歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<お城へぶらり6>信玄最後の西上作戦 遠江の要 二俣城の攻略

 

こんにちは、rekikakkunです。

 

ちょっと関西の方にぶらり旅、

行って来ましたので、間が空きました。

 

 さて、元亀3年(1572年)、

 武田信玄の西上作戦もメインイベント、

 二俣城攻防戦と三方ヶ原合戦

 へと続きます。

 

 10月14日、一言坂の戦い 勝利後、

 武田軍は、天竜川の東岸に伸びている、

 磐田原台地(いわたはらだいち)の

 北端、合代島(ごうだいじま)に

 本陣を設置しました。

 

 磐田原台地は天竜川を挟み、西側の

 三方ヶ原台地と同時期に隆起運動で

 形成された、洪積台地だそうです。

(下地図の④と③の間の緑色の部分です)

 

 また並行して遠江北部の要

 二俣城を包囲します。

 下の地図の④が合代島、

 ⑧が二俣城、⑨が浜松城です。

         (地図の番号をクリックすると出てきます)  

 

 

ここから今回ブログで探訪した箇所のみ

地図を拡大し、番号を振り直します。

 ①合代島、亀井戸城

 ②神増坂

 ③社山城

 ④二俣城(地図で番号④が見えないかも、縮小願います)

  

  ※①と③の間には新東名の新磐田スマートICがあります。  

 

①合代島 

 前回ブログの後、合代島に行ってきました。

 なんか信玄が遠江に侵攻して大半をここで

 指揮していた様なので、行かなくてはと、

 心、迫られました(笑)

 

 ただし信玄の本陣跡という史跡は無くて、

 元々あった亀井戸城を含む周辺に陣を

 展開していたという説の様です。

合代島にある亀井戸城跡

亀井戸城への入口
(丘陵の南側、車道沿いにあります)

 亀井戸城は磐田原台地の北端を

 グーグルマップで拡大すると出てきます。

 新東名高速道路の新磐田スマートICの

 北西すぐです。

 

丘陵の道じゃない道
(曲輪とも言えないか~)

曲輪と土塁?
(城跡と言うにはちょっと変な感じ)

合代島の丘陵を分断している車道
(南方向から撮影、車道右手が亀井戸城)

 車道左手も城跡みたいですが、写真中央の

 ブル-シートの通り、民家周辺の山が

 崩れていて工事をしていたので

 行きませんでした。

 

②神増坂

 これだと、ただ行っただけなので、少し調べてみたら

 磐田原台地、合代島の南に神増坂(かんぞざか)

 があって、そこから天竜川、浜松方面が見える

 様なので行ってきました。

磐田原台地の西際の道路を南下
(神増坂はこの台地を登る旧坂みたい)

 神増坂入口に着いたので、台地西側から登ります。

神増坂の山道

神増坂の展望台(入口から徒歩10分位)

 展望台からは天竜川の西側、

 浜松市全域が見えました。

神増坂展望台から磐田原台地を南方向に見る
台地の隆起がくっきり見えますね~

神増坂展望台から西南方向(浜松市街方向)を見る
(矢印の少し下が天竜川です)

 

 合代島とそう遠くはなく、ほぼ信玄本陣から

 見えた景色なのかな?と思います。

 

 思ったより台地が高くて広く、

 周辺に川、街道もありますので、

 陣地としては良さげな気がしました。

 

③社山城

 さて、ここまで来ると。。。

 合代島と神増坂の間にある社山城を

 素通りは出来ないですよね~。

 って最近初めて知りましたが・・・。 

 

 築城、城主とかは不明点多い様ですが、

 戦国期は戦略上重要拠点だった様です。

 

 また信玄が西上作戦時、確実に

 押さえていたはずです。

 (合代島のすぐ南、台地内でもあり、

  もしかしたら本人が居たかもです)

社山城 案内看板

社山城入口の駐車スペース(2台程置けます)

社山城入口
(現在登城口が2つある様ですが、
ここは真北、尾根筋の入口です)

入り口から登る

堀切と土橋

 土橋を越えると、直ぐに現代の木橋が見えました。

本曲輪北側の横堀、竪堀

 真っすぐ本曲輪に行く前に、上写真右側の

 横堀に向かいます。

横堀に入る。横堀に沿って土塁がある
(左が本曲輪の切岸)

 

横堀に少し入って振り返るとこんな感じ

横堀を進む
(左切岸、堀、右土塁の山城半円3セット)

堀を進むと、断崖で行き止まり
(横から見てる)

断崖を正面から見る

本曲輪に来ました

神社がありました
(神社の裏が先程の切岸と思います)

本曲輪から堀切を介して二の曲輪方向を見る

堀切北側
(多分もう一つの道があると思われますが、
自分が来た道が無難みたいです)

二の曲輪に入る堀切、右手に山道

堀切に通じる山道
(二の曲輪は整備されてなく、不安なのでここまで)

 ここで磐田原台地の散策を終わり、

 昼飯に行きました。

神増坂の南のカフェ(hygge)でランチ
(若いお姐様しか居ない(*ノωノ)、
ポツンと飲食店1軒なのに予約で来る
お客が多く人気店なのが分かる、美味しいし)

 

④二俣城

 さて、やっと二俣城に進みます。

 

 10月14日一言坂にて徳川軍を

 天竜川の東へ追いやり、天竜川西岸の

 磐田原台地の拠点を支配下に収めた

 武田軍は、台地北端の合代島に

 本陣を設置し、 

 10月16日頃より二俣城を包囲しました。

 (諸説ありますが、とりあえず)

 

 ここで二俣城の地図を見ますと、

 当時の二俣川の流路がポイントの様です。

 

 <現在>中央少し下の「城山」が二俣城 

     (右上辺りから下側に流れてるのが二俣川

二俣城周辺地図(現在)

 

 <戦国期>薄赤丸が二俣城

      (二俣川が左側に曲がって天竜川に接続してる

       ⇒二俣城を囲んでくれている)

戦国期の二俣城と周辺地図
(青色が戦国期の二俣川流路)

 現在の二俣川の流路は江戸時代に

 改変されたとの事です。

 

 戦国期の二俣川は二俣城を北、東、南の

 3方向囲んでて、西側の天竜川に繋がって

 いました。(古地図もそうなってる) 

  

 二俣城と川の間には城下町があったと

 思われますが、そこまで攻撃軍を駐屯

 出来なかったのかもしれません。 

 (背水の陣になってしまうので、

  夜襲されると危険かな?)

