曲輪(横地城の本丸)とそれに向かう土橋

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横地城(3/3) 何箇所もある堀切の一つ

  勝間田城と横地城をマップで示します。

  (有名な高天神城諏訪原城が訪問圏内ですよ~。

   戦国初期の国人領主クラスの城と、土の城の技術が

   向上した武田、徳川の城との比較が出来そうですね)

 

 駿河の西隣、遠江の国は当初今川氏が守護

 となってましたが、当時斯波氏に奪われてました。

 その奪還は義忠の子、氏親によって、これから

 約40年後の事となります。

 

2.最初の家督争い
 今川家当主の戦死ですから、当然の如く家中に

 混乱を引き起こしました。

 義忠の嫡男龍王丸(後の氏親)は幼少であった為、

 龍王丸派と小鹿範満を擁立する小鹿派と家督争い

 が勃発。

 これに太田道灌が介入、北条早雲が仲介し

 龍王丸が元服するまで、小鹿範満が後見人として

 政務を代行することで決着しました。

 範満が政務代行として駿府今川館に入り、

 氏親は北条早雲の妹で氏親の母である北川殿と

 共に一時丸子城に身を寄せたとのことです。

 

3.丸子城

 さて氏親が身を寄せた丸子城にご案内します。

 丸子は後の東海道の宿場で、府中(静岡)から

 安倍川の西岸にある守りの拠点です。 

 本に載ってる縄張り図が規模含め分かり易い

 と思いましたので掲載します。

 堀切、切岸もありますが特に壮観なのが、

 丸馬出、横堀、三日月堀、土橋、虎口、

 堅堀等が複雑に構成され、土の城の全ての

 要素が丸見えみたいな感じです。

 ただし、今川時代はここまでは無くて、

 後の武田、徳川氏による増改築が主です。

 (その辺りは別のネット等で見てね)

 

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丸子城縄張図

 右下のスタートの位置から上、左と本曲輪へ進みます。

 このスタートまではそれほど長い山道では無いので、

 比較的容易にアクセス出来ると思います。

 ただし遺構を巡るには滑らないしっかりした靴が

    必要です。

 駐車場は駿府匠宿で無料駐車できます。

 

 さて丸子城に向かいましょう。

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駿府匠宿前の道路から丸子城の入口

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丸子城へ登る途中

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休憩がてら泉ケ谷の里が見れます (駿府匠宿の北)

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丸子稲荷神社(ここから城域になっていきます)

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外曲輪(駐屯地)

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丸子城最初の遺構の土橋、本当に土の橋

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土橋と、その右側に三日月状の堀があります、
ここ迫力あるのですが、今年は植物で隠れがちでした

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大手曲輪、先程の三日月堀と土橋で守られた馬出しです

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大手曲輪を超えると北曲輪に到達
(今川時代はここが本曲輪と説明版に載ってます。
氏親と北川殿がここに居たのだろうと想います。)

 

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北曲輪から見た横堀
横堀は長大で高天神城で武田氏が追加した横堀とそっくりです

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横堀の中央付近に設置されている堡塁

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二の曲輪

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二の曲輪から南東方向の眺望
(丸子の街並み、駿河湾を隔て伊豆半島が見えます)

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二の曲輪から本曲輪に向かう(堀切と竪堀)

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二の曲輪の北西角から横堀を見ると・・・
横堀と竪堀と堡塁が組み合わさった壮観な遺構(⌒∇⌒)
しかし写真では伝わりにくいな~( ;∀;)

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堀切から本曲輪に登る

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本曲輪入口の桝形虎口

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本曲輪(結構広い平地)

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本曲輪から西に降りて、物見曲輪の堀

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物見曲輪に上がって、下を見る。右手に長大な竪堀

 

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物見曲輪から降りて、丸馬出へ

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丸馬出の三日月堀と右手に長大竪堀
~この辺りが壮観です~

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上と同じ、竪堀を中心に撮影

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長大竪堀

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振り返ると丸馬出と三日月堀

  ここら辺、見渡す限り壮観な遺構、

  良く残ってくれたと思います。

  地元の保存会、関係者の方々にも感謝です。

  丸子城を訪れたら、是非本曲輪から北西に

  道がありますので、少し降りて下さいませ。   

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方向を90°変えて北方向に横堀が伸びてます
ここを進むと最初の土橋まで行けます

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横堀の堡塁

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横堀と土塁

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横堀と切岸(左上は北曲輪)

 う~ん、山城の撮影は難しいですねー、
 なかなか迫力が伝わる写真が撮れないな~(-_-;)


