歴史ぶらり1人旅

歴史好きのかっくんです。歴史スポットを一人気ままに探訪します。

<小田原北条氏の防衛戦(その8)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(3)

こんにちは。rekikakkunです。

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

みなさんもご存じの通り、

北条氏の本拠小田原城は北条領国の

東南の国境に偏り過ぎていますよね。

 

特に豊臣軍主力が、西から小田原城

目指すのは北条方も容易に想定出来ます。

よって小田原城の西側にある箱根とその周辺が、

必然的に重要な防衛ラインとなります。

 

下の全体マップを見て可視化してみると、

よく分かるのではと思います。

 

 

北条氏の本拠地、小田原城に対し、

その西側を取り囲む様に、

 

箱根中央部を通る東海道山中城

旧来のメイン道だった足柄道に②足柄城

その北の道に③河村城

伊豆方面の玄関口に韮山城

 

等の箱根守備網が配置されています。

 

ところがこの内、小田原城西方の守りで

最も重要な防衛拠点だった、山中城が、

初戦、一日で攻略されてしまいました。

 

小田原城及びその他の箱根守備網は

大混乱になったと予想されます。

 

④の韮山城こそは、北条氏政の弟氏規が城将を

していた為か、約3カ月持ちこたえましたが、

②足柄城及び③河村城は、ほぼ戦わずして小田原城

へ退却し、箱根守備網は崩壊した模様です。

 

今回は山中城に続き、その箱根守備網の一つ、

②足柄城を探訪してみます。

 

6.足柄城(あしがらじょう)

 1)足柄城の位置

  上マップの②の場所です。

 

  ここは足柄峠の場所でもあり、

  足柄街道という道が通っています。

 

  足柄街道は、奈良、平安、鎌倉時代には

  静岡県と神奈川県を結ぶメインの道

  だったとの事です。

 

  建武2年12月、足利尊氏討伐が開始され、

  静岡市手越原で新田義貞を主将とする朝廷軍と

  足利軍が激突し、朝廷軍が勝利しました。

 

  しかしその後、足柄峠の登り口、JR足柄駅付近

  で起こったの竹之下の戦いでは、足利方が勝利し、

  そのまま京都へ攻め登りました。

  建武の新政崩壊の初端となった戦地です。

  (なので室町初期も足柄道がメインだったのかもね)

 

  丁度県境なので、毎年綱引きで足柄城

  所有権を決めてるそうで、面白いですね。

 

  多分富士山噴火等による劣化、代替道の需要増等

  により、室町、戦国時代には山中城を通る東海道

  整備されて主要道になっていったと思われます。

  (江戸時代では東海道が五大街道の一つとなった)

 

静岡県足柄駅から旧足柄街道である
県道78号線にて足柄峠へ向かう

 2)足柄城縄張り 

  適当な縄張図が見つからず、グーグルマップで

  曲輪を表示します。

  ①一の曲輪、②二の曲輪、③三の曲輪、

  ④四の曲輪、⑤五の曲輪

  (足柄街道を西から登ると、最初五の曲輪です。

   以下番号順で一の曲輪が本丸で、最高部です。)

  

 

 

 3)足柄城アクセス

   下の写真の正面、すぐ南に駐車場があります。

足柄峠に到着。足柄城に進む階段。

  そして上写真の通り、78号線沿いに

  足柄峠の看板があり、階段ですぐに

  足柄城一の曲輪に到着します。

 

 4)足柄城探訪

  それでは足柄城に向かいます。

  (・・・と言っても階段2分位で本丸ですが😓)

 

  ①一の曲輪

階段を登って最初、足柄城一の曲輪

 

玉手ケ池

玉手ケ池 水がありました

玉手ケ池 説明板

一の曲輪から二の曲輪へ向かう土橋
・・・お城の遺構( ^ω^)・・・

  ②二の曲輪

   二の曲輪に入ります。

   ここには超絶展望地があります。

   (一度ご紹介し、綺麗と言って頂いてますね👍)

二の曲輪に渡って振り返る

 二の曲輪西の方向に椅子がある様です。

二の曲輪 展望用の椅子
(ここにはほぼ常時誰かが居る感じ)

  おー😍 何枚か掲載しますね~。

二の曲輪からの富士山1

二の曲輪からの富士山2
げ、凄い眺望(@_@;)

二の曲輪からの富士山3

二の曲輪から富士山の南、愛鷹山

二の曲輪 表示板

  二の曲輪の東側に何か入口があって行ってみると、

  蔵屋敷の表示板と曲輪がありました。

蔵屋敷跡 明らかに階段状に整地されている。
こういうの、何かそのまま残ってる感じで良いね~

二の曲輪の展望椅子に戻る。

二の曲輪からの富士山4 撮影9:30位
(この1.5時間後、富士山は雲で覆われてしまう)

足柄城を一通り見て、別の撮影ポイントに行ったら、
雲に覆われてた富士山 撮影同日11:00頃

二の曲輪から富士山と愛鷹山の間の稜線。
手前の街が御殿場。
自衛隊の大砲の音も聞こえます。

二の曲輪から三の曲輪に向かいます

二の曲輪三の曲輪間の堀

  ③三の曲輪

   三の曲輪に入ります。

三の曲輪から堀と階段を
介して二の曲輪を見る

三の曲輪 ここも少し展望整備されてます

三の曲輪から山道に入ると井戸跡
(ここからは誰も居ません)

 三の曲輪を越えた辺りから、木々に囲われた

 暗い雰囲気となり、私の記憶もあやふやに

 なってきました。😓

四の曲輪に向かう

  ④四の曲輪

多分四の曲輪

土塁跡のようですね

四の曲輪の脇の竪堀か横堀なのかな?

四の曲輪 表示板

上から下の堀を撮る

う~ん、どこだか分からない

確か、四の曲輪の周辺を廻って撮った堀跡

堀が続いている
(雨水の流れ跡か?)

多分四の曲輪から降りてきた

堀跡の案内板

  ⑤五の曲輪

五の曲輪の案内板

多分 五の曲輪から降りる階段

五の曲輪から降りる階段2

 

降りて遊歩道の案内板

遊歩道、ここは五の曲輪の外側の堀1
(結構壮大な堀跡です)

五の曲輪の外側の堀2
(この堀跡が遊歩道となってます)

堀の外側の崖

五の曲輪の外側の堀3

五の曲輪外側の堀を進むと、県道78号線に出ました

逆に県道78号線側から堀を覗く。
遊歩道=五の曲輪外側の堀 です。 
(ただこちら行くには、外堀を進んで四の曲輪
への登り口に気付かなければならないので、
縄張を分かってないと厳しいかもです)

県道78号線 この少し先が足柄峠の駐車場

 

 ⑥足柄城周辺の史跡

 足柄峠

足柄峠の分岐道
(ただし左右足柄城みたい)

八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光ゆかりの石
(義光は武田信玄の先祖)

 ~足柄の関~

  足柄峠を少し神奈川県側に78号線を降りると

  足柄の関の跡がありました。

足柄の関 1

足柄の関 2

足柄の関 3
治承4年は頼朝旗揚げの年。この時足柄の関守が居た。
鎌倉時代の内に関所の機能は無くなったと書いてますね。

足柄峠の説明板1
(神奈川県側から登る方向)