 

 結局、鳥羽山城等、川の外側に攻撃側は

 布陣することになり、

 また攻城口も狭く、急坂だったと思うので

 攻め難かったんでしょう。

 

 信玄や家康といった戦国きっての名将も、

 ほんとは早く落としたいのに、

 二俣城攻城は包囲戦になってますねー。

 

 ではお城に向かいます。

 山の上に駐車場があります。

二俣城 案内図

 案内図右側のPが駐車場です。

駐車場から城内に入る

堀切が見えます(本丸と北曲輪の間)

本丸の搦手口

本丸と天守台跡

天守台跡

本丸にある二俣城案内板
(見難い😞、総合調査してるし、
縄張図とか見易くしてくれ~)

二の丸(奥が本丸)

二の丸の南側にある、堀切と南の丸Ⅰ

上の堀切を横から見る

 

南の丸Ⅰの南側の残石垣

 南の丸から西側に降り、西の丸を経て

 二俣城を降りると、

 天竜川の堤防道を南方向に歩いて、

 すぐ隣の鳥羽山城まで行きました。

 

 ・・・が、

 鳥羽山城含めた後半の写真が全部

 無くなってしまってました( ;∀;)

 すいません、掲載できず_| ̄|○

 

 鳥羽山城も城跡や、浜松方面が見える

 展望台があるのでお勧めですよ~。

 

 また、二俣城の北、すぐ近くには清瀧寺があります。

案内板

清瀧寺1

 武田が二俣城攻撃時、

 天竜川から水を汲む井戸櫓の柱に、

 筏を流してぶつけて破壊した事で、

 開城に追い込んだとの話があり、

 ここにはその復元櫓があります。

清龍寺2

復元井戸櫓

 もうひとつ二俣城は、家康が奪い返した後、

 長男信康が武田への内通を信長に疑われ、

 1979年に監禁、切腹した場所

 でもあります。

 信康のお墓がお寺にあるそうです。

 ・・・が入れなくて手を合わせられず、残念。

信康廟

 

 そして、水の手を絶たれた徳川二俣城守備隊は

 12月19日降伏開城しました。

 

 城主中根正照は浜松へ逃走出来ましたが、

 期するところがあったでしょう。

 3日後の三方ヶ原合戦で戦死します。

 

 千数百の守備隊に対し、2万もの武田軍は、

 10月18日攻城から、このお城1つ

 落とすのに丸2か月かかりました。

 

 本拠と言える信濃から遠江の主要部に入る

 入口に位置し、浜松への水路も確保できる

 二俣城は、必ず落とさなければならなかった

 ・・・と共に、

 以後の戦いに向け、鉄砲玉、矢、人員等の消耗を

 抑えなければならなかった事が感じとれます。

  

 ということで・・・。

 今回はこれでお終いにします。

 次回こそ西上作戦の締め、

 三方ヶ原と野田城になるはず(@_@;)。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

 

<お城へぶらり5>信玄最後の西上作戦 遠江の要 二俣城へ集まれ!

こんにちは、rekikakkunです。

 

静岡県、愛知県東部で探訪しましたお城を、

元亀3年、武田信玄の最後の決戦、

西上作戦につなげて綴っています。

 

てか最初から表題、西上作戦で良かったじゃん(・・?

何で今頃? って自分でも分からん(*'▽')

思い付きで書いてるブログの正体が明らかに(@_@;)

 

前回では、西上作戦の別動隊山県昌景軍が

三河の山家三方衆(田峰、作手亀山、長篠城)を

接収したところまで話が進みました。

 

さて、今回はいよいよ信玄本隊の登場です。

先日犀ケ崖資料館(浜松)に行ってきましたら、

ここでも信玄の侵攻ルートは駿河

なっていました。

 

少しネットでもルート確認しましたが、

ちと複雑そうですね~。

自分はどちらが正しそうか分からないので、

このまま青崩峠から信玄本隊がやって来た

仮定で進めますね✨。

 

そうすると最初に出てくるお城は

犬居城になるのかな?

 

元亀3年(1572年)10月3日、

甲府を出発した信玄は諏訪を経由して南進し、

信州から遠江に進軍。

10月12日、降伏の意を示した天野氏の

犬居城に入りました。

 

①犬居城

 犬居城は標高260mの鐘打山の

 山上に立地し、南、東側には天竜川の

 支流、気田川が天然の堀になってます。

犬居城遠望
(真ん中の山が犬居城がある鐘打山)

 上写真で、大きい橋の少し上に、

 山道のガードレールが小さくですが見えますか?

 

 この細い車道を上がると、犬居城入口に

 到着します。

 車2、3台ほどは停められます。

 まあ私以外1台も無かったけど_(._.)_

犬居城入口
(車で城に一番近い場所)

犬居城登城
(入口から15分程歩くと、山城っぽい感じ出てきました)

 

ほぼ最初に見える遺構、東曲輪の外堀
(下図の赤矢印の矢の辺り)

 下図の赤矢印から少し上がって、右方向に進みます。

犬居城鳥観図と進入ルート
(この図の名称を使います)

 

東曲輪

東曲輪と二の曲輪間の堀
下まで竪堀になっている

二の曲輪に入る虎口
(左右が堀となっていて小さな土橋風)

虎口から東曲輪を見ると、見下ろしてますね~

左の道が本曲輪、右の少し下がった藪が二の曲輪

本曲輪の真ん中付近

本曲輪を越えて、物見曲輪に通じる道

物見曲輪の建築物
(この建物に上がると景色が見えます)

犬居城下1
(城の南方向、なかなか絶景でした(^▽^)/)

犬居城下2

東曲輪より南側の曲輪を撮ったつもり
(あとはよくわからない写真ばかり_(._.)_)

山道を下ると先程の東曲輪の竪堀である事が分かる
(唯一の納得感( ´艸`)、左が竪堀、右が山道)

 

②天方城

 翌10月13日、信玄は天方城、飯田城等の、

 天竜川東北側の諸城を攻略。

 一方馬場春信は只来城を攻略し、

 二俣城に向かった。

 

 県道58号線を北進し、犬居城へ向かう途中、

 実は天方城の案内看板が見えたので、最初に

 そっち方向に行ってみました。

県道58号線を北進中の天方城跡案内板

太田川
天方城方向に右折する橋の上から撮影、
なかなか綺麗で雰囲気ありますね~

天方城に向かう

 途中、ちょっと分かり難い道で間違えましたが、

 看板通り行けば、まあ大丈夫です。

天方城に到着しました。
駐車場は充分広く、トイレもあります

天方城説明版
ふむふむ、主郭と二の曲輪で構成されてるのか~

主郭に向かうとすぐ空堀

これも空堀

主郭

 なんですが、主郭の北端に物見櫓があって・・・

物見櫓の正面 伐採してくれてます
ありがたや~(^▽^)/

 そこからの景色が凄かった(*'▽')

眺望1 天方城から西南方向ですね~、
視界が広くて綺麗(⌒∇⌒)

眺望2 浜松市中心部の高いアクトタワーが見えます

天方城遠望、真ん中の山です。
山の頂上やや左に物見櫓が見えたので、分かりました。
(写真をクリックして拡大すると見えるかも)

 

③一言坂の戦い

 さて、武田信玄遠江侵攻に対し、

 遠江領主の徳川家康は、

 天竜川の東、現在の袋井市に出陣しました。

 しかし、先発隊が馬場信春達の武田軍に

 見つかり、撤退。

 最後一言坂で激戦となるが、本多忠勝らの

 奮戦により、徳川軍は浜松まで退却できた。

 (家康本人が出陣したのかは?です)

一言坂の戦い場所

坂にある説明板

 この戦いが10月14日となってます。

 13日の翌日ってのがちょっと早い気が・・・。

  

 あと只来城から二俣城に向かってるはずの

 馬場信春がだいぶ南に離れている一言坂で

 戦闘してる辺りが、ちと分からないです。

 

 そして10月16日頃二俣城を包囲します。 

 

④合代島の武田本陣 

 信玄本隊は磐田原台地

 (天竜川東岸に南北に伸びている台地)

 の北端、合代島を本陣としてます。

 

 最初、合代島ってどこ?

