こんにちは、rekikakkunです。
中世駿府の歴史を訪ねて、
初回は南北朝の時代、
安倍城、賎機山城を中心に
ご紹介致しました。
今回第2弾は、
戦国時代に突入する時代、
である今川氏親と、
彼が一時身を寄せていたとされ、
国内でも有数であろう山城遺構が残る、
丸子城をメインに進めてみます。
1.今川義忠の死
事の発端は少しさかのぼった
応仁の乱の時代、
1476年、彼の父8代今川義忠が、
同国の有力な国人、勝間田氏と横地氏を
攻撃し勝利した後の帰国時に、残党の
待ち伏せにより、不慮の死に至った所
から始まります。
①勝間田城
②横地城
勝間田城と横地城をマップで示します。
戦国初期の国人領主クラスの城と、土の城の技術が
向上した武田、徳川の城との比較が出来そうですね)
となってましたが、当時斯波氏に奪われてました。
その奪還は義忠の子、氏親によって、これから
約40年後の事となります。
2.最初の家督争い
今川家当主の戦死ですから、当然の如く家中に
混乱を引き起こしました。
義忠の嫡男龍王丸(後の氏親)は幼少であった為、
が勃発。
政務を代行することで決着しました。
範満が政務代行として駿府今川館に入り、
氏親は北条早雲の妹で氏親の母である北川殿と
共に一時丸子城に身を寄せたとのことです。
3.丸子城
さて氏親が身を寄せた丸子城にご案内します。
丸子は後の東海道の宿場で、府中(静岡)から
安倍川の西岸にある守りの拠点です。
本に載ってる縄張り図が規模含め分かり易い
と思いましたので掲載します。
堀切、切岸もありますが特に壮観なのが、
丸馬出、横堀、三日月堀、土橋、虎口、
堅堀等が複雑に構成され、土の城の全ての
要素が丸見えみたいな感じです。
ただし、今川時代はここまでは無くて、
後の武田、徳川氏による増改築が主です。
(その辺りは別のネット等で見てね)
右下のスタートの位置から上、左と本曲輪へ進みます。
このスタートまではそれほど長い山道では無いので、
比較的容易にアクセス出来ると思います。
ただし遺構を巡るには滑らないしっかりした靴が
必要です。
駐車場は駿府匠宿で無料駐車できます。
さて丸子城に向かいましょう。
ここら辺、見渡す限り壮観な遺構、
良く残ってくれたと思います。
地元の保存会、関係者の方々にも感謝です。
丸子城を訪れたら、是非本曲輪から北西に
道がありますので、少し降りて下さいませ。
う~ん、山城の撮影は難しいですねー、
なかなか迫力が伝わる写真が撮れないな~(-_-;)
4.家督争い2回目
丸子城等で成長し、成人となった氏親に対し、
小鹿範満は家督を譲ろうとしなかったので、
父義忠の死から11年後の1487年、
北条早雲の力を得て、氏親は今川館に奇襲
をして、範満を討ち取りました。
今川家の蜜月時代が始まり、
両者の活躍が始まります。
その後氏親は1517年、
遠江を平定し、
分国法「今川仮名目録」を制定、
今川家の戦国大名化に成功しています。
桶狭間の戦いが1560年。
その40年と少し前のお話でした。
さて、安倍川西岸には、
丸子城の他に~~~、
安倍城の麓、増善寺に今川氏親のお墓。
また南に下って徳願寺には北川殿のお墓
があり,、安らかに眠っています。
幼少の氏親と北川殿が丸子城で、
雌伏の時を伺っていたんだね~。
そして彼女(北川殿)が居なかったら・・・、
(早雲の妹が今川義忠と結婚してなかったら)
戦国時代を彩った今川家と後北条家の活躍
は無かったかも////・・・。
また武田氏の時代は、かの山県昌景
も在城してたとか。
いつもそんな想いを馳せながら
丸子城に行ってます(;^_^A
①駿府、②丸子城、③増善寺、④徳願寺
上の地図にあります②丸子城の近く、
とろろ汁の丁子屋は、約400年前、
まさに戦国時代にお茶屋として開業し、
現在まで続いており、建物も含め
とろろ汁のお食事処で有名ですよー。
以上でお話を終わります。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m