足柄峠 説明板
空海、頼朝、日蓮足利尊氏太田道灌
有名人が通った記録がある様です。

 ~足柄古道~

  足柄古道を歩いている方も何度か見かけました。

足柄古道

足柄古道

現在の自動車道である78号線
江戸時代の足柄道矢倉沢往還とも言われ、
その地名が看板にも残っている

 ~小田原方面の眺望~  

足柄道を神奈川県側に降りる途中の眺望

眺望 手前箱根外輪山の一部 ⇒ 足柄平野
⇒ 大磯丘陵、そして相模湾
小田原城は右側で、隠れて見えない)

 

 5)足柄城の防衛戦

  防衛戦当時の城主は、北条氏康の九男氏光。

  (別説あり)

  彼は600名程の兵で守備していましたが、

  1590年3月29日、山中城落城を知ると、

  足柄城を退去し、小田原城に入りました。

 

  翌3月30日、井伊直政足柄城を攻撃し、

  残った兵はわずかの為、4月2日落城

  又は降伏した様です。

 

  そもそも城の規模からして600人では

  全く足りないので、足柄城は捨ててますね。

 

  ただ、豊臣との戦いこそ機能しませんでしたが、

  1571年、足柄城の西麓の方にある深沢城

  が武田信玄に攻略されてから、約20年間、

  足柄城河村城の両城は、本拠地である

  小田原城の西側をしっかり守っています。

 

 以上で足柄城編を終わります。

 思ってたよりも足柄城は大きな規模で、

 堀の遺構も大きく残っていました。

 そして富士山等西側の眺望は凄いの一言です。

 

 次は河村城及び小田原城の包囲の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

 


 

































 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その7)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(2)

こんにちは。rekikakkunです。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

前回は山中城を探訪して、岱崎出丸、三の丸、

西櫓をご紹介致しました。

今回もその続きになります。

 

5.山中城攻防戦

 1)山中城 縄張図

 2)攻城戦の概要

 3)山中城アクセス

 4)山中城探訪

  ①岱崎出丸

  ②三の丸

  ③西櫓

  ④畝三昧

  ⑤西の丸 ⇐ 今回はここからです。

 

  山中城の西側は、西櫓を越えると西の丸になります。

  西櫓は西の丸虎口の馬出しの役割として説明されてます。

西櫓と西の丸 角馬出の説明板

 

  ただし西櫓は捨曲輪みたいな扱いで、木橋も無く、

  西の丸への直接射撃を遠くする為のスペース

  として使ったのかも、という記事も見ました。

  西櫓へ攻撃する敵に対し、西の丸はサポート

  し難そうなので、なるほどな~と思います。

 

 (西櫓、西の丸は下の縄張図の右上です)

山中城 縄張図

 

  

西の丸全景
(奥に西の丸西端の見張台があります)

西の丸見張台

西の丸見張台の中

西の丸見張台の説明板

西の丸見張り台から、西櫓と障子堀を望む
西の丸側には西櫓の土塁が無いですね~。
ここからの眺めも四方圧巻です👍。

西の丸見張台から、西の丸本体を介して本丸方向を望む

西の丸見張台から本丸方向拡大
(手前から、西の丸⇒元西櫓⇒
二の丸の桝形虎口⇒二の丸見張台 の感じ)

  

西の丸から本丸方向へ向かう道

西の丸と元西櫓間の谷

 

 ⑥元西櫓

  西の丸と二の丸の間は、堀を介した小さな曲輪で

  区切られており、昔は無名曲輪と呼称してたそうですが、

  現在は調査の結果、元西櫓の名称となってるそうです。

 

  秀吉対策前はここが一番西の曲輪だったとか?

  (なんでかは❓でした)

  その割になかなか特徴的な曲輪なんですよね~。

西の丸から元西櫓拡大(手前の曲輪。奥は二の丸)

 

西の丸と元西櫓の分岐

西の丸と元西櫓間の堀と各曲輪の切岸
(左側西の丸、右側が元西櫓)

元西櫓へ登る道

元西櫓虎口から西の丸を望む

元西櫓 説明板

元西櫓

  実は・・・元西櫓って自分何度か行ってますが、

  何故か説明板が全てピンボケしてて、

  曲輪内でも写真を撮ったつもりなのに

  何故か無いんです。

 (唯一ちょっと今一な上の写真だけ)

 

  周辺は撮れてるんですけど・・・(・・?

  なにかここで激戦、亡霊的な⁈ (*_*;

 

  なんて、山中城は全部激戦場所ですよねー。

 

  実は西の丸方面の北条方はどなたが守っていたのか、

  ちょっと調べましたが分からなかったです。

  攻撃側は、徳川家康軍が3万程の大軍で攻めてきました。

 

  現在は見えませんが、戦闘時西の丸から

  岱崎出丸が敵軍に占領されてしまった

  のは見えたと思われます。

  (もしかしたら時系列が逆かもしれません)

 

  士気が下がり、戦力差もあって、自慢の畝堀

  3方向から西の丸は攻撃されたと思われます。

  支えきれずに二の丸へ退却していきました。

 

 ⑦二の丸

  二の丸は山中城の指揮所とも言うべきで、

  最も重要な曲輪だったのでは、と思います。

 

  と言うのもここからは、西の丸方面、三の丸方面、

  本丸へと繋がっており、状況に応じて指示や

  援軍を出せます。

  下の縄張図を見ても、城のほぼ中心ですよね。

山中城 縄張図

元西櫓から二の丸への木橋と桝形虎口

二の丸桝形虎口

二の丸桝形虎口 説明板

二の丸

 二の丸には西側と東側にそれぞれ櫓台があります。

 それぞれ見所がありますので登ってみて下さい。

二の丸の西側櫓台から二の丸内を見る

二の丸西側櫓台から元西櫓、西の丸を望む1
(一番奥に西の丸の見張台が見えます)

二の丸西側櫓台から元西櫓、西の丸を望む2
(真ん中が元西櫓、その両側(南北)の堀も見える。
凄いアングル😊)

二の丸の東側の櫓台

二の丸東側の櫓台から岱崎出丸方面を望む

上写真の拡大、岱崎出丸が見える(写真中央付近)

二の丸から三の丸へ通じる道1

二の丸から三の丸へ通じる道2

二の丸から三の丸へ通じる道3
(傾斜+曲がり+土塁隠し)

二の丸から三の丸へ通じる道を下って、正面が三の丸

 さて山中城の喉元とも言える二の丸ですが、

 ここの守将は玉縄城主であり、一門衆でもある

 北条氏勝と言われています。

 

 彼は川越夜戦等で勇名をはせた、

 北条綱成の孫です。

 

 その彼が山中城に援軍として派遣されたという事は、

 山中城防衛に北条氏は本気だったと言えます。

 

 しかしあまりの大軍、そして上方のプロ兵士相手に

 押された北条軍は、岱崎出丸、三の丸、西の丸を

 落とされ、残るは二の丸と本丸のみとなり、

 落城までの時間もわずかとなりました。

 

 二の丸で指揮していた北条氏勝は、

 城主の松田康長や弟達の説得により、

 城を脱出し、玉縄城へ逃げ落ちました。 

 

 ⑧本丸

二の丸から本丸へ通じる木橋

二の丸と本丸間の堀

本丸跡
(奥が二の丸。徳川勢が迫って来る)

本丸跡2
(三の丸側から見る。豊臣兵が攻め上がっていった)

 二の丸、三の丸両面から豊臣軍は本丸をめがけて

 突進しました。

 城主松田康長は、本丸天守櫓で自刃。

 北の丸に追い詰められた北条兵も玉砕しました。

 

本丸跡3 正面右の高台が天守櫓跡
そこで城主松田康長が自刃したとの事です

本丸の天守櫓跡 説明板

 