 と思ってましたが、確認すると・・・。

 なるほど~、二俣城寄りですが、浜松城

 両方に目を光らせれる場所。

 台地の北端で、川を正面にした立地は、

 守備し易く、大阪城に似てるんじゃないかな~。

 また1万以上もの大軍を駐屯し易かったのかも。

 

 合代島は地図のみ後で示します。

 (亀井戸城跡周辺が磐田原台地北端で

  ここが信玄本陣との説がある様です)

 う~ん、合代島、行くべきでした

 ・・・と後悔( ;∀;) 

 

~宿泊と全国割~

 さて、一言坂の後、浜松のビジホに

 全国割で宿泊、チェックインしました。

 初めてだったので、ちと書きますね。

 

 全国割が始まって、予約の時、値段を引き上げ

 ているホテルの存在がすぐ分かりました。

(ビジホで従来1万円前後のところが、

 2万円を標準価格にして1.5万円に割引してた)

 

 しかし実際、ホテルの従来価格は分からない

 所が多いです。

 よって割引後5,000円以下の

 ところを選びました。

 

 通信集中で重かったですが、

 なんとか浜松で3,500円程で泊れ、

 別途3,000円のクーポンをGET、

 一人しゃぶしゃぶに行きました。(__)

 

 まあ店捜すのめんどくさいので、アクトタワー

 捜したら、取扱い店が2店あったので、その1店です。

アクトタワーB1Fのしゃぶせい
4,600円セットが1,600円になりました。
流石、銘柄牛は美味しかった~

 クーポンは紙では無く、「regionPAY」という

 アプリをスマホにインストールし、

 登録しておきます。

 

 個人情報は、氏名不要、住所は郵便番号

 のみでOKだったので、登録しました。

 (多分、今回はこれを登録しないと

  使えない感じでした。

  ホテルから提示の選択肢がアプリしか

  無かったので。)

 

 そしてホテルから渡される2次元コードの紙

 を、アプリの該当自治体を開いて読み取る

 ことで3,000円チャージされました。

 (ホテルで自分は4回接種したスマホの証明

  アプリと運転免許証を提示してOKでした)

 

 そして支払いも該当県画面から支払いを

 選択すると、バーコードリーダーが立ち上がり、

 お店のコードを読めば支払い完了です。

 

 また、同じアプリで複数の自治体を登録

 出来るので、どこでも同じ要領で出来そうです。

 

 ただ一つ注意点としては、扱っているお店は

 事前確認し、行かれた方が無難です。

 (ニュースでも出ていた様に、

  登録が間に合ってないお店の方が多いので)

 このアプリでも、その時点での登録店が

 分かりますよー。

 

⑤柿本城

 さて、話を戻して・・・。

 一方の東三河に侵入した山県昌景の別動隊は、

 山家三方衆を従え、長篠城の南東、すぐ近くの

 柿本城に来攻しました。

 井伊家を支えた井伊谷3人衆の一人、

 鈴木重時の城だそうです。

 ただし、完成前だったのと戦力差により開城。

 

 場所は道の駅「鳳来三河三石」の裏で

 ほぼ良いでしょう。

 

国道257号線から、左側の道の駅に入る

道の駅の脇道(満光寺入口)を入る

満光寺入口に入る

 

満光寺境内、ここから左手のお城へ向かう

山道を登る そんなに大変では無いです

模擬の柵が見えました

本丸に到着

 写真の時間を見たら、お寺境内から8分で到着でした。

 すぐですよ~。

柿本城説明板

 

二の丸

城跡から少し降りて外を見る

降りる途中で城跡を見上げる
(往路と違う道を降りてます、そんなに離れてはいない)

⑥井平城

 山県昌景侵攻時、柿本城主は鈴木重時の子、重好でした。

 満光寺住職の交渉で時間を稼ぎ、柿本城の人々は東隣の

 井平城に避難しました。

 井平城主は井伊家の分家筋が城主でした。

井平城推定図

平氏の館跡地と説明板

城の下側から、写真右が旧鳳来寺街道、左が井平城

 

井平城の曲輪

遺構1

遺構1の場所

遺構2

遺構2の場所

 上写真を見ると、現在地の上が本丸です。

 (本丸は現在民家で入れません)

 そして城の右脇にある鳳来寺街道を見ると、

 城の下手側は曲輪や土塁等で守ってますが、

 本丸から上へ抜ける街道には何も無い様です。

 

 そこで井平城方は、鳳来寺街道の上から

 攻めてくる山県隊に対して、城では防御性が

 無いと判断し、すぐ北側の仏坂で迎撃しました。

⑦仏坂の戦い

 元亀3年10月22日、

 武田方山県隊と徳川方の井伊家達が

 仏坂で衝突しました。

 結果は武田方の勝利で、合戦地の案内、旧鳳来寺街道、

 井伊家の戦死者を弔う、ふろんぼ様等が整備されており、

 現地の方達により、手厚く保存管理されているのが

 分かります。 

 井伊家にとっては、だいぶ厳しい時代ですね~。

国道257号線から山道に入り仏坂へ向かう

仏坂の古戦場 説明板

仏坂の古戦場の碑

古戦場の碑の正面に、旧鳳来寺街道が整備されてました

少し入ると元禄9年の道標が残ってました。

近くには仏坂十一面観音菩薩があるお寺

 

 また少し下がったところには、仏坂の戦いで

 戦死した井平城側の菩提が葬られたとされる

 お墓?が、ふろんぼ様と呼ばれ、残っていました。

ふろんぼ様1

ふろんぼ様2

ふろんぼ様3

ふろんぼ様4

 仏坂の戦い後、山県昌景隊は、井平城、井伊谷城

 を攻略し、11月上旬に二俣城に合流しました。

 


⑧二俣城

 地図で位置関係を示すため、

 次回予定の⑧と⑨を載せます。

 元亀3年11月時点、二俣城は武田軍により包囲中。

 

浜松城

 家康は在城。


これら①から⑨を地図に載せると、

こんな感じです。 

 

 ⑨の徳川本拠浜松城に対し、

 ①~⑧は武田軍により、

 攻略、包囲された場所になります。

 (もちろん地図表記以外も沢山あるでしょう。)

 

 こう見ると、ぽつんと⑨浜松城がある中、

 信玄が浜松城を背に三方ヶ原を北に進んだ

 ならば・・・。

 冗談じゃない!

 と攻撃したくなりそうですね~。

 結果を知ってる自分もそんな気に(笑)

 

 次はいよいよ、二俣城、浜松城

 三方ヶ原、野田城になるのかな?