4.家督争い2回目
 丸子城等で成長し、成人となった氏親に対し、

 小鹿範満は家督を譲ろうとしなかったので、

 父義忠の死から11年後の1487年、

 北条早雲の力を得て、氏親は今川館に奇襲

 をして、範満を討ち取りました。

 これにより、北条早雲後北条氏

 今川家の蜜月時代が始まり、

 両者の活躍が始まります。

 

 その後氏親は1517年、

 遠江を平定し、

 分国法「今川仮名目録」を制定、

 今川家の戦国大名化に成功しています。

 

 桶狭間の戦いが1560年。

 その40年と少し前のお話でした。



 さて、安倍川西岸には、

 丸子城の他に~~~、

 安倍城の麓、増善寺に今川氏親のお墓。

 また南に下って徳願寺には北川殿のお墓

 があり,、安らかに眠っています。 

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今川氏親公のお墓(増善寺内)

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氏親の母で早雲の妹、北川殿のお墓(徳願寺内)

  幼少の氏親と北川殿が丸子城で、

  雌伏の時を伺っていたんだね~。

  そして彼女(北川殿)が居なかったら・・・、

    (早雲の妹が今川義忠と結婚してなかったら)

       戦国時代を彩った今川家と後北条家の活躍

  は無かったかも////・・・。

  

  また武田氏の時代は、かの山県昌景

  も在城してたとか。

 

  いつもそんな想いを馳せながら

  丸子城に行ってます(;^_^A
 

  
  ①駿府、②丸子城、③増善寺、④徳願寺

 

 上の地図にあります②丸子城の近く、

 とろろ汁の丁子屋は、約400年前、

 まさに戦国時代にお茶屋として開業し、

 現在まで続いており、建物も含め

 とろろ汁のお食事処で有名ですよー。

 

 以上でお話を終わります。

     

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

 

中世駿府の歴史、城を訪ねて1 ~南北朝時代 安倍城と賎機山城~

 こんにちは、rekikakkunです。 

   

 静岡市の街の歴史について、

 お城、史跡を訪ねながら

 まとめていけたらと思います。

    

 少し調べてみますと、

 室町の南北朝時代の頃、静岡の街は

 「府中」と呼ばれてました。

 そして戦国中期頃から「駿府」と

 呼ばれる様になった様です。

 

 今回は、お城の話が出始める南北朝時代

 南朝方の拠点だった安倍城と、

 その安倍城に対峙する

 北朝方の賎機山城について、

 簡単にご紹介致しますー。

 

 下のグーグルマップでは

 ①が安倍城、②が賎機山城です。

 ③浅間神社、④臨済寺、⑤駿府城(今川館もここと想定されている)

 

 足利尊氏室町幕府を開き、建武3年1336年、

 駿河の国は今川範国が初代守護となりました。

 (各地の今川氏の中で最終的に嫡流となる)

 その後南北朝騒乱の時代の中、駿河の国で南朝方の

 旗頭だった狩野貞長の拠点城とされているのが

 ①の「安倍城」です。

 

 安倍城は14世紀前半に築かれたと想定され、

 標高435mの山頂に本曲輪を構え、

 隣の山のピーク地に久住砦を築き、

 二つの城域が連格式に構成される「二城一連式山城」

 という県内南北朝時代の山城に多く見られる構成

 になってます。・・・とのことです(笑)

 周囲はグーグルマップに何も無いことからも

 分かる様に、深い山、谷に囲われており、

 当時はまだ堀切や竪堀等戦国時代の高度な築城術

 では無く、高くて攻められにくい場所を選択

 した劣勢傾向の南朝方の典型的な城と感じます。

 

 ここで狩野貞長さんって、県内の伊豆に有名な

 狩野川があって、狩野氏の狩野城もありますが、

 その狩野かな? 静岡にも何か関係あるのかな?

 別途狩野城に行った時、分かりました。 

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狩野城入口に掲示されている、狩野氏系図
(画家の狩野派系図も別途ありました)

 狩野城に系図掲示されてましたが、ちゃんと安倍城の

 狩野貞長さんが載ってます。(真ん中の下くらい)

 しかも「鎌倉殿の13人」にも出ている工藤祐経

 蘇我兄弟、信長の時代有名な狩野永徳狩野派の画家達と

 有名どころが沢山系図に載ってたので、なかなか凄いなー

 と感心して観てました。

 

 まあ、その多士済々の狩野氏の一族が、南朝方として

 安倍城を拠点にしていたことが分かりましたです。

 

 安倍城は城跡ですが、その安倍城に至る道は登山コース

 として地元の方や登山者も来られています。

 さて、そろそろ攻城に行きますか。

 ・・・って、やけに前置きが長くなったなー(・・?