 ⑨北の丸

本丸から北の丸へ通じる木橋

本丸と北の丸間の空堀

北の丸
(この奥に曲輪はもう無い。ここで追い詰められて
最後に戦死した兵士が沢山いたと思われます)

 

北の丸堀 説明板

説明板の空堀(右側は本丸)

 岱崎出丸、大手口攻撃を担当した中村一氏の家臣、

 槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛は、この山中城攻めでの

 自身の武功をまとめた有名な覚書を残しています。

 その内容は、

 ・(大手門付近では)敵の射撃が厳しくて

   身動きが出来なかった。

 ・射撃が弱まったので(岱崎出丸の)堀を

  よじ登って一番乗りを挙げた。

 ・そのまま(三の丸方向へ進み)敵の退却を

  追いかけて(二の丸)に侵入した。

 ・(二の丸では)本丸がどこか分からなくなった。

  

 等、戦場の生の声を表現していることで有名な様です。

 

 勘兵衛覚書によると、本丸には攻撃方が多数押し寄せた為、

 本丸の塀が倒れて敵味方が団子の様に堀に重なり落ちたと

 書かれてるとの事で、上の写真はまさにその堀

 かもしれません。

 

 本当は彼の覚書のストーリーに沿って進めたかった

 のですが、曲輪の位置等が今一不明瞭だった等、

 理解不足であきらめました。😂

北の丸から本丸の裏手(東側)へ降りる道がありました
ここを降りると、旧国一から堀跡の入口になります。

 

 山中城北側外周の空堀

  北の丸と本丸間の空堀は、説明板の通り、

  本丸をぐるっと囲んでいますので、

  上の写真の土塁階段を降りて、

  下から空堀を再度登りたいと思います。

<縄張図の★1>
本丸の東側の空堀入口(左が本丸)

 上の写真の堀底を登ると、先程の本丸北の丸間木橋

 二の丸まで堀が通じているので、進みましたが、

 丁度上の方で業者さんが草刈りをしてたので

 行けませんでした。(写真に小さく映ってる)

 

 ちょっと残念だな~と周辺を見ると、

 先程の空堀の外側にも空堀があったので、

 そこを進んでみました。

<縄張図の★2>
北の丸の外側に延びる、山中城の一番外周の空堀の入口
(上の写真の右側の土塁の更に右側。
そしてこの写真の右は旧国一。もはや意味不明か(*_*;)

 分かり難いので縄張図で示します。

山中城空堀散策
(赤★1の堀は草刈り作業で行けなかったのですが、
黄★2の堀を見つけたので、そこを進みました)

 

★2の黄色線を北方向に進んでます。
だいぶ大きな堀ですね~

小田原城の堀切みたいな空堀
この内側に本丸の空堀があるので、
本丸は2重の堀に囲われているのを知りました。

ここで西方向に曲がってます

曲がった方向を見る

 この時は、ここがどこだか分からなかったので、

 堀底から外側の土塁に登って確認してみます。

 

 上から見ると北の丸の北側の空堀でした。

 たぶん山中城の最外周の堀の様です。

 (縄張図に載ってないので?ですが・・・)

堀の外側を登って見てみると、
正面は見覚えのある北の丸です。

 

北の丸の北側の土塁道をそのまま進む
(結構整備されていますが、案内板等は無いです)

北の丸の外側の堀1
(普通の山城風の光景。なんか山中城らしくない
感じですが、妙に親近感があって嬉しかったです)

北の丸の外側の堀2

北の丸の北側の堀を西側から見る
(右上が北の丸。左上から降りてきた。)

上の写真の反対側を見る。
たぶん二の丸の北側の堀の、もうひとつ外側の空堀

階段を登って本丸の北側の道(土塁)
に出ましたが・・・ん?ロープがあります。
(いつからか正規の道では無くなってた様です)

 この最外周の空堀は、小田原城の総構えに似ていますね~。

 秀吉との戦い直前に追加したものかもしれません。

 ただそう考えると、相当の規模ですね~。

 

 ⑪宗閑寺

  旧国一沿い、三の丸跡地には宗閑寺があります。

  (同じ敷地に山中公民館です)

  戦国時代でも有数の激戦だった山中城攻防戦で、

  戦死者を弔ってますので、是非寄ってみて下さい。

右手が宗閑寺入口

 宗閑寺は、岱崎出丸の守将で壮絶な戦死をとげた

 間宮康俊の娘お久(普照院)が、江戸時代に入り

 父の供養の為に尽力し、建立しました。

 なんと彼女は徳川家康の侍女、側室となり、

 家康の四女松姫の母だったとの話もあります。

 へえ~そうだったのか~、真面目に確認すると

 新たな歴史が見られますねー😓

宗閑寺 説明板

山中城攻防戦での武将達のお墓
(お墓を矢印してすいません。
知ってもらえたらと思ってますm(__)m)

山中城の戦い 武将のお墓1
(右が城主松田康長、左の3つが間宮康俊とその一族のお墓)

山中城の戦い 武将のお墓2
(豊臣方の大名で戦死した一柳直末のお墓)

 

 山中城攻防関連で攻撃側の一柳直末のお墓が

 一番立派なのに少し違和感があったのですが、

 調べて見ますと、長い年月によりお寺が荒廃し、

 明治以降に一柳家が整備し直したとのことです。

 

 武将たちの略歴も少し調べて見ると・・・。

 ~城主 松田康長~

   彼は北条氏の筆頭家老松田憲秀の親戚です。

   松田憲秀は戦いの後、内通の嫌疑等で

   自害しています。

   そして憲秀の長男は、以前私のブログで

   ご紹介しました泉頭城で、柿田川の向こう岸

   にある戸倉城主だった笠原政晴なのですが、

   実は彼も内通の嫌疑で籠城中に処刑されています。

   

   ちなみにその笠原政晴は、「ステキな金縛り」で

   西田敏行さんが演じた、主人公の更科六兵衛の

   モデルとなった人と言われています。

   

 ~岱崎出丸守将 間宮康俊~

   援軍として山中城に入り、岱崎出丸の守将で

   壮絶な戦死をしました。

   戦死を覚悟した彼は70を越える高齢の為、

   白髪に墨汁を塗って戦った気迫の方とのことです。

   そして樺太を島と実地確認し、北海道との間の

   間宮海峡の名前でも有名な間宮林蔵は・・・、

   実は康俊の子孫との事です。

   びっくり(@_@;)。

   調べると色々と繋がってますね~😍

 

 ~二の丸守将 北条氏勝~

   彼は玉縄城主なのでその時に調べてみます。

   結構大変な立場だった気がします。

 

 箕輪城代 多米長定~

   宗閑寺にお墓があるとの事で少し確認しましたら

   初代北条早雲からの古参家臣多目氏の一族

   とのことで、信長の野望にも出てきますし、

   みんなそれぞれ歴史がありそうですよね~。

 

 さて、今回のお話、もう4,000字を

 越えましたのでお開きにしたいと思います。

 なんか話の纏まりが無かったですね_(._.)_  

 

 しかし開戦最初の山中城で(その7)って、

 一体いつまで続けるつもりなんだ⁈

 という声が(@_@;)

 ・・・今私もそう思ってます

 心の中で。

 

 次回は、箱根守備網の位置付けとして

 足柄城と河村城の予定です。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

<小田原北条氏の防衛戦(その6)> いよいよ開戦、壮絶!山中城攻防戦と箱根守備網の崩壊(1)

こんにちは。rekikakkunです。

 

いよいよ北条軍と豊臣軍との開戦でございます。

 

前々回の投稿では、秀吉が箱根の手前に到着し、

山中城を視察したところまでお話しました。

その続きとなります。

 