 浜松城近くの史跡、犀が崖の資料館では

 説明員の方が色々教えてくれました。

 次回ですね~。

 

 要の二俣城の写真を一つ載せます。

 (良い場所から撮れました(*'▽'))

二俣城 遠望
(手前の鳥羽山城は、おおよそ二俣城を
攻める側の拠点になってますよね~)

 

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。

 また長かった~_(._.)_

 

<お城へぶらり4>奥三河 山家三方衆 戦国生き残りへ苦闘 田峰城と菅沼氏

こんにちは、rekikakkunです。

 

静岡県、愛知県東部で探訪しましたお城を、

元亀3年、武田信玄の最後の決戦、

西上作戦につなげて綴っています。

 

現在、西上作戦の別動隊、山県昌景

三河方面から進軍し、経路上で吸収した

三河の有力国人、通称山家三方衆

 ①作手亀山城の奥平氏

 ②長篠城の菅沼氏

 ③田峰城の菅沼氏  (下地図の番号①②③と同じ)

を取り上げております。

 

前回は、①作手亀山城を探訪しました。

今回は③田峰城です。

先週現地に行ってきました。

 

ネタ切れ暫定対応のつもりが、だんだん

本命になってきてます( ´艸`)

 

下の地図の③が今回探訪した田峰城です。 

 

 東三河  菅沼氏~  

  菅沼一族は戦国期、田峰、長篠、野田城等、

  東三河の有名どころに広く分布してました。

  今川、織田、武田、徳川の勢力の狭間で、

  それぞれ生き残りをかけて苦闘してる様です。

  

  この一族の中で野田菅沼氏は武田の捕虜

  となっても徳川氏に従い、長篠合戦では

  鳶ケ巣山奇襲軍に加わったそうです。

  江戸時代は菅沼氏で唯一、膳所、亀山等

  において3,4万石の大名になってます。

 

  さて今回探訪の田峰菅沼氏ですが、

  1470年頃菅沼定信が築城、

  菅沼一族の総領家となります。

  

  天正3年(1575年)、城主菅沼定忠は、

  長篠合戦で武田勝頼に従いましたが敗北。

  寒狭川(豊川)沿いに北上していた、主君勝頼

  と合流し、自領田峰城まで案内しました。

 

  ところが留守居の叔父定直や家老今泉道善

  らが、勝頼一行の入城を拒絶し補足しようと

  した為、更に北方の武節城まで逃げました。

  (元々合戦前から両派に分かれていたみたい)

  勝頼一行はここで一泊後、信州伊那へ

  戻りました。

 

  面目を失った元城主定忠は翌天正4年

  7月14日早朝、田峰城を奇襲し、

  城内全員96名を惨殺、家老今泉道善を

  鋸引きで処刑し、主な首を作手街道の

  平野の辻に晒したそうです。

  定忠はすぐに信州に戻りましたが、

  その後武田家滅亡の時に討ち死しました。

 

  無人となった田峰城は家康により定直の

  嫡子定利に預けた。

  定利は終生徳川家に仕え、関東移封時は

  上野国2万石の大名となり、関ケ原合戦時

  は秀忠軍に従軍。

  1602年死去し、一時養子はあったものの、

  血統は断絶したとのことです。

 

  同じ田峰菅沼氏でさえ、武田、徳川に分かれて

  おり、当時生き残りをかけた判断は大変だった

  んだと思います。

 

  さて、毎度の長~い話はやっと

  終わりました(^▽^)/

  田峰城を探訪写真を掲載していきます。✨

  探訪がバラバラなので単純に行った順に

  番号付けます。

 

  新東名新城ICを出て、国道257号線を

  豊川沿いに北上しました。

 

(★1) 武田勝頼が長篠合戦敗北後の逃走ルート

    当時の道はどこかな(・・?)

    なんとなく必死さの感じる山並みと川。

長篠より北、国道257線沿いの豊川
宇連川の合流、長篠城より北側は
寒狭川とも呼ばれるみたい)


(★2)四谷の棚田

   田峰城に向かう途中、国道257号を

   豊川沿いに通ってるつもりが、いつのまにか

   東側の県道を通ってました。

   しかし田峰城の手前に、「四谷の棚田」

   との看板があったので、城ばかりじゃな~、

   と思い寄り道をしました。

 

   下の説明板によると明治時代に山津波があり、

   その跡地を復興したとのことです。

   綺麗な風景でした(^^♪

四谷の棚田 説明版

  

四谷の棚田1

四谷の棚田2

(★3)田峰城
  さて、ようやく目的地に到着です。

  道は案内表示があるので大丈夫と思います。

  駐車場降りて、すぐお城でした。

田峰城入口、空堀

橋の上から空堀

橋の上から本丸部拡大

  歩き始めから、本丸が見えてる安心感。

  曲輪跡が整備されてました。  

井戸曲輪

 数分で本丸手前。

本丸手前
(なかなか良い(^^♪)

本丸前で振り返ると各曲輪

本丸に入って受付に行く

本丸御殿の中の甲冑展示

本丸内を歩く

本丸御殿

物見櫓

物見櫓内の眺望案内

西側眺望 真ん中に豊川、鳳来寺山

西側眺望 豊川拡大
(ここアピールポイントなんですが、なんか見え難い)

北側眺望

東側眺望
(上が平らな山が鞍掛山かな?)

物見櫓から下を見る
(なんかこの急な崖が一番城を感じる)

物見櫓を出る

(★4)田峰城遠望

  首塚へ向かう途中、田峰城西側にビューポイント

  がありました。

  これはめちゃお城かっこ良かったです。

田峰城遠望1

田峰城遠望2

田峰城遠望3

田峰城遠望4
(お気に入りになった写真)

(★5)田峰城内乱の首塚

   上の長いお話の中で、長篠合戦時の

   城主菅沼定忠が、敗戦後留守居に城を

   乗っ取られたので、翌年復讐して

   首を街道に晒した・・・

   という所に行きました。   

車道の標識

首塚へ登る道と車道(ここから向かう)

最初の標識

途中の山道(だんだん暗くなる)

暗いところを通ると見えてきた
(この道が当時の道、作手街道かな?)

首塚

首塚案内板

首塚へ通って来た道

  当時の街道と首塚の雰囲気を感じられました。

  ここ行こうと思わなかったら、

  ★4の写真が撮れなかったので

  良かったです~(*'▽')

作手街道入口、たまたま見つけました
(正面が街道と首塚方向、左側田峰城へ向かう)

(★6)田峰観音

  菅沼氏の菩提寺

  江戸時代、田峰の村を救ってくれたことから、

  村人3人になるま奉納するという伝承があり、

  国指定重要無形民俗文化財に指定されている

  田峰観音奉納歌舞伎があるとのことです。

田峰観音1

田峰観音 奉納歌舞伎の由来

田峰観音2

(★7)道の駅したら

  田峰城より少し北、国道257号線沿いに、

  「道の駅したら」がありますので、

  ここで昼食にしました。 

「道の駅したら」の入口

  人と車が多く、ちょっと写真が掲載出来ないですね~。

  広くてなかなか繁盛してました。

  レストランもメニュー豊富で美味しかったです(*'▽')

柚子香る特製鳥そば醤油(ラーメン)

(★8) 豊川写真おまけ  

豊川から田峰城の断崖を撮りたい
ちょっと調べて探したが行き止まり
⇒失敗、多分城は右奥で見えてない。。。_| ̄|○

豊川(寒狭橋から撮影、これは綺麗)

(★9)橋詰殿戦場、馬場美濃討ち死の場所

  昨年行ったが、通り道で行きたいので行きます。

  長篠敗戦時、馬場信春が主君勝頼を北へ逃がす為、

  ここで殿軍をして討ち死した場所。

橋詰殿戦場1

橋詰殿戦場2(柵で入れない)

豊川(勝頼が逃げた方向)

討ち死に場所に向かう道
(まだ暑いので草木が多い)

馬場信春討ち死の場所

 