 

①安倍城

 安倍城に至るルートは主に2つあって、

 北東から登る西ヶ谷口と、南西から登る洞慶院口

 があります。

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安倍城ハイキングコース

 

 今回一般的に使われる洞慶院から上の写真にある様に

 ①洞慶院→②久住砦→③安倍城の順路で登りました。

 400mを越え、急な上り下りもありますので

 ハイキング装備をします。

 ここから登山の写真を掲載します。

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洞慶院駐車場から出発

 

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洞慶院からの登り口(ちょうど10:00)

 

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石碑が1から33番まである最後の33番(10:21)

  

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急な登り(10:24)

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山道(10:41)

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久住砦の曲輪(平坦地)(10:48)

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3方向分岐点(洞慶院、増善寺、安倍城) (10:50)

 

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久住砦付近から安倍城山頂を観る

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久住砦の山頂から降りて安倍城へ向かう急坂
(ロープを使って降りる)

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安倍城に至る前の堀切跡に見えます、石も多い (10:59)

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安倍城に向かって登ります (11:01)

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山頂に近づいてきました (11:07)

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山頂に到着しました(11:12)
右手が眺望方向、凄いですー

 

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安倍城本丸跡からの眺望

 

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賎機山城拡大 (手前の山中央の高い部分が本曲輪)

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北方向、富士山が見えます

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南方向、駿河湾伊豆半島 (中央静岡の中心街)
空気が澄んでいて良く見えますねー(⌒∇⌒)

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静岡平野全体
南朝方、これ見てたんだねー)

  安倍城本曲輪、山頂に来たら、木が全く遮らない眺望。

  珍しいかな?とても良いですよー。

 

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本曲輪奥から眺望方向を見る、これも雰囲気出ててなかなか良い

 

 ②賎機山城

  さて南朝方安倍城に対し、北朝方の今川氏は

  安倍川を挟んで標高約170mの賎機山に城を築き、

  その後は今川館の詰めの城としての役割を

  果たしていたとされています。

  

  静岡では有名な竜爪山から伸びる稜線が

  静岡市中心部まで突き出ており、

  その先端に近い山頂付近に賎機山城あり、

  稜線の先端には静岡市民なら誰もが来た

  ことがある浅間神社があります。

 

  賎機山城に至る経路のメインは、

  その稜線の先端、浅間神社から登ります。

  以後写真を載せます。

   

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静岡浅間神社の本殿

  その近くに登る長い階段があります。 

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浅間神社の階段を登る
(ちょっと疲れるが、ここを登れば大分上がってます)

 

  登ると、古墳時代この地方の領主と想定される

  賎機山古墳があります。  

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賎機山古墳 (この裏手から行けます)

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浅間神社の上から北の稜線へ進みます

  

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途中案内板があります
駿府公園、浅間神社、賎機山城、臨済寺の位置。
また安倍城は安倍川の左(西側)、慈悲尾の先です。

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最初の山頂に平和記念碑等があります。
ここまでは整備された散歩道になってます。

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上の写真の右奥に、その先への入口があります
この写真の木の左から進みます

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ここから一挙に山道になります
がそんなに大変ではありません。

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北へ進んでいます

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この先に城の南を遮断する堀切があります
ここから本格的な城域になります

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南側上から堀切を見下ろす
(いまいち分かり難いですねー)

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堀切に降りて横から撮る(何となく分かるかな)

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堀切から北に上がる(ちょっと急なのが分かるかと)

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本丸と対になる二の曲輪 (右手に土塁)

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二の曲輪に至る導線には、切岸があり上から攻撃できる

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二の曲輪から本曲輪に向かう

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本曲輪、石碑と説明板があります

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本曲輪の北側の道、急斜面と切岸

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本曲輪北側の堀切

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堀切を横から撮る

 

 北側の堀切を越えて少し進むと、西側の展望が開け、

 安倍城がはっきりと見えます。

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賎機山城から安倍城俯瞰
この位置、距離関係

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安倍城俯瞰 少し拡大

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安倍城の本曲輪部拡大

  ここから賎機山城や静岡平野を眺めてたんだねー  

 

  そして、賎機山城へ進む途中に戻りますが、

  本曲輪の麓には今川家の菩提寺であり、徳川家康

  駿府人質時代に住んでいた臨済寺が見えます。

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賎機山から臨済寺を臨む

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臨済寺正面 (この右手上が本曲輪)

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臨済寺正面を入った趣のある階段

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臨済寺墓地上部にある、今川義元の父氏輝(左)と
豊臣時代の駿河領主中村一氏(右)のお墓

  臨済寺は境内の参観は自由ですが、現在も修行寺の為、
  建屋等中は非公開になってます。
  でも観光地化されてない分、雰囲気ありますよー。

 

  以上で安倍城、賎機山城のご紹介を終わります。

  ご高覧ありがとうございました。