視察の翌日、天正18年3月29日の朝、

いよいよ北条軍と豊臣主力軍との戦端が開かれます。

 

山中城豊臣秀次徳川家康を中心とした軍勢にて攻撃。

韮山城へは織田信雄蒲生氏郷らを派遣し包囲を

開始します。

 

 下マップでは、①山中城、⑭韮山城です。 

 

5.山中城の戦い

 1)山中城 縄張図

山中城 縄張図

  赤字で曲輪の名称を追記しましたが、名称は現在、

  現地に掲示されている案内板に合わせてます。

 

  攻撃は、旧東海道から岱崎出丸等を攻撃した

  豊臣秀次軍と、縄張図右上の西櫓付近から

  攻撃した徳川軍の2方面です。

 

  ま、内容は諸説ある中での参考と捉えて下さいね。  

 

 )攻城戦の概要

  ①開戦日:天正18年(1590年)3月29日

  ②落城日:同上

  ③攻撃側陣容:豊臣方総勢6万8千人

         本軍:豊臣秀次等3万8千人

         左軍:徳川家康3万人

  ④守備側陣容:北条方総勢4千人

         岱崎出丸:間宮康俊(援軍)

         二の丸:北条氏勝(援軍、玉縄城主)

         本丸:城主松田康長

  ⑤攻城戦経過:

   ・豊臣秀次を主将とする本軍は、主要道の東海道

    を攻め上がり、三の丸大手と岱崎出丸へ攻撃。

   ・東海道に沿って守備攻撃をする岱崎出丸と

    正面大手の三の丸からの十字攻撃により、

    大手付近に突入した豊臣軍は、6万石の大名

    一柳直末が戦死する等の大きな損害を被った。

   ・しかし守備兵が約500名程の岱崎出丸が

    間もなく落とされ、主将間宮康俊等が戦死。

    豊臣方は北条兵の撤退を追撃し三の丸へ攻め込む。

   ・左軍の徳川家康隊は西の丸方面の攻略を担当。

    岱崎出丸の陥落を見て北条方の守備意欲が低下

    したところを猛攻し、西の丸を落とす。

   ・城主の松田康長は一門衆で玉縄城主の北条氏勝を

    撤退させ、自らは本丸で戦死、同日中に落城

    しました。

 

 3)山中城アクセス

   さて、国道一号線で三島から箱根方向へ向かいます。

   2015年に出来た三島スカイウオーク

   (当時日本一長い人道吊り橋)を過ぎて、

   程なく山中城の標識が見えますので、その通りに

   旧国道1号線へ右折すると、山中城の入口に

   到着します。

   (小田原側からも同様に国道一号線で行けます。) 

 

   この山中城前の道は元々は本当の国道一号線でした。

   交通事故対策等で2016年山中地区のバイパスが

   開通するまで、みんなここを通って箱根に

   行っていました。

   (2020年にはスカイウオーク側のバイパスも開通)

山中城入口
(ここに駐車場、バス停、売店、そば屋、トイレ等があります)

  そして、ここ山中城を過ぎると、現在でも

  箱根を越えて、すぐに小田原の街に到着します。

 

 4)山中城探訪

  それではいよいよお城に向かいます。( •̀ ω •́ )✧

 

  ①岱崎出丸

   この出丸は豊臣秀吉の来攻に備えて追加した出丸です。

   縄張図の通り、攻城軍の主力が通るであろう

   東海道沿いに曲輪を長く配置して、多く横矢(攻撃)

   が出来る様にしました。

旧東海道石畳から岱崎出丸と本丸の分岐点
(正面が三の丸方向なので、激戦場所かな)

岱崎出丸全景
(大きすぎて全体の半分位、写真左方向が東海道

岱崎出丸 三の丸側(正面左の上に櫓台が見えます)

上写真の拡大
(多分二の丸の櫓台。理由は岱崎出丸が
遠望出来たのがそこだけだったので)

 

 岱崎出丸の中ほどに進むと大きな堀跡があります。

出丸御馬場堀の説明板

岱崎出丸御馬場堀1 結構な迫力です

岱崎出丸御馬場堀2 反対側は掘られていない。
説明板に書いて無かったけど何故かな?途中だったとか?

 

こちらは本当に構築途中だった曲輪跡の説明板

岱崎出丸内に構築途中になってしまった曲輪跡

 

岱崎出丸の先端にある、すり鉢曲輪

すり鉢曲輪 説明板

 

 そして岱崎出丸からの眺望も凄いです。

 下の4枚の写真を撮った方向を縄張図で図示します。 

岱崎出丸からの撮影方向(青矢印、青字)

すり鉢曲輪付近から西方向を望む
(豊臣軍が登って来る方向、
中央やや左が長久保城の位置)

岱崎出丸から西方向を望む。畝横堀を介しすぐ下に旧東海道
(遠くに三枚橋城、駿河湾が見える立地)

上の写真の反対方向(本丸方向)
見事な畝横堀
(一生懸命身手を伸ばして撮影😓)

岱崎出丸の見張り台から北西方向を望む
(中央に富士山と愛鷹山、400年前もほぼ同じ風景ですよね~。
本丸が写真右手の山の先の方向になります)

 

岱崎出丸脇の旧東海道石畳
(戦国期は石畳では無かったと思われますが、
この左手が岱崎出丸で、この道から攻撃陣が
上がっていった)

 

  しかし、岱崎出丸は、一番最初に攻略された

  場所の様です。

  写真を見ると長いですよね~。

 

  以前静岡県出身の城郭研究家で、

  著名な加藤理文先生のお城歩き講座で

  山中城探訪に参加しました。

 

  先生がおっしゃるには、技術的には最高峰の山城

  でしたが、戦力差と共に守備ラインが長すぎた

  との事です。

 

  旧東海道沿いに曲輪を囲む形に配置するのは

  良かったが、攻撃側の兵力が多い場合、

  長すぎ=攻め口が長い=全体を守らなければならない

  ⇒攻撃側の被害も大きいが、兵力差がある

  ⇒守備兵、武器が減っていき、いずれどこかの

   守備ラインが突破される

 

  そして問題は、追加補強された出丸とは言え、

  占領されてしまった状況が他の曲輪からも丸見え

  なので、守備側の士気が下がることになって

  しまい、戦局に響いたのでは?と思われます。

 

 ②三の丸

  岱崎出丸と本丸の間には、三の丸がありました。

  しかし現在は全くその間の防御構造が見えません。

  境目は現在道になってます。

  (元々の国道一号線、面影が見えない😢)

 

  一説には、岱崎出丸が落とされて、北条兵が三の丸

  へ退却するのを追撃して、豊臣方がなだれ込んだ

  とも言われてます。

右手岱崎出丸の端から、左手三の丸入口方向

岱崎出丸を出て、三の丸入口方向
正面中央が旧東海道石畳の道
(大きなカーブの旧国一、三島市の調査報告書を
見ると出丸の名残かもとの事です)

 上の写真のどこかに三の丸の堅固な虎口が

 あったのかな~❓。

 この先が三の丸ですが、旧国道1号線と住居地区

 になっていて分かり難いです。

 

 上写真真ん中の旧東海道に入ります。

 (三の丸に入る感じ)

旧東海道(旧国一から入る)

ただし民家の中ですが、少し見渡すと
土塁の様に見えるものもあります

旧東海道はすぐ旧国一に吸収され、そのまま北東へ進むと
宗閑寺(兼公民館)入口に着きます。
(ここには北条、豊臣両軍の供養塔があるので、後述致します。)