(★10)大通寺(長篠城の近く)

  大通寺は長篠の合戦時、武田軍の

  長篠城に最も近い包囲陣地の一つで、

  また織田軍との決戦を決めた際、

  山県昌景馬場信春等武田4将が決別の

  水盃を挙げた場所として有名です。  

大通寺入口

武田4将 水盃の場所1

武田4将  水盃の井戸

 

 水盃の場所から少し登ると、武田軍の陣跡がありました。

大通寺山陣地1

大通寺山陣地跡2 平坦地がありました

 

大通寺から鳶ケ巣山方面を見る
(写真右側、見えないが長篠城本丸方向)

鳶ケ巣山拡大

(★11)長篠城
  長篠城も山家三方衆の一角、長篠菅沼氏

  の本拠です。

  が、ほとんど知らないのを理由に、

  奥平信昌が城主だった長篠合戦に

  繋げてます。。。

長篠城本丸入口

 せっかくなので、最後に長篠城

 さらっと来ましたら・・・、

 

 なんと、ちょうど私がブログで綴っている

 東三河の勢力変遷図がありました。。。

 これ一つで説明着くじゃん(@_@;)

 以前来たときは気にもしていなかったかな( ´艸`)

東三河 勢力変遷図
(一番右の天正3年、3城同じ色ではなくなって、
長篠城のみ徳川方になってますね~)

 そして長篠城址史跡保存館に行ってきました。

 多分30年ぶりくらいかな?

 

 そしたら最後の最後に衝撃が((((;゚Д゚)))) 

元亀3年 武田信玄侵攻ルート

 上の信玄の侵攻ルートが駿河経由に

 なってるじゃないか(゚д゚)!

 青崩峠通ってないぞ~。

 私が出していた西上作戦の進軍図

 と違うことに///・・・。

 

 実はこの説はTVにも出てましたよね~。

 

 確かに二俣城が落ちる前

(というか攻城と同時に)、

 天竜川東岸で武田軍と徳川軍が衝突する

 一言坂の戦いがありましたが、

 南下策の場合、二俣城攻撃と同時に

 南下進軍するかな~?と思ってました。

 

 また軍勢が多い本軍が飯田、駒ケ根

 辺りの平地を通らないのも?

 (本軍を見せない攪乱作戦?) 

 

 ただ補給を考えると掛川、高天神を残して

 西進はリスクある気も・・・。

 

 まあ一般人の考えと違う策を使うのが

 信玄と言えるのかも。

 

 今後の研究に期待します~~~。

 

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。
 
  

 

 

 

 

<お城へぶらり3>奥三河 山家三方衆 戦国生き残りへ苦闘 作手亀山城と古宮城(2)

 

 

こんにちは、rekikakkunです。

先のブログの話を続けますね。

 

元亀3年(1572年)10月3日

武田信玄は生涯最後の決戦となる

西上作戦を開始し、甲府を出陣。

 

その少し前の9月29日、

別動隊の山県昌景三河の北東部に侵攻し、

かねてより徳川から武田方に寝返った

 ・作手亀山城の奥平氏

 ・長篠城の菅沼氏

 ・田峰城の菅沼氏(一族の総領)

通称山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)を

自軍に加えました。

 

前回のブログ地図を再掲載します。 

地図上の番号は、①作手亀山城、②長篠城、③田峰城

 

今回は山家三方衆の一人、

平氏が当時本拠としていた

作手亀山城とそのすぐ近くの古宮城を

探訪したいと思います。

上の地図の①です。

 

最寄りは新東名の新城IC。

思いっきり長篠合戦のところで、

見所いっぱいの所です。 

 

平氏というと天正3年(1575年)の

長篠の合戦武田勝頼軍の猛攻をしのぎ、

武勲を建てた奥平信昌が有名ですよね。

 

戦国中期の奥平氏の流れを確認してみますと、

①元亀元年(1570年)東美濃で武田軍との

 上村合戦で、山家三方衆は徳川方として参戦。

 (既に武田に内通していたという話もあるみたい)

②上村合戦で徳川方敗北後、武田方に転身。

 (元亀2年馬場信春が作手盆地、亀山城

  北に三河攻撃の拠点古宮城を築城)

③元亀3年(1572年)西上作戦において

 武田方として参戦。

 

~ここまでは山家三方衆の動きは同じの様です~

 

天正元年(1573年)6月、家康の長女亀姫

 と奥平信昌が婚約し、徳川家臣となる。

 ここが分かれ目だった様ですね~。

 (結果的に天下を取った徳川家康の婿となった)

⑤8月奥平氏は、古宮城武田軍の追撃を振り切り、

 作手亀山城を退去する。 

 9月離縁した元妻を含む人質は勝頼により処刑された。

 厳しすぎる時代( ;∀;) 

⑥上記により天正3年、長篠城主となっていた

 奥平信昌は徳川家の一員として、武田勝頼

 猛攻を耐えに耐え、後世に名を残しました。

 

 長篠合戦後、古宮城は武田の拠点から外れ、

 廃城した模様。

 

さて、ようやくお城に行きます。

前置き長くなりすいません_(._.)_

 

上の地図の①部分の作手盆地を拡大したのが下の地図です。

  ①作手亀山城(奥平氏本拠)、②古宮城(武田氏拠点)   

  2つの城の距離は約1km位。

 

 上の地図①の亀山城本丸から、身を乗り出して

 古宮城を撮ったのが下の写真です。

 なんとか2つの城を1枚に収めたかったんです。

 まあ、お互い丸見えですよねー。

 周辺の高い山にも双方の砦がありますし。

亀山城と古宮城

 ①作手亀山城

  奥平氏は1380年頃、群馬県から

  愛知県作手盆地に移り住み、

  1424年亀山城を築き居城としました。

  それから上述の1573年に退去するまでの期間。

  そして1602年から1610年、信昌の4男

  松平忠明が城主となっている2つの時期が

  あるとのことです。

 

  亀山城は、「道の駅つくで手作り村」のすぐ脇です。

  道の駅に停めても良いし、城址目の前にも

  広い専用駐車場がありました。

道の駅とその裏の亀山城
(写真中央のこんもりが亀山城址)

作手地区の案内図
(⑤亀山城、中央⑥が古宮城。周辺にもお城やお寺がある)

亀山城入口(やっとお城の写真が出た)

亀山城 想像図
(これ見るとイメージ湧くねー)

入り口の階段(ここ登ったらすぐ曲輪)

西曲輪

本曲輪に行く前に見える作手地区

お~、あっという間に本曲輪に到着しました

入って右側(東)に土塁

入って左側(西)に亀山城の看板
(この看板から古宮城が見えたので先程撮りました)

亀山城縄張り図
(先にこれが必要でしたね、左側から本丸に来ました)

二の丸

大手跡と本丸の切岸
(大手は作手街道の反対側ですね。攻撃されにくいからかな?)

堀跡

 亀山城は以上となります。

 遺構は多くは無いですが、整備されており、

 一族の居城としての広さを感じました。

 またここは山、丘陵というよりも公園

 ですね。気軽に散歩できますよ~。

 

②古宮城

 さて、今度は武田の前線基地古宮城に行きます。

 車で数分。

 途中、作手歴史民俗資料館に寄り、

 古宮城の情報を仕入れました。

 (。´・ω・)ん?何を仕入れたかって?