 上写真も三の丸(もしくはその周辺)に含まれており、

 相当広かった様ですね。

 ただし3つ程の曲輪に分割してる図もあります。

 (住宅地区に吸収されてしまったが所々遺構があるのかも)

 

 そして想像ですが、岱崎出丸が落とされた後、

 北条兵は少数の味方兵に対し、20倍以上の

 豊臣軍を見て、三の丸にとり残されない様、

 どんどん本丸、二の丸方向に後退していった

 のかもしれません。

 

 そこを豊臣軍がなだれ込んだのか、

 もう守備をする兵隊が少なかったか。

 

 三の丸の遺構は、一番防御したい西方向に、

 堀土塁の一部が残され整備されています。

 ここは実は、山中城のメインルート最初の遺構です。

 (写真を戦闘時系列的に紹介してしまってる為、

  ぐちゃぐちゃですね(笑))

三の丸西側の堀
(駐車場のすぐ脇にあって、本丸方向へ進む最初の遺構)

  この堀は西側から三の丸への攻撃を防ぐ堀です。

  写真奥正面に旧東海道が横切っていて、

  写真左上のこんもりが岱崎出丸です。

 

 ③西櫓

  一方で西の丸方面は徳川家康が攻撃担当だった様です。

  そして、ここ西櫓と西の丸は山中城一番の見所です。😍

  

西の丸拡大図

城外から城最西端の西木戸口に向かう
(実際は戻ってます)

西木戸口に到着。正面が西櫓。

西櫓の堀を横から見るとちゃんと畝堀が。
(左手が西木戸口、右手が西櫓)

 この辺りから徳川軍が攻め込んだと思われます。

西櫓に入ります

西櫓
(右手は西の丸。ここ西櫓を敵に占領されたら
西の丸から攻撃出来る様、右側のみ土塁が無いとの
ことです。他の3方向には土塁があります。)

 

 畝堀三昧

  そしてお隣の西の丸と西櫓の間。

  ここが凄いんです。間近に見れます。

  南側から西端⇒北側へ、ぐるっと回ります。

西の丸と西櫓の間の障子堀1(南側から撮影)
(右手が西の丸、左が西櫓。ぐるっと右回りします。)

西の丸と西櫓の間の障子堀2

 そして、この一本。

西の丸と西櫓の間の障子堀3と富士山
(先生に教えてもらった撮影ポイント)

西櫓の堀(南側)

西櫓の最西端の畝堀1(南側から撮影)

 西櫓の北側に来ました。

西櫓の最西端の畝堀2(北側から撮影)

西の丸と西櫓の間の障子堀1
(北側から撮影、右が西櫓)

西の丸と西櫓の間の障子堀2
(北側から撮影、左が西の丸)

西の丸と西櫓の間の障子堀3
(これでもかと拡大)
当時はもっと頂上はもっと狭くて、かつ表面は
全面ローム層の赤土でつるつるだった。
崩れ難くする為に芝生や植木をしている。

西の丸と西櫓の間の障子堀4
(右が西櫓、左が西の丸)

西の丸堀の説明板

西の丸と西櫓の間から、北方向に
振り返ると富士山が見えます

富士山拡大

 おわかりでしょうか?

 西の丸と西櫓の間の障子堀が一番の見所ですが、

 ①南側から撮ると障子堀が影になるが、

  富士山が同時に撮れます。

 ②北側から障子堀を撮るとが鮮やかに写る。

  (AM中が良いかも)

 

 ここで3,000文字を越えました。

 西の丸、二の丸、本丸、その他は次回にします。

 

 たまたま三島市の環境整備事業を見たら、

 山中城は昭和45年から平成5年の26年間で

 総額5.6億円をかけて発掘調査、整備を

 したそうです。

 

 山城整備事業の先駆け、日本屈指の山城保存遺構

 で間違いなですよね😊

 

 以上で終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その5)> 探訪しました北条氏関連のお城一覧(ご紹介)

こんにちは、rekikakkunです。

 

今回は、北条氏関連のお城の投稿前に、

今年秋に探訪致しましたお城を、

簡単に一挙ご紹介したいと思います。

 

マップと各城写真1枚でご紹介致します。

(マップの番号と本編〇番号を合わせています)

 

番号は基本、落城 or 開城した時系列順にしており、

投稿もその順番で予定してますが、例外が3点ございます。

 

・マップの内、⑤の松井田城のみ行っていません。

・⑭の韮山城は2年前の探訪写真です。

・あと⑪の忍城開城は小田原城開城より後ですが、

 話の流れ上、開城より早い番号にしてます。

 

全部で16城です。👍

(マップの番号をポチっとすると、案内が出てきます😊)

 

山中城

山中城 西の丸の障子堀
(見応え充分です。富士山もよく見えます)

 

②足柄城

足柄城 二の曲輪から御殿場方面、富士山
(絶景を見に来る人が多いですが、城の遺構もあります)

 

③河村城

河村城 堀切と復元木橋

 

玉縄城

玉縄城 本丸に通じる七曲坂
(思いっきり市街地の中、保存会の方達等が頑張っている)

 

⑤松井田城

 探訪計画してましたが、今年は情勢により断念しました。🤣

 でも話の流れで触れるでしょうー。真田も絡むし。

 

⑥唐沢山城

唐沢山城 本丸の高石垣
(今回のお城探訪で一番人と会いました😃。100人位かな?)

 

⑦武蔵松山城

武蔵松山城 曲輪4から、奥に見える曲輪3へ歩く

 

⑧杉山城

杉山城 どこを通っても3方向から攻撃されてしまう堀
この城、確かに凄いです。今回2度行きました。😎

 

岩槻城

岩槻城 八ツ橋
太田道灌の頃より頑張ってたお城のイメージ。

 

⑩館林城

林城 本丸土塁跡

 

忍城

忍城 復元3階櫓

 上の⑨、⑩、⑪は、平城なのになんで戦国真っ只中に

 活躍出来たの? と思っていましたが・・・、

 行ってみると、3城共周りが沼、湿地帯だったと知りました。

 なるほど、これが関東の城か~⁈

 事実、忍城が落ちなかったよね~。

 

鉢形城

鉢形城 二の曲輪空堀

 

八王子城

八王子城 御主殿の段石垣と橋

 

韮山城

韮山城 本丸

 

⑮石垣山城

 このお城は開城じゃなくて、築城でしたね。

石垣山城 井戸曲輪の石垣と相模湾

 

小田原城

小田原城 小峰御鐘ノ台大堀切 東堀
(今考えると、凄すぎて我慢できず、
最初に投稿しちゃいましたね😓)

 

 以上、さらっと北条氏のお城のご紹介でした。

 

 千葉県には行ってなくて、その他重要拠点の

 不足もあるかと思いますがご容赦下さい。

 

 今回一覧にしてみて感じたのですが、

 杉山城と八王子城がとても親切だった事を

 思い出しました。

  

 というのもこの2箇所の資料館では、

 施設内の撮影に制限が全く無く、情報を持って

 帰れるので、とてもありがたいと思いました。

 

 そしてボランテアさん等親切で、お城の事を

 知ってね、っていう雰囲気が伝わりました。👍

 個別の投稿時にもう少し触れますね。

 

 以上で終わります。

 次回からほんとにお城探訪となります。

 山中城と足柄城になります。 

 (今回確認したので確定のはず・・・多分(*_*;)

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その4)> 豊臣家と北条家の交渉決裂、豊臣軍の出陣

こんにちは、rekikakkunです。

 

現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。

 

前回までの(その1)から(その3)にかけては、

1.北条家による小田原城総構えの構築

を3つに分けて投稿致しました。

 