 確か縄張り図をもらったよ。。。

 なんとか思い出した(-_-;)

 この縄張り図を片手に歩いたんだ。

作手歴史民俗資料館

古宮城全景(まん中の丘陵全体が古宮城です)

お城南側の道沿いの白鳥神社に駐車スペースが
2,3台分あり、この神社から古宮城に入ります。

古宮城説明看板

~古宮城縄張り図と探訪経路~

 お城の出入り口は基本、下の縄張り図の

 白鳥神社からです。

 

 城本来の出入口は西側の作手街道側

 (縄張り図の左下の入口)からですが、

 一般所有地であり、ロープが張ってますので、

 外から直接入れません。

 (ここまでは事前の調べで分かってました) 

 

 なので私は最初白鳥神社から城内の縄張り図⑦に

 来て、しょっぱなから凄い遺構だな~と

 見てましたが、⑦は城の中央部になります。

 

 途中で流れが中途半端になってしまう事に気付き、

 ⑦から城内を通って入口の所①までさくっと歩き、

 攻撃侵入路順(①から順)に縄張りをゆっくり

 確認していきました。

 

古宮城縄張り図

 

古宮城縄張り図及び探訪経路

 お城の基本構造は上の縄張り図の通り、

 西城エリアと東城エリアに分かれていて、

 中央の大堀切で完全分離されてます。

 

 本丸は西エリアの先、縄張り図⑨の東城です。

 西城から東城への道は、縄張り図⑥の土橋のみです。 

 

 東城エリアのさらに城の東外側(縄張り図⑪の右側)

 は湿地帯になっていて侵入し難かった様です。

 (今も水田が広がってました)

 

 なので西側、街道側からの攻撃に対する

 防御施設が相当凝ってます。

 

①入口から外堀を通る 

縄張り図の入り口のところ
(この写真の背面がお城です)

 ~ここから、ほとんど似たような写真が大量に

  掲載され、分かり難いと思います~

  ただ後世、大きくは荒らされず、当時の保存状態が

  大変良い事で有名なお城なので、見所多く我慢して

  観て下さいね_(._.)_

 

入り口の堀から進む(縄張り図①)

入って右手を見ると、早速切岸になっていて、
守備側から攻撃されますね~
(縄張り図①から④を見上げる)

入った堀は、それ自体にまた溝、土塁があり、
すんなりは通れない様になってたみたいです

 真っすぐ進み、下写真を越えると、東西に大きく

 分かれているお城の西側エリアから東側に行けます。

大堀切の下(縄張り図②)

大堀切の最下部(縄張り図⑩)

 しかし元々、当時は簡単には入れなかったと

 思いますので、縄張り図②から攻城進入路である

 ③の西城エリア方向を登ります。

  

西エリア(縄張り図③方向)へ登る道
(もはや複雑すぎて写真の説明が出来ません(-_-;))
実際ここに来たら土の城の迫力が凄いです

写真真ん中は行き止まりに誘う道と思います

 この様に、この城は細い通り道を作り、全ての

 通り道は、その上から道全面に攻撃できる

 防御設計なのがよく分かります。

 

 つまりお城の基本的な設計が分かり易く

 残ってるんですね~。

 ほとんどの写真がそうなってますね~。

縄張り図③から下を見る

縄張り図③から④に向かいます
この写真構図はまさに武田の馬出と横堀ですね~

 ※縄張り図の③から⑤に行く前に、少し戻って④方向

  に進みました。

縄張り図④から下の①方向を見る
(上から攻撃する)

 

縄張り図③に戻りました。③の下の緑の道(細い道)
攻城側はこの道を通らなくてはならず、
たまったものではない(笑)

縄張り図③から⑤方向へ180度曲がる道

縄張り図⑤の手前(右手に虎口が見えます)

 

縄張り図⑤西城主郭に到着です

西城を2つに区切る土塁跡

縄張り図④ 西城の西側の土塁

縄張り図⑤の南側の虎口
(本当は南側からも入れるみたい)

もはやどこだか分からないない_(._.)_

ここは分かるぞ~、縄張り図⑥の手前。
(左上に東城の櫓台⑧、⑥の土橋を通る。左が大堀切)

大堀切(⑥から北を見る)

大堀切の反対側、南斜面の竪堀
(縄張り図⑥から南を見る)

縄張り図⑦の両袖桝形虎口
白鳥神社から上がると最初、この付近に来ます。
(写真の左右にコの字型対象に土塁を配置して
桝形を形成。出入口もずらしてますね~)

⑦両袖桝形虎口内
(この先が東城です。ここを突破されたら落城ですね)

⑦虎口越えてすぐ左に進むと縄張り図⑧の櫓台があります

櫓台跡上から⑥の土橋を見る
(土橋を通る敵を上から攻撃できる。西と東の境目の重要場所)
ただしここまで攻められたらお終いかな~?

⑧櫓台から見る大堀切

⑧櫓台から大堀切を介して⑤西城を見る

⑨東城の土塁から、縄張り図③と⑨の間位の大堀切

⑨東城(本丸)の北側の虎口
(あんまりよく分からないですね、)

⑩大堀切の脇の土塁を降りてます

⑩大堀切脇を降りてきた土塁道を見上げる

⑩大堀切を降りて東側の広い外曲輪に入る
(縄張り図⑪近辺)

縄張り図⑪から上を見上げる

 

縄張り図⑪を神社に向かって歩いてるところ
もう写真左手は城外の田んぼ

神社の前の道(お城の南)に戻りました。
この道も当時から伊那街道に通じる道らしいです。
(写真右手が白鳥神社、古宮城)

 以上で古宮城探訪が終わりました。

 古宮城の凄さはどうでしょうか❓

 写真だと土の城って分かり難いですよね~。

 

 ただ通常山城って山を登り、大半は

 樹木、藪で、熊よけしたりして、

 その中に遺構が点在してる感じですよね~。

 

 しかし古宮城は丘陵ほぼ全部遺構になってます。

 また小さな独立丘陵なので、動物とか居なくて

 足も疲れず、安全にじっくり探訪できる城、

 造りも凝ってるということで、お勧めMaxですよ~。 

 

 さて、後の歴史は、武田氏はみなさんご存じの通り。

 奥平氏は家康の長女を娶ることが出来た。

 (武田に困っている織田、徳川の、ちょうど

  欲しい「時」と「地」に奥平氏が居た・・・かな)

 これにより江戸時代も10万石の大名として、

 勝ち組として厳しい時代を生き残りました。

 

 古宮城と亀山城、及び武田氏と奥平氏

 のそれぞれの事情、変化を感じながら探訪

 してみるのも面白いかなと思います。

 

 長々とお付き合い、ご高覧

 ありがとうございました。_(._.)_

 

 次回は山家三方衆の中で、

 長篠城はもうブログ探訪終わってるので、

 残りは田峰城になります。かな?