今回(その4)は、少し時代を戻って

簡単な時代背景から、北条、豊臣両家の

交渉決裂⇒開戦直前までを進めてみます。

 

過去に使った写真を駆使してみます。😊

 

2.豊臣秀吉の台頭

 天正10年(1582年)6月2日、

 日本史有数の事件、本能寺の変が勃発しました。

    多くの歴史の転換点になってますよね。

 

 武田家を滅亡させ、天下統一が見えていた

 織田信長の突然の急死。

信長の居城 安土城大手道

1582年時点では日本一の安土城天守台跡

   

 その後の天下人レースに勝ち残ったのは、

 豊臣秀吉でした。

大坂城完成まで秀吉の拠点だった天王山、山崎城の本丸。
天守台跡かもしれない石垣。

 彼は本能寺の変の3年後に四国長曾我部家、

 4年後に徳川家康の上洛及び従属、

 5年後の天正15年(1587年)

 には九州及び島津家をを傘下に収め、

 ざっくり小田原北条家の西側全てを

 豊臣家が統一しました。

 

 その後、大坂城を拠点とした秀吉は、

 同年12月に大名同士の私闘を禁じた

 関東惣無事令を諸大名に通達。

現在の大坂城ですが、秀吉時代にも名のあった
本丸北の極楽橋、山里曲輪及び天守を望む

 いよいよ日ノ本の天下統一に向けて、

 残りの関東、東北の攻略に取り掛かります。

 

 

3.豊臣、北条家の手切れ

 九州平定の翌年、軍事的に余裕が出てきた秀吉は、

 天正16年(1588年)後陽成天皇聚楽第行幸を実施。

 自己の権威増強を図りました。

 しかし北条家はその列席要請を拒否してしまい、

 両家は緊張関係となりました。

 

 その後、東国取次となっていた徳川家康

 勧めに応じ、氏政の弟氏規が上洛する事で、

 最低限の収まりがついたみたいです。

 

 翌天正17年(1589年)2月、

 秀吉は北条家から要請されていた

 真田家の沼田領割譲について裁定を行い、

 沼田城及び沼田領の2/3を北条家が領有。

 残り1/3及び名胡桃城は真田氏が領有と

 決定しました。

 

 実際、同年7月沼田城は北条家に引き渡され、

 約束が実行されました。

 (豊臣方の真田家が支配し、北条家が以前攻略に

  失敗していた沼田領の2/3を譲ってもらっている)

 

 そこで、北条氏政は同年中の上洛に向け、準備に入ります。

 

河岸段丘の上にある沼田城を望む

沼田城の戦国期の本丸
(この写真の先が、北側の河岸段丘の崖、
そして名胡桃城の方向)

 ところが同年11月3日、真田領と裁定した

 名胡桃城を、沼田城代の猪俣邦憲が内応者の

 手引きにより占領してしまう事件が発生。

 (=名胡桃事件)

 

 城外に居た真田家家臣の城主、鈴木主水は

 責任を取って自決します。

 

沼田城付近から名胡桃城方向を見る

 

名胡桃城址1(入口)、綺麗だね~😊

名胡桃城2 (一番奥)
(ここも絶景でした。沼田城は写真右の方向)

 真田太平記では、これは秀吉の企みで、

 北条氏政の偽の書状を猪俣に使わせて、

 名胡桃城攻撃を指示してましたねー。

 

 私は秀吉の裁定によって沼田城を得た北条家が、

 なぜ名胡桃城奪取を決断したのか?

 理由が今一分かりません。

 

 兎にも角にも、両家の交渉はここに決裂!

 

 口実を得た秀吉は12月、

 北条家に対し宣戦布告をしました。

 

 

4.豊臣本軍の出陣、開戦前 

 1)先陣が三枚橋城(別名沼津城)に集結

  年が明け、天正18年(1590年)1月、

  いよいよ豊臣、北条双方が軍事動員をかけます。

 

  2月に入り、豊臣軍の先鋒が出陣しました。

 

  2月24日織田信雄軍15,000人

  2月25日徳川家康軍30,000人

  が三枚橋城(現在の静岡県沼津市)に到着。

 

  武田勝頼が北条氏との境目の城として築城した

  三枚橋城が、豊臣軍の軍事兵站集結の拠点となりました。

  もう武田家は全く関係ありません。

  ちょっと時代の流れ、厳しさを感じます。(≧﹏ ≦)

三枚橋城 本丸跡

三枚橋城 説明板(武田勝頼築城と書いてます)


 2)豊臣水軍が清水港に兵糧を運ぶ

  2月27日、長曾我部、九鬼等の水軍1万は、

  20万石の兵糧等を運搬し、清水港に入港しました。

静岡市日本平から見た、清水港、富士山
(2008年12月撮影、3枚同じ時期)

  伊豆半島は、上の写真ではもう少し右奥側です。

  三枚橋城は写真内の右端位。

  この日本平静岡市民として、歴史抜きにしても

  お勧めの絶景スポット、観光地です。😃

 

清水港
(その先には薩多峠、蒲原城富士川と続く)

ついでに綺麗な富士山を掲載
(静岡の富士山は、右側に宝永山が出ている、
この形が基本になってます)

 

  この時は、北条水軍も伊豆半島に健在の中、

  豊臣水軍は兵糧を積んでいるので、

  三枚橋城に近い沼津港では無く、安全を見て

  少し離れた清水港に陸揚げしたのかな?

 

 3)豊臣水軍の伊豆長浜城攻略

  兵糧、武器弾薬等を清水港に輸送した水軍は、

  3月中に伊豆半島の西側の付け根にあり、

  北条水軍の水軍基地がある伊豆長浜城を攻略しました。

新東名のサービスエリアから南東の眺望。
このすぐ下が興国寺城なので、
興国寺城から見た景色と言っても、まあ合ってます。
三枚橋城と長浜城の位置)

  伊豆長浜城攻略しておけば、北条方の水軍による

  三枚橋城奇襲が避けられます。

  (三枚橋城のすぐ南が沼津港)

北条水軍の拠点、伊豆長浜城跡1
(正面右手が淡島)

伊豆長浜城跡2

伊豆長浜城の曲輪跡

伊豆長浜城から三枚橋城を見る

  3月の伊豆長浜城攻略後、豊臣水軍は伊豆半島

  北条水軍拠点を西から順次制圧していき、

  4月に小田原城包囲に加わります。

 

 4)秀吉の出陣

  先陣、水軍が地ならしをしていく中、

  大将の秀吉は3月1日京都を出立しました。

  3月19日駿府(静岡)着。

  3月27日に三枚橋城(沼津)に到着しました。

 

  そして3月28日には家康と長久保城に入り、

  山中城を遠望、視察をしたとの事です。

  (三枚橋城より長久保城の方が山中城に近いです)

ほぼほぼ長久保城から見た山中城の方向
(違うかもですが地図で辿ると、この赤矢印辺り)

 

  事前の調査、検討結果を踏まえ、

  北条方の重要防衛拠点である山中城

  韮山城攻撃等の差配をしたと思われます。

 

  そして翌3月29日、いよいよ山中城攻撃にて

  豊臣本軍と北条方との本格開戦となります。

 

<マップ1 開戦前> 

 今回ご紹介の場所+αをマップで示します。 

 1)①清水港、②三枚橋城、③長久保城は豊臣方の拠点。

 2)④伊豆長浜城は北条氏の水軍拠点。 

 3)⑤韮山城、⑥山中城、⑦足柄城、⑧河村城が

   ⑨小田原城西側の北条防衛拠点です。(ざっくりね) 

   (下田城他はすいません、省略です。m(__)m) 

 このマップを見ると武田が豊臣に入れ替わった

 構図の様ですねえ~。(以前作ったマップに似てる)

 

 実は今回最後の写真以外も、

 以前使ったか、もしくは古い写真です。

 

 そして次回は、新しい写真の全体把握の為、

 今秋に探訪したお城全体のご紹介を簡単にします。

 

 その後いよいよ攻城戦となります。

 ⇒多分 山中城と足柄城からになると思います。 

 

 以上で(その4)を終わります。

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

<小田原北条氏の防衛戦(その3)> 北条氏による小田原城総構えの構築(3)

こんにちは、rekikakkunです。

 

小田原城総構えの探訪、3回目、ラストとなります。

 

1.北条家による小田原城総構えの構築

  (4)総構え探訪(途中から再開)

    前回ブログでは、小峰御鐘ノ台大堀切東堀

  までを見ていきました。

  書き忘れてましたが、この大堀切は3つ共堀の

  中も上も歩けますので、迫力が実感出来ますよ~😀

 

  さて、次は大堀切から北西の方角にも遺構が

  残っている様なので、行ってみます。

 

 ⑨香林寺山西(こうりんじやまにし)

  下マップの⑨香林寺山西へ向かいます。

大堀切から北西へ向かう

右側は⑧大堀切東堀の南端です。

 上写真の左の道を北西へ進むと、

 下写真の中堀南端に着きます。

⑦大堀切中堀の南端(右が中堀南端)
マップの分岐1

  更に上写真の左の道を北西に進むと、

  マップの分岐2に着きます。

西堀の西南端の分岐道
マップの分岐2の写真

 上写真の分岐2を左へ進みます。

分岐2から進む。ちょっと登りになってます。
(ほぼ西の方向に進んでます)

 つまりこの道は小峰御鐘ノ台大堀切より高くて、

 箱根方向からの尾根筋ということですね~。

 

そうすると「大外郭土塁」の看板が見えました

⑨香林寺山西 土塁跡

土塁の先には「総構 香林寺山西」の看板

先程の土塁の外側に総構の堀がありました
(写真右半分、もっと右にあるんですが、よく見えない😓)

 覗きこみましたが、写真の通りで、よく見えないです。

 矢印表示もありましたので、行ってみると、

 なんとなく藪の道がありましたが、危なそうだったので

 行くのを辞めました。

 

⑩水之尾口櫓台

 ⑨香林寺山西の土塁を見て、そのまま先に進みます。

道なりに進みます

お、前方が明るく開けてきました

⑩「総構 水之尾口櫓台」に着きました

櫓台、見張りがあったところですね。
北東側の眺望が凄いです😍
(写真右手がお城方向です)

相模湾まで見えます

「赤丸の現在地」の場所に来ています

⑩水之尾口櫓台の位置 拡大図

傾斜図で見ると、この位置です。
ここまで総構えの堀で囲んでます。

 上の傾斜図、及び現地を歩いてみると、

 小峰御鐘ノ台大堀切の西側は、尾根続きに

 少し高くなっており、その最西端(最高地)に

 水之尾口櫓台があった様です。

 標高120m。当然ここは守りたい。

 

 だから小田原城って西側に少し出っ張っているんですね~。

 

もう少し先にある、もう一つの看板

写真中央の逆L字(黄色線)が総構の堀でしょうか?

 

⑪大堀切西堀の北にある総構跡

 ⑩水之尾口櫓台から戻り、西堀の北にある

 分岐2まで来ました。 

 今度は右側の道を進みます。

 下マップ⑪の所、道沿いの位置に土塁と堀があるはず。

⑪に行きます

分岐道2に戻り、今度は右に進みます。

ちょっと暗くて怪しげですが・・・
細くなった道を過ぎると

お、マップで確認すると、総構の堀跡ですねー
こんな所にも😀

道を挟んで北側には土塁が。
てことは、手前は総構の堀跡。

表示板を拡大すると、確かに「総構土塁」

 ⑪の位置にマップの表示通り、

 現存の土塁と堀跡が観れました。

 こういう名称が無い遺構を見つけるのって

 結構嬉しいです(⌒∇⌒)

 ほんとはもっと行きたいが自制してます😓

 

⑫三の丸外郭新堀土塁

再度、小峰御鐘ノ台大堀切東堀の南端に来ました

 東堀の南は交差点になっていて、道向かいには

 総構広い観光の為の駐車場がありました。

東堀を出て南を見る。
手前が総構用の駐車場です。
(ここを拠点にしても良い位置ですね~)

 駐車場には説明板がありました。

駐車場にある説明板

説明板拡大、この現在地です。
なかなか詳細な縄張図👍

⑫三の丸外郭新堀土塁は、この左の道を行きます
(見えないけど写真右が先程の駐車場です)

入って行くと看板が。午後3時までです。

広い所に出ました

お、結構凄い! 土塁跡

ちょっと外側を見る。
家の所が掘なのかな?? 手前?
この辺り、次来れたら確認したいです😎

ただし、天神山丘陵の高低差は分かります、結構高い!

⑫三の丸外郭新堀土塁 拡大
写真拡大だけで、ちゃんと行っていない😓

⑫三の丸外郭新堀土塁 全体

 あと、三の丸土塁から、凄く良く見える物があります。😍

 そう石垣山です。(旧笠懸山)

三の丸土塁から小田原城南西側を観る。

石垣山拡大

石垣山 山頂部拡大
ここに石垣山城が出来た(ほんと目の前)

 三の丸土塁に来ると、秀吉軍が作った石垣山城を

 北条方から、はっきり見えた事が分かるので、

 衝撃度は相当大きかったと感じられます。(@_@;)

 城はお互い丸見えだが、石垣山城の方が高く、

 当時関東には少ない石垣造り。

 多分、ここは後のブログで使います・・かな?。

石垣山の右手奥の2つの特徴的な山が、二子山
この裏が元箱根、芦ノ湖です。

海沿い西側を見ると、真鶴半島ですね

南を見ると、左手は大島ですかね。

 とにかく三の丸土塁は眺望に目を奪われて、

 土塁付近をしっかり見てなかった😓

 でもその位お薦めです。

 (大堀切東堀を出て、すぐ目の前が入口ですし)

 

 あと、午後3時閉園なのは注意が必要です。

 そして午後は西方向が逆行ぎみになるので、

 午前中が良いかも。

 (良かったのでここも2回行きました😊)

 

⑬早川口遺構

⑫三の丸外郭新堀土塁から、
車で⑬早川口遺構に向かいます

 

近くのコイン駐車場に停めて、⑬早川口遺構に行きました

⑬早川口遺構の入口

⑬早川口遺構 説明板

公園風になってます

お、住宅街の中に大きな土塁が

⑬早川口遺構(外側から1)

⑬早川口遺構(外側から2)

 市街地の平地では数少ない北条時代の遺構との事です。

 守って頂いて感謝ですね。

 

八幡山古郭東曲輪

 小田原城総構え編の最後、八幡山古郭に行きます。

 (まあ、ここは総構えではないんだけどね)

右側が八幡山古郭

八幡山古郭の正面
(線路の上の道から)

真横で見ると、こんなアングル

 一説には上写真の左側に氏直、右に氏政が居たとか?