 少し涼しくなってきましたね~。

 

 

<お城へぶらり2>奥三河 山家三方衆 戦国生き残りへ苦闘 作手亀山城と古宮城(1)

こんにちは、rekikakkunです。

 

 私は静岡県在住なので、お隣の愛知県、

 特に県境の東部は、お城へぶらり探訪

 するにはもってこいの場所でございます。

 

 戦国時代、三河の北東部、奥三河は、

 山家三方衆といわれる、

  ・作手亀山城の奥平氏

  ・長篠城の菅沼氏

  ・田峰城の菅沼氏(一族の総領)

 が有力勢力でした。

 長篠城なんかは長篠の合戦で有名ですよね。

 

 といっても訳が分からないので、

 下の地図で確認してみました。

 (もし地図の①~⑥全体が見えてない場合、

  マイナスを押して縮小してみて下さいませ)

 

 今回表題の山家三方衆は、①作手亀山城(奥平氏)、

 ②長篠城(菅沼氏)、③田峰城(菅沼氏)  の位置です。

 地図の番号を押すと説明が出てきます。

 

 ④は私の前回ブログでご紹介しました高根城。

 ⑤は後日紹介する二俣城。

 (地図で見ると⑤二俣城は遠江への出入口であり、

  信玄にとって掌握必須であることが見えます)

 

 信玄の西上作戦は、通説では・・・、

 ⇒秋葉街道(国道152号線)を④から⑤へ

  信玄本体が南下。

 ⇒国道153から257号線に南下し、

  ①②③の山家三方衆を従えてから⑤に

  合流する山県昌景の別動隊。

 ⇒⑤の二俣城を落としてから武田全軍が

  近くに向かう、家康の居城浜松城が⑥。

  という位置関係です。

 (岩村城方面は別途) 

 

 これはエグイですね~( ;∀;)

 特に山県昌景別動隊が。。。

 信州本土への何本かの道を全て

 掌握してから南下。

 (信玄は道路整備も行ってた様です) 

 そして家康の居る浜松城は上から

 (北から)完全に圧迫されてます。

 

 地図的に浜松の東側は空いてますが、

 拠点である掛川城高天神城等は

 あまり動けないのを見越してるんでしょうね。

 (駿河は武田領なので奪われてしまう)

 

 これを書いていたら、家康の苦悩が

 よりはっきりと感じられました。

 えらいこっちゃ。

 それを感じる為にブログで調べてますー(⌒∇⌒)

 

 そして山家三方衆も、三河にあって、

 信州(長野県)、美濃(岐阜県)、遠江(静岡県)

 に近い境目の土地。

 ずっと織田、徳川、武田、今川の大勢力

 に振り回され、生き残るのは大変だったと

 推察致します。

 

 前置きが長くなりすぎてしまって。。。

 お城探訪は次回に。_(._.)_

 

 次回は山家三方衆の一人、奥平氏の居城 作手亀山城

 と、その対抗城として武田流縄張り遺構がはっきり

 残ってる事で有名な古宮城を探訪したいと思います。 

 (上の地図の①です)

 

 そうやって話を繋げてる間に、行ったことが無い、

 最近知った田峰城とか行ってくる作戦です(笑)

 

 田峰城は長篠の敗戦逃走時、勝頼の入城を拒否し、

 後に菅沼氏同士で壮絶な歴史がある様ですし、

 勝頼の逃走経路と西上作戦時の山県昌景

 侵攻ルートが同じみたいです。

 

 なんて書いてますが、お城へぶらりが2で

 亀山城が(1)と数字がごちゃまぜに(-_-;)

 何か変な構成になっていきそうです😿

 話があっちこっち、ゆるして///・・・

 

作手亀山城と古宮城
(西上作戦時は味方同士だったが、その前後は
この2つの城が敵対していた。結構近いですよねー)

 

作手亀山城の本丸

 

古宮城の遺構
(ここの遺構が沢山残ってます。続日本100名城に選定。)

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_

<お城へぶらり 1> 高根城 見事に復元整備された遠江最北端のお城

こんにちは、rekikakkunです。

 

 ぶらりと単発で探訪してきました

 お城を「お城へぶらり」と題して

 ご紹介していきたいと思います。

 ~特にネタ切れの時にね(笑)~

 

 今暑いから行ってない。

 ⇒だからネタ切れ(^^♪

 

 極力歴史の流れと共に作りたいので、

 どうしようかと考えてて時間が

 経ちましたが、

 なんとか武田信玄最後の決戦、

 西上作戦に繋げられたらと思います。

 

 今回は初回として、信玄が元亀3年の

 西上作戦進軍時に通ったかもしれない

 秋葉街道、静岡県と長野県の

 境に近い水窪町にある、

 高根城をご紹介致します。 

 (遠江最北端の山城)

高根城 本曲輪に向かう(2021/4/18撮影)

 

 ~高根城の位置~

   地図①を南北に通っている道は

   国道152号線です。

   北は長野県上田市から諏訪、県境の青崩峠

   高根城のある水窪天竜川沿いに下って二俣

   を経て浜松へ至ります。 

   (秋葉街道、塩の道とも言われています)  

 

 

 ①高根城

  高根城は2001年に櫓や城門等を復元し、

  各曲輪と堀切等が整備された武田時代の

  山城構造を直に見ることが出来るところで、

  気軽に山城の雰囲気を楽しむことができます。

  ・・・とネットで分かったので車でパーっと

     行ってきました( ´艸`)

 

  また武田信玄が生涯最後の決戦として、

  元亀3年(1572年)甲府から諏訪を

  経由して三河遠江徳川領に侵攻しました。

  三方ヶ原の戦いで有名な西上作戦です。

  

  その南下ルートの一つである秋葉街道

  沿いに高根城が位置していますので、

  信玄が立ち寄ったかもしれませんね~。

  初回からこじ付けか~  ((((;゚Д゚))))

 

  さて高根城に行きましょうー(⌒∇⌒)。

 

  国道152号線からJR向市場駅

  方向に向かい、少し南へ登ると

  高根城の駐車場に到着しました。  

高根城の駐車場
駐車は充分な広さでトイレもありました。

    

駐車場から高根城に向かう山道

  標高420mとの事ですが、比高は150mで、

  中腹の駐車場まで車で行ったので、山道登頂は

  30分弱位でした。

  そして山頂の本曲輪、復元された門が見えてきました。

高根城 本曲輪 復元虎口、門

  

 そして上写真の位置から城の正面へ振り返ると・・・

 お~~凄い(゚д゚)!

高根城から水窪の町眺望1

  

高根城から水窪の町 眺望2

  雲一つない晴天、ちょっと別世界の絶景でした👍

  伐採されていて、山城では珍しく広範囲が見える。

  ベンチがあって、一人座ってのんびり眺めてました。

  これ目的でも充分かと。

 

  さて城中に入っていきましょう。

本曲輪の門

本曲輪の塀

本曲輪の復元井楼櫓

 さて、本曲輪を抜けると二の曲輪となりますが、

 本来は反対ですよね。

 尾根伝いに攻撃されるのを防ぐ構造と思いますので、

 お城をば~と通り過ぎて、反対の尾根側から再侵入

 します。

 

 

高根城南側に通じている尾根道

尾根から最初の曲輪?(縄張り図では城外)

尾根側から城を見る
正面は三の曲輪で、その手前に2重の堀切が
写真ではうっすら見えます

三の曲輪に向かう

城の反対側の急斜面(上の写真の右手)
ここは登れませんね~

三の曲輪の南側の2重堀切

2重堀切の一つを横から見る

 

三の曲輪から2重堀切を見る

 

三の曲輪から二の曲輪を見る

 