 

 下の布陣図によるのかも。

 中央に氏政と氏直の名前が離れて載っています。

 (上と下の写真は描写方向が180度反対になってます)

毛利家の「小田原陣士寄陣取図」による
(現代文字にしたもの)

 

八幡山古郭 階段

階段を登ります

八幡山古郭東曲輪に入ります

八幡山古郭 説明板

八幡山古郭から南を見る、正面に天守

西側を見ると天神山丘陵、その先に石垣山、最奥が箱根

 

 最後に本丸、天守に自転車で行きました。

 現存物の時代がだいぶ違うので、ここはまたの機会に。

 

 あと何故か天守閣内は、戦国時代の展示のみ撮影不可😒

 それを主目的に入った私は困りました。(;´д`)トホホ

小田原城天守

 

 そして、小田原城の探訪を終えて、

 駐車場に戻りました。

意味のない今回の駐車場出入口。記録として///
(出入口も、前の道もそこそこの坂)

 駐車場は息子に教えられて、初めてakipaで、

 お寺さんの駐車場を事前予約しました。

 

 ここを拠点に、800円で丸々2日間、

 出入り自由に徒歩、自転車、車で城、総構、

 駅、ホテルを行ったり来たり出来たので

 とても良かったです。

  

 ほぼ城の中心の位置を選んだので、全体アクセスは

 良かったのですが、その為か全てに坂が絡んで

 ちょい疲れが印象的でした。(それが城ですね)

 

 そういったお城の雰囲気を感じる小田原の街、

 そして戦国の息吹を充分に感じられた総構えでした👍。

 

 この総構えを中心に北条方は防備を大幅に増強し、

 秀吉軍を迎えました。

 (じゃあ作るかっていうレベルじゃないよね~?)

 

 次はいよいよ秀吉軍による北条領攻撃 or その準備?

 になる・・・かと思います。

 

 以上で小田原城総構えの構築編を終わります。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m

 

 

<小田原北条氏の防衛戦(その2)> 北条氏による小田原城総構えの構築(2)

こんにちは、rekikakkunです。

 

小田原城総構えの探訪、2回目となります。

 

4.総構え探訪(途中から再開)

 前ブログでは、下の探訪マップの

 ①から⑤稲荷盛の総堀跡までを見て行きました。

 

 今回は下マップの⑥、⑦、⑧をご紹介致します。

 

 ここには箱根側の尾根筋から敵の進入を防ぐ為、

 大きな堀切が連続して3つあります。

 

 城の最も外側の⑥西堀、そして

 ⇒⑦中堀⑧東堀 と見ていきます。

探訪マップでは見難いですが、3つの大堀切は、
⑥西堀、⑦中堀、⑧東堀 です。

 

⑥小峰御鐘ノ台 大堀切西堀

 (こみねおかねのだい おおほりきりにしぼり)

 ⑤稲荷盛から道沿いに6分程西へ歩くと、

 小峰御鐘ノ台(こみねおかねのだい)

 の説明板、案内板に着きました。

小峰御鐘ノ台の入口
(ここから3つの堀切に分岐します)

 まず⑥西堀の行きます。

⑥小峰御鐘ノ台大堀切西堀の説明板1

⑥小峰御鐘ノ台 大堀切西堀跡1
(埋まってる所ですが、へこみが残ってるみたい、
もしくは復元かな?)

⑥小峰御鐘ノ台大堀切西堀の説明板2

 上の説明板には、

 東堀は元々あり、西堀と中堀が、秀吉との戦争直前に

 追加で造られたと書いてあります。

 

 下図が3つの堀切の全体図です。

小峰御鐘ノ台の3つの堀切 現地にあった全体図
(この図が一番正確で分かり易いと思います)

 上図の赤丸、現在地から少し北へ進むと、

 残っている空堀跡がありました。

⑥小峰御鐘ノ台 大堀切西堀跡2
空堀跡ですね~

 空堀を降りてみます。

⑥小峰御鐘ノ台 大堀切西堀3
空堀の南方向を撮影)

小峰御鐘ノ台 大堀切西堀4
空堀の北方向を撮影)

西堀から繋がった総構え跡を見ている。
・・・と思います。
(この総構えの堀は藪化して行けないみたい)

残っている西堀の全体、左手が土塁

傾斜図で小峰御鐘ノ台大堀切 西堀空堀部分)が写っています

西堀の土塁跡です。

 西堀は広くてちょっと分かり難いですね~。

 最初看板があった所は、ほぼ平地だったので

 西堀はこれだけかな?と思いましたが、

 少し先に進むと空堀跡が見えてきました。

 後で現地の全体図を再確認すると、

 小田原城3つの丘陵全体を遮断する堀切は

 西堀だけですね。

 

 この西堀が秀吉軍を迎え撃つ為に作った、

 最も外側の重要な堀切と理解出来ました。👍

 

⑦小峰御鐘ノ台 大堀切中堀

 (こみねおかねのだい おおほりきりなかぼり)

 中堀は文字通り、西堀東堀の中間に位置します。

 

 傾斜図でみますと、下図になります。

 クランク状に曲がってますね。

(傾斜図)⑦小峰御鐘ノ台 大堀切中堀

 

⑦小峰御鐘ノ台 大堀切中堀1

 実は中堀は舗装路と繋がって車道になっており、

 上写真の通り、乗用車なら通っている様です。

⑦小峰御鐘ノ台 大堀切中堀2 土塁

⑦小峰御鐘ノ台 大堀切中堀3
(クランク、曲がってる)

 この中堀も、秀吉軍対策で追加された堀だそうです。

 

⑧小峰御鐘ノ台 大堀切東堀

 (こみねおかねのだい おおほりきりひがしぼり)

 そしてここ⑧東堀が、最大の見せ場となります。

⑧小峰御鐘ノ台 大堀切東堀1 入口

⑧小峰御鐘ノ台 大堀切東堀2 入口正面

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀 説明板

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀4

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀5
お~、圧倒的👍

 現状堀巾は25~30m、深さ8~10mですが、

 発掘調査で深さ15mまで確認したとのことです。 

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀6 クランク部

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀7 南側の出入口

 では今度は東堀を、土塁の上から見てみます。

小峰御鐘ノ台大堀切東堀8

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀9

小峰御鐘ノ台 大堀切東堀10

 そして傾斜図で見てみると・・・、

 くっきり見えてます。😊

東堀は、くっきり見えますね~

 上の傾斜図を見ると、東堀は

 谷津丘陵を掘り切ってないですね~。

 

 東堀のみ秀吉決戦以前にあったということは、

 元々の小田原城は、西側の外郭がこの東堀で、

 城域は八幡山丘陵と天神山丘陵の2つだった

 のかもしれません。

 

 これら3つの小峰御鐘ノ台大堀切図を再度見てみますと・・・、

 下図の様になると思われます。

 (敵は下図の左側から右側へ攻めてくる。

  それを3つの堀で防衛する作戦。)

小峰御鐘ノ台大堀切 攻防全体図
(図の緑色が現存している堀、茶色も当時は堀)

 また大堀切は歩いて探訪しますが、

 近くまで車で来て駐車できます。

 

 実は1日目では見切れず、2日目に車で来て、

 駐車スペースに停めて、再散策しました。

大堀切に近い駐車スペースと車道
(黄色線は自分が車で通った道筋、中堀を通っています)

 

 今回⑥、⑦、⑧の大堀切をご紹介致しました。

 3重の土の堀って凄いですねー。

 自分の知識では他には無い規模の遺構。

 

 はっきり言って、これだけで一つの城遺構を

 満喫した感じでした。😊

 (3回目も行きたいです)

 

 まだ⑨~⑭まであるので、

 今回は3つの大堀切のみで締めます。

 

 ご高覧ありがとうございました。m(__)m