三の曲輪から二の曲輪に向かう

二の曲輪と三の曲輪間の深い堀切

 

二の曲輪から本曲輪に向かう

本曲輪と二の曲輪間の深い堀切

本曲輪に入る前に二と三の曲輪を見る

 

二の曲輪から本曲輪に向かう

 

本曲輪内に入りました



 本曲輪の門を越えると、最初の絶景ポイント

 になります。

 

 お城自体はそう大きくは無いですが、

 その城域は全体が整備されていて、

 イメージし易く復元された良いお城でした。

 

 さて信玄の西上作戦の初期ですが、

 信玄本隊は犬居城を接収し、

 周辺諸城を入手後、二俣城を攻撃します。 

 

 また別動隊として山県昌景東三河方面

 から作手亀山城長篠城、田峰城を主城

 とする山家三方衆を味方につけ、遠江

 侵攻します。

 

 次回はここらあたりで行ったことがある

 お城を紹介したいと思います。

 

 ご高覧ありがとうございました。

  

 

近江八幡探訪4 ~安土城、信長 天下取りへの夢の跡~

こんにちは、rekikakkunです。

 

 安土城の続きですー。

 前回は天守閣まで行って、琵琶湖方面の

 綺麗な景色が見れました。

 

 そして天守閣の石垣土台はぐるっと歩けます。

天守台の土台 (ここから北側の景色が見れました)

天守台の土台 (右手が南側ですね)

天守閣石垣土台から本丸を覗く⇒よく分からない(笑)

 さて天守閣跡を下りて、本丸周辺を散策しましたが、

 本丸の東側方向の、八角平や伝米蔵、伝三の丸

 への立ち入りが出来ませんでした。

 (通行止めになってる)

 よって、来た道を戻ります。

二の丸と本丸の間、左側が天守台の石垣
 これはこれで趣ありますなー(^^♪

 

 黒金門を降りると、登って来た大手道とは

 別の道との分岐点(下の写真)に来ます。

分岐点(下の経路図で赤線と青線の分かれるところ)

 分かり難いので、安土城考古博物館にありました

 全体模型の写真で経路を載せます。

安土城経路図(赤線が登り、青線で帰った)

 赤い線が登り道で大手道から天守閣跡まで行きました。

 

    実は安土城は今回で3回目なのですが、

 過去2回は赤い線しか行ってません。

 

 前回は子供と一緒だったので、大手道の途中で

 座って休んでてもらい、一人で天守閣まで

 走り、すぐUターンしてました。

 (まだ若かったか(・・?)

 

 なのでなんか行った気がしなくて・・・

 

 今回一人なので天守閣石垣土台を歩いて

 景色をゆっくり見れました。

 一人旅行はわいわい楽しい訳では

 ないですが、自由に動けるので、

 嬉しいって感じですね。

 まあ一長一短です。 

 

 そして上写真の青線=総見寺、百々橋口

 方面に初めて降りました。

 この百々橋口(上写真内の一番左)が、

 家臣たちが往来する通常の登城口で、

 その先に城下町があったとのことです。

 

 てこてこ歩くと、信長が安土城内に建てた、

 総見寺跡が見えてきました。

 ここ秀吉や勝家達が通ってたんだねー。

総見寺跡

総見寺案内板

 

    お、西の湖かな~、

 総見寺跡の見晴らし台から

 なかなか良かったです(⌒∇⌒)

西の湖

西の湖拡大 (浮島みたい)

総見寺三重塔
信長が甲賀の長寿寺から移築したと伝わる

3重塔から降りる

総見寺仁王門 
なかなか迫力あり、元亀2年建立、天正4年信長が移築

  総見寺、思ってたより当時の建物が

  しっかり残っててGoodでした。

  しかし現在活動している総見寺は

  大手道にあります。

  え~、通り過ごしてるじゃないか(゚д゚)!

  (帰ってから知りました///・・・)

 

  仁王門から下り、そのまま南面の遊歩道を

  進んで大手門付近まで戻りました。

安土城南側遊歩道

 

  来るときに入った平虎口から出ます。

  この下の写真、正面が駐車場です。

  お寺と役所のからみがある様ですが、

  見た所、この時は全部無料駐車でした。

安土城南面の平虎口

 

  さて次は一度安土城から離れ、すぐ近くの

  「安土城考古博物館」に行きました。

  ここに六角氏の特別展示がありました。

安土城考古博物館

 主に六角氏3代にわたる書状等の展示が多く、

 内容が充実して良かったです。 

 しかし六角氏の展示室は撮影不可でした。

 展示室を出ると///・・・

 もう忘れてしまた(@_@;)

 

    ほんとは中世ずっと近江の領主だった

 六角氏についても書きたかったんだけど、

 持って帰れる頭脳が無かった_| ̄|○ 

 

 撮影可能だったものを載せます。

観音寺城安土城(真ん中の小さな山が安土城

観音寺城模型

安土城模型
いつもこの方向が正面ですよねー、
だけど城下町は左側だけなのがちと不思議


  さて安土城駐車場に戻り、今度は

  安土城を自転車で1周しました。

  (車に折り畳み自転車を持参してます)

 

①お城の南の道 (目の前の田んぼは、当時水堀ですね)

 

②南西角に向かう

③百々橋口(当時の登城口、今はここから入れない模様)

 

④西面(当時は琵琶湖)

安土城西側全体、左が北側先端(当時は琵琶湖)

 

安土城北側の端っこ(当時は琵琶湖)



安土城東側
(右の山が安土城、正面真ん中が観音寺城のきぬがさ山)

安土城東側の道

 

安土城を東から見る
(どこかに搦め手入口がないかな?と思ったのだけど
見つからなかったです。今一天守もどこか分からない)

  自転車で安土城1周(写真①~⑨)しましたが、

  大半が琵琶湖だったこともあるのか、

  何も見つかりませんでした。

  眼力無し(@_@;)

  山裾は家、私有地なので近づけないし。

  まああまり無い写真とは思うので、

  見てやってください(笑)

  

  ただし城全体の規模感は感じられて

  良かったです。

 

  さて、最後に車で西の湖を廻って、

  近江八幡に戻ります。

西の湖

西の湖の道(中央が安土、観音寺城

  すがすがしいドライブと景色でした。

西の湖から見た安土城観音寺城
(左手前が安土城、奥の大きい山が
観音寺城がある、きぬがさ山)

  自分の感じ方は、これを見る限り、

  安土城観音寺城から思いっきり

  見下ろされてますよねー。

  観音寺城は信長時代の改修もあったようですが、

  はっきりいって安土城はちっぽけに見えますねー。

  縄張りも、攻めにくいとは思うが、

  そんなに堅牢な感じじゃない。

  多分上杉対応の一時的な城、

  (権威を見せる城)だったと感じます。

 

  でも当時最先端かつ事実上天下人の

  財力で作った壮麗な城郭。

  関係者により発掘して復元整備を

  してくれたおかげで事実を知り、

  またどんどん歴史好きに、

  そのイメージを膨らませて

  くれました。ほんと感謝です。

 

  信長が天下取りの夢、最初に行動

  を起こした上洛戦、観音寺城

  そして信長がほぼ天下、夢を手中

  にした集大成の安土城

  2つセットでの探訪がお勧めです~。

 

  これで安土城探訪を終わります。

  ご高覧ありがとうございました。